3-2

 ガラス張りのビルがいくつも聳え立つオフィス街、普段は滅多に立ち寄らない場所だ。小さな広場にはポプラの木が数本立っている。ビジネスマンの憩いの場なのだろう。太陽の光が乱反射されていて、繁華街とはまた違ったまぶしさを放っている。

 競争社会から外れている俺にしてみれば摩天楼は今まで景色の奥に建ち並ぶ直方体のモニュメントに過ぎなかった。

「もう少しだから」

 前を歩いていた沙雪が振り返り、腕を伸ばしてきた。俺はとっさに身を引いた。冗談じゃない。成人して早九年。姉に手を引かれて歩くなどまっぴらごめんだ。

 俺の拒否の意志は十分に伝わったらしく、沙雪の頬が少しむくれた。

「嫌そうな顔するんじゃないの。あんたは街を歩き慣れてないんだから」

 意図が伝わったからといって、それを汲んでくれるとは限らない。姉の腕は今度こそ、容赦なく俺を掴んできた。

 今よりもっとずっと小さい頃、姉はしょっちゅう俺の手を引いて歩いた。道を歩くときも、横断歩道を渡るときも、通学のときも、「心配だから」と言って掴んできた。きっと生まれたときから、人を引っ張っていくのが好きな人だったのだ。だからこそ、唐突に舞い込んできた巨大グループの総括なんて大役もこなすことができている。

 咲良グループを取り仕切る、ブロッサム・テクノロジー社の代表取締役。楽な立場ではないのだろう。亡き父の地位を継いでから、俺と接する機会は極端に減った。俺が大学を止めてからは数えるほどしか会っていない。姉は多忙だ。前回会ってから二週間を置かずして再び相見えているのは、実はとても珍しいことだった。

 ここに来たのは遊びではない。姉が与えてくれた仕事に関わるお誘いだった。

「ここ」

 姉が急に立ち止まって、俺はたたらを踏んだ。姉の視線を辿って目線を上に引っ張っていく。

 ガラスの花。

 ビルなのだろう。下の方はただの直方体だ。それが、中央部にて丸みを帯びて膨らんで、先端にすぼまっている。こんな形の花があった。水辺の側に群生する紫色の花。

「カキツバタ・テクノ・コーポレーション。この国の電子工学の雄だ。立派な大企業だよ」

 姉が臆面もなく褒め称えた。

「なんで褒めるんだ」と俺が訊くと、姉は鼻で笑った。

「なんで?」

「商売敵なんだろ、言うなれば。同じようなものを扱っている会社なんだから」

「同じ、か。まあ確かに電子工学はうちでも扱っているけど、簡単に敵味方で割り切れるものじゃないんだよ。むしろ同系列の企業っていうのは手を組むんだ。仲良く一緒に発展していったほうがお互いに好都合だからね」

 姉は俺の手を離し、指先を俺に向けた。

「電子工学系企業は今後増えていく。それも爆発的に。なんでだかは、わかるかな」

「さあ」

「ふふ、思った通りニュースも碌に見ていないな、君は」

 姉の顔が引きつっているのを見ると、俺の返事は今のご時世には相当頼りないものであったらしい。

 躊躇いがちに首を振ると、姉が深々と溜息をつき、片手で前髪をゆっくり撫でて、「どこから説明しようか」と呟いた。

「手っ取り早く言うと、もうじきヒューマノイドに関係する研究が軍の管理下から外れるんだよ」

 要するに、と姉は続けて説明してくれた。

 先の戦争が終わった当時以来、戦場で猛威を振った自立志向型ヒューマノイドの技術は軍によって統御されていた。しかし、技術の発展を願う世界中の篤志家の希望を受け、先頃行われた国連会議でヒューマノイド研究資料が電子記録として近いうちに一般公開されることが決定された。これにより民間の企業でもヒューマノイド技術を活用して製品を作ることが可能となり、関連技術の躍進が期待されている、らしい。

「待ってくれ、ちょっと」

 話し続けようとする姉を必死に止めた。

「ヒューマノイド研究が軍の管轄下だったって? それじゃナユタが俺の家にいるのはおかしくないか」

「もちろん、現時点では違法だ。ばれたら捕まって拷問だったろうね。良かったねえ、今まで無事で」

 にやりと笑う姉の裏に、菟田野のおどけた笑いの影が見えた。背筋が寒くなる。まさか菟田野は俺を囮にしたのだろうか。後で彼を問い詰めた方がよさそうだ。

 想像を巡らしていた俺を見て、沙雪が首を横に振った。

「菟田野君も必死だったのだろう。許してあげてくれよ。元々ヒューマノイド研究は軍事技術の中でも安全性が高い分野だと言われていたんだ。少なくとも生体兵器や洗脳なんかの物騒なものよりは人道的だし、普通の生活にも応用が利くって言われていてね。こっそり研究している学舎も菟田野だけではなく大勢いたはずさ。来月にはきっちり適法になるだろうから、このまま隠しているんだよ。くれぐれも、たとえばれたとしても私の名前は出さないように」

「なんだよ、最後のそれ」

「私が捕まったら仕送りが止まるぞ」

「ぬう、それは困る」

「よくわかっているじゃないか。いい加減気づくべきだったんだ。君は普通なら生きていけないところを私のおかげで生きながらえてきたんだよ」

 姉が一際大きく破顔して、噛んで含めるように言った。

「それに、私が何の見返りもなく菟田野の研究に助力すると思ったか。もちろん研究が成功すれば、それは我が社にとっては利益となる。一方ナユタには、君の身の回りの世話をし、仕事に取り組むよう見張ってくれとお願いしてある。そうすればいくら君といっても自立しようと努力するだろうと思ってね。いつまでもだらだらと生きるだけでいる身内を体よく処理できるってことなのさ」

 言い返す言葉も無かった。

 姉は気をよくしたらしく、鼻を高々と鳴らした。

「さあ、仕事だよ。カキツバタ・テクノ社代表取締役、柿畑燈吾に贈る絵を完成させ、一ヶ月後に行われる祝賀会に飾らせてくれ。お礼は、言い値で払うよ」

 わざわざ相手の威光であるビルの前で言われ、逃げ道を塞がれたような気分だった。

「祝賀って?」

「ここじゃ言えない」

 力の入りすぎたウインクが飛んできた。あまりにも似合わなくていらついたが、それ以上に俺の身体は固まっていた。手に汗を握っているのが俺にもはっきりわかっていた。

 絵を描けるんだ。

 口に出さずとも、その観念が俺の胸中を駆け巡っていた。

 おいあれ、と遠くで誰かが言った。わずかにざわめいている。社長、視察、密偵などなど、ちらほら耳に入ってくる。つまるところ沙雪に視線が集まり始めていた。

「まずいな」と沙雪が舌打ちをした。

「何が安全だよ。思いっきり警戒されているじゃないか」

「信頼されるって難しいんだよ」

 くるりと身を翻して元来た道を戻り始めた姉を慌てて追いかけた。大した騒ぎでも無いが、人の視線は集まっている。居心地のいいものではない。

 道の角を折れて人混みを離れた。息をついて、振り返れば、屋根の向こうにまだカキツバタ・テクノ社のビルが見えた。とても逃げられそうにない。改めてそう思って、ふと前を見るともう姉がいなくなっていた。いつもこんな具合に素早く動き回っているらしい。

 考えろ、ということだろう。一ヶ月後。時間はあるが、精神面で余裕があるとはとても言えない。

 それでもこれは仕事だ。この俺の、名前に向けられた仕事なんだ。

 立ち上がって一息ついて、ようやく前を向くことができた。

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