第一章「白銀の刃」

第四話


  ――心臓の鼓動がこめかみで鳴る。座席から伝わる重々しい歩行音と相まって、ぼくは己がふたつあることに気が付いた――


「面倒なことになったもんだ、まったく」

 黒田幹久防衛相はデスクの上で腕を組み、目の前にいる眼鏡をかけた小太りの男へと剣呑な視線を投げた。男は、太く短い首にきつくしまったネクタイを半ば解いて、厚ぼったい瞼の奥にある瞳を細めた。それほどこの執務室の温度は高くない筈なのだが、額に浮かぶ脂汗が奇妙な印象を与える。この男はいつも顔色が悪く、下卑た顔をしている。

 黒田は苛立ちを隠すことなく、机上をごつい指で叩いた。太鼓を叩いているのかと思えるほど重厚な音が響き、最高級の執務机が悲鳴を上げているようだった。

「いかな内閣総理大臣とはいえ、ご自身の仰っている言葉を理解しておられるのか。試作機を実戦投入せよとは、いかにも民間の言いそうなこと。軍事的に有り得ない措置ですぞ。信頼性その他の有効性は自衛軍としては保証いたしかねる」

「これは国民の総意である旨を御理解いただきたいのです、黒田防衛相」小太りの男――内閣事務次官補、相沢あいざわ重徳しげとくがのっぴきならない口調で言った。「我が国の国防情勢は前例の無い危機に晒されております。黒い軍隊の再侵攻は、既に現実のものと――」

その脅威は現実のものとなっている、内務次官補」

 さりげなく、しかし断固とした口調で黒田は訂正する。話の腰を折られて相沢は眉を潜めたが、黒田の鋭い視線に開きかけた口を閉じた。元々は陸上自衛官として勇名を馳せた黒田は、筋骨隆々の逞しい体つきをしており、その威容だけで相手を黙らせる迫力があった。太い眉に厳つい顔立ち。人懐っこい性格の彼ではあるが、公私混同をしたことはない実直さに定評がある。

 鬼とも呼ばれた彼は相手の前に立つだけで、形容詞難いオーラで相手を屈服させてしまう。相沢も漏れなくこの怒気にも似た空気に気圧され、再び額に浮いて出た脂汗をハンカチで拭った。

 これほど政府上位に食い込んでいる政治家でさえ、ここまで危機管理意識に違いがあるのだということに、黒田は暗澹たる思いに囚われる。怒りよりも諦念のほうが強いかもしれない。

 黒い軍隊は十五年前から人類共通の敵である。しかし戦争を見たことのない日本人は、仮に目の前で人が撃ち殺されでもしない限り興味すら持たない無関心を備えてしまった。あるいは、海を隔てた二大大国が繰り広げた冷戦の只中で、戦乱から目を背けるために民族的に獲得しえたひとつの処世術なのかもしれなかったが、無関心であるがゆえに激動の世界情勢を知り、その波を超えようとする機運も生まれなかった。政府と自衛軍においてはそうではなかったことが救いか。

 国境の向こう側で何が起きても気に留めない。社会が変容すれば適応して普段通りに日常を貫く。これを批判的に捉える人々は海千山千を埋め尽くすほどいる。黒田幹久はまったく逆で、戦争を知らない世代が人類の全体を占めるのならば、どれだけ平和な社会が築けるのだろうとも思う。無知であることは幸運なのである。特に、恐怖を知らないということは。

 尤も、目の前に黒く蠢く無人兵器群がいる現状、戦争を経験していない今の日本はむしろ自分の首を絞めているに等しい。何故なら、戦わなければ殺されるからだ。人間としての尊厳、誇り、日々のこの長閑な日常を守るために軍人は死んでいく。無人兵器に対して講話や降伏などという、ままごとで成立するような政治的選択肢は存在しない。純粋な勝利か敗北かは、それ即ち生か死に直結する。問題は、誰かが払っているその犠牲が、必ずしも全員の共通認識となってはいない点だ。

 人知れず誰かに消費されていく命。これほど報いられない死があるだろうか。黒田は、全国に居並ぶ自衛官を思い、自衛隊時代から幾人がそのようにして闇に葬られ、忘れ去られてきたのだろうと胸を痛めた。平和とは血の上に築かれるものであって、愛情の下に育まれるものではない。その現状を、あの大滝史彦という総理大臣は理解しているのだろうか。この内務次官補にしても、いつ、黒い塗装を施された巡航誘導弾がこの霞ヶ関にある本省を襲うかもわからないという事実を意識するのだろうか。無人兵器群だけなら防ぎようもある。あの神器にも劣らぬ黒いPGTASには傷一つつけられず、日本は敗北を喫するかもしれない。

 いいや、喫するだろう。このままでは。

 両肩に重くのしかかる重責と危機感を振り払うべく、黒田は頭を振って相沢の申し出に注意を戻した。

「しかし総理からの頼みとあれば、わたしは民主主義国家の軍、その上に立つ身だ。微力を尽くすことはお約束するが、結果は保証いたしかねると総理にはご返答いただきたい」

 脂ぎった顔を上下させて、相沢は頷いた。

「結構です。尚、この件については予てより打診していたこともあり、総理は大きな期待を寄せておられますので、そのおつもりで。日本の命運は防衛相の双肩にかかっております。PGTASは我が国にとって最大の剣であり、矛なのです。それをお忘れなきよう」

 期待で飯は食えん、と怒鳴りつけたい衝動にかられる。思いの丈をぶちまけようとする己の怒りを寸での所で押さえた。そして一呼吸を置いて、頭の中でこの鈍間の顔を殴りつける。

 執務室に常駐している若い男性秘書が気遣わしげにこちらを見やるのが目の端でわかった。とにかく、内閣の重要人物を無下にはできない。無能であれど重鎮だ。ここで総理大臣からの指示を無視すれば大変なことになる。

 保身を第一とする黒田ではないが、自分以外に「日本人の生命と健康を守る」職務を明け渡す気もさらさらなかった。さらに言えば、このままこの小太りの無能にしてやられるだけで黙っている彼でもない。

「時に相沢さん」

「は?」

 予想だにしていなかったのだろう。相沢は豆鉄砲を食った鳩めいた声をあげた。

「先日の横浜港襲撃について、総理はいかがお考えか」話題を転換すると、官僚主義に染まった政治家らしい狼狽を相沢は露わにした。「我々防衛省としては、失われたみなとみらい駐屯地の代替として百里、習志野、両駐屯地の兵力を維持したまま、稚内、網走、根室あたりから機甲科とPG科を引っ張りたいのだがね。兵力運用はこちらで何とかする。師団新設も考えているのだ。懸案として何回か閣議に通してはいるが、総理のお考えはいかに?」

「わたしは……存じ上げません。総理は、PGTASを中心とする機械化部隊の増設と装備の更新は考えておられるようですが、詳細はなにも。未だ仔細を詰める会議の設定もまだなものでして、はい」

「では、急ぎ計らうようにお伝えいただきたい。お忘れでないとは思うが、日本は太平洋に面しており、今回のように沖合に突如として敵部隊が現れる可能性は無きにしも非ずだ。部隊の増強が図れるのならばこれ以上有り難いことはない。金をかければ救える命があるというのが、現実だ」

「わたしにそのような権限は――」

「以上だ。退出してよし」

 最後の一言で、青白く変色した顔から耳までをも赤くして、相沢重徳がドタドタと足音を立てて部屋を出ていった。

 入れ替わりに、秘書が冷やした手拭いを簡易冷蔵庫から持ってきて手渡してくる。礼を言いながら受け取り、顔を拭いた。ひんやりとした感触が心地よく、いくらか鬱屈とした気分が晴れた。相沢の顔を見なくていいのは気分爽快だが、目前の問題が霧散したわけではない。

「ご苦労様です、閣下」

「例は言っておくが、その閣下と言うのはやめろと何度も言っているだろう」

「はい、閣下」

 黒田は溜息交じりにやれやれと首を振り、オフィスの給湯室へ続くドアを顎でしゃくって示す。秘書が駆け寄って内側からノックをすると、中から一組の男女が現れた。その二人が、黒田にとってもうひとつ片付けなければならない問題だった。

 男の方は、黒髪を角刈りにした長身痩躯で、完璧な無表情。悪く言えば仏頂面の真中あたりに一対並んだ鷹の眼が、ぎろりと黒田を睨み付けた。ナイフのようだ、と黒田は思った。対照的に、隣に付き従っている女は端正な面立ちに、陸上自衛軍のオリーブドラブをした制服の上からでもわかる豊満な胸、悪戯っぽい光をたたえた黒い眼が魅力的だ。絶世の美女といっていい、妖しい長髪の女。年の頃は二十代半ばくらいだろうが、実年齢よりも若く見せる生命力と躍動感を併せ持っている。

 二人とも、陸自の略式軍装に身を包んでおり、夏の暑さで額にへばりついた前髪が無言の抗議をしていたが、表情には出さない。男女はデスクの前までやってくると、隙の無い敬礼をする。黒田は昔の癖で答礼しそうになる手をひっこめ、会釈を返した。休めの姿勢に戻った二人を交互に見やる。

 陸上自衛軍には、自衛隊時代より引き継がれる戦略機動性を重視した戦闘部隊、中央即応連隊なる部隊が常設されている。彼らは第一空挺団ほど過酷な後方攪乱任務を請け負う訳ではないが、一通りの戦闘技能を備えている精鋭であり、日本国内における即応戦力として研鑽を積んでいる。自国内、あるいは国外へ迅速に部隊を派遣する軍運用は二十一世紀初頭に多くの国々で構想され、実現された。機動性の高い即応部隊を置くとともに指揮系統の一本化も図られ、陸自のほとんどの組織は陸上総隊として単一の軍令下におさめられた。

 五年前、ここに防衛省防衛装備庁、陸上装備研究部直轄の技術試験部隊も組み込まれる流れとなった。背景には、黒い軍隊の膨大な兵力に対抗するための軍事的技術の先進を目指す必要性があるのは言うまでもない。

 結果として誕生したのが、第一技術試験旅団である。厳密には陸上自衛軍の管轄ではなく、防衛省防衛装備庁における武器試験隊と似た性質を持つ実験部隊であり、主に人型多目的戦術兵器システムPerson type General Perpose Arms System、PGTASの実戦投入を見越した戦闘情報収集を目的とする部隊として創設されたが、現在では現行機、蒼天の配備がひと段落していることもあって、新型機の運用試験部隊として稼働している。目の前の男女が所属しているのは、第一技術試験旅団第七PG中隊の隊員だった。現段階での戦闘員は彼ら二名、初期作戦能力獲得予定が二名。後者は防衛省からの技官も兼ねており、機体の整備、戦闘情報の分析を行うエンジニアとしての職責が主となる。ちなみに他の中隊は欠番と稼働中のものが混在しており、戦闘能力を備えているのは第七PG中隊だけで、事実上それだけといっていい。旅団機能のほとんどは新型機の整備運用、開発、改良用のデータ収集などを行う技官で占められている。

 そして言わずもがな、大滝総理が実戦投入を促してきた部隊は彼らのことだった。

 防衛装備庁の開発する新世代機を試験するために組まれたPG科中隊は、開発途中の機体を実戦で運用するために優秀な人材を適用することで知られている。他に、適性が無ければ務まらない部分がどうしても残るのだが、それは現場レベルでの話であり、お上である黒田が云々言うつもりは毛頭なかった。

 政治と軍事が関わるとろくなことがない。古来より、この二人は祖父の遺産を巡る嫁姑より面倒くさい間柄なのだ。

「扉の向こうで聞いていた通りだ。いまさら言うこともないだろうが、君ら二人には早急に実戦投入のための部隊習熟にかかってもらう。これは辞令と思ってもらっていい。書類は後から追いかけさせるから、必要な措置があれば遠慮なく上申してくれ」

「我々は」男が口を開いた。声色は静かだが、黒田とはまた違った相手を黙らせる威圧感がある。「内務次官補、ひいては大滝総理に貸しを作ったこととなるのでしょうか」

「貸し、か」

 黒田はひきつった笑い声を上げた。片眉を上げてどういう意味かと問う彼へ向け手を振る。

「いや、いかにも君らしい言葉だと思ってな。父上も同じような言葉を言っておられたよ。今はもう、十六年も昔の出来事だがな」

 男は鋭い雰囲気を僅かに弛緩させ、口元に笑みを浮かべた。いつもそのように笑っていればよいものを、と思うが、今、自衛軍内で最も恐れられるべき部隊の指揮官を務める彼にとって、気の緩みなど言語道断であるのだろう。

 英雄と呼ばれた男の息子ならば、一入に感じることもあろう。

 ひとつ咳払いを挟んで、黒田は真面目腐った顔で答えた。

「まあ、貸しにはなるだろうな。防衛省が進めていた計画と履行することになっても、内閣の早急な実戦投入を望む無茶ぶりには応えるわけだから。我々はこの命令を受けて動き出したと世間は認識するだろう。ところが、蓋を開けてみれば――というのが、わたしの狙いさ。まあ、機体の配備が即座に行われる時点でお察しだ」

「書面上の偽装ですか。機密に属するとはいえ食えないお方だ。それで、新人については? 人選に目途が立ったとお聞きして参ったのですが」

 黒田は左手でつくった受け皿を、右握りこぶしでポンと叩いた。大きな手からはやはり大きな音が鳴る。

「おお、そうだったな。ちょうどいい具合に、二人、推薦したい人間がいる。これが彼らの詳細情報だ」手元にあった茶色封筒を差し出し、男は受け取って裏面を見た。機密の二文字はどこにもない。通常扱いの人事ファイルである。「わたしが話してもいいんだが、そもそも彼らのことはよく知らん。わかるのは、期待度が自衛軍の中で最も大きいということだけで、小林の奴の推薦も出ている。客観的な判断は君らに任せる」

「了解しました。それでは」

 今度は、黒田は「退出してよし」とは言わなかった。敬礼して、部屋を出て行こうとする女へと、黒田は最後に気さくな声をかける。

南津子なつこちゃん。今度、飯でもどうだい?」

 さっと振り返った女性は、妖しい笑みを口元に張り付かせながら人差し指を左右に振った。

「黒田さん、ごめんなさい。積極的なお誘いはお断りするのが流儀なんです」

 長く黒い髪を名残りに、風の女神は扉の向こうへ消えた。





 不運なことに、横須賀市は今日も快晴である。

 見渡す限りの蒼穹の、ぽっかりと開いた穴から燦々たる陽光が降り注ぐ。コンクリートで舗装された基地の威容が照らし出される中、日計ひばかり洋一よういちは今日の二杯目のアイスコーヒーを口元に運んだ。

 軍港には見慣れない駆逐艦が何隻も並んでいる。先日の横浜港襲撃を受けて、急遽アメリカが派遣した増援艦隊だという。安保条約が改訂され事実上の軍事協定となってからも続いている両国の緩い同盟関係の賜物ということだろう。昨晩到着したらしいが明日にはもう出港の予定で、入れ替わりに舞鶴から第七護衛隊がやってくるという噂だ。かの国も黒い軍隊の再侵攻が現実になる日が近いと考えているのだろう。

 まだ量産を継続している旧式ミサイル駆逐艦を改良した船型は、モデルシップを同じとする、隣に居並ぶ海上自衛軍艦と面影が似ており、まるで姉妹艦のように瓜二つだ。複雑に格子状のアンテナが張られたマストやAESAの大きな膨らみが特徴的で、平面的な設計がどことなくヒロイックで格好いい。

 ふと、空いた左手を太陽に翳し、血潮を見る。

 不思議なくらいに生きている。その事実が腹の底へ落ち込んでいって、形容し難い存在感と共に沈殿し胸を圧迫する。

 日本の再軍備と共に、アメリカ合衆国は第七艦隊の派遣を打ち止めた。日本自身の海軍力が予想以上の成長を果たしたこともあるが、いちばん大きな要因となったのは安保条約の改訂だった。元より海外派遣を考慮していない自衛隊だったからこそ、アメリカは矛としての役割を担ってきたわけだが、第七艦隊は南極戦争における黒い軍隊の第一次侵攻で壊滅的被害を受けたこともあり、西海岸とハワイに錨をおろし戦力醸成に勤しむ必要が出てきた。代わりに海自の増強を、という理屈である。

 第一次侵攻で、主に太平洋で激戦を繰り広げた日本、中国、アメリカ、ロシアなどの環太平洋地域の海軍は、ここ数年で狂ったように軍艦を建造、就役させている。費用対効果はさらに突き詰められ、ダメージコントロールも重視されており、各システムも高性能化かつ単純化の一途を辿った。その結実した姿が目前の、鈍色の鉄塊が海に浮かぶ様である。

 何にしても黒い軍隊によって日本は八十年以上ぶりに、国内から外国軍を排斥することになったわけで、在日米軍が使用していた施設や土地はほとんどが自衛軍により接収され、現在も使用されている。しかし米軍払下げとなった海軍病院の屋上から見える船の数は、実はそれほど多いとはいえない。

 先日の横浜港襲撃時、海上自衛軍の艦艇も何隻か撃沈されている。突然の奇襲攻撃だったことも要因のひとつだが、警戒監視船がトラブルを起こして交代した隙を狙われたことが災いした。攻撃と同時に、基地機能も全滅するやと思われたが、システムの起動に成功した複数のイージス艦が港に係留されながら迎撃弾を射出、難を逃れた。

 遠くから風に運ばれてくる、うんざりするほどの蝉の声を聴く。砲声を聞いた時から、もうこんな鳴き声は気にもならないだろうと思っていたのに。

 戦争と同じくらい暴力的な季節に移り変わっていく。

 それは、夏である。

 吹き付ける海風が入院患者用の空色チュニックを滅茶苦茶にし、強い日差しに焼ける額を手で守る。帽子を買ってくるべきだろうか。肌がひりひりと痛い。今、遠くから一機のティルトローター機がやってきて、基地のヘリポートへと着陸しようと主機を回し始めたところだった。爆音が蝉の声を掻き消し、より一層の喧騒が辺りを満たす。海風に熱い風が加わってどっと汗が噴き出た。

 そろそろ戻ろうか。そう考えた時、肩を叩かれ、日計はゆっくりと振り返った。

「やっほ。あら、コーヒー。どこから買ってきたのよ」

 鷺澤さぎさわ朱里あかりだった。彼女は彼のよりかかる屋上の転落防止鉄柵に、同じ姿勢で体重を預けて顔だけをこちらに向けた。

 少し血の気の引いた顔色をしているだろうか。体調が気がかりだが、プラスティックのカップを振って大量に付いた汗をコンクリートの床へ落とす。

 今日も彼女は美しい。セミロングの黒髪は艶やかで、今日はポニーテールにはせずにそのまま降ろしているから、風でしっちゃかめっちゃかになっている。同じ病院支給のチュニックは、彼女が身に着けると視線の向け先に困る。距離が近すぎるかもしれないが、もっと近く、この身体と重なっても構わないと思った。

 顔が赤くなる前に、青い海原へと視線を投げて誤魔化す。

「移動売店。おばちゃんがカートで配ってた。今日は暑いから特別だってさ。みんなすごい喜んでたよ。君はもらわなかったのか?」

「さっきまで一時間も健診してた。嫌になっちゃうわよね、ほんとにもう。CTにMRIに血液採って、挙句に肺活量、その他、その他……」

「それはそれは、お疲れ様でした」

「なによ、自分はここでずっと呆けてたくせに」

 笑いをかみ殺して、そういえば今朝、病室に彼女はいなかったと思い出す。

 横浜港襲撃事件は、言うまでもなく日本中を震撼させた。いや、世界全土で驚愕の波が巻き起こり、人々を飲み込んでは生活をひっくり返した。そんな彼らの胸中に渦巻く、不安と懸念を察するのは容易い。彼らが頭に浮かべたのは、つまりこういうことだ。

 第一次侵攻の停止から十五年が経過しており、人類の持つ技術や兵力は激変している。横浜の一件は、黒い軍隊の第二次侵攻の先遣部隊による威力偵察だったのではないか?

 既に悪夢の再来へ向け、国連軍は全地球規模で警戒態勢を取っている。アフリカ大陸、東南アジア、太平洋、南アメリカ大陸……様々な予防策が講じられ、戦力は増強された。予断作戦の計画立案にも拍車がかかっており、事実上の臨戦態勢が敷かれている。実の所、こうしてのんびりしているのは横浜港襲撃時に負傷し、担ぎ込まれた連中くらいのものだ。日計と鷺澤もその類で、ベイブリッジの残骸に命からがら這い上がり二人で気を失っていた所を、湾内に侵入してきた海上自衛軍の強襲揚陸艦<ずいほう>によって救助され、回転翼機で海軍病院まで輸送された。目を覚ましたのは、つい二日ほど前である。それまでは死んだように眠り続けていたと看護師から聞いた。

 確かに自分は死に、そして生まれ変わったと日計は感じている。それまで彼を構成していた多くのものが、あの戦いで抜け落ちていってしまったのだから、これまで通りの自分ではいられない。

 病室は溢れかえるほどの負傷者で埋め尽くされていた。横浜一帯が火の海になったために、まともに稼働している軍病院で最寄りの位置にあったのは横須賀だけだった。風紀を乱す要因ともなるが、男女同室が特例として認可され、二人は隣り合ったベッドで眠っている。看護師の話では、あの大爆発はここからでも衝撃を感じ、市街地の中心部では未だに火災もおさまってはいないのだという。ちらほらと立ち上るあの黒煙はもう見えないが、消火設備もじゅうぶんではないために、消防庁が苦労しているようだ。ポンプ車の内容する水だけでは到底足りない。破壊の規模に対して放射性物質が検知されないのが唯一の救いではあった。

 いつの間にかヘリポートへと無事に着陸したティルト機が給油体勢に入っていた。ローターを回したままのホットフュエルだ。すぐに飛び立って新たな輸送任務に就くのだろう。この暑いのにご苦労なことだ。心の中で敬礼を送りながら、鷺澤へともうひとつのカップを手渡す。彼女はぱっと笑顔を咲かせた。

「わたしの分、取っておいてくれたの?」

「二杯もらったんだ。口をつけてるものだけど、ほとんど満タン。よかったら飲んで」

「どうもありがとう」

 栗鼠のように鷺澤はカップを両手で握りしめ、ストローを咥えた。そして顔を上げ、にやりと笑う。

「間接ね、これ」

 後頭部を掻いて、日計は耳が赤くなるのを自覚した。

「気にするほうだったっけ?」

「ぜーんぜん」

「ハハハ。健診の結果は?」

「詳細はまだだけど、先生の話では極めて良好。明日にも退院できるらしいけれど、打撲の様子を見たいからまだだって。そっちは?」

「同じようなもんだ。命に別状はないけど、本調子じゃない。それだけ」

 お互いに沈黙。遠くを、コンテナを山積みにした貨物船が遊弋しているのが見える。

 何ともなしにそれを眺めながら、日計は意を決して、あることを尋ねた。

「君、継続するか?」

 彼女は風に靡く髪を払い除け、困惑した様子で眉を潜めた。

 統合幕僚監部には日計訓練生の指揮したベル小隊の活躍が知れているらしい。しきりに、このまま退役ではなく現役復帰を目指して欲しい、そのために陸幕はどんな協力も惜しまないと催促してきていた。目の覚めた当日から、書類は届き続けている。これほど本省からアピールが来るとは思ってもみなかった二人は、度々病室でも相談し合うのだが、同室の自衛官からの非難がましい視線に耐えかねて満足な結論を出せないでいた。療養中くらいしっかり休ませろ、ということらしい。

 だが、避けて通れない問題であるのは事実だし、お互いのためにも放っておいていいことではない。もし本当に黒い軍隊の再侵攻が現実のものとなるのであれば、自衛軍には一人でも多くの兵士が必要だ。

 自然、こうした話題を持つには、屋上のような人気のない場所が選ばれるのだった。

 うーん、と、かわいらしい唸り声を何度も上げてから、彼女は答える。

「ぶっちゃけ、まだわからないわ。あの日の事を受け入れるので精一杯だし。死傷者数のこと聞いた? 遺体が確認されているだけで一万は超えるらしいわ」

 特に取り乱した風もなく頷いて見せる自分が、ひどく薄情に思えたが、実際は違う。不感症なわけではなく、ただ単純に、大勢の死というものをイメージし実感する機能が人間の脳には備わっていないだけだった。

「それで済んでよかった」心の底から言葉を絞り出す。「市民が避難する前に攻撃されていたらと思うと、途方もない数の人が亡くなっていたところだ」

「なら、戦った意義はあったのかしら」

「ある。絶対に。無いなんてことはない」

 疲れたように問うた彼女の問いに、強く答える。鷺澤朱里は芯の強い女性だが、その優しさ故に必要以上に胸を痛めてしまう節があることは、短い付き合いながら彼にはわかっていた。

 彼の気遣いを察してか、鷺澤は力ない笑みを口元に閃かせた。

「ありがと」

 彼女はコーヒーカップをコンクリート床に置くと、苛々とセミロングの髪の毛をポニーテールにまとめてヘアゴムで縛る。露わになったうなじを見つめていると、それに気が付いた本人が今度は嫌な笑みを浮かべた。

「あらぁ。日計くんもそういうこと考えるのね。言っておくけど、ここには誰もいないわよ?」

「節操がないって言いたいのなら、ぼくは否定するよ。ただの健康ないち男子だ」

「フフ。大丈夫よ、わかってるから」

 諦めの溜息と共に、日計はあの日を思い出していた。

 大火に包まれた横浜。赤い空にたなびく黒煙。響いてくるのは地鳴りに似た火災の音。その中にいくつの人間があげた断末魔が混じっていたのかは知らない。

 ただわかるのは、たった一機で全てを終わらせた、あの細いPGTAS。アレースと呼ばれる機体の攻撃であったことは後で知った。生き残った戦闘部隊は、あの場にいた限りでは自分達二人のみだったということだ。今の所、見知った顔には出会えていない。習志野あたりから横浜へ急行していた部隊の顔が多い。爆心地から離れていた場所で展開していたためだ。

「そういえば、ご家族は?」

 沈黙を埋めるために、彼女が口を開いた。緑色のストローを咥えているのは、なんとなくエキゾチックだ。

「まあ、一応ね。みんな無事みたいだけど、横浜港の壊滅は経済的にも大打撃だって。ランドマークタワーが壊れて残念だって言ってた」

「どうして?」

「うちの両親、あそこがお気に入りのデートスポットだったんだってさ。煙と馬鹿ほどってやつだよ」

「あらあら。なら、尚更デートしておいて正解だったわね、わたしたち。ね?」

 この病院からでも遠くに見える、かつては港の繁栄を誇っていたランドマークタワーは、黒焦げになった鉄の塔として残っている。窓ガラスや内装の類は全て吹き飛び、中は燦々たる有り様だそうだ。まだ、内部に残っている遺体の回収や消火作業に、警察、消防が駆り出されている。逃げ遅れた市民は他にも多く存在するが、老朽化もあり、ランドマークタワーは解体処分が早々に決定した。あんなものは恐怖しか人に植え付けない。その過去がどうであれ、一番上に悲惨すぎる結果が上書きされてしまった。

 やりきれなくなって、日計はそれとなく話題を転換した。

「君のご両親は宮城に住んでいるんだっけか」

「うん。あっちもあっちで大変みたい」

「ぼくの両親は大船にいたけれど、今はもう避難したって、つい昨日連絡が来たんだ」

「何よりだわ。これだけ戦って、傷付いて、何も守れなかったなんて結末は認めたくない」

「同感だ」

 見知らぬ声に振り返ると、一組の男女が立っていた。

 双方、陸上自衛軍のオリーブドラブ色をした略式軍装を身に纏っている点は同じだが、角刈りの男と長髪をなびかせる女はとても対照的に見える。前者は全てを切り裂く剣の冷たさを思わせ、後者は何者をも抱擁する女性的な美しさを醸していた。両者とも微かに汗をかいており、女の頬には長い髪がへばりついている。男のほうは飄々としていた。この酷暑が存在しないように。

 女のほうがワイシャツの襟に指を突っ込み、胸元を開いて海風を導いた。

 思わず目を逸らしそうになるのを堪え、鷺澤と揃って気を付け、敬礼する。二人の肩に張り付いた記章を見れば、それぞれ一等陸尉と二等陸尉であるのはすぐにわかった。まだ正式に階級を授けられてもいない二人にとっては、決して口答えのできない地位の人間だ。鉢塚二等陸曹の言葉を借りるなら、「たとえ全身の毛をむしられても笑顔でいなければならない」立場、である。

 男のほうがごく薄い微笑みを口元に貼り付けて言った。

「そう身構えなくていい、まだ君らは配属もされていないのだから」リラックスさせようとのことだろうが、笑みが笑みとして機能していない。「日計洋一と鷺澤朱里で間違いはないか?」

「はい、一尉」

 しゃちこばった鷺澤の言葉に男女は顔を見合わせると、また微かに笑みを浮かべて向き直る。初々しいと思われたのか、白々しいと思われたのか。こちらは至極真面目なのだが、さて。

「自己紹介をしよう。わたしは第一技術試験旅団第七PG中隊の指揮官を務める、有沢ありさわ琢磨たくま一等陸尉だ」

「同じく副中隊長を務める、東雲しののめ南津子なつこ二等陸尉。二人からも、改めて名乗ってもらってもいいかしら?」

「ぼくたち、ですか」日計は目を瞬いた。東雲はこくこくと気さくに頷く。

「ええ。もう名前は知ってるけど、挨拶って、そういうものじゃなくて?」

 鷺澤は、彼女がいつかのみなとみらいで見た女性自衛官が彼女であることを思い出した。隣では日計が背筋を伸ばしている。

「はい、失礼いたしました。自分は日計洋一訓練生であります」

「右に同じく、鷺澤朱里訓練生です」

「二人とも、よろしく」

 東雲が微笑むと、有沢が咳払いを挟み、注意を促した。

「ここは暑いから単刀直入に言おう。自衛軍への復帰要請が統幕から届いていることと思う。今日来たのは、君達に三つ目の選択肢を提示するためだ」有沢は、人差し指を立てる。「ひとつ。要請に従い、陸上自衛軍へと復帰する」中指を立てる。「ふたつ、要請を拒否し、家へ帰る。君らは民主主義国家に属しており、本邦には徴兵制は無い。意思を表明すれば自衛軍は手出しできなくなるから、その点は安心していい」

 最後に、薬指を伸ばした。

「みっつ。我々と共に新規開発のPGTASに乗り、実戦における概念実証試験の情報収集任務を遂行するか。開発途中の機体だが、防衛省防衛装備庁の技術の粋ともいえるものだ。乗り心地は保証する」

 驚きのあまり二人は顔を見合わせた。面食らい何も言えない数秒が過ぎた後、なんとか意識の片鱗を取り戻した青年がおずおずと手を挙げる。

「お言葉ですが、一尉。ぼくたちにはその提案を比較するだけの情報がありませんし、入隊前から人事が確定するとも思えません」

「君がじゅうぶんだと感じるほどの情報を、わたしから君達に説明することは権限の問題から不可能だ」

 軍人らしく、有沢はぴしゃりと言った。

「わかっていると思うが、概念実証機のことも、その運用に関わることも国防機密だ。むしろ概念実証機の存在を知らせただけでも譲歩しているといっていい。民間人になる可能性のある人間へと機密を漏洩する程、わたしは口は軽くないし、自衛軍はそれを許さない。情報は開示できるが、情報を知るのは、正式な入隊後であることを理解してくれ」

「何も知らないまま決めろと言うのですか。これから、またあの地獄に戻るかという選択をするというのに、そんな――」

 鷺澤が食って掛かるが、有沢は眼光だけで次の言葉を押しとどめた。恐ろしい目をする男だ。眼光だけで人を射殺してしまえるかもしれない。

 二人が無言の鬩ぎ合いを続けている中、日計は自分の目の前に提示された選択肢をひとつずつ検討し始めていた。

 まず、家に帰ること。家族の元へ帰るのはいい。心が安らぐし、何より戦争の矢面に立たずに済む。自分がそうすれば、鷺澤もきっと実家へ戻るだろう。後のことは二人で、ゆっくりと相談しながら決めればいい。気が早いと思われるかもしれないが、自分はもう彼女と残りの人生を過ごす決意を固めている。このご時世、民間職で安定した暮らしをしていける保証はないが、それでも二人で頑張れば何とか生活はしていけるだろう。横浜港襲撃を生き延びたからには、その後の人生をどう過ごすかを決める権利があるはずだ。

 次に、書類に署名して自衛軍へ戻ること。今も厳密に言えば自衛軍に所属していることに便宜上はなるが、階級を貰っていない以上、限りなく民間人に近い軍属という中途半端な立ち位置であるのに変わりない。このまま訓練課程を終えてPGドライバーとなり、正式に配属されて蒼天を操縦する人生を選ぶか。その場合、鷺澤朱里と共に戦う望みは無い。訓練を終えればそれぞれ、別の部隊へ配属される。PGTASは二機で一個小隊、二人を同じ小隊へ配属すれば誰が経験を伝えるのか。そうした観点から見て、同じ戦場に立つのはほぼ絶望的だろう。別々の場所で死ぬことになる。

 最後に、有沢らへついていくこと。彼の口振りから察するに、第七PG中隊とやらに入れば鷺澤と共に戦場に立てる。そして概念実証機の操縦に携わることになるのだろう。この点は極めて重要だ。何しろ、多くの改良を経て実用化された量産機ではなく、新たな段階に進んだ新型機体の試験運用を前線で行うのだから。そうなれば極端な話、唐突に主機が停止するという事態も起きかねない。戦場でそうなれば死ぬだけだが、生憎と今は黙って首肯するほど人生を謳歌したとは言えない。むしろこれから。彼女と共にどうするのかを考え始めた日計にとって、特に重要なことなのだ。

 半ば決まりかけた決断に、彼は意思の力を総動員して首を振った。

「有沢一尉、これは今日中の返答でなければいけませんか?」

「いや、そうでもない」

 不意に語気を和らげる彼だった。

「もし我々に付いてくるのならば、六日後に東京駅前まで来てくれればいい。一三〇〇に迎えに行こう。それまでにどうするかを決めておけ。事前の連絡は一切不要だ」

「わかりました」

 無駄な話はしない、決意は行動で示せ、ということか。

 会話の終わりを見計らい、鷺澤が声を上げた。

「一尉。聞いてもよろしいですか」

「わたしに答えられるものならば答えよう、鷺澤訓練生」

「はい。第七PG中隊では、戦う意義がありますか」

 この質問には東雲が答えた。彼女は笑みを消し、真剣な面差しで鷺澤朱里へと向き直る。

「大いにあるわ。わたし達はね、新しい技術を実証することで、これからの未来を切り開く剣になるの」

 唐突に現れた二人が去っていくと、病院の屋上には強い風だけが残された。

 それが追い風なのか向かい風なのかは、今の二人にはわからなかった。





 鷺澤朱里は未だに慣れない硬い寝台の上で寝返りを打ち、ふと、日計洋一が静かな寝息を立てているカーテンを透かし見た。

 窓から差し込んでくる月光が青白く病室を照らしている。消毒液の鼻の奥を刺すようなにおいも相まって、さながら滅菌灯を思わせるほど清潔で、静謐だった。暗闇を助長する消灯した蛍光灯を睨み付けても光が灯ることはなく、時間だけが動いている。

 祈りとはこんな風なものなのだろうか、と頭の片隅をよぎった。

 清潔な何かによって漂白された世界が、これほど重たい圧力を伴うとは思わなかった。世界観そのものが巨大夏力を伴って心を押しつぶし、始まりかけた頭痛の気配に顔を顰める。まだ本調子でもないのに小難しいことを考え過ぎたせいだろう。既に時刻は深夜十二時を回っている。健康を考えるならもう寝るべきで、自衛官としても市井の人間としても、今は休養こそが最優先だ。

(どうしてわたしたちをあんなところへ引き戻そうと思うの?)

 昼に訪問してきた二人の自衛官へと、心の中で愚痴を投げかける。記憶にあるのは、美しい髪と、鋭い眼差し。そのどちらも答えることはない。

 あの二人は、わたし達の目の前に現れるべきではなかったのだ。彼らが現れなければ、自分はこんなにも揺れないで、日計と残りの人生をどう歩むかを気楽に考えていられたのにと歯噛みする。そして誰かに期待され、求められ、全てを無碍にして人生を歩めるほど鷺澤は自分自身が強くない存在なのだと知っていた。なまじ戦うということを覚えてしまったがために、彼女の中で責任という二文字がすくすくと根を張り始めている。

 夕食までずっと部屋に籠って考えていた二人のうち、青年のほうは既に答えが決まっているようだった。鷺澤には、それがわかった。彼は自分と行動を共にするつもりだ。胸に抱いた大きな恋慕をなかったことにするほど残酷なまでに鈍感になることが、彼女にはできないでいる。

 鷺澤が自衛軍に通常配属される事を望むのなら、迷うことなく日計は同じ道を歩むだろう。一般市民として余生を送ることにも反対せず、共に下野するだろう。彼女はといえば、有沢琢磨と東雲南津子がやってくるまでに実家に戻るつもりだった。もうじゅうぶん戦った、というのが彼女の得た実感であり、事実でもあった。戦い抜いたといえば聞こえはいいが、実際には生き残っただけだ。他に多くの生命が失われた中、日計と二人で生還したことは正に九死に一生を得る出来事であり、その命を再び捨てにいくような真似はしたくなかった。

 しかし、身に受けた傷だけでじゅうぶんな戦勲と呼んでもいいものだろうか?

 律儀な自分が、他人事のように批判を差し込む。

 ひび割れたアスファルトと、砕け散ったコンクリート。血の飛び散った斑模様に、肺を満たす硝煙にむせ返り、涙が頬を伝い喉が焼けても出口の見えない世界が広がる。

 あの瓦礫の中に友人たちが埋まっているのだと、今でも信じられない。あんな地獄の有り様でも、日計が戦うことを選んだのは、恐らくは鉢塚二等陸曹の命令などではなくて。

(彼はわたしのために戦ってくれた。日本のためではなく、わたし一人のために)

 戦わなければ生き残れなかったから。

 胸の内で呟く。答えるように彼の寝息が一段と高くなり、知らず心臓が跳ねた。

 吐息はさざ波が浜を打つのに似ている。ひとつ違いがあるとすれば、波は途絶えないが、彼は死んでしまう点だ。

 自分のために命を投げ出してくれる誰かがこの世にいる。その一事だけで、鷺澤はどこまでも飛んで行けそうな気がしたが、果たして彼が本当に命を落とした時に、自分自身を許せるだろうかと自問せずにはいられなかった。その息が止まった時に、何がどうなるのかも。

 全ての要因はそこにある。そう、死ぬのが自分だけならば簡単な話なのだ。一人分の配慮が二人分になったからこそ、自分はこんなに苦しんでいる。だからといって彼に腹正しさは微塵も感じていなかった。どうして感じることができようか。そのように

 想像するだけで心が悲鳴を上げて、訳の分からない涙が静かに瞳から零れ落ち、枕を濡らした。人生の岐路に立っている自覚はあるが、分かれ道の先に広がる人生の重さに耐えかねて胸が張り裂けそうだ。

 一蓮托生の運命を当然が如くに甘受してくれる存在の尊さが、彼女には愛しくてならなかった。

 彼の存在を、こうして身近に感じるだけで、わたしは幸福になれる。

 ――じゃあ、彼は、どうすれば幸福を感じてくれるだろう?

 鷺澤は、男心というものがわからない。日計は、今までに見てきたどの異性とも違ったタイプだ。自分に関わりの無い他人は徹底的に無視しようとする。しかし、ひとたび繋がりを持てば話は変わる。彼にとって、目の前にある自分と関わりのある全ての人間が、自分の歩んでいる人生に少なからずの影響をもたらす可能性を孕んでいるのだと、本能的に理解しているのだろう。

 全てを受動的に認識する人間の性質に従いながら、自分の概念を保持している。そうした生き方ができるのは、彼が真に強い男だからだと思う。並大抵の意識では、そうした世界の流れに逆らう生き方は難しいだろうに。彼は平然といま最も自分にとって大切な誰かのためになる最重要な方法を模索して、結果として今日一日、沈黙を守った。それは強い自制心を必要としたに違いない。

 自分が考えるのを邪魔しないためだろう、と彼女が自覚するのは大それたことだろうか。それとも、女として当然の気付きであるのだろうか。彼女の中にある幼い部分は、それをどう判断していいのかわからず、ただ、自分の選択に全てを委ねた男へ報いる方法を探し続ける。

 そうして、いま見つけられずとも、これから探していけばいいのだと気が付いた。



 翌朝、朝食を済ませてすぐに席を外した日計を探して病院内を歩き回っていると、意外な人物に出会った。

南原なんばら一佐!」

 男が振り返る。南原なんばら世雄つぐおは点滴を右手に握りながら院内をぶらりと散歩していたところだった。彼女の顔を見るや、一瞬、信じられないといった表情を浮かべ、次いで満面の笑みが彼の表情を彩った。

「鷺澤、鷺澤じゃないか!」感情がこもった声は生気にあふれていたが、すぐに悲しそうに、「お前、生き残ったのか」

 涙さえ浮かべながら、南原は近寄ってくる。まだ本調子ではない彼に長くは歩かせまいと、鷺澤は小走りに駆け寄った。彼の目の前に立ち、固い握手を交わす。

「はい、おかげさまで。鉢塚二曹と、南原一佐、教官方のご指導のおかげです」

 型どおりの言葉だが、真実だ。鷺澤は自分が生き残れたのは、その術を叩き込んでくれた全ての人たちのおかげだと確信している。

「わたしが生きていたのをご存じなかったのですか?」

「知る暇が無かった」沈痛な面持ちで、南原は傍にあった適当なベンチを指さし、二人で並んで腰かけた。「誰が死んで、誰が生きたのか。記録すら残っていまい。陸幕が被害規模の調査に躍起になっているが、正確な数字までは判明しないだろう」

「それは――申し訳ありません。出過ぎたことを」

 当時、即応した自衛軍の中でも指揮階級にあったはずの南原は辛そうに胸元を抑えていたが、懸命に笑顔を形作った。

「構わないさ。どちらにしろ、わたしも君も生きている。今となっては、そのほうが重要だとは思わないか?」

 それから、二人は近況報告を交えて互いの記憶を伝えあった。

「みなとみらい駐屯地が巡航誘導弾を受けて壊滅してから、わたしは部下と共に指揮通信車に移って避難誘導を補佐していた。そこに来てあの爆発だ。左腕と内臓をあちこちやられたよ。目が覚めたのは昨日の朝だ。今も、立っているのが不思議なほどらしい」

 目をやれば、その痛々しい傷跡に包帯が巻かれている。顔色は青さを通り越して白い。精気というものが感じられない紫色の唇。今にも倒れそうな彼の身体を支えているのは何なのだろうか。彼女には不思議でならなかった。大勢の部下を亡くしたはずなのに。

 逆なのかもしれない。大勢を死なせてしまったから、彼は自分への罰として、辛い道を選んでいるのではなかろうか。

 いたたまれない気分は意地でも顔に出すまいと、鷺澤は無理に笑顔をつくった。

「そうでしたか。わたしは、あの後に日計くんと一緒に戦っていました」

「らしいな。お前たち四人が、前線の窮地を救ったと後方でも噂になっていた。とんでもない新人が現れた、と。だが、折悪くそれを知ったのはアレースによる攻撃の十分前だ。喜ぶ暇もなくこうなった」

「わたしたちが狙撃を終えた時ですね」

「ああ。連絡も取れなかったし、申し訳ないが、君達はもう死んだものと思っていたから……」

 それは彼の責任ではないだろう。むしろ、あの爆発の中で生き残った彼の悪運に、鷺澤は感謝したい程だった。

 あの時、あの場所を共有していた誰かが増えるのは、良いことだ。日計と二人で背負うには重すぎる記憶の数々が、彼女の頭にこびりついて離れない。二人なら半分だが、三人なら三分の一だ。

 おもむろに立ち上がって近くの自販機まで走り、コーヒーを買い込み、また走って戻った。南原に渡してやると、彼は恭しくそれを手に取ってプルタブを起こし、豪快に大きな一口を飲んだ。砂漠を歩き続けた旅人を思わせる飲みっぷり。

「日計も、生きているんだろう?」

 缶を下ろして、希望的観測が入り混じった彼の問いかけに、鷺澤は嬉しい返事ができることを神に感謝した。南原は駐屯地と部下が全滅したことで、心を痛めている。彼にこれ以上の重荷を背負わせたくはなかった。たとえ一人の命でも、計り知れない重みを持つ。自分が先ほど、肩にかかる何かを軽く感じたのと同じように。

「今、彼を探していた所なんです。少し話さなければならないことがあって。一佐は散歩ですか?」

「そんなところだ。リハビリも兼ねて、ともかく歩くことから始めなければならん。それに、この歳になるとそれくらいしか楽しみが無いんだ。というのは冗談だが、実を言うと暇でね」

「わかります。似たような男を知っていますから」

 お互いに笑い合い、彼女はふと浮かんだ疑問をぶつけた。

「一佐は、自衛軍に復帰されるのですか」

 南原は目を瞬いた。

「本省から届いた書簡のことか?」

「ええ、そうです。どうなさるおつもりですか?」

「復帰しようと思う。そもそも、わたしは国家に誓いを立てた身だ。市民の生活を守るためには生命を投げ出すことが義務で、契約だし、何より……」

「なんですか?」

「他の生き方を知らない」

 雷に打たれたような衝撃が、脊髄を駆け巡る。彼女は隣で廊下の一点を見つめたまま動かない、南原の老けこんだ横顔を見つめてしまった。

 定まってしまった生き方。道は進むほどに狭くなり、他の道からも離れていく。彼はおそらく、戦って死ぬ自分の運命を受け入れていた。しかし、自らで許容してしまっているからこそ、他の救いへと手を伸ばせない。もっと楽で幸福な生き方があるのに選ぼうとしない。それはできないと、誰よりも自分が否定してしまう。

 わたしはまだ、その入り口に立っているだけだ。日計は、既に足を踏み入れているだろう。鷺澤のために生きるという最重要事項を、彼は全うし、そして死んでいくに違いない。確かにわたし自身は幸福ではある。だが南原然り日計然り、何かの、誰かのために死ぬという覚悟ほど、当人を不幸にするものはないのではないか。

 なんて――報われないんだろう。

 でも、まだ、一人は助けられる。鷺澤は気を取り直し、自分を励ました。南原を救うことはできない。彼はこのまま、黒い軍隊との戦いで死んでいくだろう。どの戦場へ赴くのかも定められないこの身では守りようもない。しかし日計は、そうではない。彼の存在は鷺澤と共に在る。なら、彼の際限なく続く自己犠牲の果てに何かを与えられるのは自分だけだし、そうならなければ、嘘だ。そんな結末は誰も望まない。彼は、わたしが幸福を与えなければそのまま死んでいくのだ。

 はじめて抱く深い愛情と同じくらい、彼を憎らしいと思った。

「怒っているのか、鷺澤」

 顔に出ていたらしい。南原は心配そうな視線をこちらへ向けていた。

「まあ、はい。怒ってはいますけど」鷺澤は語尾を濁す。しかし問いかけるように片眉を吊り上げる彼には、話さざるを得なかった。「一佐。自分の……わたしのために死のうとしている誰かを救うためには、どうしたらいいでしょうか」

 南原は努めて平静を装っていたが、頬の端がぴくりと反応するのを、彼女は見逃さなかった。

「日計のことだな」

 図星だ。思わず顔が赤くなるのを感じながら、頷く。

「はい。彼は、わたしがどんな選択肢をとっても共に歩み、殉じるつもりです。自衛軍への残留も家庭を築くことも。わたしは、別に嫌ではないのですけど」

「もう一人分の人生を背負う決断に恐れをなしている、と」

 そう、彼女は怖いのだ。自分の人生は、自分でどうとでもする。自ら墓穴を掘って死ぬのならまだ納得できる。しかし、そこに他人の人生が覆いかぶさってくるのなら話は別だ。自分の意思が誰かの意思に優先される、それを是とする生き方があることに、鷺澤は恐怖する。

 人は、何よりもまず、自分のために戦わなければならない。

 例によって、南原世雄は顎をさすり、フム、と考え込んだ。その口が開き、思考の断片が飛び出してくる。

「成程な、だからこそか。鷺澤、お前、日計洋一という男をどう見る?」

「彼は優秀なPGドライバーで――」

「そうじゃない」彼はまたコーヒーを一口飲み、やんわりと遮った。「一人の男として、お前は日計を好いていた筈だ。おそらくは今も。なら、お前あいつの何かに惹かれたってことだ。男と女ってのは磁石みたいにくっつくが、決してその例えは的を射たものではない。あいつが男であり、お前が女であること、それは前提条件に過ぎない。お前があいつの力を感じとり、それに共感した末に惹かれている」

「でもわたしは、いちいち誰かのこれこれこういう所が好きだと自覚している訳ではありません。例えば、失礼を承知で申し上げますけど、今は南原一佐の真摯な姿勢を好ましく思っています。そのように感じることはあっても、全てが自分にとって理解できる形であるとは限りません」

「当たり前だろう。自分の全てを知っている人間などいない。だが人間には無意識がある。自分の自我と他に、もう一人の自分がいるようなものだ。彼らは我々の意識が向かない何かを見つけ、囁いてくる。その声を聞けるかどうかが、人生を上手く生きていくためのコツだ」

「つまり、どういうことでしょうか?」

 理解できていない、困惑した様子の彼女を見つめ、南原は声をあげて笑った。通り過ぎる患者や看護師が振り返るが、すぐに前を向いて歩み去っていく。面倒事には関わりたくないらしい。面倒事には違いない。人の色恋というものは、得てして首を突っ込んだほうが痛い目を見る。

「つまり、何が言いたいかというとな」南原はにやりと笑った。「日計は良い男で、同時に強い奴だということだ。君の決断ひとつくらい、彼にとっては何ともないだろう」

 思わず、鷺澤は吹き出した。正にその通りだと、当たり前すぎる程、単純に納得したからだった。

 そう、彼は良い男だ。そして自分も良い女になればいい。気付けば単純な話だ。

 だけど。

「元も子もない話ですね」

「まったくだ」

 お互いに笑い合う。そしてその時、通路の奥を当人がぶらりと歩いている姿を見かけた。鷺澤は反射的に立ち上がり、そして回れ右をすると、気を付け。南原へ敬礼。

「それでは目標を発見いたしました故、失礼いたします、一佐」

 南原は右腕を軽く額に当て、答礼。

「許可する、鷺澤訓練生。君の健闘を祈る。また何かあればいつでも、遠慮なく連絡をくれ。わたしも君と、彼からの連絡を楽しみにしている」

「はい、ぜひ。それでは」

 廊下の向こうへ曲がり、眩しいその背中へと声をかけた。

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