流刑地にて

世鍔 黒葉@万年遅筆

流刑地にて

 足元を巨大な影が通り過ぎて行った。見上げると、そこにはまだら模様の腹がある。

 全長は十メートルほど。これがジンベイザメという生き物ならば腹は白色のはずだが、この生物は腹がまだらで背が白かった。

 ジンベイザメもどきと私は分厚いガラスで区切られていて、捕食される心配はない。そもそもジンベイザメは肉食ではないはずだが、私は空恐ろしくなって足を止めた。ジンベイザメもどきは私には一瞥もくれず、そのまま悠々と泳ぎ去っていく。

 頭上を通り過ぎるのはジンベイザメもどきだけではなかった。発光するクラゲのような生物、小魚の群れ、よくわからない扁平な生き物が、断りもなく泳いでゆく。

 何か巨大なものに頭上を覆われると、人間は緊張を覚えるらしい。視界のほとんどが水で覆われているなら尚更だ。

 この場所を一言で表すなら、水族館というのが妥当だろうか。分厚いガラスで区切られた空間から魚を観賞できるのだから、そう間違いではないだろう。水を介した寒色の光に満たされた空間は、どこか異世界じみた印象を与えてくる。まわりを覆う水槽が端を見通すことができないほどに巨大なのも、その印象を後押ししていた。

 立ち止まっていても仕方がないと思い、私はアスファルトで舗装された道を歩き出す。

 アーチ状の分厚いガラスの外側を通り過ぎていく魚たちは、尾びれがやたら派手な熱帯魚風のものから深海魚らしきチューブ状のものまで混在していて、統一感がなかった。地面に目を向けると魚たちの影を見ることが出来るが、それを見ていると何故だか落ち着かないので、私は努めて視線を落とさないようにした。

 ぼんやりと魚たちを観察しながら歩いていると、前方に大きな樹を見つけた。よく見るとそれは地上に生えているような木ではなく、珊瑚礁で見られるような海草だった。樹は風もないのにゆっくりと揺れていて、ここが水中であるかのような錯覚を私に与えた。

 私はこの場所に入る前に職員から聞いた話を思い出した。曰く、大きな海草があったら幹に触れるように、と。

 私は実際にその通りにした。海草の表面はひんやりとしていて、思ったよりも固い感触が返ってきた。

の位置の特定を完了。ようこそ。貴方の入館を歓迎します』

 声が響くと同時に、目の前にナトリウムライトで照らしたような光球が現れる。私は驚いて、樹の幹から手を離した。

「何だ?」

『当館の案内人を努めさせて頂きます。どうぞ、何でもお申し付け下さい』

「お前が案内人か」

 この広い施設を回るのに独りではさすがに心許ない。私はいくらか安心した。

「私はこれからどうすればいい?」

『まずはゆっくり探検をお楽しみになることをお勧めします』

「そうか、お前はついてくるのか」

『お客様が満足なさるまで、全力でサポートする所存でございます』

「お勧めのスポットは」

『はい。まずはこの通信樹から左方向。海藻樹海を散策なさることをお勧めします。こちらでは大型の魚類が少なく、リラックスしてお楽しみになれるかと』

 ジンベイザメもどきで肝を冷やした私は確かにその通りだと思い、勧められた通りに歩き出す。

 顔に何かがぶつかってきたのは、樹の近くから離れた瞬間だった。私は慌てて手を顔に当てるが、しかし顔には何も着いていない。遅れて、私は全身に何かが隙間なく纏わりついていることに気がつく。しかし、それは目に見えない。

「これは、水か」

 辺りの景色から、私はそう直感した。

『その通りです。館内をより自由に探索頂けるよう、この先は水で満たされています。呼吸は問題なく行えますので、ご安心下さい』

 私は一歩踏み出そうとして、それが困難であることを確認する。

「歩き難いのだが」

『泳いで探索なさることをお勧め致します』

「なるほど」

 私は泳ぎ出した。息継ぎの必要がないので、クロールよりも平泳ぎのほうがスピードが出るようだった。しばらく試行錯誤を行って、バタ足だけで十分なことに思い至った。

 そうこうしているうちに、いつの間にか背の高い海草ばかりが目につくようになった。案内人の言う、海草樹海とやらに着いたのだろうか。海草を隠れ蓑にする魚は、回遊しているものよりもずっと小さいものばかりだった。寄らば大樹の陰というわけだ。

 ときおり長細い魚類が小魚を捕食する光景を見ながら、私は自分が初めて殺した相手の事を思い出していた。それは父だった。




 私の価値観がずれているのではなければ、良い父であったと思う。誕生日やクリスマスには欠かさずプレゼントを買ってくれたし、怒鳴り散らすことも酒に溺れることもせず、ごく普通に仕事をして帰ってくる。口下手ではあったが度を越してはいなかったし、自分の子供が泣いて帰ってくれば抱きしめてやれるだけの器量もあった。

 私はふと疑問に思った。はて、私は一人でも生きていけるのだろうか。死が病気ですらなくなったこのご時世。果たして私にとって、父とは必要不可欠な存在であるのかと。

 父を殺すのは困難を極めた。今の人類にとって死はかすり傷のようなものだ。車に轢かれたとして、三秒後には笑顔で挨拶できてしまう。なので交通ルールも緩い。

 私は父を公園のトイレに監禁した。そして泣いて許しを請う父の目を抉り、爪を剥がし、指を砕き続けた。それでも父は死ななかった。ルーレットでその日の拷問の方法を変えたりしてみた。一週間が経って、いつの間にか父はいなくなっていた。この世界では唯一の死に方、をしたのだ。

 自殺幇助は重罪だったが、未成年の上に初犯だということで、私はとかには処されず、密室で致死量の睡眠薬を手渡された。私は眠るように息を引き取った。

 もちろんその程度で死ねるはずもなく、気が付いたときには既に留置所を出ていたが、父を殺した私を母も兄弟たちも引き取ろうとはしなかった。私は家族というコミュニティを失った。




 ぼんやりと泳ぐうち、いつの間にか樹海の奥地に入っていたようだ。水の中を揺蕩たゆたう巨大な葉が頭上に幾重にも蓋をしているせいで薄暗い。しかし私は安心感を覚えた。ここでは頭上を泳ぐ魚の影が私を覆うことはないのだ。

 いいかげん泳ぐのにも飽きてきたので、私は手ごろな大きさの海藻を見繕い、ハスの葉状になっているそれの上に横になる。ここでは少し波があるようで、頭上を覆い尽くす海藻はせわしなく揺れていた。たまに驚いた小魚が葉の陰から飛び出してくる。

 特に集中することもなく眺めていると、この場に圧倒的に赤色が足りないことに思い至る。そういえば、水は赤い光を吸収するから、海中ではこのように暖色の無い世界になるのだったか。その前の私の定説、海が青いのは空が青いから、なんて話は、いったい何処で聞いたのだったか。

 ああ、そうだった。それは親友のハルからだった。





 家族というコミュニティを失った私は、いつの間にか学校への行き方が分からなくなっていた。私にとって学校へ行くときには、家族に挨拶して出かけるという手順が必要だったというわけだ。或いは、ぐずっている弟の手を引いて出かけるというイベントが。

 暇を持て余した私は、ぱっと目についたカフェに入った。私はそこで、小学校の頃に別れたきりだったハルと再会した。

 ハルはいじめられっ子だった。下駄箱の中身が減ったり増えたりするのは日常茶飯事だったし、彼女がトイレに入るとどこからともなく雑巾が投げ入れられた。

 そんな日々が続くうち、いつのまにかクラスの中でハルのことを覚えている子はいなくなった。彼女と親しくしていた子も同じく忘れていた。覚えているのは私だけだった。

 高校生だった私と違って、ハルは大人になっていた。背も随分伸びたし、長髪と黒縁メガネの似合う、知的な雰囲気の女性だ。

「久しぶり……」

 私はハルに声をかけたが、ハルは私のことを覚えていなかった。首を傾げられたので、人違いだったと言い訳して隣に座った。

「すみませーん」

 私は注文をしようと店員を呼んだが、答える者はいない。その様子を見たハルは入口にある機械を指差して言った。

「ここに来るのは初めてなんだ……。食券を買って、そこに置くんだよ」

 私はハルの言うとおりにした。食券販売機には『食券をカウンターの箱に置き、カウンターの裏をご覧ください』と書いてあった。同時に『※注意※お客様が知らない料理の場合、料理をお出しできない場合があります』とも。

 私はカレーの食券を買った。とても安く、財布から小銭を探すのに苦労した。そして販売機の注意書きに従って食券をカウンターに置いた。

 果たして、カウンターの裏には私が注文したカレーが置いてあり、カウンターに置いた筈の食券は無くなっていた。

「この街ってさ、おかしいよね」

 出し抜けに、ハルが言った。

「押入れから昨日壊れたはずのテレビが新品で出てきたり、お父さんは配達されてないはずの新聞をいつも読んでるし、この前事故で倒れた電柱が右見て左見たら直ってるし……」

「私もそう思う」

 私は母が作ったカレーと同じ味のするものを食べながら答えた。

「だって、父親を殺してしまったくらいで、どうして学校へ行けなくなってしまうんだろう……。それとこれとでは、全然話が違うものなのに」

 ハルははっと息を呑んだ。

「あなたも、学校に行けないの……」

 私はハルに事情を話した。それを静かに聞いていたハルは、決心を込めた瞳を私に向けた。

「お願いがあるの……」





 いつの間にか眠ってしまっていたようだ。背の低いハスの葉のような形の海藻は、微弱な水流による揺れも合わせてすばらしい揺りかごとなっていた。

 立ち上がろうとした私は、自分が立てないことに気がついた。見ると、下半身には二本の足ではなく、人魚のような尾びれがついていた。

 私はパニックになって足をバタつかせようとした。すると私の体はついっと水中を滑り、仰向けのまま海藻の木漏れ日を見る体勢になった。

「おい、案内人とやら、これはどういうことだ」

 パニックから立ち直った私は、姿を見せぬ相手に文句を言う。すると橙色の光球が目前に現れた。

『お客様自身が、当館の環境に順応したのでしょう。これまでよりずっと泳ぎ易いはずですよ』

「なるほど」

 確かにずいぶんと泳ぎ易くなったので、私はヒレで水を蹴り、海藻の森の中をぐるりと泳いでまわった。

 全体を俯瞰してみると、この森は珊瑚礁のようなものでなく、熱帯の森が海の中に生えているようなものらしかった。背の高さの違う海藻がそれぞれ勝手に生えて、多層的な空間を作っているのだ。地面から見るとハスの葉状の海藻が多く思えるが、上から見ると針状の葉を持つものが多かった。

 不意に、後ろから橙色の光球が付いて来ていることに気が付く。

「あのジンベイザメもどきがどこにいるのか分かるか……」

「はい、の位置情報は常に把握しております」

「案内してくれ」

 光球が先導する先には海峡の端のような崖があり、外壁がガラス張りのエレベーターが据え付けてあった。私は構わずさらに深く潜った。

 潜るごとに、水面から届く光も薄くなっていく。辺りが暗くなるにつれて、その先にある光源が浮き上がってきた。

 光源は海底から生えていた。ゼラチン状の幹から、提灯ちょうちん形のものがぶら下がっている。それらが辛うじて足元が見える程度の視界を確保していた。

 先導していた光球は、いつのまにか消えていた。私は海底にヒレを付け、辺りを見回す。あるのはゼラチン状の幹を持つ光源だけだ。

 近づいて良く見てみると、提灯型の光源の中に何かがいるようだった。時折動きを見せ、提灯外側の陰を変化させていた。

 気になって触れてみようとした直後、提灯が弾けた。どろりと光が漏れる。提灯の中には発光する液体が入っていた。

 そして光る液体の中から子犬サイズの動物が出てくる。ふわふわと泳いでくるそれを、私は思わず手のひらに乗せた。

独特なエラを持つそれは、サメの仔だった。こうして見るとぬいぐるみのようだ。物珍しさに撫でてみようとすると、サメの仔は驚くほどの力で私の手を蹴って泳ぎ出した。目で追うと、サメの仔は一匹ではなくなっていた。

いつの間にか、辺りの提灯はことごとく弾け、光る液体を零していた。色水のような発光液体をかきわけて、サメの仔たちは上へと泳ぎ去っていく。私は反射的に追いかけようとした。

 その瞬間、海底が盛り上がった。それは瞬く間に壁となって私を外界から隔離する。閉じられていく天井に臼のような牙を認めて、私は巨大な生物に食われたことを悟った。

 ああそうか、ガイドは正しかったのだ。あいつは確かに私をジンベイザメもどきの元へ誘導した。ややY座標がずれていたようだが。





 つまり、それは偶然だったのだ。

 たまたま私が父を殺さねばらぬという使命感を抱いていて、そのために試した方法が正しく人を殺せる方法だったというだけ。そして私は、父親どころか家族がいなくても生きていけてしまうことを身を持って知った。ついでに学校にも行けなくなった。

 私にとっては甚だ不本意な結果だったが、その経歴はハルにとって奇跡のようなものだった。この街は、彼女が最も欲しているものを禁止しているのだから。

 ハルは自分を学校から追いやった人間たちに復讐したがっていた。しかしやり返されることを恐れていた。殺人の最も決定的なメリットは、被害者が永遠に消滅するということにある。

 彼女は人の殺し方を知らなかった。しかし、私は知っていた。

 なにより彼女は、彼らを前にして、自分が人殺しのできる人間になれるかどうか自信がなかった。

 殺しの報酬は、あの喫茶店での奢りになった。ハルは両親の趣味から多くの高級料理の味を知っていたし、あの喫茶店では自分で書いた紙でも注文に応じてくれる裏技も教えてくれた。

 最初に殺したのは、ハルの下駄箱に物を追加していた女子だった。驚くべきことに、それは彼女一人の犯行だったらしい。彼女が発端となって、後に続く行為が急速にエスカレートしていったとハルは言っていた。

 監禁場所には廃工場を使った。工場には様々な工具が残されていて、拷問方法には事欠かなかった。私が一通り処置を終えて、あと一息でターゲットを自殺に追い込めるというところでハルが様子を見に来た。ハルは彼女を罵倒し、踏みつけ、拷問器具をちらつかせた。彼女が許しを請うと、自死したら許してあげると言った。彼女は自殺した。

 二人目も、三人目も同じようなことが続いた。続くうち、大人びていたハルはどんどん背が低くなり、メガネのフチの色がどんどん淡くなり、釣り目がちになり、言動も子供っぽくなっていった。六人目を殺した頃には、海が青いのは空が青いからだと本気で信じでいた。学の無い私もそれを信じた。

 ハルの奢る料理はどれも美味だった。私は特にペペロンチーノを気に入り、それをよく注文票に書くようになった。

 七人目で、ハルは私を親友だと言った。私もそれを認めた。

 それからだろうか、私はリンゴを片手で軽々潰せるようになったことに気が付いた。それから脅しにリンゴを使うようになった。九人目でそれはクルミに取って代わられた。

 十人目あたりで、私の身長は百八十センチを超えたし、ターゲットは私の顔を見て恐れるようになった。ハルは私に肩車をせがむようになった。

 十四人目を殺して以降、ハルはあの喫茶店に現れなくなった。私は彼女との接点を失った。そもそも釣り目の少女と筋肉モリモリマッチョマンの殺人鬼に接点があるはずもないと思い直した。

 それ以来、喫茶店には私とハル以外の人物が訪れるようになった。喫茶店を訪れるのは、何らかのコミュニティから弾き出された者ばかりだった。彼らと話すうち、私は海が青い理由が水が青以外の光を吸収してしまうからだと知った。

 ハルが教えてくれた料理は概ね好評だった。私の好物がペペロンチーノだと知ると、大抵意外だと言われた。





 その男が来たのは、私の体格が大分小さくなった頃だった。彼は自分で海鮮丼を頼むなり、私にこう質問した。

「この街ではなぜ人が死なないのか、ご存知ですかな?」

「死んでも周囲の人間の記憶からたちどころに再構築されるからだろう。子供でも知っている」

「これは失礼。そうです。再構築によって、我々は死を回避している。しかし、我々は生き返っているわけではない。今でも死に続けている」

 私はハルと親友だった頃より随分細くなった自分の腕を眺めた。

「再構築され続けている、と言うべきだろう。回避されているのは死だけではない。この建物だって、もう随分前に倒壊しているはずだ」

「ええ、ええ、その通りです。だからこそ、我々は過去の遺物を無条件に享受することができる。それが死んでさえいるのなら」

「過去を押し付けられている、と言うべきだろう。この街では新しい物を見つけるのがひどく難しい」

 男は何度も神妙に頷いた。

「どうやら、私から貴方に教えられることは、あまり無いようですな」

 それから男は一枚のチケットを懐から取り出し、私に差し出した。

「たまには陸ではなく、海のほうに目を向けてはいかがですかな。何か、新しい発見があるかも知れませんよ」

 私はチケットを受け取って、店から出た。それから行く宛もなくぶらついていると、いつの間にか、私は水族館らしき建物の前にいた。私はその建物の中に入った。





 生臭い暗闇の中で、私は問いかけた。

「おい、案内人とやら」

 光球が私の視界に現れた。

「この場所は、凶悪な殺人事件を起こした人間が二度と生き返らないよう、にする為にあるな……」

「ご不快でしたか……」

「妥当だろうな。殺人を起こした人間の因子を永遠に社会に残すのは度し難い」

 一般論を言いながら、私は自分がそれを許容するだろうかと考えた。果たして、私は何を望んでいたのだろうかと。

 そんなものなど、ありはしない。私は望まなかったのだ、家族との幸せも、正常な友情すらも。この場所にいるのが、その何よりの査証ではないか。

 同じだ、と思った。潮の流れに逆らうことのできぬ、漁師の網に、或いは回遊魚の口に突っ込んでいくしかない、意思を持たぬ魚。

 悪くない、と思った。むしろふさわしいとさえ言える。

「捕食者に上を取られる恐怖も、水中で呼吸できる環境も、この状況も、全て自分を魚と誤認させるための仕掛けだな」

「この方もの一人ですよ」

「もう一匹と呼ぶべきだろう」

 私は肺一杯に息を吸って、吐いた。

「案内人とやら、ご苦労だったな。今日の仕事はこれで終わりだ」

「満足いただけましたか……」

「ああ、もう十分だ」

 そして私は肺呼吸を辞め、自分を呑みこんだ消化器官の奥へと泳ぎ出す。




 しばらくして、三寸ほどの小さな魚が、巨大なサメから剥がれるようにして、どこかへ泳ぎ去って行った。

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