第四十五話:あわただしい朝

 朝がきた。

 あちこちから響くあわただしい生活音に目を覚ました私は、布団を跳ねあげて身をおこした。


 となりに目をやれば、かすみさんが安らかな表情で寝息をたてている。

 昨夜からつないでいた手のひらを小さく振ると、彼女は静かにまぶたを開いた。


「……おはよう、美湖ちゃん」


「かすみさん、おはよう。よく眠れた? 怖い夢とか見なかった?」


 私は布団の上に座り、かすみさんの柔らかな手を両手で包みこんで、軽くさする。

 彼女はそんな私を見て、安堵したように優しく微笑んでくれた。


「うん、よく眠れたよ。夢も見なかった……美湖ちゃんと一緒で、安心できたからかな」


「そっか、よかったぁ。食欲はある? そろそろ朝餉の時間だね」


「少しくらいなら、食べられそう……」


 頷いて起き上がろうとするかすみさんを、あわてて手で制した。

 そうして、そのまま腰を上げる。


「まだ動いちゃだめだよ、かすみさんは横になって待ってて。私、ごはんの準備を手伝ってくるね」


「うん……分かった。早めに戻ってきてくれたら嬉しいな」


「もちろんそうするよ! それじゃあ、行ってくるね!」


 布団の中で見送りの手を振るかすみさんは、以前よりも一回りほど小さく見えた。

 痩せたからか、それとも心細そうに身を縮めているからか――。


 どちらにしろ、私の胸中にはある種の使命感のようなものが芽生えていた。

 できる限り彼女のそばにいて、真っ先に悩みを聞き、手を差しのべて、守ってやらなければならないという、そんな気持ち。

 それはおそらく、これまでかすみさんが私に対して抱いていた感情に近いだろう。


 (――こんなときくらい、姉妹が逆転してもいいか)


 かすみさんに手を振り返しながら、そっと障子を閉めて。

 真っ直ぐに廊下の先を見据え、私は気合いを入れるべく自身の両頬を叩いた。


 ゆきちゃんややえさんは、おそらく厨にいるはずだ。

 朝餉の準備を手伝うならそこを目指すべきだけど、まずは一言大橋さんに挨拶をしておこう。



 長く続く廊下を一直線に渡って彼が休んでいる一室の前に立つと、私は障子のむこうへと声をかけた。


「大橋さん、天野です」


 そういえば起き抜けで、たいして身だしなみも整えていなかったな。

 手櫛でざっと髪をすきながら、私は姿勢をただす。


「おはようございます、天野さん。どうぞ、お入りください」


 大橋さんはすぐさま障子を開けて、歓迎するようにこちらに笑みを向けてくれた。

 部屋の中にふと目をやれば、誰かもう一人男の人が座っている。


「あれ? あなたは……」


 どこかで見た顔だったかな?

 少しばかり懐かしさを感じるその面ばせをまばたきしながら見つめていると……


「おれ、陸援隊の村尾っす。覚えてる? あの晩、兄さんと一緒に屋根裏に上がったヤツなんだけど」


 彼は軽くこちらに身を乗りだしながら手をふった。

 なるほど、陸援隊の!


「蛇に咬まれた方ですね!」


「そうそう。いやぁ、死ぬかと思ったよー」


 よく見れば村尾さんの目の下にはくっきりとクマができていて、頬もこけている。

 元気そうに話をしているものの、まだ少し顔色も悪い。


「村尾くんの体はもう、心配ないそうです。ここまで持ち直したのであれば、屯所に戻っても構わないと」


 私を室内に招き入れてそっと障子を閉めながら、大橋さんは部屋の中央に敷いてある座布団に座るよう促した。

 私は、こくりと頷いて用意された席に腰をおろす。


「それは良かったです! でも、まだまだ無理はしないでくださいね」


「ありがとう天野ちゃん。ところで、かすみさんは大丈夫? なんか昨夜からバタバタしてたみたいだけど……」


「はい、大丈夫ですよ。私や雨京さんと話して、だいぶ落ち着いたみたいですから」


「そりゃよかった!」


 胸のつかえが取れたように大きく息をつく村尾さんの向かいで、大橋さんも静かに相づちをうった。

 あの夜の戦いで傷ついた面々は、確実に回復の兆しを見せている。

 気持ちの面ではまだまだ暗いものを引きずっていたとしても、まずは体調を整えて元通りの生活に戻ることが第一だ。

 何はともあれ、死者を出すことなく戦いを乗りきったことを喜ぼう。

 村尾さんが無事に屯所へ帰還すれば、ひとまず陸援隊の中ではあの騒動に決着がつくことだろう。



「そうだ、私かすみさんの朝餉を用意しなきゃいけないんでした……! すみませんお二人とも、また後でお話しましょうっ」


「……天野さん、私も同行しましょう」


 あわてて立ち上がった私のそばについて、大橋さんも部屋の外までついてきてくれた。

 そのまま並んで歩きながら、厨へと足を向ける。


「お腹すいてますよね、大橋さん。もう朝餉の支度はできてるでしょうか?」


「朝餉までここでいただくのは本意ないですね……私と村尾くんはこれから屯所に帰ろうと思っています」


「え!? もう帰っちゃうんですか!?」


 驚いて足を止める。

 彼の表情から察するに、螢静堂に気をつかっているという風でもない。

 何か事情がありそうだ。


「私も一応、隊を預かる幹部の立場ですからね。そう長く屯所を離れることはできません。それに……」


「それに?」


 彼もまた廊下の真ん中で歩をゆるめて、思案するように眉をよせた。


「気になることが一つありましてね。先ほど村尾くんから聞いたのですが……」


「何ですか!? もしかして、矢生たちのことですか!?」


「そうです。彼が言うには、あの屋敷の屋根裏には、数多くの盗品らしき品が保管されていたと」


「それって、奴らが盗人集団だということの裏付けですよね?」


 金目のものが手に入りそうな場所であれば見境なしに盗みに入るという方針なのだろうか。

 陸援隊から盗み出したもの以外にも、これまでにあちこちから集めてきた盗品で、屋根裏は溢れかえっていたのかもしれない。


「重要なのは、その中から多くの絵が見つかったということです。村尾くんの言では、数十枚はあったと」


「絵……ですか?」


「絵画などどの屋敷にもあるものですが、相当な数ですからね……もしかしたら、いずみ屋のものも含まれていたかもしれません」


「そんな……」


 いずみ屋が炎上したあの晩、水瀬たちがそれを盗み出したと?


 ちょうど壁から絵を外しているところだったから、まとめて数十枚の肉筆画がその場に あったことは間違いない。

 そう考えてみると、それを持ち逃げするのは難しくないことだ。


「そのことについて、あなたからかすみさんに一言確認をとってはもらえないでしょうか?」


「かすみさんに、ですか……確かに彼女は唯一現場に残っていましたけど……」


「もちろん今すぐにとは言いません。折りを見て、それとなく聞き出してくだされば」


「――そうですね。私も気になりますから、時期をみて聞いてみます」


 そう約束すると、大橋さんはくれぐれも頼むといった様子で真摯に頭を下げた。


「いずみ屋の絵が残っているのであれば、それを取り返さなければなりませんね」


「……それはもちろん、可能なことなら」


「あの絵はいずみ屋の財産でしょう。可能であればすぐにでも奪還すべきです。そしてそれは、神楽木さんにとっても良き報せになるはず」


「そうですね。雨京さんは店の絵が燃えたことをとても残念がっていましたから」


 いずみ屋をいずみ屋たらしめていた大きな要素をひとつ挙げるとすれば、それは間違いなく壁一面に飾られていた絵画の数々だ。

 そのほとんどがこの世に二つとない肉筆画で、それ以外のもの――つまり建物や調度、食器といった店をかたどる要素の数々は、どこでも手に入るようないたって普通のものばかりだった。


 つまり、あの絵こそがいずみ屋の象徴だったのだ。

 建物は燃えても、それらを取り返すことができたなら。

 そうしたら、かすみさんや雨京さんの溜飲も少しは下がるのかもしれない――。



「そうと決まれば、私はすぐに屯所に帰るとしましょう。食事の気遣いは無用だと、厨に伝えておいてください」


「わかりました。私はここに残って大丈夫ですか? せめて明日くらいまではかすみさんのそばにいたいんですが……」


「もちろんです。しかしあなた一人を預けておくのは心配ですから、のちほどまたここに仲間をよこします。何かあればその方を頼ってくださいね」


「はいっ、わかりました。何から何までありがとうございます! 大橋さん、気をつけて帰ってくださいね」


「……かすみさんの具合が早くよくなると良いですね」


 深々と下げた私の頭に、ふわりと大きな手のひらが乗る。

 視線を上げると、大橋さんが心配そうに眉をよせて微笑んでくれていた。


 ――本当は彼もかすみさんを見舞うために同行してくれたのに、実際は声を聞くことすらかなわなかった。

 彼女の傷の深さに、もはやかける言葉もないだろう。

 それでも、状況は少しずつ変わっていってくれると信じなければ先へは進めない。



「かすみさんの調子が戻ったら、みんなで一緒にお団子でも食べましょうね」


「……そうですね。そうできる日を楽しみにしています」


「必ず来ます、待っていてください!」


 これは単なる楽観視じゃない。

 そうしてみせるという、私の決意だ。


 両拳を握って声を張ると、彼は微笑みながらうなずいてくれた。

 そうして静かに別れの挨拶を告げて、廊下を引き返していく。

 そんな大橋さんの背を見送って、私は厨へと急いだ。


 すべて元通りに、とはいかなくとも、いずみ屋が燃えてしまう前に私が思い描いていた空想を実現させることは可能だ。

 かすみさんと大橋さんと私と……そしてできれば中岡さんや田中先輩も織り交ぜて、料理とお菓子を囲みながら他愛ない話に花を咲かせること――。


 彼らをいずみ屋に招くことはもうできないけれど、今では私が彼らの屋敷にお世話になっている。

 そう考えるとなんとも不思議な話だ。


 縁というものは本当にあるんだな。

 写真を拾ったあの日から、三人と何かが繋がったのは確かなことで。

 強く抱き続けた会いたいという気持ちが、彼らに次々と引き合わせてくれた。


 ――会えてよかった。


 それだけは胸を張って言える。

 いつかあの三人みたいに素敵な写真を、かすみさんや雨京さんと一緒にとりに行きたいな。



 ……そうだ、写真といえば。

 寺町通りの写真屋さんに、拾った写真の持ち主が見つかったって報告に行かなくちゃいけないな。

 ここ最近は考えることが多すぎて、すっかり忘れてしまっていた。

 かすみさんの具合が落ち着いた頃にでも訪ねてみよう。




「ゆきちゃん、やえさん、おはよう」


 厨に顔を出すと、そこには襷をかけて包丁を持ったやえさんと、積み重ねた食器の数をせっせと数えるゆきちゃんの姿があった。


「みこちーん! おはよ! かすみさんの具合はどうや?」


「うん、気分いいって! 朝餉の準備手伝うね!」


 袖をまくって二人に駆け寄る。

 やえさんの傍らに立つと、彼女はお粥を作っているようだった。

 鍋の中で細かく切られた野菜とともにぐつぐつとお米が音を立てている。


「美湖様、こちらはかすみ様用にとこしらえたものです。すぐによそいますので、お部屋まで運んでいただけますか?」


「はいっ! わかりました!」


 美味しそうな白粥が幅の広いお椀に注がれていくのを待ちながら、ふと隣に目をやる。


 ゆきちゃんは人数分のお椀や箸を揃えるのに苦労しているようだ。

 普段ここは、ゆきちゃんとむた兄の二人暮らしだ。そうたくさん食器もないのだろう。


「ゆきちゃん、大橋さんと村尾さんはこれから帰るから朝餉はいらないって」


「ほんまに!? 朝まで食べてけばええのに!」


「いろいろと忙しいみたいでね……ごめん」


「そういうことならしゃあないなぁ……実は昨日炊いてたぶんのご飯が底尽きそうやったから丁度ええわ」


 ゆきちゃんはおひつの中の白飯をかきまぜながら、ほっと胸をおさえて一息ついた。


 なるほど、確かに心もとない量だ。

 昨夜は突然お邪魔して、夕餉までいただいてしまったからなぁ。

 予定が狂うのも仕方がないことだ。


「ごめんね、朝夕と騒がせちゃって」


「ええんよ、こっちから呼びに行ったんやから大歓迎! よっしゃ、うちらの分の粥もささっと作ったろ!」


 大きめの鍋を用意して、気合いを入れながら手際よくたすきを掛けるゆきちゃん。手慣れた様子だ。

 とりあえず私は、かすみさん用の湯飲みにお茶でも注いでおこう。



「美湖様、粥ができました。冷めぬうちにかすみ様のもとへ」


「あ、はいっ! ありがとうございます!」


 お盆に乗せられたそれは、お米の香りがふわりと漂う白粥だ。

 大根や里芋なんかが主張しすぎない程度に顔をのぞかせていて、量としては病人には丁度よさそうだ。

 お腹をすかせた私の胃袋にかかれば、ぺろりと一瞬でたいらげてしまうだろう。

 思わずごくりと喉をならしながら、湯飲みをお盆に乗せる。


「それじゃ、かすみさんのところへ運びますね。またすぐに手伝いに戻ったほうがいいですか?」


「いえ、こちらはご心配なく。かすみ様のおそばについていて差し上げてください」


「せやでー! うちらのぶんもすぐ出来るよ。落ち着いたら食べに来てなぁ」


「分かった。じゃあ、しばらくかすみさんのそばにいるね! 二人ともまたあとで!」


 やえさんとゆきちゃんは、てきぱきと次の作業に移りながらこちらを一瞥した。

 ……朝の厨は、なんとも忙しそうだ。私も自分にできることをしよう。




 少し待たせすぎてしまったかなと不安に思いながら部屋の障子を開けると、かすみさんは体を半身だけ起こして髪をとかしているところだった。

 部屋へと足を踏み入れた私に気づいて、やわらかな笑みを向けてくれる。


「かすみさん、お粥だよ。やえさんが作ったの」


 布団の脇にお盆を置く。

 廊下を渡る間にいくらか冷めたはずだから、すぐに口にしても火傷はしないはずだ。


「おいしそう。やえさんの料理を食べるのは久しぶりだな」


「やえさんって料理上手だよね。毎日雨京さんのごはんを作るなんてすごいよ。私だったら怖くて絶対無理だもん」


 おどけた調子で話を盛り上げながらお椀を手渡すと、かすみさんは静かに肩を揺らして笑ってくれた。


 ――やった!

 思わず、小さく拳をにぎる。


 こうして些細な会話で笑顔を見せてくれるなんて、昨夜の状態から考えれば信じられないほどの回復だ。

 このまま少しずつでも、元のようによく笑うかすみさんに戻ってくれたら――。

 そう願わずにはいられない。



「……うん、おいしい」


 一口、二口とかすみさんはお粥を口に運ぶ。

 思いのほか食が進むようで、その手はゆるやかながら止まることはない。


「よかった、食欲あるみたいで」


「お腹すいてたみたい。今までそんなこと忘れていたけど」


 弱々しい笑みが返ってくる。

 まだどこか疲れを引きずっているような、気だるい雰囲気が言葉の端々からにじみ出ていた。


「無理せず食べられるだけ食べてね!」


「うん……もう少しはいると思う」


「お腹が膨れたらきっと気分もよくなるはずだよ」


「そうだね。まずはきちんと食べなきゃね」


 長いこと眠っていたせいでまだ本調子とは言えない様子だけれど、顔色は悪くない。

 よく食べて、寝て、そして穏やかな気持ちで日々を過ごすことができたなら、少しずつ回復に向かってくれることだろう。


「寝てるだけじゃきっと退屈だよね。読みたい本とかある? 雨京さんに頼んで持ってきてもらおうか」


 お腹いっぱい、と箸を置いたかすみさんに、私は湯飲みを手渡しながら口をひらいた。

 お粥は三口ぶんほど残ってしまったものの、これだけ食べられるのであればひと安心だ。


「本はまだいいかな……それより、何か絵が見たい」


「そっか、分かった! 絵といえばね、ゆきちゃんがすごく上手なんだよー」


「雪子さん、絵を描くの?」


「うん! このあいだ見せてもらったけど本当にすごいんだよ! 昔はうちのお父さんから絵を習っててねぇ、よく誉められてたっけ」


 狭い長屋の床いっぱいに紙を広げて、二人であれこれと楽描きしていた日々を思い出す。

 同じように習って同じ時間を絵に費やしたはずなのに、上達の具合には天と地ほどの差があった。


「そっか……どんな絵を描いているのか、見てみたいな」


「それじゃ、夜にでも見せてもらおうか。夕方までは診療所が忙しいと思うし……」


「うん。雪子さんが嫌じゃなければ」


「大丈夫だよ、私から頼んでおくから!」


 かすみさんは、静かに微笑みながら頷いてくれる。

 もともと絵画収集が趣味だったかすみさんだ。

 絵を見ることで少しでも気晴らしになってくれたら――。


 そうして、かすみさんが自然に絵の話をできるようになったその時は、いずみ屋の件をそれとなく切りだしてみよう。

 私は、あの見慣れた絵画たちがまだ焼けずにこの国のどこかに残っていると信じたいんだ。


「……ところで、美湖ちゃんは朝餉まだよね? 私のことはいいから、食べておいで」


 話が一段落つくと、彼女はじっと脇に侍っている私を気遣って声をかけてくれた。


「うん……でも、かすみさん一人で寂しくないかな?」


「大丈夫だよ。いつまでも美湖ちゃんについていてもらうわけにはいかないもんね。手があいている時は、遠慮しないで雪子さんややえさんのお手伝いに行って」


「本当に大丈夫? なにか不安があったら言ってね」


「うん、今は平気。とにかく一日も早く元気になって、自分の足で歩きたいな」


「……わかった、そうだよね。私も自分にできることを頑張るよ! また部屋に様子を見にくるね!」


 私はお盆を持って立ち上がる。

 この様子だともう悲嘆にくれて自分を傷つけたりすることはないだろう。

 念のためにと、この部屋には紐や割れ物のたぐいは置いていない。ひとまず安心していいかな。



 かすみさんの部屋を出て居間へ戻ると、むた兄とゆきちゃんがお膳を前に座っていた。

 やえさんは、その脇でてきぱきと給仕をしている。


「かすみさん、思ってたより食べてくれたよ」


 お盆を持ち上げてそう報告すると、三人は嬉しそうに顔をほころばせた。


「それでは美湖様、朝餉を召し上がってください。洗い物はわたくしが」


 やえさんはすぐさま私の手からお盆を受けとり、食事の用意が整った空席に座るように促した。ゆきちゃんの隣の席だ。


「やえさんのお食事は?」


「わたくしは皆様の後に。どうかお気遣いなく」


 深々と頭を下げて、やえさんは土間へと下りていく。

 ……すごいなぁ。

 よそのお家に来ても女中さんとしていつも通り働くんだ。



 それじゃ、お言葉に甘えて私もごはんにしようかな。


「むた兄、おはよう。大橋さんと村尾さんね、朝一番で帰っちゃったの……ゆきちゃんから聞いた?」


 お膳の前に腰を下ろし、向かいに座るむた兄に小さく頭を下げる。


「おはようさん、美湖ちゃん。大橋さんらは僕の部屋に挨拶に来てくれはって、外まで見送りに出たで」


「そっか。お話したんだ! だったら良かった」


「寝ぼけてたからなー、正直何を話したかイマイチ覚えてへんわ。変なこと言うてなかったらええんやけど」


 むた兄はため息まじりに頭をかく。何だかまだ眠たそうな顔つきだ。


「ま、ええわ! みこちん来たし、食べよ食べよ!」


 私とむた兄の会話を断ち切って、ゆきちゃんが声をあげた。

 よく見てみれば、二人のお膳は未だ手付かずの状態だ。

 私が来るのを待ってくれていたんだろう。


「あ、ごめんね。待たせちゃって……」


「ええよええよ! この粥も、やえさんが作ってくれたんよー! はよ食べよ!」


「ほな、いただきます」


「いただきまぁす!」


 ゆきちゃんに促されてむた兄が箸をとると、私も姿勢を正してお椀を手にとった。


 まだかすかに湯気のあがる茶粥は、適度に塩味がきいていて箸がすすむ。

 つけあわせにと添えられたお漬物は、神楽木家の食事で出されたものと同じだ。

 きっとやえさんが持ち込んだものだろう。


 ゆきちゃんもむた兄もお腹がすいていたのか、さらさらと一心不乱にお粥をかきこんでいる。



「うまいなー、やえさんは料理上手やな。毎食幸せや」


 むた兄は目をとじて神楽木家のお漬物を頬張りながら、しみじみとその味をかみしめている。


「兄ちゃん、はよ料理の上手い嫁さんもらい! なんならやえさんに声かけてみたら?」


「いやいやいや……! 何でや、無理やろ! 僕みたいな小者にやえさんは釣り合わんわ! 失礼なこと言うたらあかん!」


「むた兄、そんなに自分を低く見積もることないのに……」


 すごい勢いで頭を振って、否定の言葉を吐くむた兄。

 普通なら赤面しそうな場面だというのに、顔色は青ざめている。


「兄ちゃんは女に関してヘタレすぎるんや。山村家がうちらの代でとだえてしまうんやないかって心配やわ」


 湯飲みを傾けながらゆきちゃんがつぶやく。お椀の中身は、もう空っぽだ。


「もしもの時は、雪子が婿もらってな。できたら相手さんは医者がええな」


「なんでや! 兄ちゃんが頑張って嫁もらい!」


「せや、謙吉さんなんかどうや? 雪子、昔からえらい謙吉さんのこと好いとったやんか」


「!!!!」


 阿修羅のごとき形相で、ゆきちゃんは勢いよくその場を立った。

 こわい。田中先輩が怒った時と同じくらい怖い……!


「ゆ、ゆきちゃん、長岡さんのことすごく慕ってるもんね!」


 だからといって突然婿にだなんて無理のある話だけど。

 でもむた兄の口調からすると半分は冗談のようだから、さらりと流してはくれないかな。

 私は、なだめるようにゆきちゃんに笑みを向ける。



「ごちそうさん! うち洗濯してくるわ! みこちんまた後でな!」


 お膳を持ってぷいと顔を背けながら、彼女はずかずかと土間に下りていってしまった。


 これは相当な怒りようだ。

 しばらくむた兄は口も聞いてもらえないんじゃないかな……。



 気まずい空気が流れる中むた兄のほうへ目を向けると、意外にも彼は普段通りにのんびりとお茶をすすっていた。


「むた兄、ゆきちゃん怒ってたみたいだけど大丈夫かな……?」


「あー、よくある事やから心配いらんで。雪子は謙吉さんの話に弱いんや」


「どういうこと?」


「昔好きやったみたいや。いや、今もか……?」


「ええええ!? 本当!?」


「本人は言わんけど、見れば分かるやろ。あ、婿にっちゅう話はもちろん冗談な」


「そう、なんだ……」


 そんな繊細な部分をネタにからかうなんて、いくら兄妹であろうとさすがにひどい。



 ――ゆきちゃんの様子を見に行ってみよう。


 私は、湯飲みのお茶を飲み干して立ち上がる。

 そして使い古された下駄をひっかけて土間に下りると、むた兄があわてて声をかけてきた。


「雪子はしばらくそっとしといたほうがええで」


「大丈夫、昔もよくこんなことあったから。それよりむた兄、人の気持ちを茶化すのはやめたほうがいいよ!」


 去り際にぴしゃりと言葉をぶつける。

 むた兄は一瞬呆気にとられたあと、眉を下げて小さく頷いた。反省している様子だ。



 彼に悪気がなかったのはよく分かっている。

 きっと普段から仲がよくて、あけすけに何でも話すからこそ、気付きにくい部分もあったんだろう。



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