蝶羽根、咲く火花

@eyecon

蝶羽根、咲く火花

 梅雨も終わり、夏の熱気が鋭さを増した頃。夜の夏月、満面の星が輝く下。高所の丘にそびえ立つ、社殿の階段に腰かけて。僕と彼女は遠くに咲く、花火の謳歌を眺めていた。

 爽凉な草木の薫風を体に感じながら、彼女と共にゆるりとした一時を過ごす。僕にとってそれは、言葉には表しがたい程の心地の良さである。



「綺麗だね」



 彼女はそう言った。花火が咲き乱れる中、僕は彼女の方を見る。黒い蝶柄の浴衣を着込み、夢中で花火を眺める彼女。横顔から覗く瞳には、花火が瞬きひかめいて。僕はそんな彼女の姿に、完全に見惚れてしまっていた。


 思えばあの時もこうやって、彼女と座っていたような。


 それは蝉時雨が降ったある日のこと。高校からの下校途中、僕は雨宿りへとここに訪れた。雨を避けながら、小走りで社殿の方へ進んでいくと。そこには向拝下の階段に座り込む、びしょ濡れの制服を着た女子の姿。彼女は濡れた前髪を度々かき分けながら、イヤホンで音楽を聴いていた。


 それが彼女であり、最初の出会いだった。


 制服は僕の学校と違うもので、顔も見覚えはなかった。正直他人と共に雨宿りするのは少し気が引けたが、それ以外に雨を凌ぐ方法が無く、仕方なしに社殿へ走った。

 階段前まで近づくと、彼女は気づいて、僕の方へ目を向けた。すると彼女は何も言わず、自身の鞄を持って、ゆっくりと階段の端へ寄ってくれた。それに対し、僕は軽く会釈を送り。そして自分の鞄を膝に抱えるように、静かに彼女の横へと座った。


 走ったせいか、湿気のせいか。やたらと熱かったのを覚えている。今考えてみると、僕達を襲っていた沈黙の気まずさに、身を揉まれていたせいだったかもしれない。その熱は、四方八方に肥満男性が密接している状態と似ていた。正に四面楚歌、押しつぶされそうな気分だった。僕は彼女のように音楽を聴いて逃れようとしたものの、居心地の悪さは僕を離さなかった。


 いよいよ心が折れそうになっていた頃。雨は途端に勢いを消していき、そのまますぐに止んだ。辺りには、雨上がり独特の蒸れた空気が包み。まるで僕の願いが、天に届いたようだった。

 やっとここから動ける。僕はそう思いながら、少し慌て気味に荷物を纏めた。きっと彼女も、同じことを思っていただろう。僕を真似するように、そそくさと準備をしていた。


 そして互いに神社から離れようとした、その瞬間のこと。確か、僕達の目の前に――。



「蝶だ」



 不意に彼女が呟き、僕は現実に帰る。彼女は宙に向かって、指を差していた。指先を辿るように視線を向けると、そこには黒い蝶が舞っていた。

 まさかと思った。その姿は、僕達が神社で出会ったあの蝶と……。



「……あの時と、同じだ」



 僕の言葉に、彼女は嬉しそうに「うん」と返す。

 そうだ。あの時も同じ、黒い蝶が現れて。こうして会話を交わしたのだ。僕達が、初めて喋った瞬間だった。

 彼女はあの日と同じように、顔前に人差し指を構える。すると蝶は引き寄せられるように、羽休めへと彼女の指に止まっていった。



「僕達を覚えててくれたのかな」


「そうだと嬉しいな」



 彼女はそう言って、僕に微笑んだ。その表情は、あの日蝶に触れた時と、とても似ていた。今みたいに、そうやって無垢に笑いかけて。僕が初めて、恋に落ちる感覚を知った瞬間だ。そんな彼女を見ていたら、僕は顔が赤くなっていくのを感じた。それが妙に小っ恥ずかしくて、すぐに蝶の方へ視線を逸らす。

 蝶は落ち着いたように、彼女の指の上でゆっくりと羽を動かしている。前に見た時も感じたが、実に高尚な雰囲気を持った蝶だ。


 蝶の羽には、黒い翅脈の筋と、美しい孔雀緑の鱗粉模様。それが花火に照らされて、より一層美しく輝いている。おそらくこの蝶は、カラスアゲハの類だろうか。カラスは一度覚えた顔を忘れないとはいうが、カラスアゲハにそんな記憶力があるとは、聞いたことがない。

 もしかしたら単に似ているだけで、あの時とは違う蝶かもしれない。しかし、その蝶から感じる懐かしさは、間違いなくあの日のことを思い返させた。僕が初めて恋をした時の、感情さえ。



「あっ……」



 不意に彼女は、小さく声を漏らした。気づくと、蝶は彼女の指から離れ、宙へ羽ばたいていた。神社の鳥居を抜け、花火の光を避けるように、夜の闇に溶け込んで。やがてその姿が消えたように、僕は蝶を見失った。それを見届けた彼女は、唇を弱く噛みしめると、そのまま俯いてしまった。

 彼女から、感情の訴えが聞こえた気がした。蝶に触れていた時間は、あまりに一瞬で。僕達が花火を見ている時間もそう。なぜなら、花火の輝きは刹那的だ。いつか打ち終わり、夜は過ぎ、陽は昇り、次の日へ。


 楽しい時間は早く過ぎるというが、その通りだ。人は幸福と快楽を感じると、時が経つのを忘れてしまうほど盲目になる。そしていつの間にか、多大な時間を犠牲にしていたことに気づく。彼女は蝶の羽ばたきに、それを重ね合わせてしまったのかもしれない。少なくとも、僕はそうだった。



「……ねぇ」



 彼女は呟く。



「あの蝶が現れなかったら、私達どうなってたんだろ」



 彼女は遠い目をしていた。その眼差しは、その言葉は、とても儚いもので。僕はそんな彼女に一瞬たじろぎ、言葉に詰まってしまった。

 思えばあの蝶が、僕達の喋るきっかけだった。もし雨が止んだ後、蝶が現れなかったら。あのまま神社から離れ、家に帰っていたら。僕達はこうやって、また出会って、会話をしていただろうか。



「……分からない」



 僕はそう言った。分からない。分かることではない。けど――。



「だけど僕達は、ここでまた蝶と出会った」



 だから。



「きっとまた、僕達も出会えたよ」



 どんなことがあっても、あの蝶がまた巡り合わせてくれる。僕には、そう感じたんだ。例えそれが僕達にとって、儚いものだったとしても、僕は受け入れる。それほどに君との時間は、幸福で溢れているから。

 彼女はその言葉を聞いて安心したのか、少し微笑んで「ありがとう」と言った。すると、わだかまりが解けたかのように、彼女はゆっくりと立ち上がり、「ふぅ」と息を吐く。そして、僕の方へ向いた。



「……そろそろ行こっか」



 そう言った彼女からは、先程の陰りが消えていた。代わりにその瞳には、純真な光が散っているように見える。花火の輝きではない。その美しさは、蝶の鱗粉のよう。

 僕は思った。もしかしたらあの黒蝶が、魔法をかけてくれたのかもしれない。彼女の闇を、取り払うように。



「ほら、早くしないと置いてくよ?」



 彼女は鳥居の前まで歩くと、そう言って振り返る。僕はそれに続いて、階段から立ち上がり、鳥居の方へ向かった。

 時間は一瞬にして消えていく。彼女との時間も、いずれ終わってしまうだろう。だけど僕は、その一時に満足出来たら、それでいい。時間は永遠じゃないけれど、ここで過ごした日々は、一生僕の心に残るものだから。

 気持ちを察してか知らずか、彼女は僕へ笑いかける。その姿に重なるように、彼女の背後へ二つの花火が舞い上がった。


 花火を背負った彼女の姿は、鮮やかな羽を纏った、美しい蝶に見えた。

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