鷲羽と水晶
石化
第1話
見渡す限りの山だ。天空は上に青く青く抜けて行く。里山を越え、尾根を辿ってもたどり着けないほど遠くに雲を突くようにそびえる山々の一角。ちょろりと流れ出す水の一滴ははるか下流で大河へと変わる。そんな奥山だ。ハイマツの影から雷鳥が飛び出し、クックックッと鳴きながら割れかけた岩に乗った。カモシカが崖を駆け下りて、山を揺らす。
山の頂には遮るものがなかった。小さな高山植物がつつましく咲いている。
人影が二つあった。この場所に似つかわしくない二人だった。だが、どことなくこの場所にぴったりだという矛盾した雰囲気も纏っていた。
少女だった。一人は黒に近い色の髪を腰まで伸ばしている。もう一人は灰と褐色の混ざりあった色で一本ピンとしたアホ毛がある。二人とも、同じような服装をしていた。肩の空いた水干か巫女服のような白と黒の衣装で、首元に赤いスカーフでリボンが結ばれている。
二人はしばらく談笑していたが、用が済んだのか、アホ毛の方が背中に翼を広げた。まるで鷲のように力強い翼だ。髪色と同じで灰と褐色の羽が混じっている。その美しい光沢のある翼を広げた姿は天使のようだった。そのまま、彼女は飛び立った。翼のひとかきひとかきが大きな風を起こして、残った一人は姿勢を変えて飛ばされるのを防ぐ。
彼女は自分の山に帰っていくようで、姿が遠くなる。ようやく風がやんだ。
「全くもう。ワシバったら。」
乱れた自分の黒髪を撫で付けた。嫌いではないのだけど、帰る時はもう少し気を遣ってほしいと思う。
太陽の光が彼女の目に入る。キラキラと乱反射して透明な目が輝く。水晶のような美しさだ。
名はスイショウという。この山が少女の形として現界した化身である。
彼女は自分の山の周りを楽しそうに見渡す。仲間に囲まれたこの風景が好きだった。緑と岩で形作られた山々はずっと先まで続いていて、果てることはないかのように思えた。満足して頷いて、自分の洞窟まで引っ込んだ。
◇◆◇
スイショウは頭を押さえて洞窟の中でじっとしていた。山の中腹に空いたそこは、体を実体化させている時、彼女が普段いる場所だった。水晶の結晶が床と天井を繋いでぼうと光っている。
痛い。頭が鈍く痛んでいた。このところずっとだ。体の中でおぞましい何かが増殖して、浸食しているような不吉なイメージが頭をとらえて離さない。このまま体が似ても似つかないものに変わり果ててしまうかもしれないと思うと気が狂いそうだ。うずくまって震えることしかできなかった。
羽音がした。空気をかき混ぜて響く。
「よう。邪魔するぜ。」
翼を折りたたんでワシバが入ってきた。彼女がここにくるのは、気まぐれだが割とよくあることだ。一人では寂しくて話し相手が欲しいのだろうとスイショウは思っている。でも、今は彼女を相手にする余裕はない。自分の中の痛みと向き合うだけで精一杯だ。返事もせずにうずくまって地面の冷たさを感じていた。
「留守なのか?」
彼女は訝しんでいる。スイショウが自分の山を離れることはほとんどないからだ。当然いつものように返事があるものと期待したに違いない。スイショウは答えようともがいたが、頭の中に巣食う鈍痛はやはり尋常ではない。うめき声が漏れるだけだった。
「おい、どうした?!」
それが聞こえたのか、彼女は慌てた。スイショウを探し出して、しっかりしろと助け起こす。
「ワシバ⋯⋯。」
切れ切れの声しか出せなかった。
「待ってろ。今オレがヤクシを呼んでくる。」
ヤクシは癒しの力を持つ山だ。彼女なら、大抵の病気は直せるだろう。失われた命を復活させることだってできると聞いた。
一旦起こしたスイショウの体を取り落として、ワシバは外に急いだ。気が急いて、今スイショウの体を気遣う余裕さえないようだった。
「全くもう。」
ワシバに対する口癖となってしまったのか、そんな言葉が自然と口をついていくる。それが呆れなのか怒りなのか。こんな鈍った頭ではそれさえよくわからない。体を動かすことが億劫に過ぎて、今度は仰向けで天井を見上げる。水晶が山の中に突き刺さって痛そうだった。
羽音がする。ワシバが戻ってきたらしい。いつもより音が大きいのはヤクシを抱えてきたからだろうか。
「呼んできた。」
「やあやあスイショウ、病気なんだってね。この私が綺麗さっぱり治してあげようじゃないか。なに、気にすることはない。恩を感じてくれればいいんだよ。さっきもシロに呼ばれて死にかけた人間を救ったばかりで疲れ切った私にやって欲しい面倒ごとっていうのはなんだい? 」
亜麻色のウェーブのかかった髪に青色の瞳。白いワンピースを柔らかに纏って、ヤクシはにんまりしていた。同格の相手に借りを作れるというのが嬉しくてたまらない様子だった。
無言でワシバに目線を向ける。彼女はにへらと笑った。アホ毛がぴょこぴょこ跳ねる。いや、私はこの超絶調子に乗った野郎を連れてきた責任の所在を確認しているんだけど。そんな顔をされるとなんというか、ムカつく。
でもまあ、ヤクシがこれを直してくれるというのなら、文句は言うまい。痛みはなおも引かず、むしろひどくなってきている。元に戻ってくれればそれでいい。
「じゃあ、診るよ。」
さっきまでのふざけた態度とは打って変わって真剣に、ヤクシはスイショウの体に手を当てた。ヤクシの思念がスイショウの体を探っていく。病気のある場所を把握すると治す上で良い効果が得られるらしい。性格はどうあれ彼女は優秀なのだ。
しばらく探って、彼女は首をひねった。
「どこも悪くないみたいだけど?」
ワシバとスイショウはキョトンとした。
「でも、私、こんなに痛いのだけど。」
ややあって我を取り戻してスイショウは反論する。絶えず痛みは続いていて、硬い釘を打ち込まれ続けている気がする。
「さあ。少なくとも病気でも怪我でもないから、私には直せないね。」
ヤクシは開き直っていた。何もやましいところはなさそうな顔だ。ちょっと前に恩を高く売りつけようとしたことは覚えていないらしい。
「じゃあ、お大事にねー。」
そう言って彼女は外に逃げていった。めんどくさいことには関わりたくないと言う意思表示のはっきりした良い逃げっぷりだった。
二人はそんなヤクシを呆然として見送った。文句を言う暇もなかった。引き際の見極めが上手すぎた。
「⋯⋯スイショウ、大丈夫か?」
ワシバはなかったことにすると決めたらしい。それに乗っかることにした。
「大丈夫じゃない。気分が悪い。」
また痛みがひどくなった。ワシバに当たってしまう。悪いとは思う。でも、今は私に関わらないで。
心配でたまらない様子だったけど、彼女は引いてくれた。去っていく羽の音が洞窟に反響した。
◇◆◇
あれからワシバは何度か見舞いにいった。けれど、スイショウはずっと臥せっていて、機嫌が悪かった。ワシバは荒い言葉遣いをするが、根は真っ直ぐだ。なんとか彼女が元気になってくれないかと悩んでいた。いかにつれない態度を取られてもそれは変わらなかった。彼女はスイショウが大好きだった。
いつものように見舞いに行こうと、スイショウの山に向かって飛ぶ。風を捉えて、滑空して高度を上げ下げするのは羽のある自分の特権で楽しい。
真っ直ぐ洞窟に向かうのは億劫だった。どうせ今日もスイショウの機嫌は悪いのだ。ワシバは時間を潰すように山の周りを周回する。
それを見つけたのは偶然だった。山の一角に不自然な輝きがあった。太陽の光が乱反射して眩しい。近寄ってみた。巨大な水晶だった。山中から少しだけ頭を出している。透明なその石は様々な鉱物を含んでなお美しく、輝いていた。
ぼうっと見つめる。綺麗だと、思った。そして、これを彼女に見せれば、元気になってくれるんじゃないかと、思った。思ってしまった。
彼女は自らの腕を鷲の鉤爪に変じさせた。ガシッと掴む。満身の力を込めた。水晶は思っていたよりも脆かった。大きな塊が抜けた。よし。これで⋯⋯。
「アァァァァーーーー!」
絶叫が静寂を裂いた。スイショウのいる洞窟の方からだ。ワシバは慌てて向かった。さっき取った水晶は放さなかった。
スイショウは頭を抑えていた。血のような何かが垂れてくる。痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いーーー。さっきまでずっと一緒だった鈍痛とは比べ物にもならない激痛が芯から響いてくる。まるで脳の一部がむしられたような堪え難さだ。いったい何があったと言うのか。
「スイショウーー!」
ワシバが飛び込んできた。こんなにすぐに来るなんてどれだけだと、皮肉を言いたかった。でも、痛みはそれを許さない。
「大丈夫か?! しっかりしろ!」
彼女はとっても頼もしかった。全てを預けてしまいたいくらいに。
「さっき、とっても綺麗なものを見つけたんだ。取ってきたから、それを見て元気になってくれ。」
彼女はそう言って、大きな水晶を見せた。とても綺麗で、そして懐かしいーー。
「それはーー!」
吐き気がきた。激痛の理由がわかった。私の一部が、無理やり折られたんだ。しかもワシバの手によって。ワシバの気楽な身勝手さが許せなかった。痛い。彼女の手にある水晶が泣いているような気がした。
「出てって! 」
「えっ?」
ワシバは鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしている。理解できないのだろう。理解しなくてもいいし、分からせるつもりもない。
「この山に二度と来るな!」
激情のままに彼女を吹き飛ばした。最後まで何もわかっていない顔をしていた。洞窟を閉ざす。もう、顔も見たくなかった。
◇◆◇
ドロゴロドゴドン。ガラガラガシャーン。ドン。ゴロゴロ。空が不気味に鳴っている。稲光が黒い雲を黄色く照らす。酷い天気だ。
山でも雷は怖い。山肌が黒焦げるのを想像しただけで恐ろしくなる。心臓がキュッと下に落ちてしまったような気持ちになる。獰猛な音を聞きたくなくて、耳を塞いだ。
こんな日は、あいつとの会話を思い出してしまう。
今日と同じような雷の日だった。私たちは洞窟にこもっていた。
『なんだ、スイショウは雷が怖いのか。』
あの時もワシバは不敵だった。震える私の頭を撫でて、笑ってみせた。それにつられて思わず私も笑ってしまった。少しだけ気が楽になった。
『ワシバは怖くないの?』
聞いてみた。私だけが怖がっているみたいでなんか嫌だったから。
『別に? 飛び回るのだってわけないぜ。』
彼女は調子に乗ってそんなことまで言い出した。少し足が震えていたから、それは嘘なんだと思う。当然だ。空を飛ぶ不心得者を雷が焼くのはいつものこと。焼け焦げた渡り鳥が落ちて来ることだって長い時の中では何回もあった。
『そうだな。少なくとも雷の日は、スイショウを一人にはしない。』
でも、彼女はまっすぐに私に誓った。
『雷なのにどうやって私のところまで来るの』
そんなことを言って茶化したけど、あれ以来、彼女は本当にずっと私のところに来ている。それがとても心強かった。
今日はどうだろう。いつもの数倍はひどい天気だ。それに私は彼女を許していない。それでも、来るだろうか。来て、くれるだろうか。
あれからワシバは毎日、私の山に飛んできた。気配を感じるたびに洞窟を閉ざすから、彼女が何をしにきているのか分からない。手酷い拒絶をしたのに、何を考えているんだろう。仲直りなんてできないっていい加減わかってよ。
私は、ワシバを拒絶したいんだろうか、許したいんだろうか。分からない。
頭に生えたツノを触る。
一本だけ、頭の右側の中途半端な位置から生えて来た透明なツノだ。こんなものをつけた人なんてみたことがない。水晶に映した自分の姿はとても醜くて、気分が沈む。不思議と、これが生えてから頭痛は治った。まるで、ツノを生やすために頭が痛んでいたみたいだなと思った。これのせいでワシバと絶交したと思うと自分の体の一部なのに憎くてたまらなかった。
怖いけど、やっぱり気になって洞窟の入り口まで出てみた。雨はざあざあ落ちて来て風もごうごう吹き荒れる。
ピシャ、ガラガラガシャーン。強烈な閃光と共に轟音が降ってきた。
「ひゃっ。」
頭を抱えた。怖いものは怖い。
⋯⋯あれ。今、何か別の音が聞こえたような気がする。何かが焼けたような匂いが鼻腔を刺す。そろそろっと顔をあげた。
「ワシバっ!?」
口をついて出て来た音がなんなのか、自分でも意識しなかった。どうして。なんで。嫌。
焼け焦げた羽の少女が、意識を失って横たわっていた。美しかった羽は黒くなって、どうみても手遅れだった。なんとか奥の方まで体を引き込んだ。
「ワシバっ! しっかりして!」
私は必死に彼女の名前を呼んだ。さっきまで感じていたわだかまりはすっかりなくなっていた。
「⋯⋯スイショウ。ごめん。」
今にも消え入りそうな声だった。死にそうになりながら、彼女が選んだのは私への謝罪だった。
「いい。わかってる。だから、死なないで。」
わかっていた。ワシバに悪気なんてなかった。ただ素敵なもの私に見せたかっただけだ。それでも私は意地になって、許そうとしなかった。
「スイショウ、それ、ツノ⋯⋯?」
彼女はよろよろと指をさした。
「そうだよ。醜いでしょ。」
「そんなこと、ない。お前そのものみたいで、すごく綺麗だ⋯⋯」
それっきり、彼女は言葉を止めた。もう限界だったのだろう。ピクリとも動かない。
「綺麗って、私のこれを綺麗って⋯⋯。」
そんなことを考えている場合じゃないのはわかっているけどすごく嬉しくて、心が飛上がるのを抑えられなかった。
「ワシバ、ごめん。ありがとう。」
気づけば声に出して、泣いていた。感情が溢れて止まらなかった。
◇◆◇
そのあと、たまたま見回りに来たヤクシがワシバを治してくれた。思えば、すぐに彼女を呼んでくるべきだった。ワシバにはできたのに私はできないなんて。動転していたとはいえ、これはダメだろう。私は自己嫌悪に苛まれた。
ワシバは、何事もなかったように、毎日私のところに来てくれた。一度は死にかけたのに良くやるとは思うけど、悪い気はしない。ちょうど梅雨の時期で外に出かけることもなく、私は彼女といっぱいおしゃべりした。ちょうど絶交していた期間を埋め合わせるように。
梅雨の晴れ間は前触れもなく訪れる。雨が染み込んで匂いたつ湿気が太陽に払われて気持ちいい。
久しぶりに私とワシバは山頂に向かった。雨の間は影を潜めていた動物たちが山の上を駆け回ってくすぐったい。
雲の間から白い光線が放射状に伸びている。本格的な梅雨明けはまだ遠そうだ。
「あっ、スイショウ。こっちにきて!」
ワシバについていった先に、思ってもいなかったものがあった。
斜めの柱だ。透明で大きい。それが一本、確かな存在感で山の上に生えている。こんな綺麗なもの、今までなかった。自分のことは自分が良くわかっている。
「ひょっとして、スイショウのツノってこれなんじゃないか!?」
ワシバが興奮した口調で言った。
そんなバカなと思うのと同時に納得した。このツノが生えるまで、こんなものはなかった。私たちは山の現し身で山そのものだ。こんなものが生えるのなら、わたしの体に異変があるのも当然だろう。あの頭の鈍痛も一種の成長痛だったのではないだろうか。それはそうだ。私たちに寿命なんてない。山がある限り不滅なのだから。
「その、あの時、ごめんな。スイショウの一部だなんて考えもせずに、これを砕いちまって。」
ワシバはしょんぼりしていた。頭の上のアホ毛がしおれている。
妙に知っている風に案内するとは思っていたけど、そういう理由か。彼女がわたしの元に持って来たのは成長する前のこの柱の一部だったのだろう。だからあれほどの激痛が走ったのだ。
「痛かった。」
「悪かった。」
「でも、ワシバといられなかったのはもっと嫌だった。」
「自分で拒んでたじゃないか。」
「あの時のわたしはどうかしてた!」
「なら。」
「うん、もう絶対、ワシバと仲違いなんてしない。」
「おうっ!」
「でも、乱暴なのは勘弁だからね。」
「⋯⋯善処する。」
「確約しなさい!」
「わかった。」
私たちはどちらからともなく笑いあった。この先何があっても、やっていけるように思えた。
高山の夏の訪れを告げる爽やかな風がぴゅうと吹き抜けていった。
鷲羽と水晶 石化 @sekika
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