古宮さんはスマホを持っていない。

村正のぼや

1

 僕らは自由なようでいてネットの網に捕らわれている。逃れる術があるとすれば、スマホからSimカードを引っこ抜いて握り潰すか、いやそんな面倒なことをしなくても端末ごとハンマーで叩き壊すなり水槽に投げ入れてしまえばいいのだ。あ、これ防水か。


「ただハンマーでぶっ壊すのは名案だな。勿体ないけど」


 朝の教室には話し相手が見当たらないので、僕はそう独りごちる。自問自答だ。


「機種変更したばかりだし、まだ端末の代金すら払い終えてない。しかも二年縛りがあるから違約金も掛かる」


 スマホの良いところを挙げるなら一つしかない。ずばりソシャゲである。ガチャを引く時の高揚感、あれは一種の麻薬みたいなもんだ。特にURの目印である赤い封筒が飛び出す演出なんかやばいぞ。全身に鳥肌が立ち、得も言われぬ快楽が頭を貫く。何度体感しても飽き足らず貪欲にガチャを回す毎日。廃人コースだな。


 確かにスマホは便利だし、僕もその恩恵を日々授かっているが。あまりにも進化し

すぎたのだ。


「う……」


 一件のメッセージが届く。


『放課後カラオケ行こうぜ』


 バドミントン部の先輩からだった。同じ部活のメンバーで構成されたグループチャットに、次々と快い返信が集まってくる。その横には既読既読既読……。


 最悪だ。今日は久しぶりの休みだから、自室に引きこもって溜まったアニメを消化しようと思っていたのに。


 この状況で、僕一人だけ断るわけにもいかないよな。ああ行きたくない……カラオケとかアニソンしか歌えない。


『あれ、岡崎既読つかないな』

『一瞬そういう名前かと思ったw』

『それじゃ岡崎未読じゃん』

『wwwwww』


 くそ、たかが既読にするスピードが遅いだけでこの言われようだ。しかも集団心理まで働いてやがる。そこまで僕をからかうのが面白いか。


 何の変哲もないやり取り。だけど、これが毎日のように続くとさすがに疲れる。夜眠る時も僕の知らないところで進んでいく会話が怖くて、スマホは振動するよう設定してある。ぶるぶると震えるスマホはもう一人の自分みたいだ。


「はぁ……」


 重々しく溜息をついて、スマホに指を滑らせる。


 チャットの画面が表示された。既読に変わる。


 新たなメッセージが届いて、手の中にあるスマホが震えた――その時。


「わ、ぶるぶるってしましたね」

「え?」


 聞き慣れない、清らかな声に振り返ると、空席の横に女子生徒が立っていた。


 ただその子は学校指定のブレザーではなく、どこか古めかしいセーラー服を身にまとっていた。彼女の背まで届く黒髪に染められたような、漆黒のセーラー服に余計な装飾はなく、デザインも大きな襟に数本のラインが描かれただけとシンプルだ。全体的に黒いので、胸元の真っ白なスカーフが目につく。


「あ、またぶるって震えましたよ。何のオモチャですか?」

「え、いやオモチャって……てか君、誰? 他校の生徒?」

「ええっ」


 逆にそう訊くと、彼女は切り揃えられた前髪の下で、目をまん丸に見開いた。


「直接ではありませんけど、岡崎さんとは何度もお会いしているのに……。あ、でも名乗ってはいませんでしたね。私は古宮遥です。お見知りおきください」

「…………お、おう」


 古宮遥と名乗る少女を、もう一度よく見てみる。


 彼女は「そんなにまじまじと……恥ずかしいです」とほんのり赤くなった頬を両手で包んでいるが、お構いなしにその顔を凝視する。


 肌が白く、丸い瞳を縁取る睫毛は長い。楚々とした美しさを感じる。艶やかなロングヘアは朝の光をまとい、細い肩を流れ落ちている。こんな美少女、一度会ったら網膜と心に焼き付いて忘れないはずだが……。


 疑問を覚えていると、周囲のざわついた声が耳に入ってきた。ここで話すのは注目の的になってしまう。


 針の筵に座っているような心地を味わった僕は、席を立って古宮さんの腕を引く。もちろん手を握ったりはせず、軽くセーラー服の袖を引っ張る程度だ。


「ここじゃまずい。ちょっと廊下に」

「は、はい」


 困惑する彼女と共に教室から脱し、一年生のテリトリーである二階から、特別教室がある三階へと移動する。この時間帯は人通りが少ないので目立つことはないだろう。


「さて……おっと」


 美術室の前に辿り着いた僕は、袖を掴んだままの指が目に入って、慌てて手を放した。


「あの、さっきの板って、何ですか?」


 こっちから質問しようとしたのに機先を制された。この子、さっきから僕を馬鹿にしているのだろうか。


 今時スマホなんて珍しくもないだろうに。……まあいい、話に乗ってやるか。


「最新機種じゃないけど、普通のスマホだよ」


 ポケットから取り出した端末を差し出す。古宮さんは中腰になってスマホを見つめだしたが、その目には変わらず疑問の光が揺れていた。


「もしかして、スマホを知らないの?」

「……すまほ、ですか?」


 自分で尋ねておきながら冗談だろうと思ったが、古宮さんの顔は真剣そのものだった。手の上に載っている通信端末が薄っぺらい板のオモチャにしか見えないらしい。まるでスマホの存在を知らないといった反応だ。


「えーと……スマートフォンだよ」

「すまーとふぉん?」

「だから、携帯電話」

「……ボタンがありませんよ? それに、こんなに小さくて薄いのが携帯電話なんて……。普通はもっと大きくて分厚いんですよ。ちょっと触っていいですか? ほら、こんなに軽いなんてあり得ないです」


 電話機が分厚くて重たいなんて時代錯誤だ。古宮さんはスマホをためつすがめつ眺め回してから僕の手に返却した。


「それに家庭で使う電話なんてもっと大きいんですよ。色も黒くて渋いんです」

「……それって黒電話?」

「もちろんです」


 頭の中に黒光りする筐体と、特徴的な回転ダイヤルが思い浮かぶ。祖母の家で何度か実物を見たことがある。使い方はすっかり忘れてしまった。


「昔は黒電話が普通だったのかもね。けど、今はこのスマホが電話機なんだ。持ち運び可能で薄くて軽いし色々な機能も付いてる。常識なんだけど……これ、ドッキリか何か?」

「むぅ、私、本当に知らないんですよ。この板が電話機なんて信じられません。逆にドッキリなんじゃないですか」

「だから……あー、もう埒が明かないな」

「では、先ほど何をしていたのか教えていただけますか。電話をしていたようには見えませんでしたが……」

「あれは連絡を取ってたんだ。見せた方が早いな」


 バドミントン部のチャットグループを表示する。彼女は、リアルタイムでぽんぽん表示されるメッセージに再び驚いていた。即興で繕った反応とは思えない。


「信じられません……。でもこのすまほは、電話ではなかったのですか?」

「もちろん通話もできるさ。さっきも言ったように、色々な機能の一つみたいなもんかな」

「ここまで時代は変わっていたのですね……」


 感慨深げに頷いている古宮さんは、一体どのような生活を送ってきたのだろうか。陳列される新鮮なリアクションに少しだけ楽しくなってきた。もうドッキリでもいいかな。


「この会話を見るに、カラオケに誘われたんですよね」

「そうだな。まあ行きたくないんだけど……」

「? では、行かなければいいのではないですか」

「簡単には断れないんだよ。とっとと先輩たちに返信して、教室に戻るか」


 スマホの画面に触れようとする指を、不意に温かな感触が包んだ。


 古宮さんが僕の手を握っていた。優しい笑みを浮かべて、諭すようにゆっくり首を振る。


「そのすまほでお返事をするのは、気持ちが伝わらないと思いますよ。先輩ということは、この学校にいる方々なのですよね?」

「それは、そうだけど……」

「なら簡単です。直接赴いて、相手のお顔を見ながらお返事しましょう!」

「え、ちょ――」


 こちらの返答を待たず、今度は古宮さんが僕の腕を引いて歩き出した。こんな細い腕なのに有無を言わせぬ力強さでぐいぐい引っ張ってくる。反論しようと開きかけた口が、自然と塞がってしまう。


 どうしてだ。全然分からないけど、僕は黙って古宮さんに引きずられていた。


「岡崎さん」


 大股で進んでいた古宮さんが立ち止まる。


「……場所、どこですか?」

「分からないのかよっ!」


 全力でツッコミを入れた。そのおかげで、強張っていた肩の力が抜ける。周りに合わせようとする、半ば強迫観念みたいなしがらみが、この時、ふと形を失った。


 口から笑みがこぼれる。僕はお守りのように握り締めていたスマホを、ポケットの中に戻した。


 ……まったく情けない。僕は古宮さんの腕を掴んで、優しく自分の制服から離した。


「ありがとう。もう、大丈夫だから」

「……岡崎さん」


 僕は彼女に背を向け、自分から一歩を踏み出した。交互に脚を送り出し、前へ進んでいく。もう立ち止まらない。目指すは四階の教室。階段を上り、等間隔で並ぶいくつかの扉を通り越した先、目当ての教室に踏み入った。


「……っ」


 自分のクラスとは空気が違う。突然入ってきた見知らぬ生徒に、いくつもの視線が束となって突き刺さる。


 怖気づいてしまいそうになるが、ここまできて回り右なんて、そっちの方がださい。僕は輪になっているグループの一つに歩み寄った。彼らは僕の姿を見つけ、それまで賑々しくしていた口を閉じた。


「岡崎じゃん。どしたの?」


 足を大きく広げ、椅子に深々と座っている先輩。細身な僕より上背があり、立ち上がるだけで身長差を見せつけられる。白のカッターシャツから覗く両腕も、がっしりとした筋肉で鎧のように覆われている。


 腕っぷしではまず敵わないだろうが、なにも喧嘩をしにきたわけじゃない。


 僕は先輩の目を見据えた。声が震えないよう、腹に力を込める。


「すみません。カラオケの件ですが、僕は参加できません」

「……あ? お前な、先輩が誘ってやってんのに――うぉっ!?」


 言葉の途中で、急に奇声を上げられる。その目は僕を通り越して後ろに向けられていた。


「何を見て――うわっ!」


 視線を辿ると、ちょうど肩口から顔を覗かせている古宮さんと目が合った。にっこりと微笑みを返される。


「気になったので、付いてきちゃいました」


 足音どころか気配すら感じなかったぞ。どこか浮世離れしているし、この子は普段山奥で暮らしている忍の者か。ポケットから手裏剣とか出てきても驚かないぞ。


「岡崎お前、えっ、マジかよ。……こんな可愛い彼女がいたなんて」


 先輩は壮大な勘違いをしている。古宮さんとは出会ってからまだ一時間も経っていないし、知っている情報も名前くらいだ。そもそもスマートフォンの存在を知らない奇矯な少女で、下手すれば教えてくれた名も嘘かもしれない。


 ……でも良かった、彼女は幽霊の類ではないらしい。先輩の目に古宮さんが映っていなかったら肝を冷やしていた。カラオケや自宅より、まず最寄りのお寺を訪れていただろう。


「しかも他校か? お前、意外と積極的なんだな……」

「いや、あの……古宮さんは、彼女じゃなくてですね」

「あー、もういいって。俺らが悪かったよ。今日はデート楽しんでこい。よし、俺たちは男だらけのむさ苦しいカラオケだ! くっそおおっ、俺も夏休み前に彼女作りてえええ!」


 先輩は拳を突き上げ、また騒がしい会話を始めた。


 ……どうやら話がまとまったらしい。古宮さんには感謝しないとな。


「さっきは助かったよ」


 三年生の教室から抜け出して開口一番、僕は古宮さんに礼を述べた。正直、僕一人だったら自分の気持ちを覆していたかもしれない。


 その言葉を受けて、彼女は微笑んだまま首を振った。


「岡崎さんは、ちゃんと自分の意思を伝えました。すまほに頼らないで、直接、顔を合わせて。きっと私がいなくても、岡崎さんなら、気持ちを曲げるようなことはしませんよ」

「そんなこと……」

「そうなんです。私が保証しますっ。岡崎さんは、強い男の子ですから」


 その時、校内に予鈴が響き渡った。そろそろ朝のホームルームが始まってしまう。


「これ、私の電話番号です。宜しければ、ご連絡ください」


 ポケットから取り出した二つ折りの紙片を、そっと手のひらに落とす。古宮さんは

「またお会いしましょう!」と長い黒髪を翻し、下の階に姿を消した。言葉とは裏腹に、古宮さんと会うのはこれが最後になるような気がして、慌ててその背を追いかける。しかし階段を降りた先に彼女の影は見当たらない。下の階に駆け下りていく足音も、何も聞こえない。


 僕の前に突然現れた古宮遥は、出会った時と同じ唐突さで、幻みたいに消えてしまった。まるで初めから存在していなかったかのように。


 眩暈にも似た喪失感に襲われる。


 ……ああ、何でこんな気持ちになるのだろう。


 僕は通りがかった教師に肩を叩かれるまで、廊下にぽつねんと立ち尽くしていたらしい。


「……夢じゃ、ないよな」


 その言葉を裏付けるように、右手で丸めていた紙切れが、中でカサリと音を立てた。



 その日の夜。

 夕食を済ませて部屋に戻った僕は、明日までの宿題に手を付ける気力もなく、机の上に広げた紙片をただぼんやり眺めていた。


 僕と古宮さんを繋ぐ、唯一の手掛かりだった。果たして連絡してもいいのか。発信しても繋がらないか、僕の友達が出て「ドッキリ大成功!」的な言葉が返ってきたら絶対に落ち込む。思考がネガティブな方向に流れていくと、そういえばこの番号に見覚えがある気もしてきた。もしかして友達の番号だったりするのか。電話帳を調べてみたが該当する数字はない。


「……何やってんだか」


 そりゃ僕だって健全な男である。ソシャゲのちょっとエッチな新規イラストも気になるが、現実の可愛い女子にだって興味が湧く。電話番号のメモをくれたってことは、そこに運命的なものを感じてしまうのも止む無しだ。


「でも、もし仕込みだったら……」


 懸念が心を過る。でも、結局は言い訳ばかりして古宮さんに連絡する勇気がないだけではと気づき始めていた。それに、ドッキリを疑うなんて彼女に失礼だ。尻込みしてばかりの自分を叱咤するべく、両頬をぱしんと叩く。


 ……よし、連絡するぞ。


 打ち間違えがないよう、メモと画面を見比べながら、震える手で番号を打ち込んでいく。


 あとは発信ボタンに触れるだけ。たったそれだけで、古宮さんと繋がれる。


 そう意識すると、左胸の内からやかましい鼓動が響いてくる。ダメだ、これ以上考えてはいけない。


 僕は勢いに任せて発信ボタンをタップした。


 コール音が耳朶を打ち……、


『はい、古宮です』

「あ……お、岡崎だけど」


 無事繋がった。電話口の声音は間違いなく古宮さんのものだ。


『岡崎さんっ。ご連絡いただき、とても嬉しいです』

「そう? まあ、改めてお礼も言いたかったしさ。……ほんと、今日は助かったよ」

『もう、ですから私ではなく、ご自分を褒めてあげてください。えらいえらいって、頭を撫でてみましょう』

「……自分の頭を?」


 少し想像してみる。薄毛が気になっている人みたいだった。


「まだ僕の髪はフサフサしてるぞ」

『ふふっ、どうしたんですか急に』

「あ、いや、えっと……そういや、どうして連絡先を僕に?」

『それは……』

「それは?」


 妙な沈黙があった。


 意識が騒がしい心音に傾く。まさか、もしや……!


『何でしたっけ?』

「忘れたのかよっ!」


 この子は天然なんだろうか。


『ああ、思い出しました。すまほです! すまほに関して聞きたかったんですよ。色々な機能があると仰っていたので……』

「あー、なるほどね」


 期待して損した。が、異性とこうして電話越しに話すなんて初めての経験だ。宿題は後からすればいいし、今は彼女との時間を優先しよう。


「スマホで良く使うのは、音楽を聴く機能かな」

『音楽!? あんな小さいのに、レコードが入るんですか!?』

「面白いこと言うな、古宮さん。せめてCDだろ」

『あ、CDなら知っていますよ!』

「知ってて良かったよ。とはいえ、そのCDもすっかり買わなくなったなー」


 良い具合に緊張の糸が緩んで、先ほどよりも滑らかに舌が回る。


「今はダウンロード購入か定額で聞き放題のサービスを利用するな」


 CDを買うのは好きなアイドルに貢献したい時、もしくはライブの最速先行チケットが欲しい時くらいだ。近所の狭いCDショップは軒並み暖簾を下ろしてしまった。時代の寒風に煽られた結果だろう。物寂しくはあるが、仕方のないことだ。


『……はぁ』


 そう説明してもいまいちピンときていない様子だった。専門用語はあまり使わない方がいいな。


「つまりだな、スマホさえあれば楽曲のデータをどこでも買えるんだよ」

『それは便利ですね。でも、それだとすまほをいくつも買わないといけないのでは?』

「いや、このスマホ一台あれば楽曲なんて何十万曲も入るから」

『十万……っ!』


 その声には驚きの他に、感動の響きすらあった。……古宮さん、ほんとどういう生活しているんだ。


 その後も、彼女は僕のスマホ講座に対して大袈裟な反応を返してくれた。僕の加入しているプランだと、通話時間が五分を超えれば三十秒ごとに料金が発生するのだけど……そんなのどうでもいい。


 僕は久しぶりに時間を忘れて喋り続け、気付けば時計の針が一周していた。


 そんな頃、電話の向こうで階段が軋むような音と、ゆっくりとした足音が近づいてくるのを耳にした。


 古宮さんが『あっ』と短く声を漏らす。


 湖面が凪いでいくように、それまでの弾んだ声が落ち着きを取り戻す。


『すみません、そろそろ失礼しますね。また、よろしくお願いします』

「あ、ああ。じゃあね」


 そこで通話は切れた。何だろう、俗に言う親フラってやつかな。


 僕は椅子から立ち上がって大きく伸びをし、何となく目を落とすと、机に手つかずの宿題が放置されているのを見つけた。やばい、もう十時じゃないか。ソシャゲのスタミナも溢れまくってるな。


 一転して暗澹とした気持ちになりながらも、僕は右手にシャーペンを握った。


 ……また明日も話せるといいな。



 そんな願いが届いたのかは知らないけど、僕たちは電話越しに会話するような仲になれた。とはいえ単なる友人関係で、頻繁に話すわけでもない。しかもあれから古宮さんの姿を見ていないし、僕からも誘うことはなかった。


 でも、そんな日とはお別れだ。なぜなら期末テストを終えた今は夏休み。この停滞した関係を変えてみせる! と決意してから一週間が過ぎた。


 ……何やってんだろ、僕。


 ソシャゲをしています。あ、ガチャ爆死した。


「ダメじゃん」


 現実でもバーチャルでもこの有様だ。あー、毎日が退屈だな。


「あんた、家でゴロゴロしてるならおばあちゃんの顔見てきてくれない?」


 自室のベッドに寝そべっていると、ノックもせず母さんが襲来した。


「何で僕が行かないといけないんだ。ていうか電話すればいいじゃん」

「私も父さんも仕事で忙しいのよ。会って話さないと分からないこともあるし、あんた暇でしょ?」

「……僕にはソシャゲが」

「ファミコンばっかやって、それが暇って言うのよ。特に用事もないなら、たまには実家に顔出しなさい。もう何年も行ってないし、おばあちゃん喜ぶよ」

「えー。つかファミコンじゃないし」

「とにかく、連絡しておくからね」

「……マジかよ」


 おばあちゃんの家に行くとますます古宮さんに会えない。でも、どうせ誘えないし……まあいいか。


 ぽいっとスマホを放り、枕に突っ伏す。もうどうにでもなれ。そう思って迎えた数日後、駅に向かった僕は意外な人物と再会した。


「古宮さん!?」

「偶然ですね。良ければご一緒しても宜しいですか?」


 古宮遥は以前見た制服姿で、スカートの丈はきっちり膝下、数センチの変動も見られない。たぶんね。


「ご一緒って……東京から静岡に行くんだけど」

「お供しますよ」

「おばあちゃんの家に行くんだけど……」

「私もご挨拶させてください」


 という流れで、なぜか古宮さんも同行することになった。おかしい。何だこの都合良すぎる展開。運命が悪戯しているとしか思えないし、そもそも古宮さんと偶然駅で会ったのはいいとして、なぜ一緒に静岡まで旅行することになるのか。どういう思惑があるんだ、往復で一万円以上掛かるんだぞ。


 疑問は尽きないが、もう新幹線に乗り込んでしまったのだから仕方がない。


「本当だ、音楽聴けちゃいますね」


 静岡への道中、古宮さんは貸し与えたスマホを楽しそうに弄っている。使い方は一通り教えたので、難なく扱えているようだ。


「曲がたくさん……。どれも知らない曲ですけど、とっても可愛い歌声ですね」


 イヤホンを耳に埋めた古宮さんは、曲のリズムに乗って頭を揺らしている。


「あ、このアルバムっていうのは……」

「そこは弄らないで!」


 最初こそスマホを触っていた古宮さんだが、十分ちょっとで満足したのか、スマホを返してきた。


「もう良いの?」

「はい。スマホは楽しいんですけど、そればかりで遊んでしまうと、岡崎さんとお話できません」


 その顔には寂しげな笑みが浮かんでいた。


 確かに、スマホは一人で遊ぶのに適している。周りの席を見回してみると、ほとんどの人がスマホの画面に目を合わせていた。皆、自分の世界に入っている。


「隣に岡崎さんがいるのに、お友達がいるのに、勿体ないです」


 古宮さんは、止めどなく流れ過ぎる時間の一分一秒を、とても大切にしているようだ。現代人からは失われたその価値観を、僕は美しいと感じた。


 彼女と一緒なら、ネットの網に引っ掛からないどこかへ行けるような、そんな気がした。今までに感じたことのない、不思議な感覚だった。


 それから僕たちは他愛ない会話をして、目的地に着くまでの時間を過ごした。一つ一つは何気ない話でも、きっとパズルのピースみたいに大事なものだ。できれば、この時を忘れたくはない。


 静岡に着いてからはバスで移動した。一時間も掛からず到着し、少し歩くと遠くに海と山が見えてきた。


 ほのかに潮の香りが漂う、静かな住宅地が広がっている。


 どこかで蝉の声がした。


「写真撮るか」

「カメラを持っているんですか?」

「あれ、説明してなかったか。スマホってカメラにもなるんだよ」

「万能ですね……」


 もはや驚きを通り越しているのか、今度の反応は淡白だった。実は変形して合体もできるんだ、くらいのインパクトが必要かもしれない。


 自然豊かな景色をバックにして、インカメラに切り替えた画面を向ける。僕と古宮さんの顔が映った。


 一際強い風が吹き抜けて、綺麗な黒髪を乱す。僕の顔に幾筋かの髪が掠めて、花の香りを残して散っていく。古宮さんは千々にされたロングヘアを手で押さえつけながら、楽しそうに笑った。僕も髪型なんて最低限に整えて、つられて笑う。


 ――カシャリ。撮影ボタンに触れた。思い出が形となって切り取られる。


「躍動感のある一枚が撮れたな」

「もう現像したんですか?」

「え?」


 そんな恒例の会話を挟みつつ、僕らはおばあちゃんの家を目指して歩いた。場所が分からないのでスマホにナビをしてもらっている。こうして振り返ってみると、やはり携帯電話は進化しすぎだと思う。本来の通信という目的を忘れてしまっているのではないか。


「風が気持ち良いですね」

「外に出てみるのも、たまには良いな」

「あ、家でゲームばっかりはお身体に悪いですよ」

「古宮さんはいつから僕の母になったんだ」

「心配して言ってるんですよーっ」

「あはは」


 三百メートル、二百メートル……。光点と目的地との距離が縮まっていくと、僕たちの間にある会話は減っていた。


 どうしてだろう。漠然とだけど、この旅は目的地に着いてしまうと、それで終わってしまうのではないか。そんな気がした。


 百メートル……。五十メートル。


 きっと、もうすぐ終わる。


 なぜだか胸騒ぎがした。虫の知らせとでもいうのだろうか。


 自然と早足になっていた。たったそれだけの動きで息が乱れた。


 いつしか、耳に貼り付いていた蝉の声が消えている。


 ――目的地に着きました。


 時代に取り残されたような一戸建て。

 おばあちゃんの家に着いて、インターフォンを押した。


 ……反応がない。しばらく待ってみたが、沈黙しかない。ノブを回してみたが施錠されてビクともしなかった。


「留守かな。来る日と大体の時間は伝えていたのに」

「岡崎さん」


 後ろで待機していた古宮さんが、僕と立ち位置を代わる。そして、ノブを捻った。


 ガチャリ、と音を立てて扉が開かれた。なぜ施錠されていたドアを開けられたのか、当たり前だけど僕は気になったし、何かしらの種があるのかと勘繰ったが、古宮さんに訊いている暇も考えている余裕もなかった。


 上がり框を皺くちゃの手が掴んでいる。

 

 おばあちゃんが、玄関で倒れていた。



 家の中は妙に暑かった。うだるような空気が肌を撫でる。


 熱中症だ、とすぐに気づいた。案の定おばあちゃんの身体には熱がこもっていて、汗で髪の毛が貼り付いていた。


 救急車が来るまでの間、僕と古宮さんは手分けして濡れタオルや氷をかき集めて、おばあちゃんの身体を冷やし続けた。その対応が良かったと、後で救急隊員の人から聞いた。


 診断の結果、おばあちゃんは熱失神だと分かったが、あのまま放置すれば死に結びつく危険な状態だったらしい。早期の発見と適切な処置が、おばあちゃんの命を繋ぎ止めたというわけだ。何もかもタイミングが良すぎた。


 おばあちゃんが意識を取り戻す頃には、連絡した親戚の人たちが集まって来て、僕たちは病院を後にした。おばあちゃんの家に泊まることになり、タクシーまで手配してもらえた。


「古宮さんがいてくれて助かったよ。ただ、あれは……」


 簡単な夕食を済ませ、僕らは畳敷きの部屋で向かい合っていた。古宮さんは座布団の上で綺麗な正座をしている。


「というより、君は一体、何なんだ?」


 こんな質問を、まさか自分が口にするとは思わなかった。非日常に触れてしまったアニメ主人公のような台詞だが、実際のところ古宮さんには謎が多すぎるし、今回の件でますますその疑問が深まった。


 もしかして、幽霊ではないにしろ、何か特別な存在なのではないか、と。


 その質問に対して、古宮さんはあっさりと口を開いた。


「あえて言うなら、概念でしょうか」

「……概念?」


 さっぱり意味が分からない。眉根を寄せる僕の表情に、説明が足りていなかったと古宮さんも気づいたのだろう。「そうですね……」と顎に手を添え、


「例えば、時間は概念ですよね」

「時間……か」


 時間は形あるものではないし、人間が定義づけたからこそ存在している概念、と言えるだろう。


「一時間、一分、一秒、これらの概念は初めから存在していませんでした。人間が変化を見極めるために後付けしたのです。年号も、そうですよね」

「確かにな」

「私は、区切られた時間の一つです」


 まさか、と思った。古宮さんはスマホを持っていない。どころか常識とも言える機能まで知らなかった。スマホだけじゃない。昔から来た人みたいに、僕との会話に齟齬があった。


「……昭和、とか」

「ふふ、正解です」


 古宮さんはどこか遠い目をした。


「昔と比べて、この時代は大きく変わりましたね。スマホ一つで様々なことができますし、世界中の人とも繋がることができます。そんなの、想像だにしていませんでした」


 昔を懐かしむような口調だった。たった数十年で、町並みや技術は様変わりする。もしかしたら、人の心も。


「私は、直接岡崎さんにお会いしたことはありませんが、昔からその成長を見守ってきました。この家を通じて。昭和の名残りがある道具を通じて……」


 それから僕は、時間を惜しむように古宮さんと話した。旅行に行ってみたいところ、好きな食べ物の話、夏に飲むラムネはなぜ普段より美味しく感じるか。どの話題も飽きることはなかった。彼女と話していると底の浅い引き出しから、まるで四次元ポケットのように言葉が溢れてきた。


 楽しかった。けど、楽しい時というのはあっという間だ。


 僕は首を前後に揺り動かしながら、眠りの底へ引き込まれようとしていた。


 意識がぼやけていく。


 こうしている間にも、今は過去に変わっていく。


「……平成も、もうすぐお終いなんですね」


 古宮さんの声が子守歌みたいに聞こえる。


「岡崎さん。昭和という時代があったこと、忘れないでくださいね」

「……古宮、さ……」

「私との、約束ですよ」


 僕は一度頷いて、そのまま意識を失った。だからその後、古宮さんがどこへ行ってしまったのか、まったく見当がつかなかった。気付いたら布団の上で目を覚ましていて、古宮さんの姿はどこにもなかった。


 僕は新幹線の窓から夏空を仰ぐ。時間と同じように真っ白な雲が流れていく。


 古宮さんのいない時間は退屈だった。また会いたいな、と思う。スマホを弄っていても全然面白くなかった。


 けれど、間延びした時もいつかは終わる。僕は駅から外に出て、人混みに紛れた。


 結局、大切なのは人との関わりなんだと思う。僕らしくないリア充の考えだけど、でも僕は人間だから誰かと繋がっていたいと感じるんだろう。それが本質なんだろう。


「……あ」


 そういえば、古宮さんの電話番号はメモしているし、スマホの電話帳に登録しておいたんだった。なぜ忘れていたのか……。


 僕は自宅への道を歩きながら、古宮さんの番号にコールする。


 ……中々でない。もしかして、何かあったのだろうか。でも呼び出し音が鳴っているから、古宮さんの携帯は生きている。


 一秒が重く圧し掛かった。


 ……まだか。もしかして、もう彼女と話すことはできないのか。


「――あ」


 しばらく経って、繋がった。


「もしもし!? 大丈夫?」

『電話してくれてありがと。大丈夫だよ。あれから体調も良くなって……』


 古宮さんじゃなかった。正確には、おばあちゃんの声だった。


「……もしかして。あの黒電話で、電話してるの?」

『まだ現役なのよねぇ』


 そうか、と思った。古宮さんはおばあちゃんの家から電話していたのだ。そう考えると、初めて通話した時の疑問が解けた。なるほどな……あの足音はおばあちゃんだったのか。上の階から降りてきたおばあちゃんと鉢合わせるので、通話を切ったと。電話番号に見覚えがあったのも当たり前だ。おばあちゃんの家にはいつも固定電話からコールしていた。短縮ダイヤルで登録していたから、薄ぼんやりと記憶に引っ掛かっていたのだろう。


「おばあちゃん」

『んん?』

「また近々、遊びに行くよ。身体に気を付けてね」


 これもまた、古宮さんの計算通りなんだろう。


 僕はおばあちゃんとの通話を終えて、自宅に帰った。


 これで、いつもの日常に戻る。そんな予感は部屋のドアを開けた瞬間に打ち砕かれた。


「…………ええ?」


 知らない女の子がいた。


 小柄で、シャツの上にカーディガンを着ている。明るい色の髪は二つ結びにされ、身体の動きに合わせて尻尾みたいに揺れている。愛想の良い笑顔を顔中に浮かべていた。


「こんにちは、お兄ちゃん」


 アニメ声だった。どことなく僕のプレイしているソシャゲに、こんな子がいた。簡単に言い表すなら今風の子で、そこまで思考を進めた僕はピンときてしまった。


「もしかして君は……」

「平成だよっ」


 ああ、やっぱり。予想は的中した。


 彼女はスカートのポケットからスマホを取り出して、左右に可愛らしく振った。


「連絡先、交換しよ!」

「ど、どうして僕なんかと……」

「えー。古宮ちゃんが目を付けたから? あたし、人のアイスを横取りするのが好きなんだ」

「おいおい」

「……ねえ、お願い?」


 両手でぎゅっと服を掴まれ、潤んだ瞳で見上げられる。あざとすぎ! でも可愛い。


「……えーと、まあ連絡先くらいなら……」


 というか、すでに住所までバレているんだけど。


 このままでは埒が明かないので、スマホを取り出して操作する。そのタイミングで、手の中の端末がぶるぶると震え出した。


 着信だ。番号を見た僕は、思わず笑ってしまう。


 まったく、心配かけやがって。


「……お兄ちゃん?」


 平成ちゃん(命名)に服を揺すられつつ、僕はスマホの応答ボタンに指を這わせた。


 昔懐かしの黒電話と、平成を象徴するスマートフォンが繋がり、僕はまた――彼女の声を聞いた。


 それはちょっとだけ、むくれたような声だった。



〈おわり〉

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