第六章 惑星開発日まだ五日目・誰か俺に援軍を(三)

 正宗は働きながら眠り、眠りながら働く夢を見た。おかげで、一日に二十六時間以上も働いている幻覚に襲われた。そんな、ある日――。

 けたたましく電話が鳴った。正宗は現実とも夢ともつかない感覚で電話に出た。


 相手は女性だった。

「もしもし、正宗さん。人事部の春日ですが――」

 正宗は反射的に大きな声で怒鳴った。

「観介なら要りません」

 正宗が即答して電話を切ろうとすると、春日は慌てた様子で遮った。

「違います、人事異動の話じゃありませんよ」


 正宗は疑った。

「じゃあ、何?」

「正宗さん、最近は残業を多くなされていますよね。残業も大概にしないと、体に毒ですよ」

 正宗は皮肉を込めて答えた。

「ええ……。おかげさまでね。人が足りないんですよ。人が。全く無茶な人員配分ですよねー。誰のせいですかねー」


 春日は皮肉にはビクとも動揺せず、用件を伝えてきた。

「正宗さんは残業時間が八十時間を越えたので、産業医の診察を受けてください」

 医者にかかれだ! 医者じゃなくて、使える人間を寄越せ! 

 だが、今は人を寄越さない人事と不毛な話をしている時間が惜しい。早く仕事を片付け、帰って、柔らかい所で寝たい。

「あとで、落ち着いたら受診しますよ」


「後でじゃなくて、今お願いします。ちょうど今日が産業医の巡回日で、こちらに来ているので、都合がいいんですよ。医務室に行ってください」

(それは、そっちの都合だろう。こっちの都合を考えずに、貴様ら仕事の都合を押し付けるな!)


 だが、それを言うと、結局は何の実りもない言い合いになって、余計な時間が取られるのは目に見えている。

 正宗は適当に答えることにした。どうせ、時間一杯の仕事をして、ギリギリになったら医務室に断りの電話を入れればいい。

「はい、はい、わかりました。手が空いたら行きます」

「きっとですよ」


 しつこいな。正宗は仕事をしながら、生返事をした。

「わかってますってば」

 春日はそこで不吉な響きの籠もった声をだす。

「受診しないと、後でどうなっても知りませんよー」

「俺の健康被害なんて、貴様らは雀の睫毛ほども気にしてないだろうがー」

 とは思ったが、叫びは心の中だけにした。


「はい、はい。わかりました」

 正宗は電話を切って仕事を続けた。

 やがて診察の時間になったが、構わず黙々と仕事をしていると、ゴンゴンという音が部屋に響いた。

「うん? 事業部の奴が何の用だ?」


 扉が自動で開き、中に入ってきたのは、見知らぬ若い白猫だった。ひょろりと背の高い、ブランド物のピンクのスーツを着た白猫である。

 白猫の顔には精気がない。何か気に入らないことがあったのか、眉をひそめ、長い髭をヒクヒクとさせていた。白猫は不貞腐れたような声で話す。

「正宗主任、受診の時間ですよー」


 その声は聞き覚えがあった。観介だ! 観介が目の前にいる。なぜ、こいつが来たんだ?

 観介は不機嫌な面で部屋の中を見回している。

 答はすぐに思いついた。同時に、全身に百万ボルトのスタンガンばりの電撃が走った。


 これが春日の言っていた『受診しないと、後でどうなっても知りませんよー』の回答だ。

 あの女め、俺を脅してきた。人事に協力しないと、異動でこいつを問答無用で押し付ける、という意思表示だ。


 汚ねえ! 汚すぎる! 人事のやり口は、赤い血の流れる奴の所業じゃねえぞ。

 こちとら深い穴に落ちて、必死に這い上がろうとしているんだ。そこに上から大上段に漬物石を振りかぶって投げつけるような真似しやがって。あいつらのやり口は、星を移住しては食い潰す、を繰り返している、宇宙フナ虫そのものだ。


 正宗が立ち上がると、観介は淀んだ目を向けてきた。

「ねえ、正宗主任。今度、私の異動先について、何か聞かされていますか?」

 正宗は断言した。

「全くない! 全然ない! 断じてない!」

「あれ、でも。次に異動になるかもしれないから、部屋を見に行けって、人事の春日さんから言われたんですがね」


「人事のやつの手違いだ!」

 観介は部屋を見回し、フフフと笑った。

「でも、この部屋で働いても僕はいいんですよー。何か、今のとこより居心地も良さそうだしー」

 正宗は立ち上がって強く言った。

「気のせいだ」


「まあ、仕事のやり方さえ教えてもらえば、私はどこで働いてもいいんですけどね」

 どちらでもよくはない! 絶対に来るな! てめえ用のお仕事マニュアルなんて作っている時間は全然ねえんだ!

 正宗は観介を部屋から追いたてると、人事に対する呪いの言葉を呟きながら、すぐに受診しに向かった。


 医務室は全体がクリーム色の部屋で、部屋の中には灰色の机と丸椅子と、宙に浮くタイプの白いベッドがあった。

 正宗が医務室に入ると、ぷっくりした体型の歳をとった狸が眼鏡をして白衣を着て座っていた。狸の白衣には胸の所に《矢部義久(やぶよしひさ)》と身分証がついていた。


 矢部医師は、正宗が入っていくと、机を指で軽く叩いた。机の一部が光り、机の上に立体映像のカルテが映し出された。

 立体映像カルテは正宗から見れば、ただの板に過ぎない。だが、矢部医師には文字が見えるらしい。フンフンと勿体ぶって読んでいる。


 健康診断は型どおりの唾液採取による生化学検査とペン型の検査機を腕押し当て、皮膚を傷つけずに行う、非破壊血液検査だった。これは簡易検査なので、三分ほどで結果が出た。


 矢部医師はカルテを見ながら問診を始めた。

「問診表に記入の病気以外に、通院や手術の経験は、おありですかな?」

「ないです」


 そうだよ、今までは健康だ。

「最近、体の調子で気になることは?」

 不調はありすぎる。正宗は最近とみに不安に感じている体調の不調を訴えた。

「時々、頭が激しく痛くなるんですが」

 矢部医師は正宗を診ずに即答した。

「肩凝りのせいでしょう。机の前にずっと座っていないで、適度に運動しなさい」


 検査はなしかよ。それに、適度な運動をしたって、頭痛の原因である仕事は減らないんだよ。

 矢部医師はカルテにチエックをつけながら訊く。

「他に何か、異常はありますか?」

「急に意識を失うことが」


 矢部医師はまたも即答した。

「典型的な寝不足ですな。充分な睡眠を摂りなさい」

 だから、それができないんだよ! やろうとしたら、身内が妨害するんだよ! 羽虫のように振り払っても、振り払っても、寄ってくるんだよ!


 矢部医師はカルテから立体映像のグラフを出した。

「血圧が少し高いようですが、まあ、問題ないでしょう。他に何か」

「私は健康なんでしょうか?」


 矢部医師は不思議そうに、眼鏡の奥の目をキョトンとさせた。

「どこか悪いとこでも?」

「いえ」

「なら、健康でしょう」


 正宗の「ひょっとしたら、仕事にドクター・ストップが掛かって、この過酷な日々から逃れられるのでは」という淡い期待は、無惨に打ち砕かれた。

 矢部医師は正宗に向き直ると空中で手を振って、イヤホンの付いたペンを取り出した。矢部医師はイヤホンを耳に填めて、

「はい、ではベッドに横になって、胸を見せてください」


 矢部医師は丸まったペン先で正宗の体をなぞり始めた。と思ったら、それで検査はおしまい。大した検査ではなく、コストも掛かっていないことも、一目瞭然だった。

 どうせ、健康診断なんて、人事の奴のイザという場合のアリバイ作りなのさ。


 矢部医師は空中に浮かぶカルテに何か記入しながら語る。

「心臓や肺の音に異常はなし。動きも普通ですな」

 そりゃそうだ。心臓や肺に異常があれば、自分でも気が付く。第一、歩いて医務室まで来られないだろう。

「そうですか」


 正宗は着替えると、溜息をついて仕事に戻ろうとした。しかし、矢部医師は何かに気がついたらしく、正宗を呼び止めた。

「むむむ、残業が二百十三時間ですか!」


 そういえば、それくらいは残業している気がする。が、もう給与明細を見る気も起きなかったので、残業時間が正しいかどうかは全然わからない。

「ええ、まあ。ここんとこは、それくらいですかね」


 矢部医師は言うことを聞かない患者を怒るように説教する。

「貴方は働きすぎですよ。いい加減にしないと、死にますよ」

「あんた、さっき、異常ないって言っただろう! 死ぬのか、健康なのか、ハッキリしろ!」

 と言いたい言葉を正宗は、ゴクッと飲み込んだ。

 どうせ、言っても無駄さ。俺の苦労なんて源五郎以外にゃ誰もわかってくれないのさ。

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