言葉の標本

水沢妃

言葉の標本


 病気の子を田舎に療養にやる。

 その話を聞いたとき「イギリスの児童文学か」と疑ったが、どうやら本当のことらしい。

 目的地を目の前にして、俺は足を止めた。

 見渡す限りの山と、稲の刈り取られた田んぼと、大きな川。そんなど田舎の片隅に、一人で住むには大きく感じる洋風の一軒家があった。集落から離れているせいかバス停からここまで、人に会うことはなかった。

 スケッチブックを持った女の子と真理子先生が仲良く花を見ているのを見つけて、柵越しに声をかける。

「真理子先生。」

 麦わら帽子が動いて、ぼくを見つけた真理子先生が「ああ、よしひとくん。」とマイペースな動作で立ち上がった。

「お久しぶりです、先生。あと、よしひとくんはやめてください。」

「なに言ってるの。どんなに背が伸びたって、わたしの中ではよしひとくんはよしひとくんのままなのよ。」

 おっとりとした言い方はまさしく保育園の先生って感じだ。こちらの苦笑いに気がつかなかったように、先生は俺とは違う人を呼んだ。

「ほらまいちゃん、お兄ちゃんに『こんにちは』は?」

 気がつけば、真理子先生の後ろに長い髪を二つ結びにした女の子が立っていた。ひょろりとした背丈は保育園児のそれではない。聞いた話によれば彼女は小学五年生だそうだ。

 先生に言われて、女の子はスケッチブックのページをめくる。

『こんにちは。』

 少しして、女の子はページを一枚めくった。

『はじめまして。わたしの名前は小港まいです。』

 ぼくが「まいちゃん。」と言うと、女の子はぺこりとお辞儀をした。

「はじめまして、こうよしひとです。」

 握手のために手をのばす。ところが彼女はすっと横に動いて、先生の後ろにかくれてしまった。

「あらあら。恥ずかしがり屋さんなんだから。」

 先生に頭をなでられる時も、よく見れば彼女は何かをこらえるような顔をしていた。ただ、ぶどうの実のように真っ黒な目は俺をにらみつけるように見上げていて、ついぞその口が開くことはなかった。


 俺がこの話をもらったのはもう三ヵ月も前のことになる。季節は夏で、ちょうど勤めていた小学校が夏休みに入ったころだった。年賀状のやり取りをいまだに続けていた真理子先生から手紙が来て、まいちゃんのことを相談されたのだ。一応カウンセラーという職業に就いていたことは年賀状に書いていたので、真理子先生の考えも予想はつく。

 じゃあ夏休み中にでも、という話になっていたのだが、その後やんごとない事情によって予定は先送りになり、こうやって秋も深まったころにやっと約束を果たしに来た、というわけだ。


 先生は俺を家の中に案内してくれる間もしゃべり続けた。

「それにしても懐かしいわあ。もう何年たったのかしら?」

「二十年ぐらいですよ。」

 リビングには向かい合って置かれたソファがあって、俺は先生に勧められるままそこに座った。先生が正面に座って、まいちゃんは指定席なのか、窓際に置かれたロッキングチェアに座った。

「まいちゃんはまだ生まれてない頃ね。よしひとくんはまいちゃんよりやんちゃな子だったから、いつも体のどこかに絆創膏を貼っていたっけ。なつかしいわあ。」

「そうでしたっけ。」

「そうよお。だってよしひとくん、高いところ好きだったでしょう? 年中さんの時の遠足だって、高い木に登って、先生たちみんな慌ててるのを見て大笑いしながら普通に降りてきて、先生の前ですてんって転んじゃうんだもの。おかしくておかしくて。」

「先生、そのへんで……。」

 俺はまったく身に覚えのない話をさえぎった。それでも先生は話すことをやめず、過去の俺の武勇伝が暴露されていく。

 先生は後ろにいるまいちゃんの表情が見えなかったろう。俺にはばっちり見えていた。胡散臭げにこちらを見るその顔は大人を見るそれじゃなかった。

 俺は一週間この家に滞在することになっている。その間に彼女と仲良くなれるのか、心配になってきた。


 家に来てから三日、俺はずっとまいちゃんのことを観察していた。

 まいちゃんは声が出ない。

 失声症という病気で、特定の場所や人がいるところで声が出なくなってしまう。半年ほど前から症状があって、学校でも家でも喋れなくなってしまったそうだ。

 どういった経緯で先生の家に来ることになったのかは知らないが、知り合いが全くいないこの田舎にやって来てさえ声が戻ることはない。何度か言葉を発するかのように口を動かしたところを見たが、結局声が出ることはなかった。

 意思疎通はほとんど先生の質問に頷くか首を振るかで済ませている。何か言いたいことがあってもスケッチブックを使うことは皆無で、服の袖を引っ張って注意をひきつけ、なにかを指さしたりして先生に伝えている。

 まるで、言葉をなくしてしまったように。

 ちなみに俺のことは警戒しているらしく、そういうスキンシップさえない。

 先生はまいちゃんのことを重々承知で、「そのうち治るでしょう。」とゆるく構えていた。その影響か、まいちゃんはのびのびと生活をしているようだ。

 先生に言われたお手伝いを済ませると、彼女は必ず森を指さす。午後、三時間ほど散歩に出るのが彼女の日課だった。


 森の中で切り株に腰かけ、膝を抱えたその姿は小動物のようで、不満そうにぷっくり膨れる頬からなんとなくリスを連想した。

 彼女はスケッチブックの真ん中あたりのページを使っている。俺は近くに寄って書かれている内容を見た。ちょっとにらまれたけど、見られること自体は拒否されなかった。

 絵が描いてある。ボブカットの女の人の顔。口の端がにゅっと上がっている。どうやら先生の顔らしい。デッサンというよりイラストの描き方の絵。

「これは?」

 俺は絵の下に書いてある文字を指さした。

『笑う』

 黒い頭が動いて、決して開かないと決意したような口が見えた。

「先生だよね。どうして笑うって書いてあるの?」

 きゅっと閉じていた口が、開きかけた。俺の目線でそれに気づいたのか、まいちゃんはすぐに口を元の形に戻して、スケッチブックを隠す。

 新しいページを出して、よく削ってある鉛筆で俺に答えをくれたほうが楽なのに、彼女はじっと丸まっているばかり。思えば彼女は、先生に何か伝えたいことがあるとき、鉛筆を走らせようとはしていなかった。

 俺はまいちゃんの正面にしゃがみこむ。

「まいちゃん。本当は声、出るんじゃないの。」

 返事はない。

「何度も喋ろうとして口を開けてたよね。でもそうしなかったし、言葉を伝えるならそのスケッチブックに何か書けばいいだろうにそれもしない。まいちゃんは喋れないんじゃなくて、誰かと言葉を交わすのが嫌なだけなんじゃない?」

 秋の午後は夕方に似ていて、空気は少し肌寒かった。森の中は特に日陰が多くて冷えていた。

「どうして嘘をついているの?」

「……言ってないだけだよ。」

 まいちゃんの口から洩れた言葉にどきりとした。何事もなかったかのようにスケッチブックを開き、書きかけだった葉っぱの絵を描く彼女はもう病気の子には見えない。

 ここ半年、人前で喋らなかった弊害か、その声は少しかすれていたけれど、チクチクと刺すような言葉は止まらなかった。

「自分だって、人のこと言えないくせに。」

 まただんまりが続くんだろうと考えていた俺は、鋭い視線と共にはき出された言葉に目を丸くした。

「どういうこと?」

「お兄さん、先生の思い出話、本当に憶えてないみたいだったから。」

 鉛筆の芯がぼきりと折れた。肩を揺らす俺の前で、まいちゃんは落ち着き払った動作でポケットから鉛筆削りを出した。

 子どもって、どうしてこう鋭いんだろう。

「……まいちゃんと違って、俺はちゃんと先生に言ってある。」

「本当は違う人ですって?」

「違うよ。確かに俺は香田由人だよ。保育園のときに真理子先生の生徒だったっていうのも本当らしい。」

 まいちゃんは目ざとく「らしい?」と突っこんできた。それでいい。そうでないと話が進まない。

「全部、親から聞いた話だ。保育園、小学校、中学校、高校、大学、それから社会人になった後。どんな子供でどんなふうに育ったのか。全部人からの受け売り。」

「ぜんぶ、忘れちゃったの?」

 まいちゃんは鉛筆を削る手を止めて、俺をまっすぐに見ていた。俺はその目がびっくりしたようにきらきらしているのを見て、なんだかうれしくなった。

「うん。轢き逃げにあってさ、三ヵ月より前の記憶がないんだ。」

 先生から手紙をもらってすぐ、俺は車に轢かれたらしい。俺の最初の記憶は病院のベッドの上で、その時から自分の名前すら思い出せない状態が続いている。

「こんなんじゃ仕事にもならないから休職したんだけど、そうするとやることもなくて。心配した親に、約束があったんならいっそ先生のところに行ってきなさいって言われて、のこのこ来たってわけ。」

 まいちゃんは本当に失声症になったみたいに口をぱくぱくと動かしていた。言葉が見つからないのは、まあしょうがない。俺はそんな彼女ににやりと笑いかけた。

「俺の身の上話はこれでおしまい。さ、次はまいちゃんの番。」

「……あっ。」

 どうやら、俺の策にはまっていたことに気がついたようで、尖った鉛筆を振りかぶられた。

「ずるい!」

「あぶねっ。」

 勢いよく動いた彼女のひざからスケッチブックが滑り落ちた。片手で彼女をけん制しながら、落ち葉の上にばふんと落ちたスケッチブックを拾う。

 よく見れば、他にも様々な絵が描かれていた。

 尖った貝殻の絵。その下に『痛い』という言葉が描かれている。

 隣のかたつむりは『のろま』。

 「この木なんの木」の木は『涼しい』。

 長方形の平たい箱は『あいしてる』。

 しげしげとながめていると、いつの間にか鉛筆をひっこめていたまいちゃんにスケッチブックを奪い返されてしまった。ちらりと見たほかのページにも同じような絵が描かれているようだった。

「ねえ、どうして長方形の箱が『あいしてる』なの?」

「箱じゃなくて、スマホだよ。」

 ……残念。ちょっと見えなかった。

 彼女を傷つけないよう、「そうなんだ。」と適当に相づちを打つ。

「どうしてスマホが『あいしてる』になるの?」

「……ママがよく言ってたから。」

 俺は「誰に?」って聞こうとして、嫌な予感がしてやめた。黙っていたらまいちゃんが自然と口を開いた。

「ママはずっと、まいが何を話していても気にしてなくて、スマホで話してるときだけうれしそうだったから。まいが何を話しても意味がないなら、もう話さなくていいかなって思ったの。」

「家だけじゃなくて、学校でも話さなくなったんでしょ。」

「うん。話すの、めんどくさくなっちゃって。」

 まいちゃんはスケッチブックを開いて、スマホの絵を俺に向けた。

「『あいしてる』は箱の向こうにあるんだよ。」

「……自分で箱って言っちゃってるし。」

 俺が指摘すると、まいちゃんは「だって箱だもん」とちょっと笑った。

「これからも話そうとは思わない?」

「話さなくちゃだめ?」

「べつに、まいちゃんの好きにすればいいよ。」

「それ、お医者さんの言うこと?」

「休職中だから関係ないね。」

 まいちゃんは少し笑った後咳をした。こんなに喋ったのは久しぶりだったろう。俺は小さな背中をさすってやりながら、ふと疑問に思ったことを聞いてみた。

「……ねえ。なんで俺とは喋ってくれたの。」

 半年間もずっと、めんどくさがっていたのに。

 まいちゃんはまじめな顔をして言った。

「まいと同じうそつきだと思ったから。」

 やっぱり、まいちゃんの言葉は胸に刺さる。


 家に帰ると、まいちゃんは前と変わりなく一言も話さなくなった。俺が声をかけてもむっすりと黙っている。先生は俺たちに何も聞かず、いつもと同じように過ごした。

「もうほとんど思い出話はしちゃったけど。何も思い出せない?」

「残念ながら。」

 まいちゃんが寝てしまった後、俺は毎日先生から「俺」のことを聞いていた。ただ、それが自分自身の話だとは到底思えなかった。

「まいちゃんとはどう? 今日は一緒にお散歩に行ったんでしょ。」

「はい。」

 俺は昼間のことを話そうかどうか迷って、やめた。そんなことをしたらまたまいちゃんの鋭い言葉にチクチク刺されてしまう。

「まあ、大丈夫でしょう。」

 俺が真理子先生と同じことを言ったのがわかったのか、先生はケラケラと笑った。

 俺は、もしかして先生も本当のことに気がついているんじゃないかと疑ったが、真実を聞く勇気はなかった。


 次の日はあいにくの雨で、俺たちは家の中でゲームをして遊んだ。最初はオセロだったけれど、ゲームの盤面を変えればほかのゲームができると聞いてダイヤモンドゲームなる遊びをした。全部先生が勝った。

 俺は「大人げない」と先生を責めたが、まいちゃんは相変わらず憎々し気な目を先生に向けるばかりだった。

 午後になって晴れ間が出てくると、先生とまいちゃんは庭仕事に行った。

 ここにきて五日目。あと二日もすれば、俺は他の場所に行く。

 次は小学校の担任に会いに行くことになっていた。真理子先生との約束を思い出した母親がピンとひらめいてしまったのだ。昔の自分を知る人物に順繰りに会っていけば、いつか何かのタイミングで記憶を取り戻すかもしれないと。

 残念ながら、保育園のことは何も思い出せなかったけれど。

 ふっと部屋の中が暗くなった。外を見ればまた厚い雲が空を覆おうとしていた。

「――誰か! お兄さん!」

 聞き慣れない声が外からした。いや、一度聞いている。まいちゃんの声だ。

 気がついたら走っていた。玄関を乱暴に開けて外に出ると、庭にたたずんでいるまいちゃんが目にとびこんできた。

「どうしたの?」

「先生が。」

 よく見れば、先生が地面にへたり込んでいた。右足を押さえている。

「どうしたんですか、先生。」

「転んで足ひねっちゃったんだけど、まいちゃんが大きな声出すから、腰抜かしちゃった……。」

 先生の後ろで、まいちゃんが恥ずかしそうに真っ赤な顔をうつむかせている。

「いや、よく呼んでくれましたよ。」

 俺はなるべく揺らさないように先生を抱えて、まいちゃんといっしょに家に入った。できるだけの応急処置をして、医者を呼ぶことにした。先生を動かすのは危険だし、なにより移動手段が二時間に一本のバスしかない。

 街から車で来たおじいさん先生が真理子先生に絶対安静を言いつけて帰るまで、まいちゃんは一言もしゃべらなかった。

 真理子先生はしきりにまいちゃんに「大丈夫よ。」と声をかけていた。

「俺、もうしばらくいますね。まいちゃんだけじゃ大変だろうし。」

「ごめんなさいね。次の予定があるんじゃなかった?」

「いいんですよ。」

 どうせ、記憶が取り戻せる保証はないんだから。

 俺たちが話している間に、まいちゃんは部屋を出て行った。「大丈夫かしら。」と先生が心配するのもつかの間、戻って来たまいちゃんは手にスケッチブックと鉛筆を持っていた。

 新しいページを開いて彼女が書き始めたのは、文字だった。すぐに書き終わると、まいちゃんは顔の前にスケッチブックを掲げた。

『わたしも、もうしばらくいます。』

 俺と先生は顔を見合わせた。

 スケッチブックでしっかり顔を隠しているまいちゃんがどんな表情をしているのかは、ちょっとわからなかった。

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言葉の標本 水沢妃 @mizuhi

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