12.寅ちゃんはどこ?

 その人は、夏の夕、薄紫に空が暗くなるころ、姿を見せた。

 広島市内、閑静な住宅地にある綺麗なマンション。夕闇に紛れるようにマンションの自動ドアへと向かっていく。

「尊さん」

 女の声に男が歩く足を止めた。そのまま、じっと立ち止まっている。しばらくして、ゆっくりと彼が振り返った。

 濃紺のシックなワンピース姿でそこにいる美鈴へと視線が止まる。

「え、え、? ど、どうして?」

 目をまん丸に見開いている彼が唖然としている。

 きっと絶対にばれない、彼女がここを知るはずもないと思っていたのだろう。

 そして彼はさらに気がついた。

「と、と、いうことは、俺が……、実は……」

 驚愕がやまぬ彼に、美鈴から告げる。

「富樫 尊さん 広島県警の警部補で刑事さん」

 ヤクザと銃撃を交えた冷徹で厳つい男が『うそだ、なんでだ、どうしてだ』とあからさまに慌て挙動不審になっている。

「捜索に長けた妹様がいらっしゃるんですね。お兄様から聞いた少しだけの言葉で、松山の港にいる私と弟の店を探し当ててくださったんです。さすが警部の奥様、警部補の妹様ですね」

「うわ、香江か……」

 あいつ、余計なことする! 彼がよろめきながら嘆いたひと言に、美鈴は哀しくなった。

「やはり、余計でしたか……。私に素性を知られて、こちらから会いに来るなんて。あのまま終わったほうがやはり良かったのですね」

 うつむき、美鈴は泣きそうになりながら、なんとか声にしていた。

 彼が美鈴をまたじっと見つめている。

 今日の彼は美鈴と宗佑が知っている彼ではない。紺のスラックスに、いままで見たこともないお洒落なストライプの青いシャツを着ている。小脇に紺のジャケットを抱え、髭はすこし伸びている程度で、黒々としていた不精ヒゲではなかった。

 あの警官制服の写真の彼のように、清潔感に溢れて爽やかな男性になっている。

 やっと彼がマンション入り口の自動ドアに背を向け、美鈴へと歩み寄ってくる。

「あなたが余計なのではない。妹はおせっかいな性分で、俺が考えていることに対して先回りがしすぎて……。それが余計といっているのです」

「信じて待っていると約束したのに……。待てなくて……。あなたから聞くべきだったのでしょうけれど、あなたがどこにいるかとわかってしまったら、こうせずにいられなかったの。ごめんなさい」

「謝るのは俺です。すぐに会いに行けず、俺を待っていてくれているなら不安に思っているだろうと。それとも……会いにこぬ『ヤクザ男』などすぐに諦めてしまったのではないか……とも思っていました」

 心苦しそうに視線を逸らした彼に、美鈴は告げる。

「赤ちゃん……」

 彼がハッと顔を上げる。彼がいちばん気にしていたことだからなのだろう。

「できていませんでした」

「え……」

 なんとも言えない顔をしている。安心もできたし、でも、がっかりもしてくれたと思いたい。

「そうでしたか。いえ、もしと思っていたのです。早く会いに行かねばと思っていました」

「お仕事だったのですよね。会いに来られないのも、そして、あの港町に仮住まいしていたのも」

 尊が困った顔になった。

 あの憂う眼差しが美鈴に注がれる。

「ここでは差し支えます。俺の部屋へ行きましょう」

 マンションの自動ドアを入っていく彼の後を美鈴もついていく。

 こんなマンションに独りで住んでいる? でもいまの清爽感あふれる渋めの彼には似合っている。

 エレベータに乗る時も、彼はちゃんとドアを開けたままにして美鈴を先に乗せてくれる。彼が押したボタンもけっこう上階で美鈴はギョッとした。

「お、お一人でお住まい、なんですか」

 とても独身男性が独り住まいするところだとは思えなくて、ほんとうは恋人がいるとかなんとか勘ぐってしまう。

「当たり前ではないですか。自分はずっと独身ですよ。まあ……、ここもあのおせっかいな妹が買っておけというので買っただけで、寝るだけの自宅です」

「香江さん、ほんとうにお兄様が大好きなんですね」

「もう、俺の母親代わりだなんていうぐらいですよ。ほんと勘弁して欲しい」

 もうあいつには敵わなくて敵わなくてと曲げた口元に眉間のしわ、その顔、マリーナの店でよく見ていた彼の顔だ――。やっと知っている彼に会えたと思った美鈴はほっとしてしまう。

 エレベーターがあと少しで彼が押した階へつく。

 また彼が隣にいる美鈴をじっと見下ろしている。美鈴も気がついて、彼を見上げた。

「綺麗ですね。俺は……、店にいた飾り気のない美鈴さんに惚れたんだけれど、でもそんな美鈴さんもとても素敵だ」

 うわ、さらっと言ってくれたけれど、生真面目できちんとしていそうなこの人が言ってくれるととっても自然。美鈴はドキドキしてきた。

「弟のお店を手伝う前は、外に働きに出ていたので、こんな格好は良くしていたんです」

 今日の美鈴は、おでかけ着のワンピースであるのはもちろん、きちんとメイクもしてきた。まつげも綺麗にぴんとたてて、アイメイクも、髪も綺麗にアップにして束ねてきた。

 そんな美鈴を彼が惚けたように見つめたまま。

「俺、……そんな綺麗な女性がそばにいること滅多にないので……」

 彼の声が少し震えていた。彼も緊張している?

「わ、私だって……。今日の尊さんは、お店で見ていた人と違う男性みたいで……、私もあの尊さんに惹かれたので……」

「え、あんな俺のほうが良かったんですか。あんな男できっと悩まれているだろうと、はやく本当のことを伝えに行きたかったのに」

 エレベーターが到着した。すっとドアが開いたけれど、美鈴はかまわず、尊の胸に近づき、彼の肩先にそっと頬を寄せる。

「寅ちゃん、もういないってことですか」

「とらちゃん?」

 彼がきょとんとした。

「ここに、寅がいたでしょう」

「ああ。……え、と、寅ちゃん!?」

 真面目な彼がいちいち驚いている。

「もう、いないってことでしょう。けっこう気に入っていたんです」

「え、え。え? そうなのですか??」

 こんな女心、もしかして男らしいだけのこの人はわからないのかもしれない。

 でもそんな美鈴の頭を、彼の大きな手がそのまま肩先にぎゅっと抱き寄せてくれる。

「行きましょう。そこでお話ししますから」

 そのまま美鈴のウエストをぐっと抱き寄せてくれた彼と一緒に、エレベーターを降りた。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 綺麗で広い玄関に入れてもらい、きちんと輝いているフローリングの床に美鈴は硬直する。

 外観もエントランスもそうだったけれど、玄関に入っただけで、素敵な部屋だとわかった。

 でも生活感がなさそうで、彼のセンスをうかがわせるようなインテリアはなにもない。

「三日ぶりに帰ってきたんですよ。埃っぽいと思いますが、どうぞ」

 お邪魔いたしますと、美鈴はアンクルストラップの黒いサンダルを脱いだ。

 大きな背中の彼の後に付いていき、彼が開けたドアの部屋に入る。

 広いリビングで、そこにはよくあるダイニングテーブルにソファーセットにテレビがあり生活感がある。男っぽい匂いがどことなくする。

「座っていてください。……いったい、いつから俺を待っていたのですか」

 彼が対面式のキッチンの向こうにある冷蔵庫に向かう。美鈴はダイニングテーブルにある椅子を引いて座った。

「一昨日からです。夕方と、朝と、お昼とまた夕……と時間を分けて、ホテルから通っていました。今日、会えなかったら一旦帰るつもりでした」

「そんなに……、疲れたでしょう。香江はあなたを助けてはくれなかったのですか」

「あなたに会うのに、妹さんの助けはもういりません。私がそうしたかったのですから」

「はあ、だからか。ここのところ何度も香江から『話したいことがあるから、帰る日を教えて欲しい』とメッセージが、いつも以上にしつこかったのは、こういうことだったのですね。俺の予定を知ることができたら、美鈴さんに教えられると思っていたのかもしれないですね。実は、香江にはあなたを会わせるつもりだと報告していたので、いつ会わせてくれるのかというしつこい催促かと勘違いしていました。いや、実際、催促されているんですけどね……」

 抱き合った夜のように、彼が冷えたミネラルウォーターを入れてくれた。

「ほんとうに、色気のないもので申し訳ない……」

「いいえ。あなたを待っている間、あちこちのカフェに入って、食べたり飲んだり、お茶はもういらないです」

 残暑の夕に外で待っていたから喉は渇いていたので、冷たい水はとてもおいしかった。

 ふと気がつくと、美鈴の向かいの椅子まで来ているのに、彼が座らない。また美鈴を真摯な黒い目でじっと見つめている。

 薄い不精ヒゲになっても、くっきりとした黒い眉と大きな黒い目、はっきりとした目鼻立ちの彼がそうして一点を見つめていると、目力があるせいかやっぱり厳つい顔。

「自分は、広島県警の刑事部捜査第四課にいます」

 彼が唐突に、立ったまま美鈴に告げた。

「四課という部署がどのようなものかご存じですか」

 尊に聞かれ、美鈴はコップを持ったまま首を傾げた。

「ドラマに出てくる刑事さんのイメージしかなくて、申し訳ありません」

「暴力団などを取り締まる課です」

 そう聞いて、美鈴ははっとする。そのまま、気持ちよく飲み干そうとしていたコップをテーブルに置いてしまう。

「だから、だったのですね」

 だから。暴力団が取引をしているそこに彼がいた。

「尊さんも、ふりをしなくてはならなかったのですね」

「無闇に接触をすることはありませんし、彼等の組織に潜入することもありません。ですが、一般人に運び屋をさせているとの裏付けをとる捜査上、彼等のテリトリーにそれとなく入りやすくするため、或いは疑われないために、あの姿になるよう上から言われました。ここ半年ですかね、後輩のバディの男とあのような風貌に整えていました」

 そう話してくれる彼が、美鈴の目の前で、急に爽やかな青いシャツのボタンを開け始める。

 ひとつ、ふたつみっつ、よっつと開け、そっと胸元を開いてくれる。あの夜、美鈴も遅くまで貪った筋肉質な胸が現れる。でも、その素肌はもうなにもない素肌、『寅』がいない。

「寅はもういません」

 ちょっとだけ、美鈴の目に涙が滲む。彼が入れ墨を持っていたヤクザではないと安堵したからではない。ヤクザでも愛したい、あの寅にすべてを捧げても良いと思う美鈴をじっと見届けくれたのはあの寅だと思っていたから。その寅ちゃんにもう会えないという寂しさからだった。

「やっと先週、あの絵を消すことができたんです。特殊な染料だったので専門の業者に頼んで描いてもらい消してもらい。いまどきのヤクザは入れ墨はしないんですよ。医療のMRI検査で影響を受けることもあるとか、大衆浴場に入れないなど、その他諸々のリスクを避けるための風潮だそうです。それでも……、これがあれば一目でそう見えるでしょう。そういうイメージを持たせる意味でということです」

「もう必要なくなったということなのですね」

 外したボタンを元に戻しながら、やっと彼が椅子を引いて座る。彼の目線が、美鈴の目の前に降りてくる。

「異動することになりました。四課はもう卒業です」

「え、そ、そうなのですか」

 彼が清々しく微笑んだ。

「はい。こんな顔というだけで、四課に配属されましてね。かれこれ八年でしょうか。やはりあのような風貌になるんですよ、どの男も。気持ちも同じようなところに染まって行かねば対抗できないところもあります。ですが自分はどうしても、最後まで染まり切れませんでした」

 こんな顔って……。目力があってちょっと目鼻立ちはっきりしていてがっしり体型、そんな彼が真剣な顔になるとほんとうに威圧感ある。その雰囲気をどうもかわれていたと聞くと美鈴も納得してしまう。

「でも、八年も……、馴染めなかったのですか?」

「正気のままでいる男が必要だと言われました」

 荒っぽい男と男が対峙する世界で、正気でいられる男。そう聞くと、美鈴も良くわかる気がした。店で銃撃があった夜、どの男の中でも、確かに彼だけが冷静で落ち着いていたし、スマートだった気がする。

「それで異動ということですが、今度はどちらに」

「三課です。盗犯を扱う部署に九月に異動になります。四課から異動したいと何度も異動願いを出していたのですが、やっとですよ」

 美鈴ではなく、彼が心底ほっとしたと嬉しそうに笑う。

「そうでしたか……」

 何故か美鈴は喜べなかった。そんな美鈴を見て目の前に座っていた尊が立ち上がる。そして美鈴の隣の椅子に静かに座った。

「すみません。あなたに、あの時は言えなかったんです。仕事用のガラケーの携帯電話しか持っていませんでした。なにかがあって向こうの男達に捕らわれた時に素性を知られないためです。あなたの番号を記録してしまうと、なんのために記録したものか報告が必要になりますし、暴力団の男達の手に万が一渡ってしまうことがあると、本当に危険なターゲットにされる可能性も。ですから教えられず、聞けずだったのです。それに捜査上で出会った女性と連絡先をかわしたなどあってはいけないことだったのです。ほんとうは関係を持ってもいけないはずだったんです」

 それを聞いて、美鈴は隣に来た彼を見上げる。

「そうだったのですか、でも、それじゃ……、尊さんはやってはいけないことを私としてしまったのですか」

「えっと……、あの夜は、捜査が完了して、仮住まいの部屋を引き払い広島に帰る前だったので、……」

「お仕事にケリがついたから、だったのですか。それなら、弟にそう言ってくだされば」

「そう簡単に捜査内容は話せませんし、あの時は美鈴さんが俺に飛び込んでくるとは思わなかったので。嫌われたまま去ったほうが俺も気持ちの整理がつくと思っての、最後の来店でした」

「でも、いま、私に捜査していたこと、」

「話さないと、俺ものになってくれないでしょう」

 強く挟まれた彼の言葉に、今日は美鈴が面食らう。

「え、あの、俺のものって」

 彼が照れて黒髪をかいて気恥ずかしそうに目線を逸らした。

「あんな、名も知らない男に、なにも持たずに飛び込んできて、俺がどんな男でも信じると言ってくれた女性(ひと)ですよ。これ以上、素晴らしいことはないでしょう。捜査上あの街で活動していたから弟さんの店を知ったのだけれど、あなたのことは春先からずっと見てきた。どんな女性か知っている。姉弟で慎ましく生きている、シンプルな姿でも声も佇まいも綺麗な女性。手に届かない、近づいてはいけない。俺は迷惑をかける。俺とはあり得ない。そう諦めていた女が、」

 尊の目線が戻ってくる。隣の椅子にいる彼が、姿勢を改め、美鈴へと真っ正面に向いた。

 あの黒い目の真摯な眼差しが、美鈴へ注がれる。

「美鈴さん。俺と一緒になってくれませんか」

「え……」

「あなたが待っている家に帰りたい。だめですか。ヤクザでなくとも、なにがあるかわからない仕事です」

 今度は彼がうつむいている。膝の上で握っている拳がさらにぎゅっと力が入ったのを美鈴は見てしまう。

 兄は怖いのですよ。好きになった女性を巻き込むことも、嫌われることも。彼の妹の言葉が蘇る。

「尊さん、そちらへ行ってもいいですか」

 今度は美鈴が立ち上がる。隣に座っている彼の目の前に立つ。

「美鈴さん?」

 目の前に立った美鈴は、彼の膝の上に座ってしまう。自分より大きな身体の彼がビクッとしたのがわかる。

 そのまま美鈴は彼の膝の上に柔らかに横座りになり、そっと彼の首に抱きついた。

 そして泣いた。熱い涙が、彼の皮膚の熱さを感じただけで溢れてきてしまった。

「お帰りなさい」

 彼の青いシャツの胸にもたれかかった。もう力が抜けてしまい、くったりと寄りかかってしまう。

 これが美鈴の返事。あなたがどんな人でも、もう愛している。私、待っている、あなたの帰りを……。

 彼も泣きそうになっている。厳つい彼が優しい顔になる。

「ただいま、美鈴さん」

 そんな美鈴を彼がぎゅっと抱き寄せてくれ、黒髪にキスをしてくれた。

「よかった、あなたのところに帰ってこられた」

 港で別れた朝、あなたが『いってらっしゃい』と見送ってくれたのがずっとずっと心に映っていたよ――、耳元で囁かれる。


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