もう一人、居る

 これもまた、とあるマンションの管理人のおじさんから聞いた話。




 仕事を終えた正吉は、自宅で適当な夕食を流し込みながら映画を観ようと、DVDデッキにディスクをセットした。飛ばしたくともディスク設定上飛ばせない注釈画面が流れだし、それは数秒間であるのにやけに長々と感じられる。

 ようやく字幕設定やらをいじってやろうとリモコンを手にした瞬間。


 ピーンポーン、ピーンポーン


 玄関のインターホンが鳴った。

「誰だよ。九時過ぎてんだぞ、ったく」

 正吉はあからさまな溜め息を吐き、「はいはい?」と気だるそうにドアを開ける。

 そこに立っていたのは正吉の実弟であった。

「なんだよ、オメー。時間考えろよ?」

 そう露骨に煙たがれば、弟はガッと食ってかかってきた。酷く腹をたてている様子に、むしろ正吉が目を丸くする。

「兄貴よォ、なんで無視してどっか行っちまったんだよ」

「は?」

 ゆっくりと瞬きを重ね、ハテナをたくさん頭上に生み出す。実弟は鼻息荒く、続けた。

「さっき俺ん家の近くの公園、歩いてたろ?」

「歩いてねぇよ。八時から家に居たって」

「んなわけないだろ。なぁ、兄貴ほんとさっき公園にいたよな?」

「居た居たァ、アタシも見たァ」

 弟の背後から、そうして顔を出したのは弟の彼女。アンタも居たのかよ、と正吉は鼻で笑うが、弟はそれどころではないように捲し立てる。

「ボーッと一人で歩いてっから、俺めちゃめちゃ声かけたんだぞ」

「うんうん声かけた。けど全然、無視だったよねぇー」

「そうそう」

 がくがくと激しく首肯し合う二人を遮るように、正吉は弟らの目の前を掌でヒラヒラとさせた。

「とにかく俺は家に居たから。人違いだって。つーか、何か用事だったのかァ?」

「いや、用はねぇけどさ」

「んじゃオメーらも早く家帰れよ」

 半ば強制的にドダン、と玄関ドアを閉めた。ぶーぶーと不満をたらしながら去り行く弟らの足音を背中に、「一体何だったんだか」と、正吉は首を捻る。


 リビングに戻ると、映画の再生はすっかりプロローグを終えていた。




 数日後。

 正吉の携帯話が鳴った。

「はいはい。あ、なんだお前か」

 ろくに画面も確認せずに取った電話の相手は、正吉の仕事先の後輩だった。

 彼は妻と子を持ち慎ましやかな家庭人。正吉は何度か彼の家に呼ばれ、料理を振る舞われたことがある。公私の枠をわずかに越えた、そこそこ仲のいい人物だ。

「先輩、どうして何も言わずに帰っちゃったんすか」

 声を裏返して不審がる後輩の彼へ、正吉は「は?」と首を捻る。

「ウチの娘が怖がってましたよ、先輩のこと。そりゃ『いつでも家に来ていい』って言ったのは僕ですけどね? それにしても急に玄関開けた途端ズカズカァ、はビックリしますよォ」

 一方的にならべられたストーリーに、正吉は眉を寄せた。

「何言ってんだ、オメー?」

「何って。今さっきウチに来てたじゃないですか」

「いやいや。俺さっきまで、車で高速走ってたぞ。丁度帰ってきて、エンジン止めたとこだよ?」

「またまたぁ。二〇分前に家に来て、今さっきに帰ったって聞きましたけど」

「誰に」

「嫁にっス」

「ああ」

「俺が飲むもん準備してる間に消えちゃうんだもんなぁ、先輩」

「いや、俺行ってねぇよ? なんなら高速の領収書あるけど、持ってくか?」

「いやいや、またそんな」

 後輩のその苦笑に、正吉はハッとある事を思い出す。

 先日の弟が言っていた一件だ。


  さっき公園歩いてたろ。

  ボーッと一人で歩いてっから、俺めちゃめちゃ声かけたんだぞ。

  兄貴ほんとさっき向こうの公園にいたよな?


 まさか、と、過る。

 ゴクリと生唾が喉を流れ落ちる。

 正吉は暫しの逡巡の無言を挟んで、「あのよ」と小さく問いかけた。

「俺もしかして、一ッ言も喋んなかったんじゃねぇ?」

 正吉は声を低く問い、後輩の返事を静かに待った。

「うん、何も話してくんなかったっス」

 やっぱりな、と正吉は口腔内で言葉を噛み殺した。

「顔色、どうだったか覚えてっか?」

「え? 顔色? あー、そうっスね、確かにちょっと血色悪かったかなぁ」

「ボーッと、してたか?」

「はい。だから誰が声かけても返事しないし、ウチの娘も『いつもの先輩じゃない』って怖がってましたってば」




 この後に、この正吉は『正吉のドッペルゲンガー』だということが発覚する。

 先の二件と同じように、正吉本人からは明らかに離れた場所で『ボーッとして無言を貫く顔色の悪い正吉』が幾度か目撃された。

 正吉が家で一人きりでDVDを観ているときや、自転車に乗っているときなどに多く目撃されたらしい。

 時間帯などに一貫性はなく、全くをもって意味がわからないという。




 何度声をかけても無反応の知人がいたら、それはもしかしたら、その方のドッペルゲンガーかもしれない。





 嘘みたいな、初夏の話。


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