22 不安の兆し
「ねえ…明日の分は考えなくていいの?」
辰也が訊いた。
「いいだろ。明日になりゃ、俺が助けを呼んでくるんだから」
「でも…もしものことを…」
「うるせえ奴だなあ、お前。俺が信用出来ねえの?」
「そういうわけじゃないけど…」
辰也の声がだんだん小さくなる。
「だったらいいじゃねえか、気にしないで食えよ。だいたいお前、いっつも細かいこと気にし過ぎんだよ」
「…」
辰也は沈黙してうつむいた。
賢司はそんな辰也をみて少し不安をおぼえた。辰也はまったくもって少し神経質なところがある。紀雄と辰也の間に割って入ることにした。
「でもさ、マジな話、明日のことは大事だ。大変だろうけど、スナフキンに泳いでもらうしかないと思う。本当に行けるか?」
「いいぜ。五キロでも十キロでもちょろいって」
「あまり甘く見ないほうがいいと思うけど。距離だけじゃないのよ。外洋だから波も高いし、この辺りにはサメもいると思うし…」
「気にすんな。やらなきゃいけねんだろ? だったらやるさ。俺もこんなヘボギターじゃ我慢出来ねえし」
ビィイン。
いきなり部屋に弦の音が響いた。
「へっ?」
ぎょっとした賢司は、自分が文字通り床から三十センチぐらい跳び上がったように思った。
みんな驚いた顔で紀雄を見ている。
紀雄が、背中からギターを引っ張り出した。背中に隠していたのだ。
「スナフキン…お前、どこでそんなの…?」
「ん? さっき二階の物置んとこで見つけた。ガタきてるけど、なんとか弾けるぜ?」
紀雄が弦を弾くと、その証拠とばかりに、ジャランと音が鳴った。
「ね、なんか弾いてよ。こんなとこにいてさ、頭おかしくなりそう」
育枝が紀雄に笑いかけると、妙子も後ろからうなずいた。
紀雄がちらりと賢司のほうを見る。
賢司は迷うことなくうなずいた。
「なに弾いてほしいよ? 俺のレパートリーは豊富だぜ? ま、ギターがこんなボロだから、出る音もたかが知れてるけどな」
紀雄が笑う。
「弾かなくていいよ。そんな気分じゃないんだ」
辰也が言った。
「なに? 誰もてめえにゃ訊いてねえよ」
辰也と紀雄の間の空気が一瞬張りつめたのが、二人の間に挟まれていた賢司にはわかった。
ちょっとしたことでも気に病んだりする辰也の性格が災いしている。
よりによってこんなときに冷戦おっぱじめなくてもいいだろうに。
たった六人しかいないのに、その中の二人に喧嘩された日には、とてもじゃないが賢司もやってられない。
そう思っていると、由里が絶妙のタイミングで二人に声をかけた。
「イライラするのはわかるけど、喧嘩するならご飯食べてからにしてくれないかしら? ただ、私としては、体力温存のために喧嘩は控えることをおすすめするけど」
紀雄と辰也は顔を見合わせた。そして二人して賢司の顔を見た。
賢司は、ちょっとうんざりした顔でうなずいた。
それからちらっと横目で由里を見ると、彼女は少しだけにこりとした。それで、少しだけなんだか気が楽になったように感じた。
「そだな。俺もこんなヘボいギターじゃ満足いく曲なんか出来ねえし」
「書の名人は筆を選ばないって言うけどね」
「…どういう意味だ?」
紀雄が辰也を睨みつけた。
また、心なしか二人の間の空気が張りつめる。
賢司は直観的に悟った。みんな、なんでもないような顔をしているけれども、実際のところは、異様な緊張状態にあるのだ。興奮しているといってもいい。
常識の範囲から逸脱した非日常的な時間に落ちこんでしまったために、自分達でも気付かないうちに、おそろしく神経が高ぶっている。
だから、どうでもいいようなこと、軽い冗談、そんなものにでも過剰に反応する。
大人は、日常的なことに守られて生きている。
自分達の身の回りの世界が明日から存在しなくなるなんてことは、夢物語としか思っていない。
だから、非日常的なことが起きると、途端に大人は役立たずになる。
日常世界の崩壊という概念に耐えきれずに「壊れて」しまうこともあるだろう。
だが子どもは?
子どもは自分達の世界がどこまで広がっているかも、明日どうなるかも知らない。
大人には失われてしまった旺盛な想像力を持っていて、自分達の日常の中になにが入りこんできたところで、それを受け入れてしまう。
エイリアンが出てこようがお化けが出てこようが無人島に取り残されようが。
もちろん子どもだって恐怖を感じる。
だが恐怖の対象は、純粋にそのものに対してであって、積極的な恐怖といってもいい。
大人が、自分の世界が崩壊していくという消極的な恐怖を抱くのとは対照的だ。
では、高校生―正しくは、高校を卒業したばかり―の賢司達は、大人なのだろうか、子どもなのだろうか。
賢司は、自分がもう大人だと思う。
でも、まだまだガキだとも思う。
子どもとしての自分達を保つことが出来れば、あと何日でもしのげるかもしれない。
だが、大人としての理性が勝ってしまったら、はたしてこの密島でいつまで人間関係が保てるのだろうか。
そう、賢司が怖いのは、食べ物がないことでも水がないことでも夜が暗いことでも助けが来ないことでもない。
賢司は、仲間同士の信頼関係が崩れることが怖かった。
仲間を信じられなくなることが怖かった。仲間が信じてくれなくなることが怖かった。
大切な人間関係が壊れてしまうことが、怖かった。
そんなことにだけは、なってほしくない。
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