小さな悪魔

べたくさ

第1話

「貧相な女」

 これがあの悪魔が初めて投げかけたきた言葉だった。

「えーと……聞き間違いかな……?」

「聞き間違いなわけないじゃない。貧相なだけじゃなくて頭も悪いとか、可哀想を通り越して笑えてくるわ」

 一瞬幻聴かと思ったが、どうやら違うらしい。日向は自分に落ち着くよう言い聞かせる。今、彼女の目の前にいるのは青空のように澄んだ色をした幼稚園の制服に、タンポポ色の小さなショルダーバッグを肩にかけた五歳の子供だ。

 つまり、彼女の記憶が常識からずれていなければ、こんな流暢に日本語を話せるはずがないのである。

「えー……なるちゃん、年上には敬意を払わなきゃダメだよ?」

「なる、子供だから“ケイイ”ってわかんなーい。あと、気安く名前で呼ばないで」

 日向は自分の笑顔が引きつるのがわかった。

 なるが日向を鼻で笑う度に、彼女の胸につけられた『本田なる』と書かれた名札が揺れる。それと同時に日向の理性もぐらぐらと不安定に揺れていた。あと少しで、プチッと何かが切れてしまいそうだ。

「ごめんね、蒼井さん。支度できたから帰ろうか」

「あ、ううん、私がついていきたいって言ったんだし、全然だいじょ……」

「お兄ちゃーん! 早く帰ろー!」

 なるはわざと日向の台詞に被せてきた。この小姑まがい五歳児はしつこく邪魔をするつもりだ。

 雅臣は幼稚園専用らしいオレンジ色の大きな鞄を持って、なるの頭を撫でる。その鞄はとても重そうで、何が入っているのかと思ったらお昼寝用の布団みたいだ。

「なる、ちゃんと蒼井さんと仲良くしてたか?」

「うん! なる、お姉ちゃん大好きー!」

 いけしゃあしゃあと何を言っているんだ、この悪魔は。つい先ほどまで、貧相やら可哀想やら散々暴言を吐いていたのに。

 日向はキリキリ痛む自分の胃を抑えた。

「蒼井さん、家まで送るよ」

「え、本当!?」

 雅臣が目を細めてにっこり笑い頷く。だが、またも悪魔の邪魔が入った。

「お兄ちゃん、なる、疲れたー! お腹すいたー、眠いよぉー」

「……」

 彼の笑顔が固まる。

 おそらく迷ってるんだ。彼女と妹、どちらを優先するべきか。なるの意図には気づいているが、こういうとき引き下がるべきは彼女の方なのだろう。

「大丈夫、一人で帰れるから」

「ごめん……。あ、じゃあ、うちによって夕飯食べていってよ」

 この日から、毎日のように帰り道は雅臣の家に寄るようになった。それは日向が夢に見た憧れのシチュエーションだ。

 だが、それが日に日に、ストレスを募らせていった。


 ***

 この学校には、ある噂がある。それはどんな願いも叶えてくれる学生がいる、というものだ。しかし、その噂の学生が超のつくほどの変人であるため、依頼をしてくる人間は少ない。

「ほう、それで、依頼というのはその妹を追い払う、ということでいいんですか?」

 青春が真っ白なティーカップを口につけ、蒼井日向を見据える。もちろん、カップの中身は青春お気に入りの緑茶だ。

 彼女は口をへの字に曲げて、首をぶんぶんと勢いよく横に振った。

「追い払うなんて……そんな……少しでいいの、一度でもいいから私を優先してほしい……」

 日向は黄色の御守りを大切そうにぎゅっと握りしめる。青春はその姿を見下すように腕を組んで見据えていた。今回は客に対しての態度が横柄すぎる。

「……その依頼、引き受けましょう」

 青春は静かにカップをソーサーにのせ、テーブルの上に戻した。日向が部室を去った後、唯一の部員である桐谷きりたに小梅こうめはティーカップを回収する。

「今日は思いの外、細やかなお願いでしたね」

 少しでいい、二人きりの時間がほしい。日向は震える声で小さく、でも確かにそう言った。妹の嫌がらせはこちらが同情するには十分だった。ストレスを溜めてまで一緒にいたいのだから、よほど雅臣のことが好きなのだろう。

 叶えてあげたい、小梅はそう思った。

「フン、何が細やかなお願いだ。大それた野望の間違いだろ」

 青春が小馬鹿にしたように小梅を鼻で笑う。小梅はむっと眉間に一本の皺を寄せた。

「どこが野望なんですか! 彼氏と少しでも二人きりになりたいなんて、可愛いじゃないですか!」

「どこもかしこもだ。お前の辞書には野望=世界征服とでも書かれているのか? 野望というのは分不相応な願いのことを言うんだ。だいたい、特に努力もしてない人間が彼氏の妹を言い訳にして、第三者に縋りついてきただけだろ。他人の意思を変えてくれ、などとそれだけで大それている。しかもそれを初対面の第三者に? 頭がおかしいとしか思えないね。それをお前のような単純バカは簡単に騙される」

「な、なんでそんな捻じ曲がった風にしか人を見れないんですか! 師匠の性格が捻じ曲がっているからですか!? 捻じ曲がっているからですね!」

「勝手に完結するな。たとえ俺の性格が捻じ曲がっていようとそれが事実だ」

 青春はハッと鼻で笑う。明日から一週間青春のカップにブラックコーヒーを淹れてやる、と小梅は密かに心に決めた。

「とりあえず今回の依頼自体は簡単だ。お使いだ、明日までに買ってこい」

 青春は小梅に一枚の紙切れを差し出す。紙にはお使いの内容が書かれていた。

「師匠はどうするんですか?」

「俺は本田に会いに行く」

 青春は顔に暗い影を落として、笑った。


 ***

 沈みかけた太陽が街を赤く染めている頃、校舎ですれ違う人はほぼおらず、ほとんどの生徒が部活動に熱中している。

 雅臣は普段なら既に帰っている時間だが、日直の仕事をしているうちにこんなに遅くなってしまった。一緒に帰る約束をしている日向は外の校門で素直に待っているだろう。

 春とはいえ、夕方の風はまだ冷たい。特に今日はいつもより冷えると朝の天気予報で言っていた。

 こんなことなら、待ち合わせ場所を屋内にしておけばよかった。そうだ、これからそうしよう。これから夏になって、熱中症にでもなったら大変だ。

 雅臣が三階から一気に階段を駆け下りると、視界に人の影が写った。自然と誰かを確認したところで視線が合ってしまい、ピタリと足を止めてしまう。しまった、そのまま昇降口まで走れば良かったのに。

「久しぶりだね、本田」

「うん、久しぶり……」

 話しかけられると思わなかった、が本音だ。

 相楽さがら青春あおはる。1年の時に少し話した程度で、雅臣と彼はそれ以来あまり接点はない。同じ学年だから、せいぜい廊下ですれ違う程度だ。

 去年の夏頃からだったか、彼についておかしな噂がたち始めた。頼めばどんな願いも叶えてくれる、というおとぎ話のような噂が。それ以来、彼は周りから下手物のような扱いをされている。

「お前がこんな時間まで学校にいるなんてめずらしいな」

「ああ、うん、日直で……。相楽は……えと……最近、調子はどうだ?」

 正直あの噂に触れてもいいのかわからなかったので、雅臣は言葉を濁した。青春が特に気にした様子もなく笑顔を保っているのでホッと息をつく。

 青春は「俺は…」と言葉を切ると、いきなりクッと喉を鳴らし笑い始めた。

「さ、相楽……?」

「ああ、悪い……。俺は最近、ゴリラみたいな後輩に付きまとわれてるよ」

 一年前、青春はこんな笑い方をしていただろうか。前のアンドロイドのように無機質な彼が嘘のようだ。

 どこか人間味を帯びた青春に拍子抜けしていると、「そういえば……」と彼が話を切り出した。

「風の便りで聞いたんだが、お前、彼女が出来たんだろ?」

「え? ああ……」

「2年D組蒼井 日向」

 風の噂って、どこの噂だろう。何もかもを見透かしたような青春の瞳に雅臣の背筋にゾクッと悪寒が走り、冷や汗が伝う。

「告白されたんだってな」

「まいったなぁ、そんなことまで噂になってるんだ……」

 青春が一歩一歩、焦らすように雅臣と距離を詰めてくる。何故か、雅臣はすぐにでも踵を返して逃げ出したくなった。あまり態度に現れないように徹する。

「彼女とは接点があったのか?」

「えと、消し……」

「けし?」

「……いや、なんでもない。特にないよ」

「……そうか」

 何かを探っているかのような質問に身構えるが、青春は特に深掘りもせずこちらの返答を受け取った。それが余計に警戒心を煽ってくる。どこか嫌な予感がして気が抜けない。

 青春がふ、と息を吸い、口を開いた。

「お前、本当に彼女のことが好きなのか?」

 雅臣には自分を見上げながら囁く彼が、悪魔に見えた。

「よく聞くんだよなぁ。告白を断れなくて、そのまま成り行きで付き合っちゃうパターン」

 体が凍りついたように動かなくなる。確信をつかれた気がした。青春はそれを見て意地悪く笑うと、「お前は違うよな?」と肩を軽く叩いてくる。それだけで大袈裟に肩が跳ねた。

「おっと、時間だ。じゃあ俺は退散するよ。彼女、校門のところで寒そうにしてたぞ」

 知ってる。そんなの、わかってる。言いたいのに、思うように声が出なかった。

 気づくと、いつの間にか青春は消えていて、ただ一人、自分の影だけが長く長く伸びていた。


 ***

 部室内、ソファに座る青春の眉間に皺がよる。

「お使いはちゃんとできたんだろうな?」

「はい! 私の趣味全開ですけど」

 小梅は二枚のチケットをスクールバッグから取り出し青春に渡す。青春に渡された紙切れには『映画のチケット2枚。内容は任せる』と書かれていた。

「こてこての恋愛映画か……」

 確か、この映画の宣伝ポスターの煽りには『世界一泣ける初恋』と書かれていた。最近人気が上がってきた若手俳優を起用したことで話題になっているものだ。

 青春はチケットを見て頭を項垂れる。

「……まあいい。これを手紙と一緒に蒼井の下駄箱に入れておけ」

「何ですか、これ?」

「貴様には関係ない。早くしろ、のろま」

 いちいち一言多い。小梅は口を引き結んだまま青春が雑に投げた手紙を掴み、荒い足取りで部室を出た。周りに誰もいないことを確認してから、サッと日向の下駄箱に手紙とチケットを滑りこませる。

 任務完了。これを失敗したら、青春から役立たずの烙印を押され、今度こそ何の役目ももらえなくなるところだった。

 小梅が後から知ったのは、その手紙が日向に向けての指示書だったことだ。青春は簡潔に一文を綴った。

『今度の日曜日に映画へ誘え』


 ***

 約束の日曜日、日向は楽しみすぎて待ち合わせの時間より三十分以上も早く来てしまった。そわそわと何度も鏡を取り出し前髪を整える。

 いつも出かけるときはあの悪魔が絶対について来るので、せっかくのデートもデートでなく子守になってしまっていた。加えて、二人きりになった途端に始まる悪魔のネチネチとした言葉に、日向の胃は痛くなるばかりだ。

 しかし今日は違う。雅臣の親が休みなので、あの悪魔は親に任せるらしい。つまり、初めて二人きりでお出かけできる。実質、初めてのデートだ。


「蒼井先輩、嬉しそうですね」

「実際、嬉しいんだろうな。初デートの約束を取り付けてくれてありがとう、と昨日大変感謝された」

 小梅と青春は待ち合わせ場所を見ることができるカフェで日向を見張っていた。

 小梅は朝買った新聞を広げて、ちょっとした探偵気分だ。新聞なんて普段ほとんど読むことがないけど、今日だけはちょっとだけ読んでみようかなという気分になる。

「それにしても、いつも忙しい本田先輩がどうして今日は予定が空いていたんでしょうか……」

「今日は偶然あいつの親が二人とも休みを取れたらしくてな。偶然その情報を仕入れたから、妹に邪魔される前に先手を打たせてもらった。まあ、偶然だがな」

 偶然の部分を妙に強調しているのが恐い。青春が裏で何かしたのでは、と疑ってしまう。小梅は胡散臭い笑みを浮かべる青春にため息を吐く。

 待ち合わせ時刻まで残り五分だ。


 おかしい。

 日向は腕時計で時間を確認して、ため息を吐く。約束の時間は既に一時間以上も過ぎていた。

 三十分前に雅臣から『ごめん。もう少し遅れる』と連絡が入って以来、彼と連絡が取れない。遅れる理由を訊かずに『わかった』と返答してしまったことを悔やむ。

 もしかして、何かトラブルにあったのだろうか。それとも、いつものようにあの妹が駄々をこねているのか。まさか、事故に遭ったなんてことは。

 日向はどんどん悪い方向に考えてしまう自分の頭をブンブンと振る。綺麗にセットされた髪が少し乱れてしまった。祈るようにぎゅうっと握りしめていた携帯電話が不意に震え出す。

 待っていた雅臣からの連絡だった。

 今日の約束の断りと、それに対する謝罪の文章を、反省文のようにつらつらと長ったらしく書いたメールが一通送られてきた。どうやら、妹が急な腹痛で病院に連れていかないといけなくなったらしい。それこそ、雅臣ではなく彼の親の役目だろうと思うが、やはり妹が彼のことを離さないみたいだ。

 雅臣らしい誠実な文。それなのに、何故か素っ気なく感じてしまう。

『了解です。なるちゃんは大丈夫ですか? 私のことは気にしないでください。また明日、学校で』

 何でもっと早くに連絡してくれなかったの。妹さんは仮病じゃないのか。もっと私のことも気にしてくれたらいいのに。言いたいことは山程あるが、何一つ書かずに、雅臣にメールを返信した。

「馬鹿みたい……」

 電話じゃなくてメールで良かった。電話だったら、思っていることを全て口に出してしまっていたかもしれない。彼に負担をかけたくないが、この気持ちに気づいてもほしい。

 石像のように体が動かなくなってから何時間が過ぎただろう。不意にポタッと、手の甲に雫が落ちた。それはどんどん増えていき、やがて大雨となって体の上に降り注ぐ。周りの人たちが悲鳴をあげながら雨を凌げる場所へと避難し始めるのを、何をするわけでもなくぼおっと見つめていた。自分の頬を伝う雫が雨なのか、それとも涙なのかわからなくなってしまった。

 スッと、彼女の前に影が差し、彼女を打ち付ける冷たい雨粒をピンク色の傘が遮る。

「蒼井先輩……帰りましょう……?」

 彼女は確か、青春の助手を名乗っていた一年生だ。よく見ると、後ろに青春も真っ黒な傘をさして立っている。

「別に、このままここにいてもいいけどな……。本田は来ない。無駄に風邪をひく確率を上げるだけだぞ」

 青春はひどく冷めた目をしていた。日向は雨のせいで重くなった服を煩わしく思いながらも、ゆっくりと立ち上がる。

「先輩、大丈夫ですか……?」

 小梅は家につくまで、何度も「大丈夫ですか?」と訊いてきた。体調のことを言っているわけでは無い事はわかる。日向はその問いかけに小さく頷くのが精一杯だった。青春は終始不機嫌なオーラを放ち無言を貫いていて、日向は少しだけ気まずかった。

「相楽、ごめん……」

「何故お前が謝る。お前が俺に謝る必要なんてないだろう」

 青春は別れるときにやっぱり不機嫌な口調だったが口を開いてくれた。

「蒼井、本田はどうしてもお前よりあの妹を取るらしい」

 最後にそれだけ言って、青春は小梅を引き連れて去っていった。それから三日、日向は風邪で学校を休んだ。


 ***

 日向は今日は休みらしい。昨日あれだけ雨に打たれたのだ、当たり前だ。それに、きっと精神的な部分も関係しているのだろう。

「師匠……、これからどうするんですか?」

「くそ、本田のやろう……。この俺が背中を押してやったというのに待ち合わせに来ないだと? ふざけるな、俺の計画が狂ったらどうしてくれる……。ビジネスは信頼が大事なんだぞ……! というか、この俺を雨の中帰らせるなんて、何様だ、あいつ」

 あんたが何様だ、と内心毒付いた。朝からブツブツと雅臣に対する苛立ちを呟き続ける青春はいつにも増して異常だ。昨日のことが相当頭にきたらしい。

「師匠! ちゃんと私の話聞いてますか!?」

「五月蝿い、聞いてる。それについては俺たちはもう手を出さん」

 青春は鬱陶しげな視線を小梅に向けると、今日のお茶請けで出した羊羹を一口食べた。

「な、何で……!? 師匠は、二人がこのまま別れてもいいんですか!?」

「いいわけないだろ。依頼は必ず遂行する。それは絶対条件だ。だが、それは依頼者の意思があってこそだ」

 彼は湯のみに口をつけ、ズズッと音を立てて啜る。しかし次の瞬間、彼は空中に向かってブフッと湯のみの中身を勢いよく吹き出した。

「ゴホ、うえ……っ。おま、これ、中、コーヒーじゃないかッ!」

 油断していたため、思いのほか効果は抜群だったらしい。青春は咳き込みながら喉を押さえてのたうちまわる。そのうちに、ぶちまけられたコーヒーを用意していた雑巾で処理しておく。

「師匠、大人の男はブラックがお好きなんでしょう?」

「貴様……っ、わざとか……!」

 ささやかな悪戯心です。すると、青春が親の仇でも見るような目で睨み、「貴様、覚悟はできてるんだろうなぁ?」と脅迫まがいのことを言ってきた。ひゅっ、と喉の奥が絞まる。一助手が師匠に逆らえるわけもなく、小梅は素直に土下座をした。

「話を戻すぞ。今回の件で、蒼井が本田に愛想を尽かした恐れがある。その場合、本田を振り向かせることは彼女の本意ではなくなり、依頼は破棄、二人はそのうち別れる」

「愛想を尽かしてない場合だってあるじゃないですか……」

「そうだったら、蒼井は限界だろうな」

 青春は羊羹の最後の一切れを口の中に放り入れ、ゆっくりと咀嚼する。

「まあ、どちらにせよ、依頼は解決される。どちらに転ぶかはまだ分からないがな」

 ーー全ては彼女次第だ。

 彼は窓の外を眺めて、のん気に欠伸をしながらそう言った。


 ***

 日向は床から伝わるじんわりとした温かさを感じながら、キッチンに立つ雅臣の料理の音を聞く。風邪が治って早速、日向は雅臣の家にお呼ばれしていた。もちろん、家には小さな悪魔もいる。

 居心地は最悪だ。

 日向は足を抱え、なるべく体を縮こませながら部屋の隅に座る。すると、雅臣がキッチンからひょこっと顔を出した。

「ごめん、ちょっと買い忘れがあったからコンビニに行ってくる。すぐ戻るから、お留守番よろしくね」

「はーい!」

 なるが元気よく返事をしたのを聞くと、雅臣は急いで家を出て行った。なるは彼が家を出たのをしっかり確認すると、意地悪い笑みを浮かべて、くりくりとした丸い目をこちらに向けてくる。そのなるの既に勝ち誇ったような表情が妙に癪に障った。

「あんた、まだお兄ちゃんと別れてなかったのね。いい加減諦めたら?」

「……諦めるって、何が?」

 わかっているが、意地を張って白を切ってみる。先日も青春に言われた。自分は確実にこの妹に負けているのだ。

 なるは「フン」と、あからさまにこちらを嘲笑する。

「お兄ちゃんはあんたなんかより、私の方がずっと大事なのよ。その証拠に、お兄ちゃんはあんたとのデートより私を優先したわ。あんたなんてお兄ちゃんにとってその程度なのよ!」

 いつもなら、笑って流せたかもしれない。むしろ反撃して、惚気の一つでも言っていた。

 けれど、今日はどうしてもその言葉が昨日の青春の台詞と被ってしまい、冷静に聞き流すことなんてできなかった。

「そんなの……っ、いちいちあんたに言われなくてもわかってるよッ! うるさいなあ!」

 頭に血が上り、顔を真っ赤にさせて立ち上がる。すぐにハッと我に帰るが、日向に睨まれ、怒鳴りつけられた悪魔は今にも泣き出しそうだった。いつもは憎たらしい態度のくせに、こんなときだけ子供らしい反応をする。ずるい。なるの顔を見て、赤子のように泣き出してしまいたくなった。

 悪魔はしばらく涙目で震えていたが、すぐにキッと睨みつけてきた。

「何よッ! 本当のことを言っただけじゃない! 自分に魅力がないからって私に八つ当たりしないでよッ!」

 我慢の限界、そう思ったときだ。ガチャリと音を立てて扉が開き、雅臣が家に帰ってきた。その瞬間、なるの大きな瞳からポロポロと綺麗な涙が溢れ出す。しまった、と気づいたときには、もう全てが遅かった。

「うわああああん! お兄ちゃぁぁん!」

「え、何? なる、どうしたの?」

 なるが雅臣の足に向かって突進していく。彼は突然のことに驚き、戸惑いながらもなるを受け止め、彼女の涙を慣れた手つきで拭った。

「なる、おねえちゃんのことねっ、好き、なのにねっ、おね、ちゃん、なる、きらっ、ねっ」

「ああ、うん、なる、落ち着いて……?」

 彼は泣きじゃくる悪魔に困惑して、日向に視線で訊いてきた。一体何があったのか、と。

 答えられるわけがない。自分が何を言ったとしても、あの悪魔にひっくり返されてしまう。だって、どうやったって自分は、彼の中でこの小さな悪魔に勝ることはできないのだから。

「蒼井さん……?」

 ほら、この時点でもう負けてるじゃないか。俯いたまま声を発さない日向を、彼が下から覗き込んでくる。泣き出しそうな自分の顔を見られるのが怖くて、何も言わず走って彼の家を飛び出した。

 家を出るとき、悪魔がほくそ笑んで見えた。


 ***

 バタン、と日向が帰った音が聞こえると、部屋に静寂が訪れる。

 ざまあみろ。

 なるは心の中で日向の背中に舌を出した。

 今までも、このように兄の恋人を兄から退けてきた。今回は少しばかり手こずったが、最終的には計画通りになったのだから成功したも同然だろう。

「……なる、何があったの?」

 雅臣は彼女を追いかけることもせず、呆然と訊いてきた。兄にとってあの女のなどどうせその程度だったのだ、と内心笑っていた。

 勝利を確信していた、はずだった。

 しかし、自分を見る雅臣の瞳は明らかに普段のものと違っていた。

「お兄ちゃん……?」

「なる……蒼井さんに何をしたの?」

 兄の口調も声音もいつも通りなのに、何故か体がぶるりと震える。本能が危険を察知している。今すぐここから逃げ出したい気分でいっぱいだった。

「なる、何もしてないよ? おねえちゃんが……っ」

「ごめんね、なる」

 いきなり謝られて、わけがわからず首を傾げる。雅臣の表情は、口角は上がっているのに瞳が怒気を孕んでいた。これはまずい。頭の中で警報が響き、体から血の気が一気に引いた。

「おにぃちゃ……っ」

 雅臣は無言のまま玄関へ向かい、そのまま家を出て行ってしまった。きっと日向を追いかけていったのだ。

 いつもなら必死で止めるのに、追いかけになんて行かせないのに。今は雅臣がいなくなって安心している自分がいる。

 なるは体からへなへなと力が抜けて、その場に座り込み、ぎゅっと体を抱きしめた。


 ***

 夜の住宅街の街灯は一人で歩くにはひどく頼りない。朝とは違い、今にも幽霊が出てきそうだ。

「師匠、依頼どうするんですかっ!」

 しかし、その道に咎める声が響く。恐らく、幽霊も驚き帰ってしまうだろうほど大きな声だ。

「喧しいぞ、近所迷惑だろうが。依頼はもう解決したも同然だ」

 青春は眉根を寄せて、自信たっぷりに言った。

「何を根拠に!」

「だから喧しいと言っているだろうが!」

 耳元でキャンキャンと吠えられた青春は、容赦無く小梅の頭に手刀を落とした。が、どうやら彼女の頭の方が硬かったらしい。

「っこの、石頭が! お前本当に女子か!?」

「あ、頭の硬さと性別は関係ないじゃないですか……! ていうか、か弱い女の子に手を上げるなんてサイテー!」

「その割りにはノーダメージだな! 見ろ、俺の手を! 大ダメージにもほどがあるぞ!」

 青春は手を押さえて睨みつけてくる。怪力も石頭も生まれつきなのだから仕方がないだろう。

 すると、暗闇を駆ける足音が二人に聞こえてきた。黒の絵の具を塗りたくったような空に街灯と家の光がぽつぽつと見えるだけの寂しい住宅街では、二人にはその音が異様に不気味に感じられる。

「師匠、お、おお、おばけ……っ」

「アホが、幽霊は足が無いから足音なんて鳴らないだろ」

 気丈な声と裏腹に、青春の足は暗闇でもわかるほど震えていた。足音はどんどん近づいて来て、その姿が目の前の街灯に照らされる。見覚えのある人物に小梅は目を見開いた。

「え……蒼井先輩……?」

 声を駆けると、日向はビクッと身体を跳ねさせて顔を上げる。彼女は小梅たちに気づくと、途端に顔を崩しボロボロと大粒の涙を流した。

 小梅も青春も目をギョッとさせる。

「ど、どうしたんですか!?」

「ふ、桐谷ちゃん……」

 日向は嗚咽をもらすばかりで全く事情が飲み込めない。救済を求め青春に視線を移すと、やれやれという風に彼は肩を竦める。

「仕方がないな……。いいか、今だけだからな」

 青春はため息をつきながら日向に手を伸ばして、何を思ったのかガッと彼女の頭を掴み自分の胸に押し当てた。

 いきなりの行動に小梅も日向も絶句する。

「な、さ、相楽……!?」

「お前が泣いていると、俺まで不愉快な視線を受けることになるだろうが。さっさと泣き止め、今だけハンカチになってやる」

 彼はぶっきらぼうだけど、こういうところは優しいみたいだ。日向は小さく「……ありがと」と、呟いた。その様子に、小梅と青春はホッと安堵の息を吐く。

「蒼井先輩……一体何が……」

 日向に問おうとしたのもつかの間、彼女が走ってきたのと同じ方角からまた足音が聞こえてきた。今度は間隔が狭く、勢いよくこちらに向かってくるのがわかる。

「日向ッ!」

 青春に寄りかかっていた日向が、いきなり後ろに引っ張られ彼の腕からすり抜ける。

「俺のか、彼女に、触らないでください……!」

 男はしっかと日向の肩を抱くと、威嚇するように青春を睨みつけた。力強い彼の台詞は息が切れ切れで、日向を追って全力で走ってきたのがありありとわかる。反応を見る限り、もしかすると彼は何か勘違いしているのかもしれない。

 四人の中に微妙な空気が流れた。

「本田……?」

 青春が確かめるように目の前の影に問いかけた。月光を浴びて現れたのは、日向の恋人である本田 雅臣だった。雅臣は青春の姿を確認すると、険しかった表情を緩めて目を丸くした。

「あれ……さ、相楽……?」

 彼は状況が呑み込めず、日向と青春の顔を見比べる。小梅の存在も確認すると、ようやく自分の間違いに気づいたらしい。雅臣は顔を赤くして、頭を抱えた。

「てっきり不審者かと思って……ごめん……」

「おいこら誰が不審者だ、誰が」

 雅臣は何度も青春に頭を下げる。だが、暗がりで女子を抱く男がいたら不審者と思うのは当たり前だろう。

 日向はその様子をぼうっと見つめていた。青春に言わせると、その顔はまさにアホ面だ。

「迎えがきたなら帰れ。俺ももう帰る」

 青春は話を打ち切り、疲れた顔で日向を見据る。彼女を見て「アホ面」と言ったのを小梅は聞き逃さなかった。

 日向はまだ不安げな表情をしていたが、雅臣に手を引かれ来た道を戻っていった。暗い夜道を一心に照らす月に向かって歩く二人が見えなくなるまで、小梅たちは二人の背中を見つめ続けた。


 ***

 雅臣と手を繋いでいるというのに、日向は心の底にある不安を全く拭えない。彼は日向を気遣い歩調を合わせてくれているが、一度もこちらを振り返らない。見えるのは彼の背中だけだ。

「本田くん」

 雅臣がピタリと足を止めた。彼はゆっくりと振り返り顔を見せてくれたが、日向と目を合わせてはくれない。

「ごめん、最初に君に謝らなくちゃいけない」

 雅臣は開口一番、日向に謝った。

「俺知ってたんだ、なるが君に酷いことを言っているの」

「え……?」

 頭が凍りついた気がした。

 雅臣はそのことを知らないと思ってた。だから、彼に言ったって信じてもらえない、仕方がないって、そう思って今迄耐えてきた。彼は自分が傷ついているのを知っていて見て見ぬ振りをしてた。

「え、あ、ちょ……待って、泣かないで……!」

 自力で止めることができないほどに再びボロボロと大粒の涙が頬を流れていく。雅臣はポケットから子供用の小さなハンカチを取り出すと、腫れ物を扱うかのようにそっと頬を拭ってくれた。

「ここで泣かずにいられるほど、私のメンタルは強くないです……」

「……ごめん、なるがああなったのは俺のせいなんだ」

 雅臣は申し訳なさそうに日向の赤くなった目元をなぞる。

「初めて彼女ができたとき、なるの迎えを遅れたことがあったんだよ」

 それ以来、なるは彼に近づく人を敵視するようになった。親の代わりに自分を構ってくれる兄を取られると思ったから。

「だからそれ以来、俺はなるを叱ることができない」

 彼はハンカチをポケットに仕舞うと、またこちらから視線を外してしまう。

「さっき、久しぶりに叱ったから、嫌われちゃったかな……」

 徐にぐっと体を引き寄せられて、雅臣に堅く抱きしめられた。冷たい夜の空気に彼の仄かな温もりを感じる。それと同時に彼の胸から微かに心音が伝わってきた。

「大丈夫、もう日向を傷つけさせないから」

 力強い声と共に、雅臣の腕に力が込められる。彼女は彼の背中に手を回し、覚悟を決めてそっと彼を見上げる。

「ううん、私になるちゃんと話をさせて」

 雅臣は一瞬目を見開いて、困惑した顔をした。どうして、と彼が言う前に口を開く。

「女同士じゃなきゃ話せないこともあるの」

 彼はパチパチと目を瞬かせて、頑として譲る気のない日向の顔を見ると呆れたように笑った。

「君のその強いところが好きだよ」

 初めて雅臣に“好き”と言われた。体中の熱が彼女の顔に集まっていく。きっと自分の顔は今、暗闇でもわかるほど真っ赤だろう。

「帰ろうか」

 気づいているのか、いないのか、彼はいつものように笑って彼女の手を引いた。


 ***

「ただいま」

 二人が帰ってきた家は電気がついたままなのに、返事は一向に返ってこない。

「なるー?」

 雅臣がリビングを見渡して名前を呼ぶがなるの姿は見えない。靴はあるから外には出ていないはずだ。

「日向、二階のなるの部屋見てきてもらっていい?」

 彼はため息混じりにそう言って、日向を二階へ促した。言われるまま階段に足をかける。二階へ上がると、一番奥の部屋だけ少しドアが開いていた。ドアには『なるの部屋』と書かれた可愛らしい木のプレートがぶら下がっている。

「失礼しまーす……」

 恐る恐る中を覗くと、可愛らしいピンクのベッドに、沢山のぬいぐるみ、きちんと整頓された勉強机と、真っ白なタンスが置かれていて、いかにも女の子らしい部屋だった。

 その部屋の隅に、なるが体育座りで縮こまっていた。日向が入ってきたのに気づいているだろうけど、何も言葉を発さないので黙ってなるの隣に座る。

「戻ってきたの……身の程知らず……」

 なるはいつものように憎まれ口を叩くが、その声にいつもの力は無い。雅臣に怒りに触れたのが、相当参っているらしい。普段と正反対のその姿に苦笑しながら、制服の内ポケットを探り黄色いお守りを取り出す。

「なるちゃん、これ見て」

 なるはゆっくりと顔を上げると、そのお守りを見て目を見開いた。

「それ、なるがお兄ちゃんにあげたやつ! 何であんたが持ってんのよッ!?」

 興奮し、敵意を剥き出しにするなるを宥めるが、彼女は感情の高ぶりをコントロールすることが出来ず潤んだ目を必死に吊り上げる。

「お兄ちゃんは落としたって言ってたのに……!」

 彼女は怒っているというよりも傷ついているようで、見ていて痛々しい。

 日向がお守りの中を探ると、一所懸命書いたであろう字で『おにいちゃんがんばれ』と書かれた小さな紙出てきた。

「私ね、学校の入学試験の日によりにもよって消しゴム忘れちゃって、その時隣の席の人がどうぞ、って消しゴムを千切って貸してくれたの」

 雅臣はあの日のことなんて覚えてないかもしれないけど、今も忘れない、初めて彼にあった日のことだ。

「これはその人の落し物」

 まるでシンデレラのガラスの靴みたいだと思った。この黄色いお守りが、雅臣と自分を引き合わせる唯一のものだった。

「運命だと思ったの」

 彼女が学校で雅臣に会ったとき、一目で彼だとわかった。お守りを返さなくては、と彼に近づき、まさか付き合えるなんて思ってもいなかった。

「私と本田くんを引き合わせたのはなるちゃんなんだよ」

 満面の笑みを見せると、なるは愕然とした様子でだらんと腕を下ろした。まさか自分が知らず識らずのうちに兄の恋のキューピッドになっていたなんて思いもしなかったのだろう。

「だからね、私諦めないよ、なるちゃんにどんなに酷いこと言われても」

 なるは震える口を引き結んで、キッと日向を睨みつけたまま暫く黙っていたが、突然、ふっと悪魔のような不敵な笑みを浮かべた。なるのその目にはいつも通りの力強さが見える。

「フン、ゴキブリ並みの打たれ強さね! そこだけは褒めてあげる!」

「え、ゴキ……」

「そこまで言うなら受けてたってあげる! 私にケンカを売ったこと、せいぜい後悔するといいわ!」

 なるはビシッとこちらを指差し言い放つと、脱兎のごとく部屋を出て行ってしまった。一体、今何が起こったというのだろうか。呆然と彼女が出て行ったドアを見つめていると、笑いが込み上げてきた。

「手強いライバルだなぁ……」

 嬉々として呟いた言葉は彼女だけの秘密だ。


 ***

 あれから数日、日向の依頼は言わずもがなだ。青春の提案で、その後の結果を確認するためいつもより遠回りをして帰る。

「師匠、もうあんなことしちゃ駄目ですよ?」

 青春は突然の小梅の言葉に目を丸くした。

「藪から棒になんだ。お前はもう少し脈絡のある話をしろ」

 今日の青春は察しが悪い。

「だから、無闇に恋人のいる女子を抱きしめるべきではないと言ってるんです!」

 小梅が眉間に皺を寄せると、青春は少し間をあけてから、何を思ったのかニヤリと口角を上げた。

「ほう、お前も少しは可愛げがあるじゃないか」

 こちらは怒っているというのに、青春の緩んだ頬は戻らない。その表情は正直、少し見ていて気持ちのいいものではない。

 青春は小梅の冷めた視線に気づかず、数歩前を優雅に歩いていく。

「ああいうことはイケメンがやるから許されるんです」

 青春の軽い足取りがピタッと止まった。彼が「はぁ?」とドスの効いた声を出して振り返ってくる。笑顔のはずなのに怒っているように見えるのは気のせいだと思いたい。目の座った青春が近づいてきて、人間の防衛本能から逃げ腰になる。

「貴様、この俺がイケてるメンズではないと?」

「痛いッ!! イケてるメンズの言動じゃないッ!」

 青春はバッグから百科事典を取り出すと、頭に容赦無くそれを振り落としてきた。勿論、角を。

「フン、これなら手を痛める心配がないな。これから常備しよう」

 頭を押さえる小梅を見下し、鼻で笑いながら青春は言った。経験したことのない痛さに涙が出てくる。

「師匠は、どうしていきなり殴るんですか!? 短気ですか!? 短気は損気ですよ!?」

「貴様、意味をわかっていてそれを使ってるんだろうな……?」

 青春がイラついたため息を吐く。どうやら容赦無く殴っておいて、まだスッキリしていないみたいだ。なんて理不尽。

 そこにふと、オレンジ色の道に長く伸びる影を見つけた。

「師匠あれ……!」

 青春は促されるまま小梅が指差した方向を見る。その道には三人分の影が一枚の黒い紙のように映っていた。

「まるでリトルグレーだな」

 青春は満更でもない様子で笑った。オレンジ色に染まった道には、日向と雅臣、それに小さな女の子が家族のように手を繋いで歩いていた。

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小さな悪魔 べたくさ @betakusa

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