ファントムペイン
江角茶介
幸せな痛みの話
部屋の窓から見える敷地に、女郎花が淡い金色の花弁をうっすらと覗かせている。うだるような夏の風色の中から初秋の兆しが仄かに感じられて、緩やかでも確実に四季が巡っているのだと再確認できる眺めだ。
そんな風情を感じつつ、私はこうして一人でせっせと部屋を片付けている。気合を入れた片付けが必要なほど散らかしているつもりは無いのだけれど、今日は友人を招いているので最低限の掃除くらいはしておくのがマナーというものだ。
台を拭いて、フローリング張りの床にモップをかける。あとは机に置いたままの書物を本棚に並べるくらいでいいだろう。掃除に時間をかけなくてもいいのは、きっと日頃の自分の綺麗好きが功を奏したとでも思っておこうか。
ふと自分のベッドに目をやると、世界で一番有名なネズミのぬいぐるみと目が合った。枕元で横になっている彼から、なんとなく「こんにちは」と話しかけられたような気がしたので、自然と頬が緩んでしまう。
このぬいぐるみは、もうすぐ訪問してくる友人の真希からのプレゼントだ。
「女の子なのに部屋が殺風景すぎる。もっと可愛い小物くらい置いたほうがいい!」
などと言って、半ば押し付けられるような形で無理やり貰ったものだが、真希からのプレゼントというわけで捨てる事のないまま取ってある。実は一緒に寝ているというのは小さな秘密。
真希は可愛いものが好きなようで、私に色々と可愛いものを勧めてくるのだが、私にはどうも似合わないような気がして買う気にならない。彼女には生憎だが、今後も自分から率先してそういったものは買わないだろう。
そんなこんなで埃取りや拭き掃除も一段落して、今はヤカンの汽笛音を待っている。
彼女が遊びに来る予定の時間までもう少し。適当に本でも読んでいたらあっという間に時間は過ぎるのだろうが、彼女の顔を見られるのが凄く待ち遠しい現状の心持ちでは、きっと文章が頭に入って来ないだろう。一日千秋の思いとは、ひょっとすると今の私の気持ちを表すのに最適な表現なのかも知れない。
電子時計を何度も確認する行為に首が疲れてきたので、別の何かで気を紛らわすのがいいのだろう。お茶が沸くのが先か、友人が訪ねてくるのが先か。我ながら妙な間の持て余したものだ。こんな時は、自分の趣味で時間を潰すのが最適だと思う。
私は座っていたベッドからゆっくり腰を上げて、電子ピアノの前へと歩みを進める。自然と鼻歌を口ずさんでしまうあたり、今の私はちょっぴり上機嫌のようだ。
その機嫌の良さがピアノを弾ける楽しみから来るのか、それとも真希が遊びに来てくれる嬉しさから来ているのか。少しだけ後者の比率が高いかも。
鍵盤の蓋を開けて、さっそくエチュード(練習曲)で指慣らし。指運びがスムーズに進み、流れるように曲が奏でられるのは、今まで培ってきた経験の賜物だと思いたい。ピアノの音が好きだという単純な理由で十年ほど弾いているが、未だ飽きがこない辺り、私は本当にこの楽器が好きなのだろう。願わくば一生好きでいたいものだ。
演奏もとりあえずの一区切りを迎えようとした頃、キッチンから聞こえる汽笛音。ようやくお湯が沸きあがったようだ。ポットにお湯を移し変える際、やたらとヤカンを重く感じた。どうやら少々沸かした量が多かったみたい。道理でヤカンの音が聞こえるまで少々時間がかかったワケか。
しかして、これでようやくお茶の準備も整った。あとはピアノを弾いて友人を待つだけ。時計を確認してみると、お昼の二時まで今しばらくといったところ。約束の時間まで残り僅かなので、それまでピアノと向き合うことにしてみよう。
そんな事を考えつつ、ピアノ用の椅子に座った瞬間。
ピンポーン、と軽快なチャイム音が部屋に響いた。
インターホン前まで駆け出すと、自分の足元から聞こえてくるスリッパのペタペタ音。なんだか履いているスリッパが私を音だけで追いかけてきているみたいだ。来客の人物は分かっていたけれど、一応余所行き用の態度で対応してみる。
「……はい、どちらさまでしょうか?」
そして、次に聞こえてきたのは
「おーい、あっちゃん。開けてくれー。私だよー。今来たよー」
と、間延びした可愛い声。
予定の時間よりも少々早く、真希が来てくれた。
私が今住んでいる場所は玄関がオートロック製になっているので、彼女はマンション前の入り口で佇んでいることだろう。ここへ入るには合鍵を使って鍵を開けるか、部屋に備え付けられているスイッチじゃないと開錠できない仕組みになっているからだ。
インターホンから彼女の急かす声が漏れてくる。待たせすぎるのもどうかと思ったので、私はおもむろにスイッチに手を伸ばして来客を招くために鍵を開けた。ガチャッ、とオートロックの開く小気味のいい音が電話越しに聞こえてくる。
「開けたよ。待っているね」
そう伝えると、
「うん、今行くよ」
と真希の朗らかな声が耳に木霊する。彼女がマンション入り口のドアを開けた音が聞こえたと同時に、私はインターホンを元の位置へとかけ直す。あと一分もしないうちに、あの子は部屋に来てくれるだろう。
もうすぐ、真希に会える。あの子の声が聞ける。笑顔が見られる。
困ったことに口元がにんまりと緩んでしまっているのに、目じりが下を向いてくれない。
真希に会える若干の緊張のせいだろうか。今の私は何だか妙な顔立ちになっている気がする。訪問先の家主が口元だけを綻ばせてしまっていて、目が笑っていなければ、怒っていると勘違いされて気を使わせてしまうだろう。
これじゃあ只の残念な人だ。少し力を抜く意味を込めて、眉間を人差し指で軽く押してみた。なんとなく眉間が弛緩した気がするので、迎え入れる体勢は十全だ。
丁度そのタイミングで玄関先のチャイム音が聞こえてきた。
「こんにちはー。遊びに来たよ」
私は彼女を自分なりの最高の笑顔で迎え入れようとしてみる。
「い、いらっしゃい。どうぞ、上がって」
「う、うん。お邪魔します」
真希が言いよどんだところを見るあたり、何とも言えない絶妙な顔になっていたんだろう。彼女はえへへ、と可愛い笑顔を見せながら、靴を揃えて部屋に入ってくる。
「うわー、相変わらず綺麗な部屋だね」
感心したように私の部屋を見渡してくる。なんだかちょっぴり照れくさい。
「ちょっと掃除して片付けたからね。これくらい綺麗になってもおかしくないよ」
「いやいや、掃除したって引っ越したばっかりの部屋みたいにはならないでしょ?」
そう言って彼女は明るい声をあげてケラケラ笑う。そんなに楽しそうに笑われると、こっちまで釣られて笑ってしまうじゃないか。
二人で笑い合っていると、急に何か思い出したかのような顔を真希は見せる。そして手元に持っていたビニール袋を机の上に置いて、ガサガサと取り出す仕草を始めた。
「そうだ、これ買ってきたよ」
そう言った彼女の手から見えたものは、二つ入りのチーズケーキだった。コンビニ等のスイーツコーナーでよく見受けられる物だが、甘い物好きな身としては手軽に購入できて割と好きな一品でもある。私の家に来る前にわざわざ気を利かせて買ってくれたのだろう。
「お茶請けにピッタリだね、ありがとう」
私がお礼を言うと、真希は軽く手を前でパタパタ振って
「いやいやいや、そんなお礼とかやめてよ。全然大したものじゃないしさ」
何故だか照れくさそうな素振りを見せてくる。可愛い。
ともあれ、せっかく買ってきてくれたケーキが目の前にあって、沸いたばかりのお茶がポットで出番を伺っているこの状況。ティータイム以外に何をした方がいいのか、私にはその他の選択肢が見当たらない。真希に確認を取ってみたほうがいいだろうと思い、言葉を紡ぐ。
「とりあえず、ゆっくり紅茶でも飲む?」
そう訊ねてみると、問われた方はにかっと破顔一笑。
「うん、ヨロシク~」
満面の笑顔を向けられて、胸が急に心音を高めてきた。幸せな感情が内側から迫りあがってくる。
「す、すぐに用意するね」
気持ちを悟られないように彼女に背を向け、キッチンへと早足で移動する。そんな私の背中に投げかけられる、ぽやんとした穏やかな声。
「じゃあ私も何か手伝うよ。やること何かある?」
「ないない、なんか適当に本でも読んでくつろいでいて」
心中穏やかと対照的だった私は、そう答えるので精一杯だった。逃げるようにキッチンへ避難してきたのはいいけれど、来たからには用件を済ましておこうと思う。
二人分のお皿とカップを用意して、ケーキ用に使用するフォークを戸棚から取り出す。別にコンビニで渡されていたのであろうフォークでも食すことは出来るが、それだと折角の雰囲気が損なわれるような気がしてならない。
食器の準備は終えたので、次は紅茶の準備を始めよう。茶葉を確認してみたら、なんと空っぽ。買い置きもしていなかったようで、真希には申し訳ないがパックで勘弁してもらおう。
カップに入れたティーパックを蒸らすと、鼻腔にアールグレイの香りが仄かに漂ってきた。紅茶の香りは自然と心にも平静をもたらしてくれる。
落ち着いた心のまま、ゆっくりと真希の笑顔を思い出す。
なんて綺麗な笑顔だろう。見る人を無条件で暖かな気持ちに包んでくれる、淡き白色を基調とした満開の卯の花。真希の笑い顔は、それに似ていた。
一緒にいれるだけで嬉しいというのに、その笑顔を私に向けてくれる。
幸せだ。言葉足らずな私は、真希に抱く気持ちを上手に表せない。
でも、月並みな言葉で表してもいいのであれば。 私はきっと、彼女を。
「あっちゃん」
心臓が口の端から少し飛び出た。それくらい驚いてしまった。胸の鼓動は更に高鳴り、背中に少しだけ汗がつたう感触がある。落ち着くために、声の聞こえた方へと顔を向けて冷静な一言を投げかける。
「な、な、何?」
噛んだ。どころか、若干どもってしまった。驚きすぎて目の焦点が泳ぎまくる。
「そんなに驚かなくてもいいじゃんか」
真希はドアからひょっこり顔だけ覗かせていた。まるで小動物だ。
「ねぇ、ホントに何か手伝えることないの?」
「漫画でも読んで待っていてくれたら嬉しいんだけれど……」
「もう読んだ本しか無かったー。私もなんか手伝いたいのー」
そう言いながら、軽くむくれた顔をこちらへ向けてくる。 駄々っ子のような、イタズラっ子のような印象を抱く。
「それじゃあ、お皿を向こうで並べてもらっていい?」
私がそう頼むと、真希はうぇーいと気だるそうな返事を残して、手前に置いておいたケーキ用のフォークとお皿、ティーカップを机に運んでいった。当の本人から声をかけられて意識が戻るほど懸想に耽っていたのは反省点だ。
「では、いただきます!」
「はい、いただきます」
二人で軽く手を合わせて食事前の儀礼を済ます。コンビニスイーツの代表じみたチーズケーキをお茶請けに、近所のスーパーで売ってあった良心価格のアールグレイを嗜む。何ともまぁ、大学生という身の丈にあったお茶会だ。ただ、今の私にとっては特上のケーキであり、最高級の紅茶でもある。目の前に真希が居てくれるから。
おいしいねぇ、と本当に美味しそうに食べるその姿はただただ眼福の一言。こちらの目じりも優しく垂れてしまう。ずっと見ていたい気持ちを控え、静寂を消すために点けていたテレビを見る素振りで横目でちらり。
ふと気付くと、彼女は窓の外に視線を向けていた。
「綺麗だね」
真希は敷地に咲く花を見て、そんな言葉を置いてくる。釣られて自分も外を見ると、黄色い命が芽吹いている。先ほど見たときよりも黄色の色合いが輝いてみえるのは、夏の日差しの影響だろうか。
「ねぇ、これなんていう花?」
「女郎花、かな」
「おみなえし?」
「この辺りに夏になると咲いているのよ。小さい花だけれど、数が多いから割と壮観ね」
「うん、なんか無造作なのに目を引いちゃうなぁ」
そんな事をのたまう真希の横顔の近さでふっと気づく。自分の右手が、彼女の左手まであと数センチだということに。
この手を伸ばして、触れてみたい。少しでいいから添えてみたい。
そんなことを考えながら、そっと右手を下げておく。思いが前へと出ないように。あの子の左手に重ねた右手の幻想が、私の腕(かいな)を優しく痛めつけてきた。
自分の右手に、彼女に寄り添っているというifの形をしたもう一つの右手が軋んだ気持ちを訴えてくる。そんな歪んだ幻肢痛に少しだけ顔をしかめると、真希が心配そうな目で見つめてきた。
「どしたん、紅茶が熱かった?」
「ううん、コンタクトがずれただけ。気にしないで」
そっかそっか、と納得して彼女は再び窓の外に咲く女郎花に目を向けた。その間に洗面所へと向かうため、私はよいしょとわざと声を出して立ち上がる。
「コンタクト直してくるね」
「うん、いってらー。帰ってきたらお茶のおかわりを所望します」
なんとも愛らしい添えの一言に苦笑しつつ、了解と声かけしてそのまま部屋を後にした。洗面所で冷たい水を顔に浴びて顔を上げると、水を滴らせた目つきの鋭い自分が鏡に映りこむ。ひどい顔をしている鏡の主から目を背け、タオルで少々乱雑に水滴をふき取った。
そして思うのは、部屋にいる一人の女の子。
きっと彼女は知らない。私が、貴方を愛しているという事を。
知らないままでいてほしい。
私のほろ苦い気持ちが、甘いケーキに紛れるように。
甘い言葉が語れないから、想いだけでも渋めの紅茶に溶け込むように。
苦くなりすぎないよう、甘く蕩けすぎないよう、美味しいままであり続けられるよう。静かに秘かに、慕っていたい
それからしばらく時間は過ぎて。他愛もない話を続けていると、いつの間にやら夕暮れ時。真希はこれからバイトがあるんで一度家に帰るという事だった。
ついさっきお邪魔しますという声を聴いたばかりだったような気がする。瞬きすればあっという間に時が流れていたとすら思える。
「じゃあ、お邪魔しましたー。また遊びにくるね!」
「お邪魔されました。またいつでも来て頂戴」
にひひ、といたずらっ子のような笑顔を向けたあと、真希は私に背を向けてゆっくりと歩きだした。
その姿を見送っていると、途中で彼女の背中が丸くなる。それから間もなく私の携帯の振動がポケットを揺らしてきた。メッセージの相手は真希。なるほど、携帯を打つために背を丸めたのか。
内容は実にシンプルで、ただ「ありがとう」の一言と、可愛らしいキャラのスタンプ。
そこで初めて今日の日付を見てみると、八月三十一日。いつの間にやら秋の足音が聞こえてきそうな頃合いだった。
今日の日は、なんという事は無い夏の一ページになるのだろう。ただ、年を経ても思い出せるような一ページなんだと思う。彼女と一緒にいる日は私の日々に色がつくから。
私と真希が生涯このままであるために、ずっと気持ちは秘めたまま。
どうか気づかれませんように。私の心の煩いが、優しい友人の枷になりませんように。私の最後の吐息が零れるその時まで、とりあえずはこじらせたままにしておこう。
遠くなる貴方の影を目で追いかける。夕暮れに溶ける姿の横に私はいない。
彼女と手をつないで恋仲になっている幻を私は目蓋の裏で追いかけた。
もしもを描いてちくりと痛む右手と心。
少し歪な幻肢痛。これからずっと抱えていく、心地良い恋慕の証。
葉月の暦、八月の最後に恋心一つ。
蝉の声が止んだ後の愚かな静寂に、私は緩く沈みゆく。
ファントムペイン 江角茶介 @ll_extreme
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