ひらがなエッセイ ~ アイウエオから愛をこめて ~

千秋静

第1話 あの世

 第一話からなかなかパンチの効いたテーマを選んだものだと、自分でも驚いている。『あ』なら愛とかアン〇ンマン、「相手は誰でもよかった」などいろいろあるにも拘らず、私の選んだテーマは『あの世』である。特に深い意味はない。『あ』の付く言葉を考えた時に真っ先に浮かんだ言葉がこれだったのだ。別に病んだりもしていない。病んでいなくてもこんな言葉が出て来る私はハイセンスであるとしか言いようがない。


 さて、テーマを決めたものの、何を語ればいいのかがわからない。だってまだあの世に行ったことがないんだもの。皆さんもそうでしょう?偉そうに仏の道を説いたりしている坊主でさえ行ったことのないような場所について何を語るべきなのか。そもそも、『あの世』なんて場所が本当にあるかどうかも怪しい。行った経験がないし、行って帰ってきた人にも会ったことがない。見たことも行ったこともない場所を何故人はこんなにも信じてしまうのだろうか。よくよく考えると相当おかしな話である。


 あの世は仏教だけの話しではなく、恐らくこの世にある全ての宗教に共通する最後の目的地(細部はそれぞれ異なるのだろうが)なのだろう。そこから生まれ変わったりする輪廻転生パターンもあるかもしれないが、大体はここが魂のゴール的な場所になると思われる。「信じる者は救われる」という言葉があるが、「救われる」とはめでたくあの世(天国or極楽)に行けるということなのだろう・・・よくわからんが。人生いろいろあるが、とりあえず救われれば(問題なくあの世に行くことができたら)宗教に入った目的は達成されたと信者は思えるのだろう・・・よくわからんが。


 しかし誰もあの世を知らないのだ、教祖や布教活動をする人物でさえも。信者があの世に行けたかどうかも分からないと思われる。信仰心の強い方や特別な能力を持った人なら「ああ、〇○さん、今あの世に到達された・・・」などとわかるのだろうか。あの世に行った経験があるゾンビ系、またはあの世と交信ができる系な教祖様ならわかるかもしれない。平凡な人間からすれば、そのような曖昧で結果がわからないようなことは理解できず、一層怪しさが増すだろう。


 それほど怪しげな世界をなぜ人は信じるのか。それはこの世に生まれたものなら誰でも必ず経験する「死」という未知の体験が怖いからだろう。怪しさよりも死への恐怖が上回ってしまうから、人は何か縋れるものを求めるのだ。その対象が信仰だったりあの世だったりする。死んでも消えることはない、どこかで生き続けるのだという発想があれば死への恐怖は和らぐのかもしれない。


 意地悪な考えだが、とある宗教に属し、生前から信仰心厚く生きて生涯を終えた後、もし『あの世』がなかったらどうするのだろうか。死んでから絶望が待っているなんて考えたくはないのだが可能性はゼロではないだろう。それなら死んだ瞬間に、ぷつりとテレビのスイッチを切るように自分という存在が消えてしまう方がまだ救われるかもしれない。


 神や宗教、死後の世界などの目には見えないものを信じるということは難しい。もし難しいことを長年やり遂げたあとのご褒美として与えられるものが『あの世』だったとしたら、私には間違いなく『スイッチぷつり系死後』が待っている。死ぬということは怖い。それ以上に上にも書いた様に、あの世への夢や希望を裏切られることはもっと怖い。何だかんだで何も信じず、「死んだら全部終わり!」と、割り切って期待せずに生きる方が案外死後に救われるのではないだろうか。


 

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