4.お醤油も甘い

 雨上がり。アスファルトから蒸発する水分で空気が蒸す。そしていつもより潮の香も強い。

 本日も十一時に開店、ダイニングカフェ マリーナ。

 すぐにランチタイムに入り、今日もあの人が来た。

 こんなに蒸し暑いのに、今日もきっちりと黒いジャケットを羽織っている。それもそうか。うっかり見えたらいけないものがあるからだと思った。

 その彼が今日もサラダバーとセットのランチをオーダー。

 美鈴が去ろうとしていると、声をかけられた。

「あの、これ……。なんですか」

 テーブルの端に置いた新しいポップだった。『醤油屋のバニラアイス』というもの。

「うちの新しいデザートなんです。贔屓にしている醤油屋さんからオススメの食べ方を教わりまして、許可をもらってメニューにしました」

 あの醤油屋で試食した後、『よかったら、そちらのお店で出してみないか』との相談を受けた。

 金井屋の醤油と屋号をつけた上でメニューにすることにした。お醤油も売れるし、こちらも新しい人気メニューになればと思って試すことにしたのだった。

 食べることと甘いものには目がないといいたそうな彼がさっそく目をつけてくれた。

「テーブルに置いている醤油ですよね」

「江戸時代から続いている老舗なんです。アイスに使うお醤油は、お料理で使っているものとは少し異なる種のものですが、よろしければ是非」

 すごく戸惑っていた。甘い物好きでも、変わりものには警戒する顔。

「私も最初にお醤油屋さんで勧められた時は『なにこれ』と思ったのですけれど……」

「……ですけれど?」

「お伝えしてもよろしいですか? なにも知らないでお試しになったほうがきっと聞くより美味しいと思います」

 美鈴の返しに、強面の彼がびっくり目を見開いた。そういう勧め方するんだと言わんばかりの。

「お姉さんがそうおっしゃるなら、間違いないのでしょうね。わかりました。本日の食後にいただきます」

「ありがとうございます……。申し訳ありません……。意味深なオススメをしてしまって……」

「いいえ。気になるものは食べてみたいだけです」

 また朴訥にそれだけ言うと、彼はいつもの表情のない顔つきに戻り黙ってしまった。

 食事が終わり、食後のコーヒーとデザートを持っていく。

 砥部焼きのカップに入っている醤油と、蜜黒豆を乗せたバニラアイスを置く。

「こちらのお醤油をお好みでかけて、お召し上がりください」

 本当に醤油だといいたそうに、砥部焼きのカップになみなみと入っている醤油をじっと見つめたまま。

 じいっと睨む大きな目、眉間に皺を寄せて疑い深く見つめているその顔が、怖い顔なのに……、彼のほうがお醤油を怖がっているみたいで美鈴は笑いたくなってきた。

 最近、なんとなく。厳ついばかりの彼に表情があるとわかってきた。案外、愛嬌も窺えて微笑ましい。

 さっそく、新しいデザートをオーダーしてくれたので、弟も気にしている。

「けっこう慎重派なんだなあ。美味いかどうかが重要、外れたらどうしようって顔じゃね?」

 まだ食べないでじっと醤油を見つめているので、弟はじれったそうにしていた。食えば美味いんだよ、貴方ならわかってくれるよと小さな声でけしかけてる。

 醤油をかけるために添えている木製スプーンを、彼がやっと手に取る。醤油をバニラアイスにかけ、銀のスプーンに持ち替え、バニラアイスをやっとひとくち。美鈴と宗佑も緊張の一瞬。

 彼のハッとした顔。見開いた目、あっと開けたままの口。そして、次から次へとお醤油をかけ始める。

 美鈴と宗佑も顔を見合わせ、ほっとする。黙々と食べてくれる彼を見ていると、なんだか優しい気持ちになってくる。

 反社会的な男性かもしれないのに。食べる時はどこか優しくて、真摯な眼差しと誠実な横顔……。渋い声と落ち着いた物腰はとても大人で安心感がある。なのに、入れ墨と傷跡……。

 ほんとうにどのような人なのだろう? お客様それぞれ、気にすることもなかったのに。こんなにあの人を気にするなんて。

 痛い恋をして痛い別れをしたばかり。男性に惹かれても、だからって飛び込むなんて思いきった気持ちは湧かない。ましてや、ヤクザだった場合どうすればいい?

 彼はお客様。どのような人であれ、良きお客様。それだけでいい。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 ディナーの時間になると、若い女性客とカップルが多くなる。

 昼間にゆったりランチを取る層とはまた違うお客様で賑わう。

 本日のディナーメニューは『赤ワインをつかった大人のハッシュドビーフ』。

 このお店を気に入って時々通ってくれるOLさんの顔もちらほら。いまどきのお洒落な服装に、素敵なバッグ、綺麗なヘアにメイクやネイルを見ていると、美鈴も羨ましくなってくる。

 もう一度、戻りたい? そう自問自答するが仕事場の雰囲気を思い出すと胃が痛くなる。でもそのような仕事に戻らないと、彼女達のような楽しみは得られなくなる。

 今日も生成り色のクロップドパンツにシンプルなティシャツ、黒いエプロンをして、黒髪も伸ばしっぱなしのままシンプルなヘアゴムだけでひとくくり。もう彼女達のような生活ではない。

 そんな楽しそうな彼女達とは別に、黒いスーツ姿の眼鏡のビジネスマンも近頃やってくる。二、三人のグループでやってきて食事をしていく。『残業中の食事? それとも残業後? わざわざ港にあるうちまで来てくれたのかな』、美鈴はそう思っていた。昼間ならば営業廻りのついでに寄ってくれるビジネスマンが多いけれど、夜、わざわざ仕事の様子で来てくれるビジネスマンは珍しい。時折、もうすこしカジュアルなジャケットとデニムパンツスタイルの男性二人組と待ち合わせをしていた。

 ビジネスマンのグループは食事をしっかりとるけれど、カジュアルな男性二人はいつもコーヒーだけ。商談をしているようにみえた。

 ビジネスマン達が食事を取る間の時間ぐらいで話し合いはいつも終える。最後に、交互にお手洗いに寄るのもいつものこと。彼等がお手洗いの行き来を始めたら、精算が近いという目安にしていた。

「仕事の話し合いでも、ここを食事ついでに使ってくれるなんてなあ」

 有り難い、有り難いと弟は夜も回転率が良い繁盛にほくほくだった。

 そのビジネスマン達が帰っていく。その後、いつもと違うことが起きた。

 ラストオーダーの時間になって、彼がやってきた。

「こんばんは。まだオーダーいけますか」

 美鈴は驚いたが、丁寧に迎え入れる。

「いらっしゃいませ。はい、大丈夫です。どうぞ」

 空いている席はひとつかふたつしかなかったが、そこへ案内する。

「珍しいですね、夜に来てくださるなんて……」

 また思わず、美鈴から話しかけてしまっていた。でも彼ももう自然に美鈴の目を見てくれる。

「一度、ディナータイムに来てみたかったんです」

「さようでございましたか。ありがとうございます」

 にっこり微笑みかけたが、彼からの微笑みはない。でも美鈴のその笑顔をじっと見つめてくれるだけ。

 視線がいつも以上に重なったので、今度は美鈴のほうがドキドキして逸らしたくなって……、でも、その黒い大きな瞳を見つめていたくなって離せなくて……。

「長い時間、立ちっぱなしのようですが大丈夫ですか」

 また気遣ってくれる言葉に、美鈴の心がほろりと崩れそう。

「はい、慣れました」

「夜も、お姉さんと弟さんのお二人だけですか。大変ですね」

「お気遣い、ありがとうございます。いまの体勢でできるところまで姉弟でと話しております」

「そうですか……」

 弟に妻がいて、彼女も手伝っていたけれど妊娠中――までは、お客様にわざわざ話す必要もないかと敢えて省いた。

 こんなふうに彼がこちらを気にして尋ねたのも初めて。ここでほんの僅かの違和感を持ったが、美鈴の中ではすぐに消えた。

「マスターが夜はどのようなものを作っているのか気になって気になって……。やはりうまそうですね。大人のハッシュドビーフ、サラダバーセットでお願いします。食後はホットコーヒーで」

「かしこまりました。お待ちくださいませ」

 窓の外はもう暗い。港の灯りと入港してきた船のライトが赤く光っているのが見える。その窓辺に今夜は彼がいる。明るい青空が見えるランチタイムに見る彼と少し違う雰囲気。重厚な男の空気がより重厚になって取り巻いている。

 でも、それがいつもよりかっこよく見えてしまった。だめだめ。彼は入れ墨がある人なんだから……。美鈴は雑念を振り払い、キッチンにいる弟にオーダーをしたついでに『あの人だよ』と伝える。

 弟も驚いて少しだけフロアを覗くと、なんだか気合いを入れて準備を始めた。

 ランチタイムと一緒で、食後のコーヒーまでゆったりと過ごしてくれている。見えぬ夜の海に時々目を懲らしている。

 長話の女の子達が『ご馳走様でした』と店を出て行ったその後、最後の一人になった彼が席を立つ。

 レジで待っていた美鈴の目の前に、黒いスーツ姿の彼が立ち止まる。

 弟も最後の客なのでキッチンから出てきた。

 彼が弟を見る。

「マスター、うまかったです。いつもご馳走様」

 彼が初めて微笑んだ。弟は話しかけられたことでかえって緊張したのか照れ笑いをするだけ、美鈴は彼の微笑みに釘付けになる。そして弟に若干の嫉妬をした。こんな優しい微笑みを初めて見せてくれたのが、宗佑のほうだなんて――と。それでも彼の笑顔が見られて嬉しくて、ぼうっとしてしまった。

「先日、お姉さんが勧めてくださった醤油屋のアイスクリームもうまかったです。衝撃でしたね。また頂きにまいります」

 美鈴にもやっと微笑んでくれる。彼が財布を取り出す。美鈴も気を取り直して、いつもの精算をする。でも、だめ。胸がドキドキしている。

 なんだろう。どうしてだろう。何故、彼が気になってしまうのだろう。恋をしても、彼が礼儀正しく誠実そうに見えても、彼は入れ墨がある人。恋をしたところで……。

 なのに胸が熱い。どうしようもなく昂ぶっている。頬が赤くなっていないだろうか。そう思いながら美鈴は、彼の大きな手に釣り銭を渡した。

「それでは、また」

 肩越しににこりと微笑むその眼差しに、初めて男の色気を感じてしまう。

 弟とふたり、ドアの外にまで出て彼を見送った。彼が徒歩で帰っていく。

「車、じゃないんだなあ。この近所に住んでいるのかな」

 弟に言われ、美鈴も初めて気がつく。

「ランチタイムの来店が多いのに、ご近所? お昼からのお仕事? お昼までのお仕事?」

 美鈴は首を傾げる。弟も首を傾げる。

「ヤクザさんだから不規則なんかな、いろいろ」

 ヤクザだから。彼のライフスタイルにライフサイクルを深く追求してはいけない。熱いときめきと甘い疼きが一気に引いていく。

 彼はお客様。それ以上はなにも考えてはいけない。改めて、美鈴は言い聞かせる。


 湿り気が多い夜、眠れずに窓を開けると、港からの風が入ってくる。

 しょっぱい風の匂いは嫌いではない。子供の頃から嗅いできた匂い。

 彼の怖い顔、厳つい視線。なのに……、甘い微笑み。渋くて低い声。『お姉さん、大変ですね』と優しい語り口。逞しい腕と、がっしりとした肩を隠している黒いジャケット。

 彼はきっと、お醤油のバニラアイスと一緒。しょっぱいしょっぱいと見せかけて、かけて食べてみると、とろけるように甘い甘いキャラメルの味。彼もきっと甘い……。

 彼のなにもかもがちらついて眠れない。

「だめだよ……。私、なにもかも中途半端なんだから」

 東京本社へと出世する彼にすら怖じ気づいて、前へ進めなかった自分。恋をするのは簡単で、でも一人の男に添い遂げる覚悟のない、軽い気持ちの恋しかできない。

 きっと今回もそれだけ。男の人を素敵に感じるだなんて、簡単なこと。

 勘違いしてはいけない。


 

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