転移

「これは本格的にヤバくなってきたぞ」

未来の俺が言う。


「分かってるよ。しかし、桃恵は桃恵だ。愛しているのは変わらない。お化けでもいい。俺のそばにいてくれれば。それじゃあヘッパーに取締役の件、よろしく伝えておいてくれ」

「分かった。無理をするんじゃないぞ」


俺は動揺していた。どんな顔をして桃恵と向き合えばいいのか分からない。もしかして時空の狭間に消えるのは桃恵の方なんじゃないか……嫌な予感がする。


俺はカラ元気を出すと、マンションのドアを開けた。

「ただいま!」

桃恵がかいがいしく玄関まで迎えに来た。突如として消えたりしませんように……俺は神に祈った。


晩御飯を作っている最中だ。邪魔をしないようにテレビを着けてソファーへ座る。


少し居心地が悪い。今日もおかずが三品と炊き込みご飯だった。いつもの幸せが戻ってきた。


「いただきまーす」

タイムパラドックスの事はもう仕方がない。俺は楽観的に考える事にした。


リビングの一角にスペイン語の教科書と教材が置かれていた。彼女なりに努力をしている姿が目に浮かぶ。


「未来のあなたはどうだった?」

「元気そうだったよ。あ、そうそう社外取締役の件、頼んでおいたから。五千万円は無理でも三千万円なら受け入れると約束してくれたよ」

「本当?三千万円でも夢のようよ」


機嫌がいい桃恵。俺はこの幸せだけは絶対に壊さないと心に誓った。


桃恵がトイレで今食べたものを吐き出している。つわりがひどくなっているのだ。

「もう、お魚食べれない」

そう言うと冷蔵庫にしまってあった牛乳を取りだしごくごくと飲んでいる。妊婦は大変だなぁと思う。


見れば「健やかな出産」や「初めての育児」など、その手の雑誌が散らばっている。これらを読みながらまだ見ぬ子供に思いを馳せているのだろう。


そんな桃恵がいとおしくなり、おれは台所へ行き、後ろから抱きしめる。

「大丈夫だ、大丈夫」

「んー? 急にどうしたの。なにかあったの」

女の勘は鋭い。

「いや、何でもないよ。今君は初めての出産の事で頭がいっぱいなんだろうなと思ってね」

「スペイン語もちゃんと勉強してるわよ。ふふ、おかしな秀ちゃん」

「時々不安になるんだ。時空警察に捕まり強制的に過去へと送られるんじゃないかと思ってね」

「何か犯罪を犯したわけでもなし、それこそ大丈夫よ」

逆に俺がはげまされる。


「とにかく信じた道を行くんだ。答えはそれしかない」

俺は自分に言い聞かせるように呟いた。




それから一週間がたった。いつものように未来の俺を見舞いにいく。ドアを開けると「よう」といつもの挨拶。しかし、どことなく元気がない様子だ。横に腰掛けている菜々子も沈鬱な顔をしている。


「どうしたんだ?元気がないじゃないか」

「どうしたも、こうしたも……」


菜々子は席を外し待合室の方へ行ってしまった。


未来の俺がうめくように言う。

「検査の結果、ガンが転移していることが発覚した。たちの悪いことに末期のすい臓ガンだ。このガンはもう直しようがないらしい」

「何だって!手術でどうにかできないのか?抗がん剤治療は?放射線治療は?」

「手術は受けてみるつもりだ。しかし期待しないでくれと言われたよ。手術は明日だ。どうにかなればいいんだが……やはり多少延命しても未来の運命は変えられないようだ。俺はもう、死を覚悟した」


突然の出来事に雷に打たれたようなショックを受けた俺。

「あんなに……元気だったのに……」


「桃恵のことだが」

沈んだ空気を変えようと、未来の俺が話題を変える。

「ヘッパーに連絡を取ると、いつでもウェルカムだそうだ。年棒も三千万円。ただ、大学はきっちり卒業してくれという事だった。まあ休学をして時間もあるようだし、それに関しては心配はないだろう」

「ああ、休学中に苦手科目を克服するといって勉強してるよ」

「元気な赤ちゃんが産まれてくるといいな」

「今はそれだけが俺の希望だ」


その日は遅く帰ると桃恵にスマホで告げ、いつものカラオケスナックに寄る。酒でも飲まないとやってられない気分だったのだ。馴染みの女がカウンター越しに俺につく。俺は友人のガンがすい臓に転移した話をする。

「運命ね、それは」

「そう思うかい」

「ええ、運命は変えられないもの」


女は、悟りきったかのように俺を突き放す。過去に何か運命を感じる出来事にあったに違いない。しばしの沈黙が二人の間に流れる。


「明日朝早くから手術なんでしょう?今日は早めに帰ってゆっくり寝た方がいいんじゃないの」

「そうだな、朝九時からと言ってたからな。八時には家を出なくちゃならない。勘定をお願いするよ」

俺はそそくさとスナックを後にした。


マンションに帰ると桃恵が晩御飯をとって待っていてくれていた。

「おかえりなさい。今ご飯をチンするね」

かいがいしく台所をいったり来たりしている。俺はテーブルに着くと、今日の出来事を桃恵に話す。

「末期のすい臓ガンだそうだ。もう明日の手術に賭けるしかないらしい」

「そうなの……ということは秀ちゃんも五十七歳で……」

「それ以上言わないでくれ!」

俺は思わず声を荒げてしまった。そして黙々と晩ごはんを食べる。桃恵は泣きそうな顔をしている。


「何よ。心配して言ったんじゃない!」

桃恵が涙ぐむ。俺は自分のいたらなさに気づき、桃恵に謝る。

「悪かったよ。反省している」


「今日はもう早く寝た方がいいんじゃない?」

桃恵に諭され夜の十時にはベッドに横たわる。しかし眠れない。結局眠りについたのは午前一時の事だった。




翌朝、八時半に病院に顔を出す。俺は全身麻酔をかけられ、もう手術室の中に運ばれて行ったと菜々子が言った。


長椅子に腰掛けながら手術が終わるのを待っている。じりじりとした時間が過ぎてゆく。


「なあ」

俺は久しぶりに菜々子に話しかける。

「俺を看取った後はどうするんだ?」

「縁起でもないこといわないで!」

「でも、もう絶望的なんだろう?」

「……」


「過去に戻って、来年のコンクールに挑むわよ。何かやってないとおかしくなるみたいだから」

「まあ、それが一番いいだろうな。死別する痛みは想像を絶するだろうからな」


手術は三時間で終わった。ドクターに結果を聞いてみる。


「手術自体は一応成功しましたが、完全には取りきれていません。取ってしまうとすい臓の機能を果たせなくなる部分にも転移しているんです。後は患者さんの抵抗力次第となります」


ドクターはそれだけ言うと去って行った。

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