愛しのチャイナドール

ジャスミン・K

第1話 愛しのチャイナドール

「あーあ、退屈!」

 読みかけのパルプマガジンを放り出して、あたしはソファーの上でゴロリと寝返りを打った。

「なんか面白いことないかなあ〜」

 さまよった視線が、壁にかけたカレンダーの上で止まる。

 8月のカレンダー、背景は海。

 マイアミ・ビーチかどこかで陽に灼けた水着美人が、真っ白い歯を見せて、にかっと笑っている。

「海か……」

 友人達からはすでに振られてるので、もう電話しない。

「もうすぐ、新学期なのに、何を浮かれてるの!? 宿題はやったの!?」だってさ……

 今さらじたばたしたって、仕様がない。なんとかなるわよ。

 ピンクのビキニに着がえ、ピンクのヨットパーカーをはおる。帽子もピンクにしようっと。

 バスタオルを入れたバッグを片手に部屋をでる。

 17才の誕生日に、パパに買ってもらったばかりの愛車、フェラーリF40に乗り込むと、助手席にバッグを放り出し、エンジンをかける。

 快調、快調。「跳ね馬」のエンブレムそのままに、飛び跳ねるような勢いで走り出す。

 カーステレオからはビートのきいた音楽が流れ出し、あたしはふんふんと鼻歌まじりでダッシュボードに手をのばし、サングラスを取って鼻の上にちょこんと乗せる。

 すくすくと伸びたとうもろこし畑を貫いて走る道路、秋になると一斉に金色の穂を吹いて、それはそれは見事な風景に変わるんだけど、今は見渡す限りの緑色の葉っぱの波。

 気分がいい。やっぱ部屋でゴロゴロしてるのは、性に合わないわ。

 5分ばかり田舎道を走ったあと、フリーウェイに入る。

 ラッキー、今日はすいてる。よーし、ばんばん飛ばすぞお。

 アクセルをぐいと踏み込むと、身体がシートにずん、と押しつけられる。この加速力がたまんないのよねえ。

 

 えーと、この辺で自己紹介するね。

 あたしの名前は、ジュリエット・シエナ・スカイフォーク。ジュリーって呼んでね。

「ロミオとジュリエット」のジュリエットのように可憐で清楚な少女になるのを期待して、母親がつけた名前だそうだけど、その夢はかなえられなかったようね。

 髪は肩にかかるくらいの少し赤っぽいブロンド。ストロベリーブロンドってやつね。もっと伸ばしたいんだけど、くせ毛がひどいのよ。

 瞳の色はダークブルー。猫みたいな顔だって言われるけど、自分じゃ美人だと思ってる。

 身長は175センチ、体重は……これはヒ・ミ・ツ。スタイルはいいのよ。ボン、キュッ、ボンのナイスバディ……のはず。

 年は17才。ボーイフレンドはなし。っていうか、10才からキリスト教系の全寮制の女子校に入れられてて、どうやってボーイフレンドを見つけろっていうの?

 まあ、それなりに、男友達もいるけど。ハートにキューンとくるようなイイ男には、まだめぐりあってないってのが、現状。最近の男の子って、迫力不足よね? そう思わない?

 映画産業で有名な大都会から少し離れた、メルブライトって町のセント・マリエル女学園の明日から八年生。今日はサマーホリディの最終日ってわけ。

 あと三年を無事に乗り切れば、やっと卒業できるわ。

 まあ、何とかなるでしょ。

 

 フリーウェイを下りて、市街地を抜け、ベイ・エリアへ入る。倉庫街を突っ切って、海岸沿いに少し走らせ、よさそうな所で車を止める。

 潮の香りを思いっきり吸い込む。空は抜けるような青空。雲ひとつない上天気だ。こんな日に宿題なんかやってるなんて、もったいないわよねえ。何かいい事が起こりそうな予感。

 サングラスをはずして、ガードレールから草の茂った土手とそれに続く真っ白い砂浜を見下ろす。青い海がキラキラ光っている。波もおだやかそうだ。

 潮風にゆれるパームツリーと太陽に照り映える海。目に染みるようなコバルトブルーの水が岸辺に打ち寄せ、波頭が白く砕ける。

 フランクフルトやシェイクや、アイスを売ってた屋台が土台だけ残して、消えてる。砂浜でパラソルで顔だけ隠して、ビーチマットに寝そべって肌を焼いてた連中も、どこかへ行ってしまった。

 そうして気がつけば、海の色も空の色も風の色さえ、夏の盛りとは微妙に違う。

 そうかあ、もう夏も終わりなのねえ。

 サマーホリディが始まった頃は、わくわくして、あれもしよう、これもしようって期待したもんだけど、あっという間に終わってしまう。

 ああ、せつないわねえ……さようなら、17才の夏……

 さて、感傷にひたるのはこの位にして、さあ泳ぐぞう!

 

 ガードレールにピンクのスニーカーをかけて、飛び越えようとした瞬間にそれが見えた。

 大きなトランクを引きずって道路を歩いてくる人物と、その横を徐行しながらちょっかいをかける、車に乗った3人組みの若い男。

 3人組みは、まあよく見かけるチンピラっぽいけど、トランクを引きずってる人物に目を見張る。

 鮮やかな紫色のチャイナ服。スリットの入ったドレスじゃなくて、筒みたいなソデとスソの奴ね。胸に赤い花のししゅうがある。

 黒髪を両耳の上でおだんごみたいに丸めて、切りそろえた前髪の下の切れ長の黒い瞳が涼しげ。

 かなりの美少女だ。まあ、あたしには劣るけど。

 カンフームービーから抜け出してきたみたいなチャイナドールは、うるさいハエには見向きもせず、あたしの側までトランクを引きずってきた。

 よく見るとキャスターの一個がはずれてる。こりゃ大変そうだ。いったいどこから来て、どこへ歩いていくんだろう。ごくろうさま。日射病には気をつけてね。帽子、貸してあげようかしら。ああ、あのおだんご頭じゃ無理か。

 映画の撮影かもと思ってあたりを見渡すが、それらしいカメラクルーは見当たらない。

「こんにちは」

 チャイナドールが微笑する。汗だくのくせに、涼しげな笑顔。くやしいけど、あたしより美少女かも。まあ、胸はあたしの方が勝ってるけどね。

 東洋人にしては背が高い。175センチのあたしと同じくらいある。

「はーい」

 あたしもにっこりあいさつを返す。

「このあたりにバス停はありませんか? こっちだって聞いてきたんですけど、見当たらなくて」

 きれいな英語を話す。発音も完璧だ。アメリカ系中国人かしら。

「バス停? そんなもんないわよ」

 あたしが言うと、ため息をつきながら来た道を振り返った。

 そこにはかげろうがゆらめきたってるようなアスファルトの道路がえんえんと続いている。もちろん、反対側も同じだ。

「だからあ、車に乗りなよ。送ってってあげるよ。そのついでにちょっと楽しい事しようよ」

「こっちの子もイカしてるぜ」

「車すげーな。ちょっと貸してくれよ」

「2対3でちょーどいいじゃん」

 何がちょーどいいんだ。うるさいハエめ。

 そいつらは無視して、あたしはチャイナドールに話しかけた。

「あんた、どっから来たの?」

「私、上海から船でアメリカに着いたばかりなんです。何かの手違いがあったらしくて、迎えの人と会えなくて……バスに乗ろうと思ったんですけど……」

「港からここまで歩いてきたの?」

「はい。何台か乗せて下さるって車も通りかかったんですけど、何だか、乗せてもらう気になれなくて……」

 困ったような、照れたような顔でうなずく。

「へえ、そりゃ大変だったわね」

 港からここまで気が遠くなるような距離だ。

「行く先は?」

「メルブライトという町です」

 おおっと。こりゃ驚いた。

「そこあたしの住んでる町だわ。わかった。送ってあげる。車に乗りなさいよ」

「え……でも……」

「いいから、いいから。遠慮しないで」

「でも、見ず知らずの方に……」

「あんたねえ、人が親切に言ってんのに。あたしが悪人に見えるっての?」

「いえ、そういうわけじゃ……」

 ハエを無視してごちゃごちゃ言ってるうちに、ごうをにやした男達が車からおりてきた。

「何でこんなイケメンが3人もいるのに、シカトすんだよ」

「俺達と楽しい事しよって言ってるじゃん」

「もう、いいから、さらっちまおうぜ」

 やれやれ、どこにでもこういう頭の悪い連中がいるのよね。

 こらこら、あたしのF40を汚い手でなでくりまわすんじゃない。

 少しこらしめてやらないといけないみたいね。

 

 Tシャツのソデをまくった下にドクロに蛇がからみついた刺青を入れた奴が、あたしの肩に手を回してきた。

「もう逃げられないぜ。おとなしくしな」

「あんた鏡もってないの? あたしに話しかけたかったら整形してきなさいよ」

 肩に回された手をつかみ、身体を反転させて、そいつを投げ飛ばす。

 そいつは頭からアスファルトの道路に落ち、蛙が潰れたようなグエッという声を上げて動かなくなった。

 まったく、受け身くらいとってよね。

 あたしはカラテもジュードーもやったことはないけど、ストリートファイトで負けたことは一度もない。

 2人目がものすごい形相で飛びかかってくる。

 おろしたてのスニーカーがもったいないけど、その顔面にケリを入れる。ふらついたところにもう一発。おお、これ以上ないくらいに見事にきまった。

 ドバーッと鼻血がふきだす。

 あたしは身体が柔らかいから足が上がるのよ。10才までバレエをならってたおかげかしら。

 こういう場面の鉄則は先手必勝。特に顔面への攻撃は効果大。

 2人はもうリタイアかな?

 なんだあっけない。もう少し手ごたえがあってもよかったのに、これじゃあ、あたしが弱い者いじめしてるみたいじゃない?

 残った一人は怒りのあまり顔色がどす黒く変わっている。

「このアマ……」

 そいつは腰のベルトにさしていたジャックナイフを取り出した。パチンと刃を出す。刃先が陽光にギラギラと輝く。

 いいね、いいね。この位のハンデがあった方が燃えるわ。

「……ぶち殺す……」

 目がすわってる。場が殺気立つほどウキウキしてくるのは、あたしの悪いくせだ。

「ナイフ出すってことは、そっちも生命かけるって思っていいのよね?」

 こういう時、あたしの瞳はダークブルーからライトブルーに変わるらしい。色が薄くなって、酷薄な殺人鬼みたいに見えるんだって。

 そいつはナイフを突き出してきた。

 あれ?

 それまですっかり忘れていたチャイナドールが、いつの間にかそばにきていて、そいつのナイフを取り上げてた。

 一瞬でよくわからなかったけど、右手の人差し指と中指で刃をはさんでひねり取ったように見えた。

「女の子相手にナイフを振り回すなんて、ダメですよ」

 あっけにとられるあたしと男の前で、チャイナドールはにっこり微笑すると、指先でクニャリとナイフをへし曲げた。まるで細い針金を曲げるみたいにあっさりと。

 こいつ、何なの?

「こんな危ない物はきちんとしまっておいて下さいね」

 そいつのポケットに曲がったナイフを戻してやる。

 それから、あたしに向かって、

「あなたも。失礼な方達だとは思いましたが、やり過ぎです。さあ、謝って」

 あたしはあんまりびっくりしたんで、どうかしてたんだと思う。

「すみませんでした」

 頭を下げてた。父親にも頭を下げたことなかったのに。

 チャイナドールはうんうんとうなずいて、あたしの腕をぐいとつかみ、

「それじゃあ、行きましょう」

 呆然としている男達を置いて、あたしの車に向かった。


 すごい握力だった。まあ、ナイフをへし曲げる位だから。

「ツーシーターで荷物置くとこないのよ。悪いけど、それは抱いてて」

 彼女は座席にすわり、シートベルトをしめ、胸に大きなトランクを抱きかかえた。

「それじゃ前が見えないね」

「いえ、ナナメにすれば何とか」

「よーし、じゃあ、出発!」

 車を発進させてから、やっとあたしはまだ相手の名前も知らないのに気づいた。

「あんた、タダモノじゃないわね。まあ、助けてくれてありがとう。お礼を言うわ」

 愉快になってくる。

「いいえ。わたしが助けたのはあなたじゃなくて、あっちの男の人の方ですから」

 あら、よくわかってるじゃない。

「あたしはジュリー。あんたは?」

「[[rb:麗花 > レイファ]]・[[rb:林 > リン]]。レイと呼んで下さい」

 レイか、きれいな名前だ。この美少女に似合ってる。

「レイ、メルブライトのどこへ行くの?」

「セント・マリエル女学園の寮へ」

 ええっー!

「あたしの通ってる学校じゃない。何年生になるの?」

「8年生に編入になる予定です」

「そうかあ、8年生かあ」

 うふふ、これは面白いことになりそうだわ。

 うちの学校は1年生から10年生までもち上がりなの。で、うちのクラスは定員を五人も割り込んでる。何でかというと……まあ、それはいいか。きっと同じクラスになるわ。

「実はあたしもマリエルの8年生になるのよ。すごい偶然。よろしくね」

 ハンドルから離してさし出した右手を、レイはじっと見つめて、

「よろしくお願いします」

 ぎゅっと握り返した。


 フリーウェイに入る。

 地道じゃ飛ばせなかったぶん、ここで一気に加速する。

 スピードメーターがぐんぐん上がる。

 このF40は時速百キロからが本番よ。見かけだけじゃないってことを、教えてあげなきゃ。

「あの……スピードが……」

 レイが遠慮がちに言う。

「え? もっとスピード上げろって? そうこなくっちゃ」

 アクセルを目一杯踏み込む。

 エンジンがうなりを上げる。まわりの景色が飛ぶように過ぎていく。

 やっぱ助手席に誰かが乗ってると、あたしもついついサービスしちゃう。

 レイは黙ってトランクを抱きしめてる。こころなしか、ジュラルミンの胴体が少しへしゃげているような気がする。

 前方にカウンタックLP500Sが見えてきた。

 制限速度なしのフリーウェイを、ちんたら走ってるんじゃない。

 対向車線に入って、すぱーんと一気に気持ちよく追い越す。

 車体がゆれたひょうしに、レイが横の窓ガラスに頭をごつんとぶつけてる。

「ごめーん。座席にしっかり身体をおしつけててね。もっと横ゆれするかもしれないから」

 レイは返事をしない。前方を凝視している。

 怒ったのかな? わざとじゃないのに。

 トランクがまたちょっとへこんだような気がするのは、気のせいだよね。

 500Sがスピードを上げて追いかけてきた。

 そうそう、そうこなくっちゃ。

 2台の車はつながって、まっしぐらに疾走する。

 直線道路だもの、メーターが振り切れるくらいにアクセルを踏む。

 視界がせばまって見える。

 ウィンドウがびんびん震える。

 身体にかかるGがもう最高!

 おっ、敵もなかなかしぶとい。ぴったりくっついてくる。

 上等じゃない。このあたしと張り合おうなんて、見所がある。追いつけるもんなら、追いついてみなさいよ。

 あたしは下唇をなめて、心の中で、おいでおいでと手まねきをする。

 突然、前方に大型トラックが見えた。

 そのでっかいお尻がどんどん近づいてくる。

 どいてよぉ──!

 っていっても無理か。

 あたしはトラックを追い越しにかかる。

 あちゃー、こっちの車線にもいる。

 でも大丈夫、いける。

 ほんのちょっとハンドルを切るだけで、あたしのF40はあたしの思うとおりに動いてくれる。

 トラックを追い越し、対向車を間一髪でかわして前へ出た。

 ひょい、ひょいって感じよ。

 激しくクラクションを鳴らされたけど、すぐに後ろに過ぎていく。

 LP500Sは戦意喪失したのかついてこなかった。

 やったー、あたしの勝ち。

 あたしはドッグファイトでも、まだ一度も負けたことがない。

 おっと、あんまり楽しかったんで行き過ぎるところだった。

 あたしはフリーウェイを下りて、メルブライトの町へ向かった。


 人口約8万人のこの町は、トウモロコシの生産を主産業とする、どこにでもあるような田舎町だ。背の高いビルが立ち並ぶ大都会とは違って、もろイナカって感じ。

 観光するようなものが何もないこの町で、ただひとつ有名なのがあたしの通うセント・マリエル女学園。国中の良家のお嬢様が集まる全寮制の学校で、建物も大きく、歴史がある。

 まあね、悪い虫がつかないように、女の子を閉じこめるにはいい所かもね。規則も厳しいし、いわゆるしつけ的な事もやってくれる。

 空気もいいし、まわりはあくびが出るくらい何にもない所だし、自然に恵まれた良い環境よ。

 質素に可憐に美しくって校風に文句を言うわけじゃないけど、あたしには退屈。

 さて、そのセント・マリエル女学園、通称マリエルが見えてきた。

 入り口がないんじゃないかと心配になるような、どこまでも続く背の高いブロック壁の横を走り抜ける。

 両脇に、翼を広げ両手を胸の前で組んで祈りをささげている大きな天使像がそびえたっている、ここが入り口ね。

 巨大な鋼鉄の扉にも、飛びかう天使達が彫刻されている。

 車を下りて扉の横のインターフォンを押して。来意を告げる。

「ジュリーよ。港の近くでレイって中国人を拾ったの。ここの寮に入るんだって。開けてくれる?」

 中で驚いたような声が上がってる。

 やばい、あたしの苦手な先生がでてくる。

 顔を合わせる前に逃げることにする。

「ここで待ってると、そっちの通用門から先生が出てくるから、中へ入れてもらってね。じゃあ、また明日」

 レイとあきらかに胴体がへこんだ大きなトランクをあとに残し、あたしは車を発進させた。

「ありがとうございました」

 お礼をいう彼女の顔が、青白くて無表情だったのは、気にしないことにしよう。


 翌朝、あたしは意気揚々と登校した。学校へ行くのがこんなに楽しみなのは、生まれて初めてだ。

「おはようジュリー」

「おはよう」

 ロッカーにバッグを放り込んでいると、次々に声をかけられる。

「おはよう」

「おはよう」

 あたしは学校では人気者で、良く知らない子からもあいさつされる。

「それで、宿題はできたのかな?」

 親友のナリスがあたしの横にきて言った。

「もちろんできてないわよ。なんとかなるって」

 ナリスはあきれたように、くすくす笑う。

 この子はクラスで一番、いや、学校で一番の美人じゃないかしら。

 透き通るようなプラチナブロンドを背中までたらし、ライトグリーンの瞳もとてもきれい。身長はあたしよりちょっと低くて、すごくほっそりしてる。

「そんなんでよく進級できたわね。それじゃ今夜は新学期を祝って、皆でパーティね」

「いいわね。トルマリンに予約いれとくわ」

「おめかししなきゃ」

 トルマリンは会員制のちょっと高級なナイトパブなの。

「他の子にも声かけとくわ。集合はいつもの所でね」

「オーケー」

 この子は寮のぬけ道を良く知ってて、厳しい舎監先生の目をかいくぐって、夜毎、夜の街へ繰り出すのを趣味にしている。

 退屈が嫌いで楽しいことが大好きって所はあたしと似てる。

「そうだ、あんたにも紹介しなきゃ。面白い子がいるのよ」

「まって、予鈴だわ。くわしい話はお昼休みにね」

 授業には絶対遅刻しないし、課題もきちんとこなす。もともと頭もいいし、猫かぶりも得意で先生達の受けもいい。そこはちょっとまねできない。

「じゃあ、またね」

「またね」

 あたしのクラスに入る。

 いたいた。

 前の方の席でノートを広げてる、あざやかな紫色の服と、おだんご頭。

「あの子誰?」

「転入生?」

「マリエルにカラード(有色人種)を入れるなんて、初めてじゃない?」

 さっそく話題になってる。

 この子が昨日、不良達をどんな風にあしらったか、知ってるのはあたしだけ。ちょっとわくわくするじゃない。

 あたしは笑顔全開でレイに近づく。

「おはよう、レイ」

「おはよう、ジュリー」

 なぜかクラス中がしんと静まりかえる。

「ね? 同じクラスだったでしょ」

「そうみたいね」

 あれ、あんまりうれしそうじゃない。気のせいかな。

「勉強してるの?」

「ええ、昨日もらったテキストに目を通してるの」

「真面目なのね……あとで学校の中を案内して上げるわ」

「それは昨日、舎監先生にひととおり案内してもらったからいいわ」

 そっけなく言う。

 何となく違和感。昨日はもっと愛想のいい子だと思ったのに。

 あたしもいつもの定位置、一番うしろの窓際の席にすわる。

 あたしはレイの後姿を見てて気づく。

 ああ、姿勢がすごくいい。背筋がピンと伸びてる。見てて気持ちいいくらい。

 出席を取って簡単な連絡事項を伝えたあと、さっそく課題の提出をさせられる。もちろん、あたしの番には、

「すみません。忘れました」ですます。

 みんなクスクス笑う。

 あーあ、今日は全科目でこのやり取りがくり返されるんだろうな。

 先生はあきらめてるのか、さっさと授業を開始する。あたしの苦手な数学だったんだけど……

 長期休暇あけの最初の授業、いつもならみんなまだそわそわしてて、あちこちでヒソヒソ話なんかやってるのに、その日は違った。レイのせいだ。

 レイはすごく真面目にノートを取ってた。先生の話にすごく熱心に耳を傾け、問題には手を上げて完璧な答えを出し、その上、逆に疑問点を質問する。

 それが、

「……その質問は高度すぎるので、あとで個人的に教えましょう」

 っていうような質問なのよ。

 教室の雰囲気がいつもとガラリと違う。いつも数学なんか半分もわからなくて当然て感じでダラダラしてるのに、今日はみんなピリピリしてる。

 先生なんか涙を流さんばかりに感動している。

 ああ、肩がこる。何とかしてよ。

 やっと授業が終わり、あたしはさっそくまたレイのそばに行く。

「次は選択だけど、何をとってるの?」

「地理よ」

「ふーん」

 それならあたしと教室が違う。

 レイはさっさとノートをまとめ、次の教室へ向かう。

 取り残されたあたしは、お昼休みにかけよう、と心に誓った。


 午前の授業が終わって、さて楽しいランチタイムになる。

 うちの学校は全寮制なので、昼食はみんなで食堂で食べる。一斉にみんなが食堂に集まるから、大変な騒ぎになる。昼食はバイキング形式だ。

 いろんなおかずがある中から好きなのを取って、思い思いの席で食事するんだけど、大抵は気の合う子とおしゃべりしながら食べる。今日は天気がいいから中庭に出てもいいね。

 パンとアップルジャムとメインに小鴨のテリーヌ、ポテトのスープとサラダとハムとオレンジを一個。

 メロンのムースだと思って一口食べたらホウレン草だった、なんてこともあるけど、大体おいしい。

 みんなダイエットを気にしてあんまり食べない。昼食はサラダだけって子も多い。ナリスもその一人だ。

「ねえ、ちょっと聞いたんだけど、あんたのクラスにチャイニーズが入ったんだって?」

「うん、そうよ」

「朝いってた面白い子ってその子?」

「うん、そうだけど……」

 食事を乗せたトレイを持って、きょろきょろとあたりを探す。

 いた。紫色だからすぐ目につく。

 何人かと一緒にお昼を食べてる。にこにこしながら何か話してる。

 よかったあ。きっと初日で緊張してただけなのよ。その緊張も大分ほぐれてきたってところかな。

「ねえ、ちょっと席をゆずってくれる?」

「あっ、はい」

 レイの隣の子をどかせて、そこへすわる。レイのまわりの数人もそわそわと、自分のトレイを持って席を移っていった。

 人間って、苦手な人種っているじゃない。

 リサとかいったっけ? あたしと彼女らがそう。苦手なのよね。優等生のいい子ちゃんなんて。

「わたしも……」

 レイまで行こうとするので、袖をつかんでひっぱる。あれ、この感触……

「待ちなさいよ。逃げなくてもいいでしょ」

「別に逃げてなんか……」

「誰かに何か言われたの? あたしとはつきあうなって? 関わり合いになるなって?」

 レイはじっとあたしを見返す。

 やっぱり図星か。まあ見当はつく。あたしはマリエル始まって以来の問題児らしいから。

 10才の時ここへ入れられて、半月で最初の脱走をした。学校の隣に自分の家を建ててもらい、そこから通学してるのは、あたしくらいだ。

「舎監先生に何か言われたんでしょ? あたしと彼女は天敵だから」

 そんなに変な事をやってるつもりはないけど、まあたまにハメをはずすくらいいいじゃない。

「冷たいわね。昨日一緒にドライブした仲じゃない。あんたが気に入ったの。友達になりたいの。いいでしょ?」

 レイはじっとあたしを見てる。

「今夜、パーティをしようって計画してるのよ。素敵なパブがあるの。みんなでパーっと盛り上がりましょ」

「夜間の外出は禁止されてるはずでは?」

 やっと口を開いたと思ったら、それかい。

「……あんた、あたしとつきあえないっていうの?」

 だんだんむかついてきた。

「なら、はっきりいいます。わたしは留学生で勉強するためにここへ来ました。あなたと遊ぶためではありません」

 あたしはレイの袖から手を離した。

 レイは平然とした様子で食器を片づけ、食堂を出て行こうとした。

 行かせればよかったのよねえ。

 あたしは前にも言ったけど、優等生のいい子ちゃんってのは虫が好かない。だからできるだけさけてた。向こうも近寄ってはこなかったし。

 だからレイがその手の人種だってわかった時点で手を引けばよかったんだ。

 でもあたしはものすごく期待して学校に来たんだよ。生まれて初めて学校に来るのが楽しかったんだから。

 裏切られたって気持ちになっても、仕方ないよね?

「待ちなさいよ!」

 あたしはバンと席をけたてて、レイに近づいた。

 腕を振り上げてビンタを張ろうとする。

 右手がひゅっと空を切り、みんながきゃっと小さく悲鳴を上げる。

 けどあと三センチという所で、レイはあたしの右手をはっし、とつかんで止めた。

 にらみつけてやったけど、びくともしない。涼しい顔しちゃって、憎たらしい奴……

 レイが言う。

「自分の思いどおりにならないからって、すぐ暴力をふるうのはやめた方がいいわ」

 何が暴力をふるうな、よ。すごい力であたしの右手を握りしめてるくせに。

「気に入らないものは気に入らないのさ! あたしに説教たれようなんざ、10年早いよ!」

 膝蹴りをくれてやろうとしたら、レイはあたしの手を離して、さっと後ろに飛び下がった。

 軽やかな身のこなし、こんな場合だってのに、思わず見とれてしまいそうになる。

 間髪入れず回し蹴り。でもそれもかわされる。

 レイは片手をテーブルについて、くるりと身体を一回転させる。

 紫の蝶が舞ったみたい。体重を感じさせない軽やかさだ。

 ほうっと感嘆のため息がもれる。

 やっぱりね。あたしのにらんだとおり、この子はかなりの場数をふんでる。

 殺気みたいなものがあたしとレイの間でぴりぴりと走る。

 あたしは背筋がぞくぞくする。

 そうよ、そうでなくちゃ。

 あんたにはお勉強なんて似合わない。

 切れ長の目がすっと細められて色っぽい。

 ほっそりした身体から危険って香りが匂い立つようだ。

 なんてきれいなんだろう。ほれぼれする程刺激的だ。

 まわりの子達は食事をするのも忘れて、固唾をのんであたし達を見守ってる。

 でもスキがない。

 へたに手を出したら、こっちがやられそうだ。

 あたしとレイは少しの間にらみあってた。

 先に動いたのはレイの方だった。

 すうっとあたしに背を向け、食堂を出て行こうとする。

「逃げるつもり? カタをつけようじゃない」

「あなたのお遊びにつきあうつもりはありません」

 つくづく憎たらしい奴。可愛さあまって憎さ百倍ってのは、こいつのことだ。

「ふーん、わかったわ。今日の所は見逃してあげる。でもこれですんだと思わないでね」

 レイはもう返事もせずに食堂を出て行った。

 レイが立ち去ったとたん、みなぎっていた緊張感がほぐれて、みんながほうっとため息をつく。

 あたしもとりあえず席にもどり、お昼を食べることにした。

 いやだ。スープが冷めてる。冷めたポテトスープくらいまずいものはないわよね?

「すごかったわね、今の?」ナリスがにやにやしている。

「これですんだと思わないでって、このあとどうするつもり?」

「あんなのその場のなりゆきよ。なーんにも考えてないわ」

「だと思った」ナリスは肩をすくめる。「ほっとけばいいじゃない。お利口さんには勉強させとけば?」

「まったく同感だわ」

 でも、あんな宙返り見せられたんじゃ、余計ちょっかいだしたくなるってもんじゃない?

 レイはバカだ。あたしと関わりたくなかったら、ビンタのひとつくらい我慢すればよかったのに……


 午後の授業は体育だった。

 ナリス達とダベっていたから、予鈴がなって、あわてて更衣室へ行く。

 中でレイが着替えていた。

 なぜか上半身裸で、長い髪をほどいている。

 東洋人は肌がきれいって聞いてたけど、間近で見るのは初めてだった。キメの細かいなめらかな肌は陶器のような光沢がある。思わずなでて、手触りを確かめたくなるような……

 おだんごをほどくとあんなに髪が長かったのか。真っ黒くて直毛で腰まである。

 長い髪をゆらしてレイがこっちをチラリと見る。

 なるほど胸がほとんどないから、ブラをしないのか。

 少女というよりは、少年のような身体つき。レイの裸身には一種中性的な怪しい魅力があった。

 スポーツウェアを身につけ、長い髪をもう一度まとめておだんごにする。

 首筋から肩、腕から指先にかけてのしなやかな動きに、目がくぎづけになる。

 相当きたえてるはずなのに、余分な筋肉がついてないのはなぜだろう。握力があんなにあるのに、腕がしなやかなのはなぜだろう。東洋の神秘という奴か。

 レイがあたしの横をすり抜けて外へ出て行く。

 ジャスミンの花の香りがしたような気がした。


 あたしのパパはこの国でも有数のお金持ちだ。コングロマリットの会長をしていて世界中を飛び回ってる。あたしが学校を退学にならないのも、全寮制のこの学校であたしだけ自宅通学なのも(学校の隣の敷地を買って、家を建てたの)パパが学校に多額の寄付をしているからだろう。あたし自身にも母の遺産が何百億ドルもある。21才になるまでは、パパが管理する予定だ。

 私の家には2人乗りのF40から、40人乗りの大型バスまでそろってて運転手も常駐している。お手伝いさんや庭師も大勢いる。あたしが気まぐれなのは皆理解してて、何をしても叱られることもない。

 夜中に寮を抜け出してきた友達を連れて遊び回ってもちゃんと送り迎えしてくれる。めぐまれた環境なんだろうけど、生まれた時からそうなんだから、ありがたいとも思わない。

 あたしが感じてるのは退屈ってことだけ。何かが足りない。何かがむなしい。ぬるま湯の中で刺激を求めて。車を飛ばしたり、お酒を飲んではしゃいだり、町で不良とストリートファイトを演じたりしても、満足できるのは一瞬だけ。

 あたしは何が欲しいんだろう?

 その答えがレイの中にあるような気がする。


 トルマリンを貸し切りにして、歌ったり踊ったり、お酒を飲んだり、ハンサムなボーイさんとおしゃべりを楽しんだりしてすごす。

 すごく楽しいはずなのに、どこかさめてる。

「何考えてるの?」ナリスがきて隣にすわる。

「うーん……何でもない……」

「当ててみましょうか、あのチャイニーズのことでしょ?」

「どうしてわかるの?」

「体育の授業もすごかったんだって? 走っても飛んでもオリンピック級だったって、みんながうわさしてたわ」

「そうなのよ……あんなやつはじめて」

 まあ予想はしてたけどね。あいつの身体能力がはんぱないのは。

「あんただって本気だせば、そのくらいいけるでしょ?」

「そんなわけないじゃない。あたしは普通よ」

「またまたあ」ケラケラと笑う。

 お酒が入ってすこぶる上機嫌だ。

「で、本当のところはどうよ? あの子と本気でファイトすれば、どっちが勝つの?」

「うーん、わかんない。あたしの方が負けるかも……」

「えーっ!」と大げさに驚く。

「あんたがそんなこと言うのはじめて聞いたわ。こりゃ、ぜひやってもらわないとね」

「でも、むこうはあたしのこと完全に無視してるのよ」

「あたしにまかせて。お膳立てしてあげる」

 瞳がキラキラしている。

「……まかせるわ。あんたのそういう腹黒いとこ、嫌いじゃないわ」

「大好きの間違いでしょ」とウィンク。

 本当にね。入学して同じクラスで一番に仲良くなった。もう8年目のつきあいだ。

 6年生になる時、なぜかあたしと仲の良かった友達が数人、他のクラスに移された。ナリスもその一人。教育的配慮だってさ。マリエルはもち上がりがウリだったのに。その中で校長が大好きなアンとダイアナみたいに、生涯の友をみつけて、友情を育むって校風だったのにね。

 まあ、クラスは離れても、あたしとナリスの友情は変わらなかったからいいか。


 次の日のランチタイム、今日は天気が悪かったので、食堂でナリス達とお昼を食べた。

 さっそくナリスが

「耳寄りな情報を仕入れてきたわよ」と得意そうだ。

「どんな情報なの?」

「レイと同室の子に聞いたんだけどさ……」

 ちなみに寮は六人が同室だ。寝る時はベッドにカーテンを引き回すようになってるけど、基本プライバシーはないに等しい。そういう所もあたしは嫌いだ。いびきをかく子や歯ぎしりする子や、寝言をいう子は、どうしたらいいの? 談話室や、図書室やトレーニングルームは充実してるけど、団体生活って好きになれない。

「夜明け頃、ベッドに腰かけて、一枚の写真をじっと見てたんだって。それから、その子が見てるのに気がつくと、すごく大事そうに紙に包んで胸ポケットにしまったってさ。きっと恋人の写真よ。故郷に残してきた愛しい彼氏がいるのよ」

「へえー」

「どうよ、使えると思わない? 今も胸ポケットに入ってるはずよ。その写真。肌身離さずってやつね」

「肌身離さず身につけてるのを、どうやって奪うの? あいつはけっこうやるし、スキもないのよ」

「そこは作戦よ」

 その後、あたし達は入念に打ち合わせを行った。

 外は真っ暗になり、雷もゴロゴロいいだした。嵐になりそうな予感……


 さて次の授業は科学の時間だった。

 先生が神妙な顔で試験管に試薬を混ぜ合わせてる。赤と青の試薬は混ぜ合わせると紫にならずに、透明になってしまう。

 不思議だ。

 先生はどうしてそうなるのか、黒板に化学式を書いて説明する。

 マリエルの先生は全員女性だ。シスターと呼ばれていて、修道服を身につけている。全員寮に住んでいて、毎日朝と夕に礼拝、日曜日にはミサがあり、敷地内には大きくて立派な教会もある。

 あたしにはちんぷんかんぷんな化学式を黒板に書いていた先生が、急に入ってきた別のシスターに何か耳打ちされて、あわてて「あとは自習!」と叫んで教室を飛び出していった。

 実家のお父さんが事故にあったって聞いたんだもの、仕方ないよね。もちろん、あたしたちの仕込みだけどね。

 あたしはすっと立ち上がり、「あら、ごめんね。手がすべっちゃった」といいながら、レイに赤と青の試薬を投げつける。

 レイはさすがにさっとよけたけど、飛沫が2、3滴かかった。

「大変、しみになっちゃうわ。すぐに洗わなきゃ」

 レイの両隣の子がガタガタと立ち上がり、レイの両腕をとって上着のボタンに手をかける。打ち合わせどおりだ。

 レイもごく普通の同級生を投げ飛ばすわけにもいかず、ちょっとためらった。そのすきをのがさず、胸ポケットに手を入れ、例の写真をぬきとる。

 レイは同級生に両腕をつかまれたまま、すっと表情が変わった。

「ふーん、やっぱり大事な物なんだ」

 どれどれ、紙を広げて写真を見る。あたし達より少し年上位の中国人の娘が写っていた。ずっと持っていたのか、写真の角がすりきれている。長い黒髪をおさげにした、きれいな娘が、写真の中からこちらへ向けてほほえんでいる。

「返してよ」とレイがいう。

 そのただならない様子に、両脇の子達は手を放し、あとずさった。

 うんうん、危なくないとこまで下がっててね、ごくろうさま。

「返してほしかったら、土下座して頼みなさいよ」

 あたしは写真をひらひらさせながら、いった。

 我ながら、すごくイヤな顔をしてたと思う。

 てっきり力ずくで取り返しにくるとふんでいたのに、

「返して下さい……お願いします……」

 レイはその場に正座して、床に額をこすりつけた。

 え?!

 なぜか胸がムカムカする。

「……返してやるわよ。ほら!」

 あたしは写真を2つに引き裂いて、レイの前に放った。

 レイは破られた写真を見て、それからあたしを見た。

 まったく、なんて瞳だろう。もっともっと憎まれたい、そんな風に思わせる眼差しだ。

 床に正座した状態からどうやったのか、レイはあたしに飛びかかってきた。

 よけきれずにぶつかる。

 実験用の器具が派手に飛び散って。ガラス製品が砕ける。

 机や椅子を跳ね散らしながら、二人でそこらじゅうを転げ回る。教室中が大変な騒ぎで、みんながきゃあきゃあと逃げまどう。

 レイは完全に頭に血が上ったらしい。人がいようが物が壊れようがおかまいなし。いつもの冷静な様子とはまるで別人だ。

 くそうっ、そんなに大切な物だっていうの?

 たかが写真一枚じゃないか! その女はいったい誰!

 あたしもレイに負けない位かっかする。レイを叩きのめしてやりたい。足元にはいつくばらせて、それから……

 血の出るような激しい思いに、何もわからなくなる。

 レイのおだんご頭が片方ほどけて、長い髪が顔に散る。

 あたし達はもつれ合ったまま、窓ガラスを突き破って2階からころげ落ちた。


 外は土砂降りで、空には稲光が走っていた。

 昼だというのに校庭は薄暗く、下はぬかるんでいる。

 幸い生垣がクッションになって、大したけがもなく、あたしはガラスのかけらをはらいながら立ち上がった。手足を少し切ったみたいだが、関係ない。

 レイも少し離れた所で立ち上がる。ほどけた片方の髪が風に巻き上げられる。あたしは飛びかかってその髪をつかんだ。

 そのまま地面に引きずり倒す。

 顔を殴ろうとした手をつかまれる。ものすごい力でひねられ、腕が折れそうだ。

 膝でみぞおちを蹴り上げ、相手がうっとなったすきに腕をふりほどく。レイの髪の毛がごっそりあたしの手に残った。

 そのあとはもう何が何だか、わからなかった。

 上になり、下になったりして殴り合った。

 二人とも泥まみれ、血まみれで、雨と風が身体に打ちつけられる中で、ものすごい形相で殴り合い、蹴り合った。

 あんまり近すぎるし、足元がすべって致命打を与えられない。

 こんなにみっともないケンカは初めてだ。

 その時は、殺してやりたいと本気で思っていた。多分、向こうもそうだったろう。

 校舎の窓に学生達が鈴なりになって、あたし達の殴り合いを、悲鳴を上げながら見物している。

 先生達があたし達を遠巻きにして「やめなさい! やめなさい!」と口々に叫んでいるが、誰も手を出せないでいる。

 それ位、あたし達のケンカはものすごかった。


 随分時間が経って、二人ともフラフラになった頃、舎監先生がやっとあたし達の間に割って入った。

「おやめなさい! 何でこんなことを!」

 やせて、しわだらけのお婆ちゃん先生なのに、妙な勇気だけはある。寮にいる頃は叱られてばかりで大嫌いだったけど、そこだけは認めてやってもいい。

 この状態のあたし達の間に割って入るなんてさ。

 レイとあたしは舎監先生を間にして、血まみれ、泥まみれの顔でにらみあってた。

 そこへ学校長先生が太った身体に杖をついて、ゆっくりとやってきた。

「……2人とも、あとで校長室へいらっしゃい……その前にシャワーと傷の手当てが必要なようですね……」


 結局あたしは肋骨が三本と、左手の小指を骨折してた。右肘と左膝もねんざしてて、テーピングしてもらったけど、痛くてたまらない。顔もはれ上がってて唇も切ってて、うまくしゃべれないし、全身が打ち身で内出血して青黒くなってるし、小さな傷は無数にある。

 バンソーコーと湿布だけで大丈夫なの? 救急車呼ぶレベルじゃないの?

 学校長室へシスターに連行されていくと、レイも同じくらいのダメージらしくて左腕を三角巾でつって、それでもすっと立っている。あたしはにやりとした。

 よかった。あたしだけ救急車で運ばれてたら、恥をかく所だった。

 ていうか、二人共よく死なずにすんだものだ。

 よかった、よかった。

 学校長のテーブルの上には例の写真が綺麗にテープで貼り合わされてのせられている。

「ケンカの原因はこの写真らしいですね」と学校長。

「はい」とあたし。もう覚悟はついてる。

「あたしがその写真をレイから奪って、彼女の目の前で破り捨てました。だから悪いのは全部あたしです。処罰はあたしだけにして下さい」

 うまくしゃべれたかな?

 どうやら意味は通じたらしい。学校長はうなずきながら、

「この女性はどなたですか?」

 レイが答える。

「母です。わたしを生んだ直後に亡くなって、写真もその一枚しかなかったので……」

 うっ、お母さんの写真ですって?

 あたしは青ざめた。

 あたしの母もあたしを生んですぐ亡くなった。でも写真はたくさんあるし。肌身離さずってことはないけど、時々アルバムをながめたりはする。

 レイは遠い外国へ留学生としてやってきて、お母さんの写真をお守りがわりに持ってたんだ。そんな大事な写真を、あたしは……

「ごめんなさい! 窓から身を投げておわびするわ!」

 あたしは叫んで、窓際へよろよろと走った。

 膝が痛くてうまく走れない。

「やめなさい! ここは4階ですよ!」シスター達が叫んでいる。

 あと一歩という所で、レイの右腕があたしの右肘をつかんだ。

 痛い! そこはねんざしてるってのに!

「やめて下さい。これ以上騒ぎを大きくしないで」とレイ。

「おわびする気なら、土下座して謝ってください。そうしたら、許してあげます」

 あー、こいつ根に持つ性格だわ……

 それでどうしたかというと……

 あたしはその場に正座して、額を床にこすりつけた。

「……ごめんなさい。あたしが悪かったです。どうか許して下さい……」

 屈辱だわ。父親にも謝ったことないのに……

 しばらくそうしていると、レイがあたしの右腕をひっぱって立ち上がらせた。

 だから、そっちはねんざしてるんだってば。

「もういいです。許して上げます」

「そう? ありがとう」

 あたしはほっとした。あれ? 気のせいか、レイがニコニコしている。いや、あたしといっしょで顔がはれてるから、そう見えるのか?

 その後、二人はケンカ両成敗ということで同じく十日間の謹慎を言い渡され、レイは寮で、あたしは自宅で反省文を書くことになった。

 てっきり退学になるものと思ってたのに。

 そうか、あたしを退学にしたら、レイも退学にしなきゃいけないのか。

 学校長の隣の舎監先生は、くやしそうにしてたけど、せっかく留学してきたばかりのレイが退学になったら可哀相だもんね。

 よかった、よかった。

 校長室から出て、さて自宅へ帰るか、と思ってたら、レイに呼び止められた。

「少し話しませんか?」

「……さっきの続きをするつもり? 悪いけどもう身体中痛くてそんな気にならないわ」

「まさか。あんな無様なケンカはもうこりごりですよ」

 レイにうながされて、そのへんの花壇の縁石にすわる。

 レイが言う。

「あなたと仲直りして、友達になれませんか?」

 へっ?

 何だか変だと思ったら、雰囲気が港で会った時のような親しげな様子にもどっている。

「いったいどうしたの? 頭でも打っておかしくなったの? あたしとはつきあえないっていってたじゃない」

「夜中に抜け出してパーティーとかは無理ですが、他の事なら時間が合えばつき合いますよ」

 レイは話し続ける。

「わたしは父が香港でカンフーの道場をやっていて、わたしも小さい時から父に教えられて、自分でいうのも何ですが、相当な腕前なんですよ」

「そうでしょうね。でもあんたそのカンフーとかいう技使わなかったじゃない?」

「そうなんですよね。使わなかったというか、使えなかったというか。野生の獣相手には、型通りにはいかないものですね」

「あたしが野生の獣だって言いたいの?」

 ジロリとにらむと、レイはニコニコと笑った。

「……わたしは強くなりすぎて、もう誰とも本気でやり合えないと思っていました。本気でやれば、相手を殺してしまうだろうって……さめていました……でもあなたは違った。わたしとやりあってもぴんぴんしてる」

「まあ、この状態をぴんぴんしてるって言っていいのかは疑問だけどね」

 十日間の自宅謹慎も自宅で安静にしてろってことだろう。

「ケンカっ早いかと思うと、反省する時は素直で、あなたみたいな人は初めてです。わたしと友達になって下さい。家来じゃなくてね」

 そういって右手をさし出す。

 あたしはその手をじっと見て、それからぎゅっと握った。

 二人で固い握手をかわす。

 だから……右肘はねんざしてるんだってば!

「よろしくね、ジュリー」

「こちらこそよろしく、レイ」

 それがチャイナドールとあたしの長い友情の始まりだった。

 嵐も過ぎて、空が明るくなりはじめた。

 雨に洗われて、植木も芝生も、花壇の花もみずみずしかった。

 あたしは心の底から楽しくなった。

 ああ、あたしは、こんな風にレイと親しく話したかったんだなあ。


 自宅謹慎っていうくらいだから、どこへも出かけちゃいけないのよね。

 あー退屈。

 反省文を書く気にもならず、あたしは部屋でゴロゴロしていた。

 インターフォンがなって、メイドさんが来客をつげる。

 誰だろう?

 訪ねてきたのはナリスだった。

 プラチナブロンドの長い髪にライトグリーンの瞳。今日もまぶしいくらいに美人だ。

「あれえ、こんな時間にどうしたの? 授業は?」

 ナリスはちょっとさびしそうな表情で「学校はやめてきたの」といった。

「えーっ!! なんで?」

「話すと長くなるんだけど……お茶くらい出してよ」

「あ、うん……そうだね。何がいい?」

「アイスティーにレモンを一切れ入れてね」

 あたしはメイドさんにお茶を頼んで、ナリスと並んでソファに腰かけた。

 ナリスが話しはじめた。

「あたしね、サマーホリディの間に、映画のオーディションを受けたの。もちろん主役じゃないわ。でも主人公の友人の一人でセリフもある、いい役なのよ」

「すごい! おめでとう!」

「……マリエルはそういうのダメだから、やめるしかないなって……大変なのはわかってる。あたしくらいの容姿の子はいっぱいいるしね。でも、小さい頃からの夢だったの。チャンスなのよ。だから、さびしいけど、あんたともお別れってわけ」

「そうかあ……」

 8年越しの親友が行ってしまうのか……

「うん。あたしもさびしいけどがまんする。でも学校はやめても、また会えるよね。一緒に遊べるよね」

「それはどうかな……一気に忙しくなりそうな気がするし」

 うう、悲しい。でも悲しい顔しちゃだめ。ナリスは夢に一歩踏み出すんだ。明るく送り出してやらなきゃ。

「ナリス、頑張ってね。大丈夫、あんたに比べたら、ジョディ・フォスターもジェニファー・コネリーも目じゃないって」

「ありがとう」

「応援するからね」

 あたし達は固く手を取り合った。

 ナリスが昔をなつかしむような目をする。

「……あんたとは色々バカやったわねえ」

「そうねえ……」

 寮をぬけ出して夜遊びしたり、ナリスにちょっかい出してくる不良とストリートファイトをくりひろげたり。夜の街では一時期、あたしにワイルド・キャットなんてあだ名までついてた。

「4年生の時、洞窟探検したのおぼえてる?」

「ああ、あのキャプテンクックの宝の地図は真っ赤なニセ物だったわね」

「あたし達がイヤだイヤだって言うのに、あんたったら洞窟の奥へ奥へと入って行って、コウモリはいるし、満ち潮になって腰まで海水につかるし、もう死んだ、と思ったわ」

「ちゃんとおぶって外まで連れ出したでしょ。今となったら、いい思い出よ」

 他の子は途中でひき返して外でまってたのに、ナリスだけはイヤがりながらも最後までついてきてくれた。コウモリに驚いて転んで足をくじくし、満ち潮になってきたから大いそぎでナリスをおぶって外へ這い出したんだ。

「あんたといて楽しかったわ」

「あたしも」

 ナリスの顔が近づいてくる。

 口唇があたしの口唇にふれる。

 なんだろう、これは? キス?

 ナリスがあたしにキスしてる……

 やわらかい口唇の感触と、ナリスの髪のいい匂い。どこのシャンプー使ってるのかな? バラの花の香りがする。

「好きよ、ジュリー」

「あたしも、大好き」

 口唇が離れて、あたしはふーっと息をはく。

「今のはキスシーンの練習? あたしのファーストキスをどうしてくれるのよ」

 ナリスはケラケラと笑いだした。

「ごめん、ごめん。それにしてもファーストキスだったのね。得したわ」

 そんなに笑いころげなくたっていいじゃない。17才にもなってキスもまだだったなんて、いい加減あたしも恥ずかしいのに。

「レイのことごめんね。あんたがあんまり気にするからやけちゃって。けしかけて、ケンカになって、あんたが退学になったらあたしと来てくれるかな、なんて思ったの。あんたが死ななくてよかったわ」

「あのていどじゃ死なないわよ。もう2、3回やってもいいわ」

 ナリスは笑いすぎて涙ぐんだ瞳であたしを見た。

「さよなら、ジュリー」

「うん、またね、ナリス」

 一足先に社会に出て行く決心をした友達を、あたしは見送るしかなかった。


 まって、まだ続きがあるの。

 自宅謹慎が無事に解けた次の日曜日、あたしとレイはセント・マリエル乳児院にいた。

 レイがいいところへ行くというからついてきたらここだったわけ。

 生後2~5ヶ月位の赤ちゃんが小さなベッドに寝かされていて、それが大部屋に30以上並んでる。泣き声が泣き声を呼んで、あーもう、うるさい!

 シスター達がベッドのまわりを歩いて、抱いてあやしたり、ミルクをあげたり、おむつを取りかえたり、すごい光景。

 レイは慣れた手つきで赤ちゃんのおむつをかえる。

 うっ、臭い。

 やだ、ウンチしてる。

「……臭くないの?」

「どうして? いいウンチじゃない」

 だめ、たまんない、この甘酸っぱい匂い……

 ここは親が亡くなったり、育てられなくなった赤ちゃんを預かってる、マリエルが出資してる乳児院。他にも幼児園もあって、どこも人手不足で、ボランティアは何人でもほしいんだって。

 ここで養子のもらい手がなかった子達はセント・マリエル女学園と男の子が行く神学校へ進む。卒業したらシスターやブラザーとしてマリエルやその他で働くってわけ。よくできたシステムだわ。

 そういえばリサもここの出身だって聞いたことがある。

 オムツを取りかえてもらった子を、レイが抱き上げると、きゃっきゃっと笑いだす。

 あら、意外に可愛いかも……

「ちょっとかして」

 レイから受け取った子をあやして高い高いをする。

 赤ちゃんは喜んできゃあきゃあと悲鳴のような声を上げる。

「ちょっと、そこ、何してるんですか!」

 シスターがあわてて飛んでくる。

 ちょっと高く放り上げすぎたかな?

 喜んでるんだからいいんじゃない?

 

 じゃあ、このへんで。

 機会があったら、また会おうね。

 バーイ!

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