第18話 レイモンドの秘密

午後になってエレクトラが目覚めると、体が軽いことに気が付いた。

恐る恐る身体を起こせば、驚いたことに覚悟した痛みがやってこない。頭痛や吐き気もきれいさっぱり無くなっていたのだ。

久しぶりの感覚に嬉しくなり、さっそくこのことをメアリーに伝えようと急いで身支度を整えて1階に降りた。

妙だと思ったのはいつもと違って屋敷が静かだったことだ。だが居間に入るとその不安もすぐに解消された。

メアリーはソファで午睡ごすいにふけっていたのだ。もともとこの屋敷はジェイクとエイミ、それとなぜか豪華な馬車を持った御者しかいないので、各々が仕事に出ればこの屋敷は静かなのは当然かもしれない。

エレクトラは彼女を起こそうと近づいたが、手を伸ばしたところであることに気が付いた。エレクトラは手を引っ込めて、静かに居間を後にする。玄関ホールに立ったところで屋敷の気配を探ると、エイミやジェイクが現れる様子もない。

エレクトラは壁にかけられたお気に入りの帽子を手に取ると、思い切って玄関を飛び出した。


 やったわ!屋敷を抜け出した!


エレクトラは胸から湧き上がる喜びを噛み締めた。彼女は今、束の間の自由を手に入れたのだ。

父もカーライルも、ドリーやメアリーさえもエレクトラを感知しない。

エレクトラが何をしても咎める人間はいないのだ。

この場で寝転がったり、スカートを揺すぶってフレンチカンカンのように裾を蹴り上げても誰も咎めたりはしない。

だがもちろんそんな些末さまつなことでこの貴重な時間を浪費するつもりは無かった。

この気持ちの良い日には、もっと何か今しかできないことがあるはずだ。

さぁ何をしようかと思案していると、屋根の上からエレクトラを呼ぶ声があった。人間ではない。エレクトラの心を癒す呼び声だ。

顔を上げるとハイディーが屋根から顔を出していた。エレクトラはいいことを思いついてハイディーを呼んだ。


「降りて来なさい、ハイディー。

彼に会いに行くわよ!」



北の屋敷だと聞いていたので、エレクトラはそれを信じて歩き続けた。

途中、村人に道を訪ねながらハイディーを連れ立ってのんびり歩みを進める。

道のりは短いとは言えなかったが、恐れていた頭痛やめまいが起こることもなかったので、それだけでエレクトラは明るい気持ちになれた。

途中、どこかに行こうとするハイディーを抱えて歩かなければならなくなったが、それもよい運動だと自分に言い聞かせて歩き続けた。そうして息も上がり切った頃に、ようやく目当ての屋敷に辿り着いた。


屋敷の前に立ったところで、自分が何の先触れも出していないことに思い至ったが、ハットフォード氏なら許してくれるだろうと心配を打ち消した。

ハイディーを地べたに降ろし、エレクトラは服装と息を整え、ついに屋敷の扉のノッカーを振った。

エレクトラは緊張の面持ちで待っていたが、誰も出てこない。

留守なのかと思ったが、それでも使用人くらいは屋敷にいるはずだ。

もう一度ノックをしたが、なしのつぶてだ。

だがここで引き下がるわけにはいかない。ここに来るチャンスはもう二度とないのかもしれないのだから。

エレクトラは試しに扉を押してみると、それは簡単に開かれた。こんな無用心な屋敷があるかしら、と訝しんだが今は好都合なのだから不問にすることにして、恐る恐る足を踏み入れると、中は薄暗く全てのカーテンを閉め切られているようだった。しんと静まり返った屋敷に人の気配は感じられない。


「あっ…」


ハイディーがするりと屋敷の中に入ってしまった。そうしてそのまま奥へと歩いて行ってしまうものだから慌てて後を追いかける。

勝手に上がり込んだ上に、猫を連れ込んで野放しにするわけにはいかない。

だがまずいことにハイディーは扉の開いた部屋に入っていってしまった。

エレクトラは総毛立って部屋の中に飛び込むと、夢中でハイディーを捕まえた。

むなしく抵抗を見せる猫を腕に抱え、ほっと安心して立ち上がったところでエレクトラは自分の見たものに悲鳴を上げそうになった。

なんと部屋には青白い顔をした女性が眠っていたのだ。それだけではない。その女性は腕から血を流しているではないか。

だがよく見ればそれは怪我で出血したものではなかった。腕に刺さった針からポタポタと流れ出る血液は腕の下に置かれた器に溜まっている。白い器に溜まる血の赤黒さにエレクトラは思わず目眩を覚えたが、腕を緩めた瞬間、ハイディーはすとんの床に降りて、するりと逃げてしまった。そのまま隣の部屋へと消えてしまったが鮮血のショックで追いかけることもでぎず、しばらく呆然としていたが、隣の部屋から聞こえてきた声に我に帰った。


「どうして猫が…。」


次の瞬間、足音がこちらに近づいてくる。

エレクトラは慌てて衝立の後ろに隠れた。

血を見てしまったせいか、鼓動が耳元でうるさいくらいに鳴り響いている。

そっと衝立の隙間から確認すると、予想した通りレイモンドが現れたのだった。

つまりここは診療室で彼女は治療中ということなのだろうか。

エレクトラはどうしたものかと悩んだ。

今ここで衝立から出てくれば、無断で屋敷に入ったことがバレてしまう。

それは何としても避けたかった。

となればレイモンドが再び隣の部屋に消えた隙に抜け出すしかないだろう。

息を殺して様子を伺っていたが、レイモンドは猫の侵入についてはあまり気にしている風でもなく、鮮やかにハイディーを追い出して扉を閉めてしまった。

閉じられた扉を見て絶望的な気持ちになる。エレクトラがここからこっそりと抜け出す可能性はどんどん低くなっていくようだ。

エレクトラの杞憂も知らずにレイモンドは女性の傍に座ると首元や手首を確認して脈をとり始めた。

あの女性はいったいどこが悪いのだろうか。

身なりから村人のようで、顔色は悪かったが年齢的にはまだ年若く見えた。

そんなことを考えていると、カランと金属音が部屋に響いた。どうやら針を抜いたようだ。レイモンドは女性の腕を丁寧に消毒してから白い布を巻き終わると、血貯めの器を持って立ち上がった。

エレクトラの心に一つの光明が差した。

もし血を捨てに行くならば、その隙にここを出られるかもしれないと思ったからだ。

だが彼は外に出ることはなく、器を持って再び隣室へと姿を消した。

エレクトラは今しかないと思った。

急いで衝立から飛び出すと、出口の扉に手をかけて音を立てないように押し開く。

すると最悪なことに足元からハイディーが入ってきてしまった。しかもレイモンドがいる隣室に真っすぐに歩いて行くではないか。エレクトラは心の中で叫び声を上げながらハイディーを追いかけた。ハイディーが隣室に入れば、誰かが扉を開けたことがばれてしまう。

エレクトラは必死で猫の身体を掴もうとしたがその手はむなしくちゅうを掴み、しかも勢い余って扉に体当たりするように部屋に転がり込んでしまった。


「…いた…。」


体を強く打ってしまい、痛みに耐えられず声を上げる。手にも痛みを感じたが、この部屋は薄暗くてはっきりとは傷が見えない。だが痛みに気をとらたのも束の間で、はっとして顔を上げると驚愕の目でこちらを見下ろすレイモンドがいた。

だがエレクトラはそれ以上に恐れおののいた。

ランプに照らされた彼の口元は赤黒く汚れていたのだ。

それはぬらぬらと鈍く光る…血だった。


 舐めていたのだ。

 この男は血を舐めていた。


エレクトラは恐怖で言葉を失い、体に震えが走る。逃げなければならないと頭が警鐘を鳴らすのに、足は全く言うことをきかなかった。


「エレクトラ嬢…。」


彼の言葉には驚きが現れていたが、次の瞬間痛みを耐えるような表情になった。なぜそんな顔をするのかエレクトラにはわからなかった。

驚いたのも、怖い思いをしたのも自分だというのに。

そんなことを頭の隅で考えた時、彼の足元からハイディーが駆け出し、エレクトラの懐に飛び込んできた。


「ハイディー!!」


エレクトラは思わず猫を抱きしめていた。

ハイディーの登場に少しだけ恐怖が和らぐ。猫のどくどくと早い心臓が不思議とエレクトラの気持ちを落ち着け、いつもの慣れた感触が呼吸を楽にしてくれた。ハイディーの温かさを感じながら勇気をもって顔を上げると、レイモンドが気づかわし気にこちらを見ている。しかもいつの間にか口元の汚れはきれいに拭われていた。

エレクトラの見たものは幻ではないかと思った程だ。

彼女はなんとか立ち上がろうと猫を片手に抱きながら、壁を支えにして足に力を籠めた。レイモンドが手を貸そうと一歩踏み出したが「近づかないで!」と叫ぶと、彼は彼女の言葉に従って、一歩も動かなくなった。

彼女は視線で縫い留めるように彼から目を離さないようにしながら、なんとか1人で立ち上がったが、まるで生まれたての小鹿のようにふらふらとおぼつかない。それでも彼は言われた通り、その場から動かなかった。

そんな姿を見ると風見鴉屋敷であった紳士的な彼を思い出したが、次の瞬間には恐怖が舞い戻ってきた。

というのも彼の傍に置かれた血貯めの器を見てしまったのだ。

器には先ほどまで血が入っていたのに、今は舐めとられたスープ皿のようになっている。

再び気分が悪くなったエレクトラは片手で壁に手をついた。

エレクトラは動かない頭で必死で考えた。

この場をどう切り抜ければよいのだろう。

彼は何か酷いことをするのだろうか。

彼は生き血を飲むような恐ろしい男だが、エレクトラの言葉を忠実に守る男でもある。エレクトラの混乱がピークに達した時、柔らかな女性の声が思考を中断させた。


「…ドクター?

どこにいますか?」


今目覚めたようなくぐもった声だ。エレクトラは、先ほどまでベッドに横になっていた青白い顔の女性だと見当をつける。


「失礼…。」


そう言ってレイモンドはエレクトラのそばを横切り、彼女のもとへと行ってしまった。一瞬の出来事なのでエレクトラは反応できず、その場で2人のやり取りを聞くことになった。


「体はどうだい?」

「少しふらつきます。」

「血を抜いたから当然だ。

今日から少し肉を摂りなさい。

新しい血ができれば、体が軽くなる。」

「ええ、そうします。

ドクターにそう言われたんだと言えば、母は夕食に肉を出してくれるわ。」


女は嬉しそうな声で答えた。


「エラに言えば、鶏肉をもらえるはずだ。

持って帰りなさい。」

「まあ、いいんですか?」

「君に元気になってもらわないと医者の仕事をしたことにならないからね。」

「ありがとうございます!

でも弟に食べられちゃいそう。」


そう言って部屋には、女の子特有のくすくす笑いが響いた。

さぁ行って、というレイモンドの言葉に促され彼女は部屋を後にしたようだった。

会話に聞き入っていたエレクトラはレイモンドの足音を聞いて我に返った。

レイモンドはこちらに戻ってくると、やはり一定の距離を置いて立ち止まった。

エレクトラはゆっくりと振り返り、どうしたものかと視線をさ迷わせる。

レイモンドはため息をついて提案した。


「とりあえず座って頂けますか?

少し話をする必要があるようです。」


エレクトラはしぶしぶ頷いた。

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