第五十二話:大橋さんと香川さん

 屯所に帰って、海援隊の旅立ちやいずみ屋の絵について幹部のみなさんに報告を済ませると、もう夜だった。

 先輩と一緒にお弁当を食べ、それから隊長の肩たたきへと向かう彼を見送った私は、特にすることも見当たらないのでふらりと自室の外に出てみることにした。



 ひやりとした空気に包まれた廊下に一歩踏み出せば、向かいの部屋の前に屈んでいた大橋さんと目が合った。


「あ、大橋さん! 葉月ちゃんと一緒だ!」


 思わず顔をほころばせて近寄ると、彼は足元にすり寄る葉月ちゃんをそっと抱き上げて、ふわりと優しい笑みを向けてくれる。


「葉月が散歩から帰ってきたようなので、これから部屋で寝かせる予定です。天野さんも来ますか?」


 障子を開けて招き入れるように手のひらを差し出してくれた彼に向かって、私はこくこくと頷いてみせた。

 そうして促されるままに入室し、ふわふわと座り心地のいい座布団の上に腰をおろす。


「はぁ……大橋さんのお部屋って、なんだか落ち着きますねぇ」


 このふわふわとした座布団のせいかな。

 いや、きっとそれだけじゃない。

 大橋さん自身が、自然と人を癒す力を持っている気がする。

 隊士さんたちからの評判もすこぶるよかったし。

 「何かあった時はまず大橋さんに話すといい」ってみんな言うんだもの。



「ゆっくりしていってくださいね。最近はあなたも大変だったでしょう」


「はい。でも、かすみさんが順調に回復しているので、今はほっとしています」


「そうですねぇ。当分は無理をせずに養生していただきましょう」


 膝の上で快適そうに丸まって寝息を立てる葉月ちゃんを撫でながら、大橋さんはかすかに目を細める。

 彼はずっとかすみさんのことを心配してくれていたからなぁ。

 最近だって、逐一状況確認に声をかけてくれるし。



「かすみさん、大橋さんには特に感謝していると思います」


「大してお力になれなかったというのに、そんな風に言っていただけるとは……」


「そんなことないですよ! すごく心配してくれて、力になってくれて! 私もかすみさんも心から感謝しているんです!」


 大橋さんはやっぱり、未だに深門との確執を引きずっているのかもしれない。

 自分の出方次第で防ぐことができた事態だと、責任を感じてしまっている。

 彼の沈んだ顔を目にすると、こちらまで胸が痛んでしまう。



「……ありがとうございます。いつかまた以前のようにお話できるよう、かすみさんの傷が癒える日を待っていますね」


 しばらく目を閉じて沈黙したあと、大橋さんは私の言葉を噛みしめるように静かに頷いてみせた。

 開かれた眼は優しく、いつも通りの穏やかさだ。


「きっと、そう遠くないうちに叶うと思います!」


 そうだ。そうなっていくように、皆でかすみさんを支えていかなきゃ。

 陸援隊のみなさんは京に屯営を持っているから、ある日突然ここを去るようなことにはならないと思うけど、それにしたって人の出会いは一期一会だ。

 海援隊のように、そのうち本部から他藩に移動する隊士さんなんかも出てくるかもしれない。

 陸援隊の人々と共に暮らす日々を無駄にしないよう、大切に過ごしていかなくてはいけないな――。




 話を終えて場が静まる頃には、葉月ちゃんも熟睡してすやすやとお腹を上下に揺らしていた。

 可愛いなぁ、もう。見ているだけで癒される!

 でれでれの私を見てくすりと笑みをもらした大橋さんは、『今のうちに一撫でしてみますか?』と魅惑的な提案を囁いてくれた。


 私は迷った。

 寝ているところを触るような奴は嫌われて当然だ、という陸奥さんの言葉が頭をよぎったからだ。

 ……でも大橋さんが勧めてくれるということは、葉月ちゃんがそう嫌がるようなことじゃないということなのかな。

 軽く、起こさない程度に触れてみるだけならいいかなぁ。



 ――と、恐る恐る手をのばしたところで、部屋の障子が勢いよく開いた。

 その音にびくりと身を震わせた葉月ちゃんは、目にも止まらぬ速さで隅の箪笥の隙間へと潜り込んでしまう。


「あああ……っ」


 私は力なく項垂れて、来客者のほうへと目を向けた。

 障子をしめて、そのままずかずかと部屋の中に入ってきたのは香川さんだ。


「ハシー、呑もうや」


 お酒の匂いをぷんぷんさせながら持っていた酒瓶を掲げた香川さんは、大橋さんの向かいに座布団を放って、その上にどかりとあぐらをかいた。


「たまにはお一人で呑んではどうです?」


「つれないねぇー。お、なんだ。ミケもいたのかい」


 こちらに目を向けるなり、香川さんは機嫌よさげに口角を上げた。

 ……ところでミケって、なに?

 もしかして私のこと?


「あの、私、美湖です」


「んー、うまい。ミケも呑むかい?」


 瓶からお酒を注ぎながらそれをちびちびと飲み干す彼は、私の言葉などまるで耳に入っていないようだ。

 このまま変な呼び名が直らなかったら嫌なので、もう一度訂正しておこう。


「いえ……その、天野美湖です。猫ちゃんみたいに呼ばないでください」


「まぁ、ウチにとっちゃ拾い猫みたいなもんじゃないか」


「香川さん、分かっててそう呼んでるんですか?」


「そうともさ。俺の言葉を頼ってここに来たって言ってたしねぇ、いわば俺が飼い主なわけだ」


 知らないうちにとんでもない解釈をされてる!

 確かに女中を探している旨を聞いて、雇ってもらうつもりで陸援隊に来たわけだけど……!

 でも、飼い主というのはどう考えてもちがう!


「天野さん、気になさらないでくださいね。何かと強引な方なのです」


 強く言い咎める気力もない、といった様子で大橋さんは首を振った。

 言っても聞かないんだろうな、香川さん。

 これまでの会話からなんとなく分かる。


「……それじゃ、呼び方はおまかせします」


「よしよし、聞き分けいいじゃないか」


 彼は満足げに頷きながら持参したもうひとつのお猪口にお酒を注ぎ、それを大橋さんに差し出した。

 これから二人で呑むのかな?

 だったら私はお邪魔かも。お酒呑めないし。



「……ところでミケ、陸援隊には慣れたかい?」


 そろそろお暇しようかと腰を浮かせかけたその時、香川さんはこちらに釘をさすように流し目を向けてきた。

 この場に残れという言外の圧を感じる。


「はい、だいぶ慣れてきました! みなさんとっても親切で」


「そうかいそうかい、そりゃよかった。何か不安なことはあるかね?」


「不安なこと……あ、陸援隊のみなさんがいつ頃まで京に留まるのか気になります」


 戦いが始まるまではこのまま動くことはないようだけど、いつまでにどうしたいという計画みたいなものはあるのだろうか。


「そうだねぇ。今年いっぱいいるかどうか、ってとこだろうね」


「えっ!? あと三月ちょっとじゃないですか!」


「……そのあたりは流れを見て、ですね。当分先の話ですし、そういった場合は事前に話をしますから安心してください」


 大橋さんが驚く私をなだめるように苦笑する。

 そうは言われても、やっぱり心配だ。

 陸援隊のみなさんはここを離れたあと、銃を手にして戦いにいくわけだから。


 ――それにしても、戦かぁ。


 京はここ数年ずっと不穏な雲行きだけれど、それが戦いに発展するという兆しはまだ見えない。

 時勢を見極めようと日々注意深く過ごしている町の人たちには、細かい移り変わりが掴めているのかもしれないけど。


「隊長の話を聞いて、この先必ず戦が起こるということと、幕府をなくすべきだということはなんとなく分かったんですが……これから本当にそうなりますか?」


「なるとも。徳川家はさ、要はとびきり力を持った一大名に過ぎないわけよ。戦国の世の終わりにいいとこ取って、数ある大名を従えてこれまで治めてきた。だからまぁ打ち出す政策は基本的に、徳川が脅かされないよう周りを押さえつけるものが多いわけ。あれも禁止これも禁止ってね。そんなわけで諸藩は色んなしがらみを抱えて自由に動けないし、イマイチ外に目を向けられないのさ」


「なるほど……」


 そういえば、隊長もそのあたりの話をしていたな。

 これからは、一つの家が大きな力を持って政を動かしていくようなことがないように、仕組みを変えていくべきだって。


「黒船が姿を見せた時、幕府は腰がひけてろくでもない対応を見せたからねぇ。そっからだよ、あちこちから不満が噴出したのは。異国への対応を巡って反幕の流れが強まっていったことは間違いない。このままいけばもうじき戦になるよ」


「異国とのお付き合いは難しいんでしょうね。海援隊のみなさんは大丈夫かな……」


 殺害容疑をかけられて糾弾されている真っ最中だなんて、なにか少しでも対応を間違えたら大変なことになってしまいそうだ。

 坂本さんはまだ長崎にはついていないだろうけど、どうにか無事に帰ってきてほしい。


「海援隊でしたら心配はいりませんよ。交渉ごとには慣れた集団ですし、何より事件には関わっていないのですから」


 沈んだ顔で俯いた私の肩を、大橋さんがそっと叩いてくれる。


「はやく嫌疑が晴れるといいですね……しばらく彼らに会えないのは寂しいです」


「またすぐに会えますよ。みなさんの土産話を楽しみに待っていましょう」


「お土産話……ですか。でしたら長崎の話が聞きたいです。海援隊本部があるということは、何か彼らにとって都合がいい土地なんでしょうね」


「そうですね。海援隊は船で活動するのが主ですから、拠点の付近に大きな港があることは重要なんです。あとは外国の商人と交渉しやすいのも利点ですかね」


 船で活動か。

 そういえば前に陸奥さんから聞いたな、蒸気船っていう、石炭で動く船。

 港から近いところに屯所があって、異国の商人さんと商談して。

 それって陸援隊の日常とはかけ離れた世界だ。なんだか憧れるな。



「海援隊は、戦う隊っていうより商いをする隊なんですか?」


「商売もしますが、いざとなれば軍艦で戦ったりもします。そのあたりの話は、また彼らが京に戻った時にでも聞かせてもらうといいですよ」


「はいっ! 楽しみですっ!」


 彼らが船に乗ってあちこちを航海しているのかと思うと、わくわくしてきちゃうな。

 海なんて絵でしか見たことがないけれど、陸から眺めれば終わりなくどこまでも広がっていて、一面真っ青な水面が絶え間なく波打って音を立てているそうだ。

 父が若いころ海を描きに旅に出て、初めてみたその広大さに驚嘆し、一日中座ったまま眺めていたという話を何度も聞かされた。

 海には何か引き込まれるような魅力があるらしい。

 私も一度、この目で見てみたいものだ。




「……そういえば、葉月ちゃんはどうしたんでしょうね?」


 香川さんに勧められるがままちびちびとお酒を口にしだした大橋さんのほうへ、ふと顔を向けて尋ねてみる。

 箪笥の隙間に逃げこんだっきり、音も聞こえない。寝ちゃってるのかな?


「葉月は、香川さんが苦手ですからねぇ」


「……俺は嫌いじゃないんだがね」


「あなたが酔ってお酒を呑ませようとしたからでしょう」


「まだ根にもってんのかい、あの猫。謝ったのに」


 居直る香川さんと、呆れたように責め立てる大橋さん。

 嫌がる猫ちゃんにお酒を強要するなんて、ひどい話だ。

 子猫は特に警戒心が強いから、いじわるする人をよく覚えているのかもしれない。


「香川さん、今度なにか葉月ちゃんの好きなものをあげてみたらどうですか?」


「そこまでして好かれようとは思わんけど……参考までに猫の好物は何なんだい?」


「刺身を前にすると目の色が変わりますね」


「んじゃ今度、一切れ分けてやろう」


大橋さんからの情報に気前よく頷いて、香川さんはぐっとお酒を呑み干した。

うまく仲直りできるといいんだけど……。



「それじゃ私は、そろそろお部屋に戻ります」


 そう言って立ち上がり、二人に向かって頭を下げる。

 いろいろと話も聞けたことだし、とても有意義な時間だった。


「天野さん、おやすみなさい。また後日、葉月と遊んであげてください」


「おやすみ。今度はミケが晩酌に付き合っとくれよ」


 続けて返ってきた見送りの言葉に笑顔で頷きながら、私はそっと部屋をあとにした。


 ――さて、明日に備えてそろそろ寝ようかな。



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