第四十四話:兄妹

「美湖、お前がいてくれて助かった。礼を言わねば」


 足音を殺してゆっくりと進みながら、ふと雨京さんが言葉をもらす。


 ……びっくりした。

 雨京さんから感謝されるのは、やっぱり慣れないな。


「そんな、私は何もしてませんよ」


「いや。私たち兄妹は、ここ数年家族らしい会話もろくにしてこなかったのだ……話といえば、店のことばかりだった。それも、私がいずみ屋の経営に口を出すのがほとんどでな」


「どうしてそうなっちゃったんですか……?」


「かすみのため、いずみ屋のためと思い、ひたすらに厳しく接してきたのだ。たとえ嫌われようとも、それでいずみ屋が栄えるのならばと」


「いずみ屋は、かぐら屋ほどではないですけど、たくさんの人に愛されるお店でしたよ。私も父も、あのお店が大好きでした。それは晴之助さんやかすみさんが作り上げた、あったかくて優しい雰囲気のおかげだったと思うんです」


「…………そうか。そうだったのかもしれないな」


 雨京さんは、眉を寄せて言葉を詰まらせた。

 めったに見ない表情だ。感傷にひたるように遠い目をしている。


「今夜は久しぶりに、兄妹らしいお話をしてくださいね」


「……ああ、そうしよう」


 過去のことは変えられないけれど、これから自分がとる態度は心がけひとつで変えていけるはずだ。




 私たちは、かすみさんが休む部屋の前までたどり着いて足を止める。


 『まずは私が行きます』と雨京さんに目線で合図し、そっと障子を開けた。

 部屋の中で振り返ったゆきちゃんが、ぱっと笑顔になる。


「みこちん、おかえり! 殿は?」


「連れてきたよ。かすみさん、部屋に通してもいいかな?」


「……うん」


 思っていたよりも穏やかな表情で、かすみさんはうなずいてくれた。

 ひとまずほっとする。

 ゆきちゃんが、明るい話題で場をつないでくれていたのかな。


「雨京さん、どうぞ入ってください」


 廊下に出て、障子の陰にたたずむ雨京さんの背中を押す。

 彼は、目を閉じて深く息を吐き、意を決したように部屋の敷居をまたいだ。



「……かすみ、具合はどうだ?」


 そう静かに声をかけて、雨京さんはかすみさんの足元に座る。


 ずいぶん距離をとったな。

 近づきすぎないようにと、彼なりに配慮したのかもしれない。


「……足をけがしただけで、他に目だった傷はありません」


「そうか……食欲はあるか?」


「……今は、あまり。何も食べたくありません」


「…………そう、か」


 ぎこちない会話だ。

 お互いがあまり目を合わせずに、途切れ途切れで言葉をつむぐ。

 聞いているこちらがハラハラしてしまう。


 ついさっき、兄らしく話をすると決意したばかりじゃないですか雨京さん……! 頑張って!!



「うそやろ? なぁ、かすみさん……二人は普段からこんな感じなん?」


 私が心の中で雨京さんへの応援を続けていると、かすみさんの枕元に座っていたゆきちゃんが、そわそわしながら声をあげた。

 どうしたんだろう、一体。


「えっと……ええ、そうだけど……」


 かすみさんは、それがどうかしたのかと首を傾げる。


「なんでなん!? なんで兄妹で敬語とかつことるん!? かすみさん、殿とは血ぃつながってへんの!?」


「え……? ううん、実の兄よ」


「せやったらそんな、かしこまらんでええやんか! 殿の態度もあきませんよ! 妹相手に堅すぎるわ! なぁ、みこちん! そう思わん!?」


 ゆきちゃんは、いつになく熱くなっていた。

 怒っているようにも見えるけれど、そういうわけではない。

 ただただ、二人のよそよそしいやりとりが我慢ならなかったんだろう。


 大変な目に遭って、傷ついた妹との久しぶりの再会なのだ。

 普通ならもっと感情をむき出しにしたやりとりが始まるはずだ。



「――でも、昔はかすみさん、雨京さんに敬語なんて使ってなかったよね」


 ゆきちゃんのとなりに腰をおろしながら、口をはさむ。


 そう。

 私が父といずみ屋に下宿をはじめた頃は、まだ二人の兄妹仲はよかった。

 たまにいずみ屋に雨京さんが顔を出すと、かすみさんは嬉しそうに顔をほころばせて彼に駆けよっていった。

 雨京さんも、たくさんの絵やお菓子をお土産に持ってきてくれて、かすみさんが喜ぶ顔を満足そうに見つめていたものだ。

 晴之助さんが亡くなるまで、二人はたしかに良い兄妹だったんだ。



「そうだったかもしれないね……昔は」


 小さく苦笑しながら、なんとも反応しづらそうにかすみさんは下を向く。

 雨京さんも、腕を組んで難しい顔で沈黙していた。


「ほんなら昔みたいに話したらええやん。殿はどう思います?」


 ゆきちゃんの勢いが止まらない。

 少し前までは、かすみさんとの接し方に悩んでいたみたいだったのに。

 私がいない間に、二人でどんな話をしたんだろう。



「……確かに、私たちはここ数年兄妹らしいやりとりなどほとんどしてこなかった……すべて私が原因だ。かすみには、特にきつくあたっていたのでな」


「それは……いずみ屋の将来を思ってのことでしょう。分かっています」


 かすみさんはうつむいたまま、かすかに声を震わせてそう答えた。

 疲れきった様子の、どこか冷めた口調だ。


「私はお前に神楽木家の者としての自覚と、商いの心構えを叩きこもうとしていた。お前はいつも自信なさげにしていたのでな……店主としての手腕を磨けば、もっと堂々と相手に接して行けるだろうと考えていたのだ」


「兄さまから見れば、私は至らぬところだらけだったでしょうね……あなたのように立派に、落ち度なく店主を続けていけるような器は、私には……」


 ぼろぼろと、かすみさんの目から涙がこぼれ落ちる。

 悲痛な声を上げながら顔を覆い、背を丸めて彼女はすすり泣いた。


 かすみさんは、ずっと辛かったのかもしれない。

 私の前では顔に出さなかったけれど。

 雨京さんと自分を比べて、駄目なところばかりを見て、落ち込んで――。

 店主として自信がなかったというのは、おそらくそういうことだったんだろう。


「すまなかった、かすみ。私のやり方ばかりを押し付けてしまったな……いずみ屋は、父上が隠居後の道楽ではじめた店。好きな絵を飾って、ご近所さんを招き、食べて呑んで楽しく過ごせる場所であればそれでいいと、生前はそう仰っていた――堅苦しい作法など、最初から必要なかったのかもしれん」


 深く頭を垂れた雨京さんは、苦しそうな声で絞り出すように気持ちを吐き出した。


 まさか雨京さんが、こんなふうに言ってくれるなんて……。

 私とゆきちゃんは顔を見合わせて、小さく微笑みあう。



 ――しかし、


「兄さま……でも私、そうして楽観的に振る舞ってばかりいた結果、こんなことになってしまって……」


 かすみさんの涙は止まらない。

 今はきっと、自分の行いに後悔しかないのだ。

 誰に認められ慰められようと、受け入れられずに悲嘆にくれてしまう。


「もういい、これ以上自分を責めるのはよせ。私ももう、いずみ屋のことについては何も言わん。お前がこうして生きて帰って来てくれただけで十分だ」


「兄さま……」


「私は、至らぬ兄だな。すまん……またお前に笑いかけてもらえるよう、態度を改めていくつもりだ」


 雨京さんは立ち上がってかすみさんの枕元まで歩を進め、静かに腰をおろした。

 かすみさんは、驚いた顔で彼を見上げている。


「うそ……兄さま、ほんとうは私に愛想がつきてしまったのでしょう? もうとっくに、こんな出来の悪い妹のことは嫌いになったはずです……」


「そんなことはない。何があろうとお前は私の妹だ。何より大切な、たった一人の家族だ」


「それでも、私……兄さまに迷惑ばかりをかけて……ほんとうに駄目な妹で……」


「お前が精一杯取り組んだ結果であれば、失敗してもかまわない。それを迷惑などとは思わない――ただ、命だけは無駄にするな。私は何があろうと、お前に生きていてほしいのだ」


「兄さま……」


 手首に巻かれた包帯を包み隠すようにそっと手のひらでそれを覆い、かすみさんは言葉をつまらせた。

 雨京さんは、小さく身を縮めてか細く消え失せてしまいそうな彼女の頭にそっと手をのばし――優しく、髪をすくように撫でる。


「辛かっただろう、かすみ。これからは出来る限り、お前のそばにいよう。もう何も心配はいらない」


「…………ううっ……兄さまぁ……」


 子供のようにわんわんと声をあげて泣きだしたかすみさんを、雨京さんはそっと抱きしめる。

 そして、ぎこちなくポンポンと頭を撫でた。


「今はとにかくゆっくり休みなさい。一日も早く、元気な顔を見せてほしい」


「うっ……ぐすっ……はい、兄さま、ありがとうございます……」


「もう敬語はいらん。昔のように話そう、兄妹らしく」


「…………うん、うん。ありがとう、にいさま」


 目の前で交わされる兄妹の会話に胸をうたれて、私とゆきちゃんも滝のような涙を流しながら手をにぎり合っていた。

 よかったね、と二人してうなずいて、ぐすぐすと鼻をすする。


 ――本当によかった。

 やっぱりこんな時、そばにいてくれて一番心強いのは家族だと思うから。

 かすみさんにとって雨京さんと和解できたことは、今後の気持ちの安定にもつながるはずだ。



 それから、私たちは四人で他愛のない話をした。

 お菓子の話や料理の話、そして、私の父の話――。

 私とゆきちゃんが子供のころ父にいたずらばかりしていた思い出話を披露すると、かすみさんは控えめながら、優しい微笑みを浮かべてくれた。

 病は気からという言葉があるけれど、やっぱりそれは正しいことなのだと実感する。

 笑うことで、けがも病気も不安も恐怖も、だんだんとやわらいでいってくれる。

 気持ちを強く持とう。

 かすみさんを支えてあげられるように。

 いつでもそばで、笑わせてあげられるように――。



 いくらか場が落ち着いて話も途切れがちになってくると、雨京さんが襟をただして帰り支度をはじめた。


「そろそろ戻らねば」


 すっと立ち上がって静かに着物の裾を払いながら、かすみさんに視線を向ける。

 かすみさんは名残惜しそうにしながら、雨京さんを見上げて小さく手をふった。


「また来てくれる? 兄さま」


「ああ、明日も来る。何かほしいものはあるか?」


「ほしいもの……それじゃあ、兄さまが作ったぼた餅が食べたい」


「分かった。作ってこよう」


「うん。楽しみにしているね」


「ああ……それではな。ゆっくり休むんだぞ」


 そう言って、雨京さんは障子を閉める。

 見送りにと一緒に廊下に出た私は、なんとも満ち足りた気持ちでぐっと伸びをした。



「雨京さん、すっごくお兄ちゃんしてましたね」


「お前と雪子さんがいなければ、こううまくはいかなかっただろう……礼を言う」


「いえいえ。なんだか私も見てて嬉しかったです。かすみさん、少しずつでもよくなっていくといいですね」


「そうだな……美湖は、このままここに残るのか?」


「はい。今夜はこのまま泊まらせてもらうつもりです」


「そうか、ではかすみのことを頼む」


「わかりました! ずっとそばについてますね」


 はずんだ調子でポンポンと会話が進む。

 今の雨京さんは、険がとれてすごく話しやすい。




 応接間へと向かうべく廊下を進んでいると、奥の部屋の障子が開いてむた兄と大橋さんが顔を見せた。


「神楽木さん! どうでした!?」


「無事にお話できましたか……!?」


 そわそわと報告を待つ二人に、私たちは足早に近づく。

 大橋さん、今までむた兄と話をしていたんだな。

 一人部屋で待たせてしまって申しわけないと思っていたところだったので、少しほっとした。


「おかげさまで、落ち着いて話ができました」


 雨京さんがそう告げると、むた兄は涙をにじませながら喜んだ。


「よかった……それはほんまによかった……!! 神楽木さん、できることなら今後も見舞いに来たってください……!」


「そのつもりです。妹はもうしばらくここで休ませたいと思うのですが、あずかっていただけますか?」


「もちろんです! 僕は直接具合を診ることはできませんけど、手当てや身の回りのことは、雪子が責任もって行います!」


「それは有り難い。妹をよろしくお願いいたします」


 雨京さんは深々と、見惚れるほど綺麗に一礼をしてみせた。

 それに合わせて、むた兄もあたふたと頭を下げる。


 ……雨京さん、今回はさすがに家に連れて帰るとは言わないんだな。

 今は屋敷の中まで警固人さんが入っているから、神楽木家はあちこち男だらけのはずだ。

 さすがに、そんな場所にかすみさんを置いてはおけないもんね。



 一通りむた兄との話が済むと、雨京さんは脇に立つ大橋さんに言葉をかけた。


「大橋殿も、わざわざ美湖に付き添ってくださりありがとうございます」


「いえ、それよりも妹さんが目を覚まされて何よりです」


「……おかげさまで。貴殿方が命をかけて助け出してくださったからこそです」


「礼には及びません。誰よりもかすみさんのためにと力を尽くしたのは、天野さんなのですから」


 唐突に私の名前が出たかと思うと、大橋さんの視線がこちらを射ぬいた。

 よくやったと称賛してくれるような熱いまなざしだ。なんだか照れるな。


「そうですな……ところで、美湖はそちらでご迷惑をおかけしてはいませんか?」


「……え? 雨京さんどうしたんですか突然!」


 誉める流れだったのに。

 思い出したかのように、雨京さんは小さく眉間にしわをよせて大橋さんの顔色をうかがっている。


「あれこれとお手伝いもしてくれますし、早くも隊になじんでいるようです。とても良い子にしていますよ」


「……そうですか、安心致しました。活発で落ち着かぬところのある娘ですが、何とぞよろしくお願いいたします」


「はい。おまかせください」


 二人はビシッと音が聞こえそうなほどに背筋をのばして、互いに礼をする。


 ……私、雨京さんからそんな風に思われていたんだ。

 わがままを言ったり家出したり、わりと無茶ばかりしてきたからかな。

 今後はあまり心配をかけないように気をつけよう。



 そうこうして大人同士の挨拶も終わり、雨京さんはかぐら屋へと帰っていった。

 三人の用心棒を引き連れて万全の警戒体勢だったので、道中心配はないだろう。


 それにしても、やえさんが玄関先まで律儀にお見送りに駆けつけたのには驚いた。

 足の怪我もまだ痛むだろうに、壁づたいに足を引きずってその場に現れ、丁寧に頭をさげて主を送り出したのだ。

 すごい女中魂だ。尊敬してしまう。


「やえさん、お怪我の具合はどうですか?」


 足を引きずりながら部屋へと戻っていくやえさんを支えながら、私はその顔をのぞきこむ。


「これしき、大したことはございません。ご心配なく」


「私のせいでこんなことになってしまって、本当にごめんなさい」


「いいえ、美湖様のせいではございません……それに、わたくしはあなたがここに来てくださって心から安堵いたしました。かすみお嬢様は、あなたのお顔をご覧になって一変されましたから」


「それは、見慣れた顔に再会してほっとしたのかもしれませんね」


「……はい。美湖様、これからもかすみお嬢様のおそばについていてさしあげてください」


 と、やえさんは拝むようにして頭を下げた。


 ……すごいな。

 この人は、自分の体のことよりもずっと、神楽木家のことを考えている。


「もちろんそうするつもりですよ、やえさん! 一緒にかすみさんを支えていきましょうね」


「……はい」


 頑張ろうと気合いを込めて、やえさんの手を握る。

 彼女は一瞬驚いた顔を見せたあと、鋭い目を細めてやわらかく微笑んでくれた。



 その夜は、かすみさんの部屋で布団をならべて眠ることになった。

 ゆきちゃんに傷の消毒をしてもらったあと着物を着替えて、私は寝床の準備を整える。


 大橋さんに『一人にさせてごめんなさい』と謝ると、彼は『同室で眠るのも少し気まずいですからね』と苦笑しながら送り出してくれた。

 言われてみれば確かに。

 大橋さんと隣り合わせで寝るのは緊張してしまう。


 ――うん、部屋を分かれて正解だった。




「かすみさん、灯りはつけておくね」


 布団にもぐり込み、枕元の行灯に目をやる。

 油も残り少ないし、そう長くはもたないだろう。


「うん……美湖ちゃん、今日はいろいろとありがとう」


 かすみさんは布団の中でわずかに体を動かし、こちらに顔を向ける。

 足の怪我が原因で、寝返りをうつのも大変なんだそうだ。


「お礼を言われるようなことはしてないよ……でも、雨京さんと本音で話し合えてよかったね」


「うん。おかげで少し気持ちが楽になったよ」


「そっか、だったら私も嬉しい! みんなかすみさんの味方だからね。一緒に傷を癒していこうね」


「……うん」


 私は布団の中から手をのばして、かすみさんの手をにぎった。

 ぴたりとくっつけられたお互いの布団は、出入り自由な状態だ。

 私がそばにいることを実感して、安心して眠りについてもらいたい。


「かすみさん、おやすみ」


「おやすみ、美湖ちゃん」


 ぎゅっと手を握りあって。

 遠い昔、こんなふうに布団を並べて寝たこともあったなぁ、なんて懐かしい思い出にひたりながら――。

 私たちは、あたたかいぬくもりに包まれて眠りについた。



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