第101話 優しい、優しい、優しい。
~前書き~
目を開くと、かすむ視界の先に白い天井があった。今まで体にのしかかるようにあった疲労感が無くなり、ただひたすらに開放感が体を包んでいる。
「……ん…」
もしかしたら、彼が私を救ってくれたのではないか。そんな考えが頭に浮かんだ。
私は、助かったのだろうか。
首だけを動かし、ベッドの横のスペースに目を向けると、パイプ椅子に腰掛けあくびをしながら古びた本を読み、時折一人掛けのソファーで眠る少女の毛布を掛けなおす少年の姿があった。
~本文~
十月三日、午後六時。
「先輩、目が覚めましたか?」
目線を感じ、本に落としていた視線をそちらに向けると、先輩が首だけを動かしこちらを見ていた。
寝起きというのもあるのだろうが、目つきが相当に悪く、めっちゃにらまれてる感じがする。
微かにうなづく先輩に、椅子から立ち上がり近づくと、ベッドわきに立つ。
「苦しくないですか? 痛いところとかは?」
「…な…い……」
数日口を利かなかったからだろう、声がうまく出せないで、首をまた微かに今度は横に振る。
表情からは何も読み取れそうにない。先輩は、元気になったのだろうか。少なくとも目を開き、意思疎通を図ることは出来るようにはなった。だがそれは、以前のように立ち上がり、遊びまわることができるようになることを保証するものではない。
あまり考えすぎるのはよくない。
「医者呼んできますね」
そう言い残し、病室を出た。
杉田医師は、聴診器を当て網膜を見て首をかしげると、「ふーむ」と、息を吐いた。
「もともと、別に悪いところがあったわけじゃあなかった。それは山野君も知ってるね」
「はい。異常なくらいに、異常のない検査結果でしたから」
「今もおおよそ今までと同じだね。顔色も戻ってきているようだし、少し栄養剤の点滴を打とうかね」
「じゃあ」
「まあ、今のところは問題なしだね」
煙草の吸いすぎか、擦れたその言葉に俺は安堵の息を吐いた。
今までも、健康に異常はなかった。
祝福を受けているから当然、と考えるのは早計だったか。
「じゃあとりあえずまだ安静にしてなさいね。山野君も、ありがとうね」
「ああ、いえ、俺は何も」
彼は「ふっ」と、鼻で笑い、
「君が何もしていないのなら、医者は何もしてないことになるね」
こういう風に言い出す人には何を言っても無駄なので、とりあえず頭を掻いて返事とした。
「じゃ、私は隣の部屋の二人を見てから戻るね。点滴持ってこさせるから、山野君も腕の傷が痛むようなら言いに来てね」
隣の二人というのは斉藤さんとあの男のことだ。もうこの病棟には三人しか入院患者はいない。
「はい、お世話になります」
「世話になったのはこちらなのね。本当にありがとうね」
そう言い残し、去って言った。
部屋には三人。一人は寝ているので実質二人きりということになる。なるよね?
先輩は、息苦しそうにプラスチックのマスクを取ると、少しふらつきながら起き上がろうとする。それに手を貸し、上体を起こさせる。少し、やせただろうか。
顔にはサングラスもマスクもついてはいない。誰がどう見ても、ただの美人だ。今までと変わらない美人な容姿。だが、少し、人らしい雰囲気を感じる。
少しの沈黙が降り、先輩は顔を上げると、何か意を決したように一つうなづいた。
「太一君」
強い意志のようなものを感じるその呼び声に、俺は普段通りに、
「何でしょう?」
そう返事をした。
「私がこうやって、元気になったってことは、お母さんとお父さんはもう、いないってこと、だよね?」
迷いと、困惑と、不安と、焦り。折り重なった感情は先輩のまなざしの色をより一層強くしている。
やはり、この人は自分の親に殺されそうになっていたことを知っていたのか。
予想していたこととはいえ、そんな状況になってでも親を助けたいと思うものなのか、自分が同じ状況になった時のことを考えて、やめた。無駄な思考だ。
なにせこの人は、自分を殺そうとした人間のことを助け、あまつさえ生かしていたのだから。一生理解できないし、されたいと思っているとも思えない。
「そうですね。先輩のご両親はもういません。それと、すいませんでした。依頼は未達成です。先輩を起こすために、二人を葬りました」
深く、深く頭を下げ、許しを乞うた。俺には、あれ以上のことは出来なかった。
何が正解で、何が間違いなのか、学校のテストのように簡単なら、俺はこの人生を楽しいと思えただろうか。
その答えすら、いまだわからないままだけれど、それでもたぶん、今回のこの選択は間違いだ。
俺にとっては不正解で、兄にとっては正解だ。
人それぞれに成否の違う矛盾だらけのこの世界。表も裏も、何も変わらない。
ただ理不尽で、ただ不条理だ。
俺をとらえていた視線は下がり、「……そっか」、先輩はただ一言そう言って、口をつぐんでしまう。
「んっ…? ……。ん?!」
背後から何やら声がして、振り向くと弓削さんが目を覚ましていた。
「おはよう」
まじまじ俺を見つめると、
「お、はよ、う?」
「ん?」
「私のこと、移した?」
「ああ、そのこと。うん。パイプ椅子だと危なそうだったから」
確かに寝ていた弓削さんを椅子からソファーに移動させた。
「そ、そっか……ありがと…っ?」
感謝の言葉に返事をするよりも早く、ぬっと伸びてきた弓削さんの手に、左手をつかまれる。
「これ、どうしたの?」
目の色を変えて問い詰めてくる弓削さんに、俺は少し引いてしまう。
長袖で隠していたのだが、少し見えてしまったらしい。左手の手首、そこに仰々しく巻かれた包帯。それはついさっき巻かれたもので、それなりに深い傷を隠すためのものだ。
「ちょっと捻っちゃって、まあたいしたことはないんだけど」
答える俺の目を強く見据える弓削さんの目。
訴えかけるような視線は数瞬で消え、それと同時に手も離される。
「そうなんだ、気を付けないと危ないよ」
「だね」
軽く笑って相槌を打つ。
弓削さんは先輩に目をやると、
「初めまして、長谷川先輩。弓削綾音と言います。山野君の同級で、仲良くしてもらっています」
呆然としていた先輩は、名前を呼ばれて我に返ると、弓削さんの自己紹介に、「あ、うん、初めまして」と生返事。
「ん? いや、仲良くしてもらってるのは太一君のほうで、弓削さんはしてあげてるほうでしょ。そこは謙遜しなくていいからね」
「おいちょっと、あんた俺が教室でどういう風だか知らないでしょうが」
「はい。じゃあ、改めまして、山野君と仲良くしてあげてます」
俺の猛抗議は完全に無視され弓削さんが図々しい子になった。
「でも、太一君がここに連れてきてるってことは、そういうことだよね」
察しの良い先輩は、寝起きとは思えない推理力を発揮している。何日寝てたのかもわかってないだろうに、本当にこうして倒れて入院するというのが日常だったのだろう。
「あたりです。こちらこの辺一帯の土地神を祀る神社の巫女さんで、大変貴重なご神体です」
「ご神体?」
「ここだけの話、神を体に堕ろせる世界でも数少ない存在なんです」
耳打ちする体でこそこそと話し合う俺たちに、冷たい視線の弓削さん。
「山野君、そんなんじゃ里奈ちゃんに見限られるよ」
「三好さんがどうかした?」
「あの教室で里奈ちゃんに縁切られたら、困るのは山野君でしょ?」
「俺はいま、教室での安寧を盾に何かを脅迫されてるんですか?」
「あんまり先輩二人とばっかり仲良くしてると、里奈ちゃんに振られちゃうかもよ」
ジトーっと見つめてくるその目は、明らかに俺を貶している。なんか、悪いことしたかなぁ……。
先輩はそのやり取りにひとしきり笑うと、サイドチェストの引き出しから慣れた手つきでスマホを取り出すと、
「あ、ちょ、太一君、もうこんな時間! 弓削さんを送ってあげなよ」
「うお、ほんとだ、もうこんな時間か」
見せつけられた画面には、七時を回り長針が四分の三を過ぎようとしているアナログ時計が映し出されていた。
「じゃあ、帰りますか。また明日、来ますね。夏休みの時みたいに勝手に帰ってくるのはなしで頼みますよ」
「はいはい。今回はいろいろ手続き在りそうだし、太一君にも手伝ってもらうからね」
「了解です。じゃ、行きますか。弓削さん、その格好で帰るの?」
先輩との打ち合わせをざっと終え、弓削さんに声をかけるが、まあ、ずっとその格好なのだが彼女は巫女装束なのだった。
完全に巫女。略して完巫女。
さすがにこの派手な格好では帰らんでしょと思っていたが、
「すぐタクシー乗るし、大丈夫でしょ」
だそうだ。
まあ、本人がそういうなら俺も無理に着替えろとは言わない。そもそも着替えがないんだろうし。来た時からこの格好だったし。
「それじゃあおやすみなさい、先輩。て、起きたばっかの人に言うのもなんだかなって感じですけど」
「ほんとだね。太一君はあのチビに襲われないように気を付けてね」
苦笑い気味な先輩の、その敵意むき出しな忠告に空笑いで応じ、弓削さんの後に次いで病室をあとにした。
これから起きるであろう、この病室の惨劇を想像し、胸を痛めながら。
償いきれない罪を背負い、あの男は俺に、「ざまあみろ」とでも言ってくるのだろうか。優しさは人を殺すんだと、ある人が言った。俺にその罪は背負いきれないと、同じ人が言った。俺には何も、言い返すことは出来なかった。
今でも、何か言い返せる気はしない。
一人の、それこそ、自分にとって大切な人から、親を奪うという結果になってしまったのは、本当に謝り切れないほどの罪で。
俺はこれからこの嘘という名の罪を一生背負っていかなければならない。
あの美人に、俺は罪の意識を感じながら、生きていかなければならない。
「ね、山野君」
エレベータを待っていると弓削さんが俺を呼ぶ。
「私ね、山野君のそういう優しいところ、好きだよ」
差し出されたハンカチの意味が分かったとき、床に一粒雫が落ちた。
俺の罪、それは、
「私も、一緒に背負うから」
〈長谷川真琴の両親がもうこの世にいない〉
そういう嘘。
~後書き~
私は助かった。
それはつまり、彼にまた、「優しさ」の罰を、理不尽な罪を押し付けたことになるのではないか。
私は今、両親がいなくなったことへの悲しさを忘れるほどに、彼の強さを穢してしまった自分の愚かさが、どうしても許せなかった。
そして思い至る。
彼は、いつもこんな風に傷を負いながら、誰かを助けていたのだろうかと。
そして、あの男、彼の兄を名乗るあの男は、それを知ったうえで、彼にあんなことを言っていたのかと。
「優しいんだな、お前は」
あの言葉。
あの時の、あの言葉が、今の私には本当に卑劣なものに思えて、本当に、どうしても涙が、止まらない。
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