3.アラサー女子、自信をなくす

 雨降りが続くと、伸ばしている黒髪がうねってどうしようもない。

 車でお遣いにやってきた美鈴は、駐車場で降りて傘をさす。

「切っちゃおうかな」

 肩まで伸ばした黒髪をいまは後ろでひと束にしてくくっている。

 ラフなパンツスタイルばかりになってきた。弟の店を手伝うには、ひらひらした服は動きにくいから。

 大きな傘もOLだった時の愛用品で、オフィスビルに出向くに相応しい、お洒落なブランドもの。

 オフィススタイルのコーディネイトが懐かしい。その季節に合わせた、そのシーズンのトレンドの服をいち早く選んで着てオフィスフロアで働く。それが日常だったのに。

 恋人もいた。彼のおかげで、美鈴は『SV』まで昇格できたと思っている。でもその通りで、彼がいないと『なにもできない』ということに直面してしまったのだ。いままで『SV』として困り果てることがあっても、センター長だった彼がすぐに助けてくれた。

 それで仕事ができた気になっていただけ。彼のバックアップで生きていた、気がつかないうちに。美鈴自身が『勘違いしていた』と愕然としてしまう日を迎えたのには訳がある。恋人で最大の協力者で、フロアで一番の権威を持っていた彼が、その実力をかわれて東京本社へ栄転してしまったから。

 もちろん彼は美鈴にこう言ってくれた。『一緒に来る気はあるか』と。

 恋人ならばそう言ってくれるもの。ただ、彼は恋人として美鈴の意思確認はしてくれたが、そこからの『問い』に含みがあった。

『大丈夫か、俺と東京に来て、ちゃんと俺と一緒にやっていけるか』

 それは? 私があなたのパートナーとしてまだ信頼できない、頼りないということ? そう聞き返したかったが、美鈴は聞くことができなかった。こう思いついたということは、美鈴自身も自覚しているとわかってしまったから。

 そんな黙っている美鈴を見て、初めて彼が苛立ちを募らせた顔を見せた。

『俺はこれからもっと忙しくなる。東京で一人になることもあるかもしれない。それでも、大丈夫か。この街に置いていく家族のこと大丈夫か』

 彼が気にしているのはそこだった。どちらかというと『ほうっておけない実家』なのは確かだった。

 父は早くに他界し、弟も上京してしまい、母子ふたり。結婚するにしても母を一人にするなんて……という気持ちがまず湧く。それでも地元の男性なら大丈夫だと思ってきた。

 だがその母が他界した。これで美鈴一人ならもう自分の思うところへ行けるとなるだろうが、この土地に古くから根を張る家のため、それをキッカケに長男だった父から譲り受け、母が管理していた財産を分与することで親戚とごたごたした。親がいなくなった力無い若輩の美鈴と弟の宗佑に圧力がかかった。弁護士を入れて整理するのも大変だった。

 母の他界をキッカケに弟が妻と一緒に地元に帰ってきた。姉ちゃん一人で親戚に対応はできないだろうと、他界した母の法事などがひと通り落ち着くまでの一時的な長期帰省として、しばらくそばにいてくれることになった。

 代々のお骨を受け継いでいる墓の管理についてもあれこれ重責をかけられる。親戚に負けないよう、姉弟で力を合わせて過ごしてきた。そういう放っておけない実家。彼はそんな実家に翻弄される美鈴を見てきたから、『ついてくるなら、完全に置いていけ』と言っているのだ。

『実家のことは弟に任せろというの?』

 美鈴の問いに、凛々しいスーツ姿の彼が……心苦しそうにうつむいた。

『そうだ……。長男なんだろ。彼に任せて、滅多に関わらないでほしい』

 特に財産分与で親戚とのごたごたがあった時、彼はとても優しく労ってくれ、弁護士の手配なども骨折ってくれた。だからこそ、彼もその『苦労』を味わってしまったのかもしれない。

 東京でこれから仕事をするのに、パートナー側のトラブルはなるべく軽減したい。そう思っているのだろう。

 俺との暮らしを選ぶのか、実家を選ぶのか。美鈴はそう突きつけられている。

 そして彼は暗にほのめかしている。『俺はつきあっている彼女にきちんとついてくるかどうかの意思確認はした、捨ててはいない』。でも美鈴が答えにくい、選びようもない難問を突きつけている。

 彼は美鈴がついてくることなど望んでいない。美鈴から断って欲しいのだと透けて見えてしまった。

 見えてしまったのも、訳がある。

 東京本社の重役に彼が気に入られ、その重役に勧められた見合いをしたと、他の人伝いで聞いてしまった。それとなく彼に尋ねると『おつきあいでしただけ。本気ではない。彼女に俺は相応しくない、俺のような男には勿体ないお嬢様』だったと。

 俺にとっては勿体ないお嬢様、では美鈴は勿体なくないから付き合っている? そう見下されたような気にもなった。いままで一緒に仕事をしてきて、ふたりで頑張って、毎日一緒に生き生きしていたのに。でも彼はもう美鈴がいるフィールドでの仕事は望んでいない。彼が望んでいるフィールドのランクが上がってしまっている。

 彼はすでに、その女性を本当は気に入っている。誰にもその本心は見せていないけれど、ひっそりと、誰にも自分が悪く思われないように、田舎地方の恋人を切り捨てたなどという悪評が残らないよう、上手く身辺整理をしようとしているのだって……。

 俺はおまえを東京へ一緒に行こうと誘ったよ。でもおまえが断ったんだ。そう仕向けている。

 そして、美鈴も……。『東京でひとりになるかもしれない暮らし』なんて、自信がない。

 彼と一緒に東京へ行くとなると、コンタクトセンターを辞めなくてはならなくなる。せっかく得た『SV』という立場を捨てることになる。彼についていって、だからって東京でおなじ会社で働けるわけがない。呼ばれているのは彼だけなのだから。そうして簡単に捨てると『センター長、ありきの仕事をしていただけ』という姿だけが残ってしまう。彼のおかげであっても『SV』としての仕事はやり甲斐があって、いまでも好き。

 さらに女としての不安もつきまとう。東京へと彼についていって、そこで今まで通りに愛してもらえるのか。そこで魅力ある女になれるのか。これから彼にはたくさんのチャンスが巡ってくる。そのチャンスを活かせるパートナーになれるのか。

 考えれば、考えるほど、自信をなくしていった。

 それでも。美鈴がなにもかも捨てて彼についていくと言って、この人、ほんとうに喜んでくれる?

『わかった。もう弟に任せて、あなたと一緒に行く』

 そう伝えたらどんな顔をする?

 そうか。良かった。ごめんな、実家のことなんか言って。でも、俺を全面的にサポートして欲しいんだ。俺もこの仕事いまがチャンスなんだ。美鈴、そばにいて欲しいんだ!

 そう言って!

『ほんとうに、弟に任せて出てきてくれるんだな。向こうでの暮らしはここより厳しくなる。大丈夫だな』

 センター長である上司の目だった。つまり……いま彼の目に見えている美鈴は『大事な彼女、女性』ではない。心より愛されていなかったことを知る。その時そこにいた遊べる花だっただけかも……。初めてそう思えた。

『うそ。やっぱり行けない。弟と義妹が心配だから。あの子達だけに家を押しつけられない』

『やっぱり、そう言うと思った』

 彼がネクタイを緩めてふっと呆れたような笑みを見せた。でも美鈴にはわかる。落胆の溜め息じゃない。安堵の溜め息だ。この女が思い描いたとおりに断ってくれたという安堵。

 そう、あなたはやり手だもの。センターの中で気に入ってくれたから可愛がってもらえただけなのかもしれない。やり手は見苦しい修羅場もしないし、整理するのも下手は打たない。

 そういう男だから素敵に見えていたけれど、自分が切られる側になるとこんな惨めな気持ちになる。でも……彼の力で支えられて生きていた美鈴に、彼を凌駕する自信などないのは確か。

 彼が異動することで、この恋が終わった。

 でも、お客様に喜んでもらえるこの仕事は好き、頑張っていきたい美鈴の気持ちは本物。本物だからこそ、美鈴自身、彼がいなくなって身に沁みた。仕事ができた気になっていたけれど、半分は彼のアドバイスで上手く動けたから、仕事ができる彼のサポートが完璧すぎたから。親を失った子のような頼りなさが浮き彫りになる。

 彼と同じフロアで働いている時は、自分はいまいちばん輝いていると、毎日が充実していたのに。どんどんくすんでいく――。

 これまでは母がそばにいてくれたが、彼と別れる少し前に急死したこともあり、突然の別れにショックを受けた。父も他界していたため、母と娘ふたりで過ごしてきたのに。その母がいなくなって、恋人にも上手く逃げられた。

 精神的苦痛が次々と襲ってきた。彼が異動し、頑張ってひとりでできる女になろうとしたけれど、頑張れば頑張るほど空回りをしていく……。

 そのうちに、弟がこの先もずっと瀬戸内のこの街で暮らす決意をしてくれた。

『姉ちゃん、店を建てて、独立しようと思うんだ』

 その為、両親が残してくれた土地を幾分か売却することにした。少し残した不動産には副収入になるようなものに作り替えた。

 代々の古い墓があるため、墓守を続けられる場所に弟が店を建てた。育った古い海辺の街から離れず、でも新道の新しい土地に店を構えた。

 港も近く、海が見えるその場所は女性客に受けよく、平日はお友達同士の奥様達やママ友さん達が、休日はカップルが入ってくれるようになった。港も近いため、トラック運転手のドライバーも多い。

 東京で専門学校生の時から飲食業に関わってきた弟のセンスは目新しいものがあったのか、この街の人達には新鮮だったのだろうか。そして弟が忘れなかったのが『この街に馴染んでいる味』だった。この街で育ってきた者なら食べてきた料理に味を忘れない。それがこの土地の人達に受け入れられたのだと美鈴は思う。

 妹も慣れない地方都市の生活に戸惑うこともあったようだったけれど、憧れの海辺のお店で旦那様とお商売を楽しんでいるようだった。

 やがて。店が軌道に乗ったその時に、義妹が妊娠。フロアの接客を受け持ってくれるスタッフがいなくなった。

 一時、アルバイトを雇ったようだったが、夫妻で通じあうような気の利く接客ローテンションができないと弟が嘆き、さらに長続きせず二ヶ月で辞めてしまったとのこと。

 その時、既に美鈴は疲れ果てやつれていた。そんな姉を見て、弟が言いだした。

 姉ちゃん、もう仕事辞めな。この古い実家、思い切って売ってしまおう。ひとまず俺達と一緒に暮らさないか。莉子は東京には帰りたくないと言っているけれど、それでも住み慣れた都会と親元を離れ、初めての妊娠で心細いと思う。姉ちゃんが目を配ってくれると助かる。それから……。フロアの接客、姉ちゃんならいけると思うんだ。俺は料理に専念したい。客対応は姉ちゃんの仕事の分野だから、してくれると助かる。

 古い実家を手放すのは躊躇った。ただ売ればお金になることはわかっていた。古い土地で、両親もいなくなり、跡取りの弟は新しい住まいを持った。美鈴自身も古い家をひとりで守っていく自信はない。

 菩提寺の住職に相談してふんぎりがついた。生まれ育った古い家を売り、美鈴は弟の元へ身を寄せ、心機一転、弟夫妻をサポートするため、なにもかもを精算するようにして仕事も辞めてしまった。


 小雨の今日。さらさらと落ちてくる柔らかい雨の中。お気に入りの大きな傘をさして歩く古い道。

 雨の匂いの中、美鈴はこれまでを振り返った。傘に……。使っていたトワレの匂いが移っている? ふりかけた覚えはないけれど、オフィス時代を思い出したせいか、最近はつけることもなくなった香りを思い出してしまった。

 ちょっとだけ、涙が滲む。

 港町にある長屋が見えてくる。古い醤油屋だった。弟が贔屓にしていて『買ってきてくれ』と頼まれ、美鈴はいまここにいる。

 繁盛している弟のお店のおかげで手伝いにやり甲斐が生まれ、かわいくて気だての良い義妹と一緒に暮らしているおかげで、だいぶ気が紛れ、毎日を過ごすことができるようになってきた。

 心残りは……、天職だと信じていた仕事を辞めてしまったこと。自分の力でやっていけると頑張ったのに、やはり実力不足だったこと。証明できなかったこと。

 でも美鈴は振り返る。そう、天職と思いこんでいただけかもしれない。『恋』をしていたから。

 恋も仕事もなくした。ううん……、結局、投げ出してしまったんだ。認めたくないけれどきっとそうで、そして泣きたいほど情けない。

 こんなになにも持っていない私は、これからどうなっていくのだろう。恋がすぐできるとも思えない。仕事も、弟の手伝いを辞める日が来るとして、それから新しくなにをしようかも考えられない。

 もう三十過ぎた。三十を過ぎてそんな不安をいつも抱えている。


「いらっしゃい。そろそろ来ると思っていたよ」

「いつもお世話になっています。蒸し暑いですね」

「でも梅雨が明けたら、今度は夏本番やけん。どっちがいいのやら」

 古い長屋でいまも醤油屋をしているご主人が、昔懐かしい造りのままの店先で迎えてくれる。

「いつもの本数でいいかな」

「お願いします」

 業務用で使う分と、店頭で小売りするものとまとめて購入していた。

「いつもありがとね。おたくの店先に置いてもらって、少しでも売れると助かるんよ」

「お役に立てているなら嬉しいです。弟がここのお醤油でなくてはとこだわって他のは使わないんです」

「嬉しいね。東京で料理人修行をして地元に帰ってきてくれた青年が、うちのもん気に入ってくれるなんて。地元でも知らん人も多くなってきたけんな。業務用で卸すばかりになっていつまで続けられるやろか思ってたんよ」

 老舗といえども、徐々に廃れていく。弟は料理人としてもそれを阻止したくて、なんとかこのお醤油を使って自分も役に立ちたいと思っているようだった。

 こちらご主人の許可を得て、小売り用の醤油瓶をレジ横で販売している。美味しいものに敏感な主婦がよく買っていってくれる。

 そんな地元の繋がりを、弟が少しずつ築いている。

「あら、美鈴ちゃんやないの」

「女将さん、こんにちは。またお醤油いただきにまいりました」

「いつもありがとね」

「こちらこそ。先日は奥様の集まりに、うちのカフェでランチ会をしてくださってありがとうございました。弟もはりきって作っていましたよ」

「お友達受け、とっても良かったわ~。東京帰りの若いセンスのお店やのに、味は懐かしくてちゃんと瀬戸内でね。わたしらでも美味しくいただきました。うちの醤油を贔屓してくれるんよ――と自慢してしもうたわ」

 他界した母ぐらいの女将さんに褒めてもらい、弟の店とはいえ、美鈴もほっこり嬉しくなる。

「じめじめして嫌やね。そや、お父ちゃんが準備している間、ちょっと食べて欲しいもんがあるんよ」

 そこ座って待っていて――と、店先にある絣座布団がある椅子を勧められた。女将さんが古い長屋の奥へと消えてしまう。長屋なので奥までが長く、家の間取りも江戸時代のままだから、女将が向かう場所は奥の奥のようだった。

「お待たせ~。これ、食べてみて。ちょっとやってみたらおいしかったんよ!」

 女将が興奮して持ってきたものを見て、美鈴は驚く。

「え、アイスと……お醤油ですか?」

 女将だけでなく、ご主人もにっこり。食べてみ、食べてみんかね――ともの凄い勢いで勧められた。

 え、これって。どんな味なの!?

 恐る恐る食べてみる。


 

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