ナユタトルラ

山桜桃凜

Nayuta et Lura

<theorem:number>

 <i:こどもがおとなになると、言葉になる >

 <i:おとながしびとになると、泡になる >

</theorem>

――伊藤計劃『ハーモニー』


                *     *     *


 わたしは穴だった。


 世界、マイナス、家族、マイナス、クラスメイト、マイナス、先生、イコール、わたし。わたしの世界から、わたしでないものを引いて残った空白、それがわたしという意味だった。それなのにみんな、自分たちを必死に分けて、纏めて、空白を埋めるように、嘘みたいな自分を書いている。言葉で。

 変わったね、と言われたのはどうしてなのか、わたしはまだ、わたしにもわからないような不確かな何かで、変わったわけじゃないのに、形作られている途中なのに、みんな、何かに対して賛成と反対を決めて、好き嫌いを決めて、フレームを決めて、つながりを消してしまう。言葉で。


 言葉。生きるのを始めた頃はこんなではなかったはずなのに、わたしたちはもう、言葉でないものではいられない。わたしたちは少しずつ、自分を言葉にしていく。そうして、綺麗なカーヴを描いていたわたしの背中は、均一な函数に、図形に変わってしまう。眼、わたしの眼は、わたしの眼の形をしていたはず。それなのに、もうわたしの眼はマーブルの形しかしていなくて、生まれた時からそんな眼をしている人は、この世界に一人だって居ないはずなのに。体の一点一点全部がわたしなの、って、わかっているはずなのに。

 でもどうして、わたしはわたしを決めなくちゃならないの? なんて、言えなくなってしまった。変わったね、と、変化してしまった、と、そのように見えることを蔑むように、わたしを弾劾するのは、あなたがそうやってしか生きられないからではないの、わたしだって生き方なんてものは知らないけれど、でもどうして生き方なんて決めなければならないの、と言っても、あなたはどうしてかわからないとでも言うように首を傾げる。

 どうして、哀しいときには泣かなくちゃいけないのか、とうとう誰も教えてくれなかったから、わたしたちの、気持ち、はひとつひとつ、もっと違っていたはずで、わたしは自分の気持ちがわからない、って哀しんでいるのは、どうしてなんだろう。初めて出会う気持ちに、出会うときの気持ち、それがもう初めてでなくなるんだな、って気付いてしまって、初めてでなくなることになるのが初めての、その気持ちに、名前なんて付けることはとてもできなくて、でも名前なんてなくてもそれは確かに存在するから、それで、あなたは哀しいの、それとも、悔しいのか、腹立たしいのか、やるせないのか、あなたはどうしてここに来たの。あなたはどうしてここにいたの、って聞いてくるのは、あなたがわたしの気持ちを知らないからでしょう。


                *     *     *


 ナユタ・イルマタルは死んだ、とナユタは言う。


 放課後の教室で、わたしはナユタと話していたのだった。

「ルラは子ども?」

 とナユタが、唐突に聞いてきたのだった。

「わたしは……、わたしはまだ、子どもだ……と思う」

「どうしてそう思うの?」

「まだ、おとなじゃない、と感じるから、かなあ」

「じゃあルラは、おとなではないから、子どもだ、と思うのね。あるいは、子どもではなくなると、おとなになる、と」

「ううん……」

「例えばさ、わたしが死んだら、子どもではなくなった、と思う?」

「どう、かな。でも、生きていないと子どもでもおとなでもいられない気はするかも」

 ナユタはどう思うの、と少しつんとした声で放り投げる。

 ナユタは少し黙ったのち、凜とした声で

「確かめようと思うの」

 と言った。

 

 そこから先は一瞬だった。ナユタは、ルラが確かめてね、とひとこと、言いおくともう窓の外に浮かんでいた。わたしは動けなかった。強い風が吹いてカーテンを揺らし、再び窓の外を見た時には、ナユタはいなくなっていた。

 でももちろん、わたしはそのとき、きちんと頭を動かしていた。ナユタは、紙のように軽いから、窓から落ちたくらいで死にはしない。

 そして当然、ナユタは死ななかった、と思う。でも、わたしがどうしようかと考えて、とにかく玄関まで駆けつけたそのとき、ふわふわしたような足取りで帰ってきたナユタは、はじけるような笑顔でこう宣言した。

いま、ナユタ・イルマタルは死んだよ、と。


                *     *     *


ナユタは紙のように軽い、というのは、たとえ話とか、そういうものではなくて、単純にそのまま。わたしの母が言うには、とナユタが言うには、ナユタは生まれたとき、ほんの羽毛くらいの重さしかなかった、らしい。そうして、大きくなった今も、ナユタが言うには「夏休みの宿題くらい」の重さしかないみたい。そういう病気なの、と聞いても、ナユタはそっと笑って、

「そういう風に出来ているの」

 と、答えるだけ。そのままだとふわふわ、風に流されてしまうから、ナユタは外では重りの入った靴を履いて歩いている。でも、学校の中では指定された靴を履いていなくてはいけないから、ふわふわと、あちらこちらに流されそうになりながら歩いている。

 ナユタに初めて会ったとき、ナユタは、廊下の天井に頭をぶつけて、うう、と呻きながら、自分が地面に降りていくのを待っていた。

外は春で、まだ寒いのに、誰かが窓を開けていたようで、どうやらそこから突然吹き込んだ風に飛ばされたみたいだった。

 わたしを見つけたその少女は、こちらを見て、

「手を貸してくれない?」

 と言った。わたしは何となく、その少女と春の日光の取り合わせの非現実さに捕まって、不思議に思うことを忘れてしまっていた。

 

 わたしが地面に引っ張り下ろしたその少女は、ナユタ・イルマタル、と名乗った。水墨で描かれたように、そこにいる、という感じが希薄で、灰色に近いような色の、すらっとした髪を持っていた。

「ありがとう、えっと……」

「ルラ。ルラ・カレワラ」

「ルラ、ね。歌みたいなお名前。ありがとう、助けてくれて」

「う、ううん、大したことはしてない」

「んーん、助かったよ。今年は今日が初めてだけど、窓が開いているから、夏はしょっちゅうなの。もううんざりだよ、軽いから」

 と、ナユタは、爪先を貫く直線を軸にしてくるっと回った。髪がさあっと広がってゆっくりと肩に落ちた。うんざり、と口では言うけれど、楽しそうな口調だった。

 わたしはそのとき、掴んでいたい、と思った。その後に言った言葉は、少しずれていたけれど、わたしはこの子を、ナユタ、を、掴んでいたい、と、そう思った。

「ん、ねえ、ナユタ」

「なあに?」

「わたしが……手、握ってようか?」

「えっ、と」

「ん、いや、えと、その、変な意味じゃなくて、ただその、飛ばされちゃうんでしょ? それなら、学校にいるときはわたしが掴んでいてあげようかって」

 ナユタは人差し指を顎にあててちら、と上の方を見上げて、少し考えるようなそぶりを見せた。そのまま、数秒が経過して、それから、

「ありがとう、ルラ」

 と、聞こえた。

 それからずっと、わたしはナユタと一緒にいた。


                *     *     *


 わたしは、この新しい学校——わたしは十五歳だった——に入学してすぐにナユタと一緒になったから、グループを作ったり離れたりをしている周囲を気にして苦しくなることはあまりなかった。それに、わたしがナユタの身体的な支えになってから、ナユタはそれに対してわたしの精神的な支えのようになった。ナユタと話をすることで、わたしは言葉から抜け出すことができた。変な話だな、と思う。

 人生相談みたいなものは苦手だった。誰かの相談に乗ることも、結局、わたしには見えていないことばかりだと気付かされて、わたしの見ている世界から世界を引けばわたしなら、背中でさえ、全然わたしの世界ではなかった、苦しんでいるものを言葉にしようとしたらそれは案外取るに足らないよくあることになってしまって、でも違う、と、言えるのに、言えるということが単純なことで、わたしの世界から、少しずつわからない何かを削って、出来上がったものが、これ。

 

 あなたはどうしたいのか、どうしてそこにいるのか、どうしてここに来たのか、そういう疑問がどんどん繰り返されて、生きているからこんなことを繰り返すのって、でもどうして、何もしなくたって生きているのにどうして死ぬことが怖いの、と聞いたら、命を大切にしなさい、って、あなたは。


                *     *     *


 ナユタと初めて会った次の日、わたしはお昼に教室で変な味のパンを食べていた。ナユタは、

「ランチはここ」

 と言ってわたしを屋上の入り口近くにあるベンチまで引っ張っていった。ナユタはおよそ食べ物らしきものを全く持っていなかった。

「お昼は?」

「んー、とね。お昼、食べたことないの。朝ごはんも、夜ごはんも」

 おやつもね、と付け加えてナユタはいたずらっぽく笑った。ナユタは笑ってもあんまり口を動かさない。代わりに眼がきらきらしてぱちぱち動く。

「ナユタ」

「なあに?」

「どうしてご飯……じゃなくて、えっと、ナユタは、どれくらい生きている、と思う——ってつまり、わたしたちはまだこんな、言葉にできないもので、みんなが自分を言葉にしようとするのは、きっと、もっと確かに、自分がそこにある、ってことをわかりたいからだと思うの。でも、わたしはそれが嫌で……でも生きたくないっていうのとは違って、よくわからなくて」

「わたしは、生きているって思わなくても生きている、と思う。わざわざ証明なんてしなくても、いっそのこと本当には生きていなくても、わたしは生きているよ」

「ナユタの、生きている、っていうのは、軽いこと? それとも重いこと?」

「んー……わたしは、ずっと、生きているということを、選び続けているんだと思う」

 ナユタはそう言ってこちらを向いた。ナユタと目が合う。

「ね、ルラ、生きてるよ、素敵でしょう?」

 このやり取りをしたとき、わたしは遠くの方で、ナユタは体が軽いから、少ししか生きている、っていう感じがしないな、って思っていた。でも、そんなナユタを掴んでいるということでわたしは生きているということを感じていて、そのことが、どうしてそんなに生きている、って思えることなのか、わたしは、ナユタに、あなたはどんな人、と聞いたことがなくて、それもわからないまま、わたしは毎日ナユタに、どう思う、って聞き続けていた。

 九月になった。夏はもう夏であることをやめたくなったみたいだった。

 

 ナユタが「死んだ」のは、そんなときだった。


                *     *     *


 死んだ、と宣言したあと、ナユタは何も言わなかった。

数日の間は、何も特別な変化はないみたいに見えた。でも、きっと変化はあの瞬間から始まっていたのかな、と思っている。

 あれから二週間くらい経って、わたしは確かめてね、というナユタの言葉を覚えてはいたものの、結局意味はよくわからないままだった。

 わたしはナユタと屋上近くのベンチに座っていた。外では秋の風が強く吹いていて、靴なしで外に出ると危ないね、とナユタは言った。

「ルラ」

「どうしたの?」

 少し変わった声音だった。

「実はね、体重が軽くなったみたいなの」

「え……」

「少しずつ減っているみたいなの。て言っても初めから少ししかないんだけどね、わたしも初めは自分でも気づかなかったくらい、ゆっくり」

「でも、どうしてそんな」

「わからないの」

 ちょっと嫌だな、という感じがした。綺麗な川から水を汲んで飲まされるような、説明がつかないような感情だった。でも、それ以上具体的なことは何もなかった。


 次の日の朝、ナユタに会いに行った。


 朝、ナユタはいつも日差しの入る窓際に座っている。少し前、どれだけ早く行ってもナユタが先にいるから、ナユタはどうしてそんなに早く学校に来られるの、と尋ねたら、ナユタはわたしにすっと顔を近づけて、

「実は飛んで来てるの」

と耳打ちした。

「嘘」

「嘘だよ?」

 そんな会話をした。


 ナユタは眠っていた。ナユタの呼吸はいつもとても静かで、注意して聞かなければほとんど音として聞こえなかった。呼吸に合わせて規則的に身体がゆったりと運動して、髪がぱらぱらと机に垂れた。

「ナユタ」

「ん、おはよう、ルラ。なあに?」

「起きてたの」

「足音が聞こえたから」

「ねえナユタ、ナユタはさ、わたしがいる、っていうことをどう思う——その、わたしっていうのはこのわたし、ルラのことなんだけど——」

 ナユタは少し驚いたように瞬きをした。笑う時の、ぱちぱち、に似ていて、少し笑ったように見える。

「ルラがいる、っていうのは、ルラがいなかったということだし、ルラに会った、っていうことだと、思う、かな」

 いつものように答えるナユタが少し考えるように首を曲げる。

「ルラはどう思うの? わたしが、ナユタが、いるってことを」

「ん、えっと……ナユタがいるっていうことは、その、ナユタじゃない人が隣にいない、っていうこと、かなあ……」

 何でこんなことを聞いたんだろう、と思う。

「よかった」

 ぽろっ、とこぼすようにナユタが言った。


                *     *     *


 それからまた少しして、ナユタは病院に行く、と言った。

 その日ナユタは、学校を休んで病院に行った。ナユタの家は学校から遠いから、家に帰ったらもう夜、らしい。朝、学校に来て、わたしは、あ、一人だ、と気付いた。

 放課後の教室に一人で座って、ナユタがいない、ということを考えた。わたしがナユタを掴んでいたのに、気付かないうちにナユタに掴まれていたみたいだった。隣にナユタがいないと、わたしの身体は重かった。そういうことには気付いていて、自分が、さみしい、と思っていないことにも気付いていた。ナユタがいない、というのは、ナユタがいる、ということなんだって、当たり前のことに気付いた。

「カレちゃん?」

「ふぁっ、……ハノ」

 ふぁって何、と、近づいてきていたその少女、ハノ、ナノハ・アイクイネンは笑った。ハノは、わたしが初めて出会った家族以外の人だった。わたしは、ナノハ、と上手く発音できないから「ハノ」と、ハノは、ルラ、と上手く発音できないから「カレちゃん」と、お互いのことを呼んでいた。もともとそんなに一緒に居るような間柄でもなかったし、この学校に入ってから、わたしはほとんどずっとナユタと一緒に居たから、ハノとはずっと顔を合わせていなかった。そうして、自分が、カレちゃん、と呼ばれていたことを久しぶりに思い出して、同時に、カレちゃん、というのが、わたしだ、ということに戸惑っていることにも気付いた。

「どうしたの? そんなにぼんやりした顔して」

「ん、ううん、何でもないよ」

「あ、わかった、イルチャンが一緒に居ないからでしょう?」

「イルチャン?」

「あ、あの、何だかさ、カレちゃん、みたいな呼び方、癖になっちゃってみんなのことそうやって呼んでるんだ、ほら、いっつもカレちゃんの隣にいる綺麗な子」

 イルちゃん、イルマタルちゃん、か、とわたしは考えた。わかったのはそれだけで、あとはほとんど全部わからない。ハノは、前は他人のことをそんな風に呼びはしなかった、かどうかはわからないけど、でも、もっと何も考えていなかった、ような気がした。ハノは変わったのかな、と思った。

「いいなあ、カレちゃんは、あんな綺麗な子と毎日手繋げるなんて」

「ん、あの」

 どんどん、わからなくなる。ハノはこんな人だったっけな、いや、そもそもハノって、どんな人だったかな。どんな人? それは違う、まだどんな人でもなかったんじゃなかったの。

「疲れてるの?」

「ううん」

「それにしても、カレちゃんも変わったね、すっかり大人っぽくなっちゃったみたい」

「えっ」

 わたしは愕然とした。変わった、のはハノの方じゃない、と叫びたくなる。でも、わたしは変わったの? ねえ、ハノ、わたしは昔どんな人だったっけ。

そう思って、わたしは気付く。ハノは、変わったんじゃない、ハノは言葉になったんだ、もうわたしはハノと話をすることしかできない、ふざけて体を寄せ合っても、相手の温度を「暖かい」という形容詞として感じるだけなんだ。もうハノは、ハノでないものではないと決めてしまって、そうなってしまったんだ。わたしはまだ——。

「カレ、ちゃん?」

 ハノが不安そうにわたしを覗き込む。

 わたしは全身に汗をかいていた。何も言えなかった。

「ごめん、またね」

 どうしてハノから逃げたくなったのかはよくわからない。よくわからないままに、走って、玄関まで来ていた。靴を履きかえて外に出ると、困ったように佇んでいる、誰かが居た。

「ルラ?」

 ナユタだった。

「ナ、ユタ」

「なあに?」

 ナユタは、いつもの口調で、わたしに問いかけた。

 わたしの眼から、頭の中に溜まりきった感情をとりあえず全部押し出すように、水がこぼれた。

「ねえ、ナユタ、なんでもなかったの、なんでも」

「うん」

「なんでも、なかったの」

 わたしはナユタに抱きついて、わたしの眼からはずっと涙が流れていた。


 ナユタは、何も言わずに柔らかくわたしを受け止めていた。

「どうして、ここに?」

「母が今からでも学校に行きなさいって。時間割がわかってないの」

 そう言ってナユタは笑う。ナユタが泣いているところをわたしは見たことがない。

「ねえナユタ、わたしたちは、自分を言葉にすることで、ううん、言葉になることで、大人になるの、だから……」

 ナユタはわたしの頬を人差し指でつつく。ナユタはわたしより背が高い。

「ルラも、わたしも、まだ、ただの歌声みたいなもの」

「わたしは、昨日の自分が何であったかも覚えていない」

「グラスからこぼれた水はグラスの形を覚えていない」

 唱和するようにナユタは言った。

「ねえ、ナユタ」

「なあに?」

「あなたは、わたしを救ってくれる?」

「わたしは、ただの、ルラの隣にいる人だから――」

 ナユタの身体は熱を持っていた。

「だから、わたしといても、あるいはわたしがいなくなっても、ルラが救われる、なんて都合のいいことは起きないよ」

「うん」

 わたしは泣くのをやめた。

やめれば、やめられるんだな、と気付く。


「わからなかったの」

 と、ナユタがふっと表情を失って言う。

「原因も理由も、医学的には何もない、というか、そもそもわたしみたいな人が居ることが不思議みたい」

「でも、ナユタは——」

「死んでるんだよ」

 とびきり楽しそうに言うナユタの表情。

「あ」

 変なことが起こったのは、そのときだった。ナユタが、風も何もないのに、すっ、と浮き上がって、自力で降りてくることができなくなった。ナユタは必死に泳ごうとするけれど、たまたま天井が高い所だったから、風の流れが複雑でコントロールが利かないみたいだった。すんでのところでわたしがナユタの足を掴んで下ろした。

「ナユタ、ねえ、これって」

「空気より軽くなっちゃったんだよ」

「そんな……それじゃあ、もう」

 もう、と自分で言って、何が、もう、なのかよくわからない。いや、本当はわかっているんだと思う。わかっているけれど、言葉にしたら、それは、もう。

ナユタは、小さな声で、ぽつっと言った。

「屋上に行きましょう」

「でも、危な——」

 言いかけて、やめた。

 ナユタだってわかっているに決まっていた。


                *     *     *


屋上で、ナユタは歌っていた。わたしの名前を。

「ルルリ、ルラ、ラル」

 ナユタは言う。風がそよいでいるのは、あなたがそう言ったからじゃないよ、って、ナユタは言う。わたしたちは、まだまだわたしなんてものではなくて、そのことにはきっと、みんな薄々気づいているんだと思う。わたしたちは、まだまだわたしたちなんてものではなくて、まだ何もわかっていないのに、あなたではないことによって、わたしはわたしです、って、そんなくだらない、嘘のつき合いみたいなものを繰り返して、さざめき合っている。

「だからさ、ルラはね、そのままでいいんだよ、誰だって、自分と同じ形の空白しか埋めることができないんだから」

 ナユタは、少ししか生きていないみたい、と前思ったのは少し違ったかな、と思う。ナユタは、生きることに重さを定義していないだけ、なんだろうな。

「大気の乙女」

 わたしは呟く。

「なあに?」

「なんでもない」

 と言ってから、異変に気付いた。

「ナユタ!」

 ナユタがまた、浮き上がっている――。

「危ないッ」

 駆け寄って、ナユタの腕を掴む。必死に引っ張り下ろそうとしても、風が強くて上手くいかない。それに、わたしに腕を掴まれているナユタは、風に流されているばかりで、手を伸ばそうとしない。

「ナユタ、はやく、手、こっちに」

「ねえ、ルラ・カレワラ」

 突然フルネームを呼ばれてびっくりする。驚いた理由はそれだけでなくて、今にも風に飛ばされそうになっているナユタの声が驚くほど静かだったから。

「な、なに」

 ナユタは一瞬の苦しそうな表情の後に、すうっ、と、表情を変えて、きらきらと笑った。

「手を、放してくれない?」

 ナユタはその、きらきらした表情のままで、そう言った。

 ああ、言葉になってしまった、と思った。そして、これでもうナユタ・イルマタルは行ってしまう、行ってしまってもう二度と帰ってこないのだ、ということがわかってしまった。だからもう、言葉にできることは、そんなに沢山はなかった。

「ナユタ・イルマタル」

「毎日、少しずつ、わたしは死んでいった」

「ええ」

 ナユタにもわかっていたのだった。

 すべて。

「ねえナユタ、わたし、あなたが」

 ルラの表情がゆがむ。

「ルラのさよならが聞きたいな」

「ナユタ——」

「ね」

 結局わたしもわかっている。

「さよなら」

 ナユタはまたきらきらと笑った。


 わたしは手を放した。

 強い風が、てのひらに残った感触をすばやく打ち消した。

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