気がつけば専属トレーナー その1

 麦畑を一望する小高い丘の上に、領主の館は建てられていた。


 丘の周りを囲む堀に沿って、白い石材を積み上げて城壁が築かれている。丘の斜面にも二重三重に城壁が設けられ、例え敵が攻め込んできても簡単には落とせないだろう。


 だがそんな物々しい城壁も、今の時代では無用の長物のようだ。城門は見張りの兵士こそ立ってはいるものの常に開け放たれ、農民が作物を山積みした馬車を堂々と引き込んでいる。兵士も顔パスで農民を迎え入れていた。


 馬車で城門をくぐり、優雅な石積みの城へと案内される。ヨーロッパでは貴族が各自で城という名の豪邸を所有していたというが、まさにその表現がぴったりの、四階建ての巨大な屋敷だった。広い庭も石畳と芝で整えられ、サッカーもできそうだ。


 重い扉の向こうはエントランス。舞踏会も開けるような大広間にはきらびやかなシャンデリアが吊るされ、数多の蝋燭の炎を反射して部屋中を照らしている。


 兵士に招かれ、コウジたちは控室に案内された。普段は客室として使われているのだろう、机や天蓋付きのベッドも用意され、果物のバスケットまで置かれた広い部屋は実家にあるコウジの自室を3つつなげたよりも広い。


「領主様は今、外遊に回っておられるはずなんだがなあ」


 おじさんは椅子に腰かけたまま用意された紅茶を流し込んだ。この世界でも喫茶の文化はあるらしい。


「あらそうなの? それじゃあ誰がコウジを呼んだのかしら?」


 マトカも上品にカップに口をつける。磁器は珍しく高価なのだろう、扱う手つきは慎重だ。言語は日本語なのに、文化や生活様式はイギリスやフランスのような西ヨーロッパに近い。


「多分バレンティナ様だ。奥方が亡くなられた今、父君を支えるのは姫様の務めだからな」


「え、バレンティナ様が?」


 娘がカップを叩きつけるように置いたので、父親は「こら!」と注意した。


「バレンティナ様に会うのは久しぶりだろう。決して粗相の無いように」


 父親がくぎを刺すものの、娘はすっかり鼻歌交じりで「はーい」と返事をする。なんだか楽しそうだ。


「バレンティナ様って、どなたですか?」


「ああ、領主様の……コッホ伯爵の娘さ。それは美しいお嬢様だよ」


 紅茶をすすりながらコウジが尋ねると、おじさんは丁寧に教えてくれた。そこにマトカが口をはさむ。


「小さい頃はよくお城から降りてこられて一緒に遊んでいたわ。どこのお金持ちのお嬢様だろうとは思っていたけど、まさか領主様の家系だったとは思いもしなかったわ」


 目をぼうっと上に向けて物思いにふけるマトカ。遠い記憶の懐かしさに浸っているのだろう。


「本当に、マトカと木に登って落ちた時には私は打ち首も覚悟したぞ。伯爵が笑って許してくださったものの、お前は昔から遠慮という言葉を知らんから」


 父親の辛辣な一言にマトカが引き戻され、大粒の汗が頬に浮かんだ。


 そしてドアが開けられ、召使に案内される。コウジの半分ほどの背丈しかない初老の男で、切りそろえた髭が小さな身体とは不釣り合いでなんとも可愛らしかった。


 通されたのは応接間だった。高い天井をアーチ状の梁が支え、壁には巨大な鏡や絵画が埋め込まれている。


 そしてソファに座って待っていたのは長い金髪に空のような青いドレスが鮮やかな、切れ長の眼を持つ細身の美人だった。


「マトカ、久しぶりねえ!」


 令嬢は音も立てず立ち上がると、駆け出したい衝動を抑えるようにつかつかと近寄る。


「バレちゃ……いえ、お嬢様、お久しぶりです」


 つい昔の呼び名を口にしそうになり、慌てて頭を下げるマトカ。それを見てバレンティナは「そんな堅苦しくならないで」と気さくに呼びかけた。


「バレンティナ様、お久しぶりです。今日は……」


「ええ、お聞きしています。マレビトが現れたそうですね。で、こちらが?」


 バレンティナが好奇の目でコウジの顔を覗き込んだ。サファイアのような青い瞳と磁器のような白い肌に、コウジの心臓は大きく高鳴る。


「マレビト……領地に降り立つのはこの200年で初めてのことですね」


 そんな初めてが僕でごめんなさい。コウジはなんだか申し訳ない気分だった。


 歴史上マレビトは知識や技術を伝道するという意味で社会に変革をもたらす存在だった。


 だがコウジが人に誇れるほど、何かに傑出しているということは無い。


 大学の専攻は文学部、それも日本文学と別世界では何の役にも立ちそうにない分野。料理に精通していたりものづくりの趣味があるわけでもない。


 ただスポーツ観戦が好きな平凡な大学生だ。野球、サッカー、バスケにラグビー、フィギュアスケートにセパタクローまで、スポーツと名の付くものならばつい観戦してしまう程度の大学生だ。


「お名前は?」


 バレンティナの質問にコウジは我に返る。


「はい、加藤コウジと申します」


 就活で鍛えた丁寧な言葉遣いと所作で、令嬢に向かい合った。


「ではコウジ様、ようこそニケ王国へ。とは言え来たいからここに来たのではないことは分かっています。せめてこの世界に馴染むまでは、私が住まいを提供いたしましょう」


 バレンティナが優しく言う。コウジは泣き出したい気分だった。とりあえずここで生きていける場所は用意されるみたいだ。


「マレビトが出現した時には領主が保護するよう取り決められております、ご安心ください。ところで……先ほどは弟がお世話になりました」


 バレンティナの目がきらっと輝。


 何のことだ? コウジたちが傾げていると、マトカとおじさんが何かに気付いたように「あっ」と口を開いた。


 直後、応接間の扉が開かれ、小さな影がひとつ部屋に飛び込む。


 ついさっき外で相撲をしていた、金髪で小柄な男の子だった。

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