オーバードーズ
ジャスミン・K
オーバードーズ
日がくれると、街はきらめくネオンで満たされる。
裏側の闇を覆い隠す、虚飾の光。
地上の星が明るすぎて、空に星は見えない。うすぼんやりした灰色をしている。
大通りを走る車のヘッドライトが、2連につながったダイアモンドのように流れていく。右に、左に。
風は冷たく、やがてくる冬の厳しさを告げているが、今はまだ通りに立つのはそれほど苦にならない。
その通りには、何人もの男娼が客を待って立っている。少しづつ間隔をあけて。黒いの、白いの、黄色いの、茶色いの。10代の少年から、30過ぎた中年まで、よりどりみどり。
ムーシュは18才で茶色。多分メキシコ人と中国人のハーフ。多分というのは両親の記憶がほとんどないからだ。
3才の時に捨てられて、教会の救護院で育った。そこがあまりにもひどかったので、9才で逃げ出した。そのあと色々あって、今ほここに落ち着いている。
車が徐行しながら、男娼達を値踏みしていき、ムーシュの前で停まる。ウインドウが少し下がる。ムーシュは顔を近づけて、相手の男に自分の顔が十分に見えるようにする。そこそこ整った顔を。
「いくらだ?」暗い目をした男が聞く。40代から50代くらい。
「50ドルであんたのアレをしゃぶってやるよ」
「ホールなら?」
「もう50ドル」
「いいだろう」
ウインドウが上がり、代わりにドアのロックが開けられる。ムーシュは車の座席にすべり込む。車が動きだす。
他の男娼が鋭い目でその様子を見ていたが、視線をすぐに車の列にもどす。自分の客をつかまえなければ、今夜はお茶を引くことになる。他人にかまっているヒマはない。
ムーシュはここに立つ男娼の中では若い方で、くせの強い黒い髪と、生意気そうな黒い瞳をしている。身体つきのバランスもいい。しなやかといってもいいだろう。だから、あまり待たずに客をつかまえる事ができる。
連中はそれがうらやましい。
ただ、それもどうせ1~2年のこと。若さはつかの間にすぎない。どうせ落ちていく。闇の底まで。遅いか早いかの違いだけ。
「あんた初めて見る顔だね」
「仕事でロスへきたばかりだ」
「へえ、どこから?」
「ニューヨーク」
「いいね。ここより都会じゃん」
男は仕立てのいいスーツに身を包み、腕時計も車もそれなりに高級そうだ。
もう少しふっかけてやればよかった。
「名前は?」
「ムーシュ」
「変わった名前だな?」
「フランス語だけど、本名じゃないよ。あだ名さ」
「なるほど。年は?」
「18才……16才がいいなら、それでもいいよ」
「どっちでもいいさ」
「なら聞くなよ」
他愛ないおしゃべりを装って、相手を伺う。危険な相手かそうでないか。身体を売るだけですますか、ついでにサイフや腕時計を盗んでやるか。
「実はお腹がすいてるんだ。食事をつき合ってくれないか?」男が言う。
「いいよ」
飯つきなら大歓迎だ。一食分浮かせる。
「ところで、こういうしゃべり方でいい? もっと上品にでも、人形みたいに従順にでもできるぜ?」
「どれが本当の君なんだ?」
ムーシュは肩をすくめる。
「さあね。忘れちまったよ。はすっぱなしゃべり方が好きな奴が多いから」
「じゃあ、そのままでいい」
「わかった」
この男はちょっと変わってる。がっついてないし、サツかもしれない。
ドライブインでハンバーガーとビールをおごってもらう。
男はハンバーグステーキと赤ワインを注文する。
ハンバーグを切り分けて口へ運ぶ動作に品がある。マーシュが演じる上品さとは別物の本物の品だ。生まれつき持っている品。
ウエイトレスが通りすがりに、チラリとマーシュに目線を送る。若くてきれいなメキシコ娘。時々こういう事があるが、彼は無視する。
若い女には興味はない。寝てもお金にならない。金になるのはもっと年を取った女。黒いレースの手袋で手のしわを隠したような老女。
「じゃあ、いこうか」と男がいう。
「ごちそうさま」
男が連泊しているというホテルにつれていかれる。
一流ではないけれど、そこそこ名の知れたホテル。ムーシュの服装、皮革のブレザーとジーンズがドレスコードにひっかからないぎりぎりのところ。
どこかのモーテルにしけこむのではなく、わざわざ自分の泊まっているホテルとは。やっぱり変わってる。普通なら一晩限りの相手に自分のねぐらを教えたりはしない。
「シャワー浴びようか? それともこのままがいい?」
「そのままでいい」
きれい好きな客もいれば、汚れてる方がいいという客もいる。
どっちでもかまわない。
ムーシュは服を脱いで裸になる。男の目が上から下まで全身を眺めまわす。
冷たい暗い目。もっとがっついてるような客の方がやりやすいのに。
男はカウチに腰を下ろし、前を開けて、
「しゃぶれ」と命令する。
彼は男の前にひざまずいて、口に含む。
たっぷりと時間をかけてなめ回し、先端を舌先で刺激する。
男の手が髪をつかみ、そこに押し付ける。
喉の奥まで入ってくる。
なるほど、そういうのが好みか。相手を乱暴に扱うのが。
金さえもらえば、大抵の事はがまんできる。
そう、大抵のことなら……
カウチで一回、ベッドで一回、男は射精した。
ベッドの上で後ろから、散々貫かれて、もうヘトヘトだ。
最初は演技であえぎ声を出していたが、そのうちしゃれにならなくなってきて、早くイッてくれと念じていた。
やっと終わって、男が身体を放す。
彼はぐったりと仰向けになり、天井を眺める。
さっさと金をもらって帰ろう。でも身体がだるい。
男が近づいてくる。
「もう一回やろうっての? タフだね。それなら追加料金をもらうよ」
「いいとも。払ってやる」
男の手が彼の右手に手錠をかける。
「え?」
もう片方のわっかをベッドの頭の方の柵にかける。
サツ? いや違う。サツなら本番前に手錠をかけるだろう。
彼は青ざめる。
こいつはヤバイ。殺されるかもしれない。
男は皮ひもを束ねたムチを彼に振るう。
ムチがうなって、彼の身体に赤いミミズ腫れを作る。何度も何度も。
「痛い! 痛い! もうやめてくれよ!」
手錠ががっちりと手首に食い込んで、身動きできない。
「大人しくしてないと、商売物の顔に傷ができるぞ」
男はうっすらと笑みを浮かべ、捕らえた獲物をいたぶるのに興奮している。
殺される……
こういう商売をしていれば、いつかそんな目にあう事もわかってたはずだ。
仕方ない。
あきらめに全身をゆだねる。それが一番楽な方法だとわかっていた。
さんざんいたぶって、満足したのか、男は手錠をはずしてくれた。
ムーシュがようやくの思いで身体を起こすと、
「3000ドルある。これで足りるか?」
丸めて輪ゴムでとめた100ドル紙幣のかたまりを、ベッドの上に投げてよこした。
胸も腹も背中も、脚も腕もみみず晴れだらけ、右手首は手錠でこすれて皮がやぶれている。
彼は痛む身体に服を着て、くつをはく。
ポケットに金のかたまりを突っ込む。
あきらめが身体に染み付いていたはずなのに、不意に凶暴な怒りにかられた。
くつ底に隠しておいたナイフを出して、男に近寄り、首筋につきつける。
「……あんた、俺みたいなの相手には、何してもいいと思ってんのか? むかつくんだよ。殺してやろうか?」
男は少しもあわてた様子はない。
「虫けらにも心があると? ムーシュ……フランス語でハエか……なんでそんな名前で呼ばれてる?」
「うるさい」
「君にはわたしを殺す気はない。その気なら、一瞬でできたはず……殺しはやった事がないのかな?」
その通りだ。まだ人を殺した事はない。いずれそういう事になるかもしれないが。
「……君が気に入ったよ。専属にならないか? あっちの方も中々だったが、その目つきがそそる」
「あんた、頭おかしいんじゃないか?」
彼はナイフをしまう。
そのまま部屋をでる。
とんでもない客だった。
今夜はついてなかった。
でも生命があっただけでよしとしよう。
街はまだ夜に包まれている。朝はまだ遠い。
歩いて帰れる状態ではなかったので、タクシーを拾った。
タクシーの中でうつむいていたら、
「吐かないでくださいよ」と酔っ払いと間違えられた。
近所の深夜営業のテイクアウトの店で、ヌードルとミネラルウオーターとミルクを買う。
あいつが待っているはずだから。多分寝ないで。彼が帰ってくるのを。
古いアパートの階段はきしみ、壁は染みだらけだ。
やっとの思いで部屋にもどり、買った物をテーブルに置き、ベッドに倒れこむ。
「おかえり」と振り向いた顔が、笑顔から心配そうな顔に変わる。
「どうしたの? 具合いが悪そうだよ」
彼の枕元に顔をよせる。翡翠のような緑色の瞳が不安げに細められる。
「心配するな。こんなの大した事ない」
綿毛のようなプラチナブロンドの髪をなでてやる。
「俺はもう寝るから、お前もあれを食べて寝ろ。昼から何も食べてなかったろう?」
「うん……でも……」
彼はもう限界で、気を失うように眠りの中に落ちていく。
夢も見ないような、深い眠りの中へ。
目がさめると、エンジェルが彼の隣によりそうように眠っている。
破れたカーテンの隙間からさす朝日が、少年の髪を輝かせている。まるで本物の天使のようだ。
こいつを拾った時は、ボロを着てゴミの山の中に倒れていて、てっきり死体かと思った。
でも、目が開いていて、彼と視線があった。
こいつまだ生きてる。
どうしようかと悩んだ。
匿名で電話して、サツに知らせるか。適当に病院へ運んでくれるだろう。あとはどうなろうと知った事ではない。
「お前、名前は?」
「……わからない……」少年はか細い声で答えた。
「どこからきた?」
「……憶えてない……」
薄汚れて、怪我もしているみたいだが、よく見ればきれいな顔立ちをしている。
どこかで飼われていたペットが逃げ出してきたか、あきて捨てられたか。
彼は少年を自分の部屋へつれて帰り、面倒をみる事にした。
汚れを落とし、さっぱりした服を着せると、少年は彼がにらんだとおり上玉だった。
年はせいぜい11~12才。まだ毛も生えそろっていない。
どこかの金持ちに高く売りつけてやる。そう思って世話をした。
少年は記憶をなくしていた。よほどつらい目にあったのか、頭を強く打ったのか。
名前をエンジェルとつけてやった。
ちょっと優しくしてやっただけなのに、少年は驚くほどムーシュになついた。
まるで卵から孵ったヒナが、初めて見たものを母親だと思い込むように。
3日が1週間になり、1ヶ月になり。やばいことになったと思った。
慕われて悪い気がしない。可愛いとすら思う。
でもこの感情はやばい。
守ろうとするものができれば、弱くなってしまうから。
一緒に暮らし始めて3ヶ月目、エンジェルに客を取らせる事さえできないでいる。
ムーシュはエンジェルを起こさないようにそっとベッドを出た。
シャワーを浴びようとシャツを脱ぎかけたが、血で張り付いて痛かったので、そのまま浴びることにする。
ぬれたシャツをゆっくり脱いで、ついでに石鹸でもみ洗いする。白いシャツに点々とついた赤い血。
だめだ。こいつは捨てるしかない。シャツだってただではないのに。
身体の方は石鹸で洗うとひどく染みた。
でも念入りにきれいにする。
見た目が派手な割りに、縫わなければならないような傷はない。みみず腫れに血がにじんだ程度。
あいつは遊び方を心得てる。だからといって専属になる気は毛頭ないが。
この身体では、しばらく商売できないだろう。
3日ほど休むか……
身体を拭きながらシャワーを出る。
エンジェルがベッドの上で膝を抱えている。
ムーシュの身体を見て、息を飲む。
「……ひどい……」
「こんなの大した傷じゃねえよ」
「でも……」涙ぐんでいる。
「それより、食べてなかったのか? 食わねえと大きくなれねえぞ」
ミルクを温めて、エンジェルの分には角砂糖をひとつ入れる。
こいつは甘いミルクが好物なのだ。
さめてのびたヌードルを皿にわけて、ふたりで食べた。
「金が入ったから、あれ買ってやる。日本製のゲーム機、テレビにつなげて遊ぶ奴」
エンジェルは首を横に振る。
「ううん、いらない」
「何でだ? ほしがってたろ?」
「だって……そのせいで、ムーシュがひどい目に会うのはいやだ……」
「こんなの大した事ないっていってるだろ? もっとひどい客だっているし。俺らはな、金のためなら便器の裏だってなめなきゃなんねえんだ」
エンジェルは涙ぐんでいる。
ムーシュは肩をすくめて、
「悪いな。飯食ってる時にする話じゃねえよな」
頭をぽんぽんとなでてやる。
「……僕もする。ムーシュみたいに働く」
「お前にはまだ早いよ」
「早くないよ。ムーシュは僕よりもっと小さいときからやってたんでしょ?」
「まあな。それしか生きていく方法がなかったからな」
エンジェルが記憶を無くす前、どんな暮らしをしていたのか?
それは容易に想像がつく。
どこかの金持ちの変態オヤジのペットにされていたのだ。
身体の傷がそれを証明していた。
たばこの火を押し付けたあとが無数にあった。肛門には切開して遊びやすいようにした手術あとがある。
こんな天使みたいな子に、記憶をなくすようなひどい事をして、あきて捨てたのだ。
生まれたのはどこか。親はいるのか?
この国で行方不明になる子供は何万人いるのだろう?
この子のように性奴隷にされて、人知れず死んでいく子供はどのくらいいるのだろう?
親は探しているのか? それとも捨てられたのか。
やはりあの時、サツに連絡しておけばよかった。
そうすれば、こんなに迷わずにすんだのに。
今さらだ。
ベッドの上でエンジェルの上におおいかぶさる。
「教えるから、身体でおぼえろ。どうやったら相手を気持ち良くさせられるか」
「うん」
おびえと期待が半々の声。
「まずは触れるか触れないか、はじめはそっと、ゆっくりと。相手の目を見ながら、快感の芽生えを探る」
いいながら、身体にそって指を這わせる。
「舌でなめる時は、生クリームをなめるように、アイスクリームでもいい。すくいとって味わって、舌をならす。こんなふうに……」
少年の身体をなめ、舌をならす。たっぷりと、時間をかけて。
「……なんだか……身体が変だよう……」
「そう、それが快感だ」
少年のまだ育ちきっていないものを含み、愛撫する。
「……どうにかなっちゃうよう……」
あえぎ声がすすり泣きに変わり、それでも愛撫をやめない。
「……もう…もう……やめて……」
このへんで限界だろうか。
彼は手を止める。
少年は寝返りをうち、顔を隠す。
「見ないで……恥ずかしい……」
彼は少年の背中をなであげなでおろす。
今は忘れているけれど、本当は眠っているだけで、少年の身体はすべておぼえているはずだ。
自分が欲望の対象だったころ、どんなことをされたか、どんな目にあったか。それを思い出させるのがこわい。
少年の後をなめて、やわらかく押し広げる。
「ひっ」という声があがる。
「力を抜いて。痛くないから」
指をいれてさぐる。
多分このあたり。
「あ、ああ……」
感じやすい部分を刺激すると、甘い声でうめく。
「ここがいいのか?」とたずねると、
「うん」とうなずく。
後にいれる。傷つけないように、ゆっくりと。
少年の中は細く柔らかく、しっとりしている。
彼もまたおぼれてしまいそうなほどに。
彼が腰を動かすと、少年のあえぎ声がそれにあわせて口唇からもれる。
「……う……うう……ああ……」
彼が精を放って、身体を離すと、少年もゆっくりと仰向けになる。そして彼に身体をすりよせる。
「何か思い出したか?」
「ううん……好き……大好き」
彼はため息をつく。
「俺もだ」
口付けをする。
甘い蜜月の始まりを告げる口付けを。
次の日はテレビゲームを買ってきた。
あれこれ悩んで配線をつなげ、カセットを入れる。
コントローラーをもって、悪戦苦闘。
魔王を倒して姫君を助け出し、結婚式のハッピーエンドだ。
横で見ていたエンジェルが、
「この勇者、ムーシュに似てる」という。
「俺はこんな変な顔じゃねえ。似てるのは髪の色と目の色だけだろ」
「僕はこっちのお姫様に似てるね」
「お前もこんな変な顔じゃねえよ。似てるのは髪の色と目の色だけだ」
エンジェルは彼の肩に頭をもたせかける。
「僕もムーシュと結婚したい」
「はあ?!」
「ダメ?」
「だめに決まってるだろ。変なこと言うな」
するとみるみる涙目になる。
「ムーシュは……僕のこと、好きじゃないんだ……」
結婚は男と女でするもので、もっと大人でまともな奴らがするもの。
そんな説明すらアホらしくなる。
「好きに決まってるだろ」
キスをして抱きしめる。
ベッドの上でふざけあって、抱き合って、身体をよせあって眠る。
それがこんなに幸せなことだったなんて、初めて知った。
幸せすぎて、逆に怖くなる。
エンジェルを失いたくない。
どうすればいいのだろう?
エンジェルをつれて逃げる?
自分は学校へもいってないし、戸籍もない。それはエンジェルも一緒だ。
住むところを見つけるのも一苦労だろう。
働くといっても、まともな職につけるのか。
やれることといったら男娼かコソ泥くらい。
裏社会で生きるしかない。
どこへいっても同じだ。
エンジェルはきれいすぎる。すぐ悪い奴らに目をつけられるだろう。
なら、ここにいる方がまだましか。
今はただ、神様か悪魔か知らないが、ほんの一瞬の幸せを与えてくれているだけ。
この愛らしい生き物を抱きしめることを許されているだけ。
自分ひとりならどうにでもなる。最悪、死んだってかまいはしない。ゴミ溜で生まれたハエが一匹死ぬだけだ。
守りたいものができたら、人は弱くなる。
こいつを拾わなければ良かった。いや、拾って良かった。こんな俺でも、幸せな気持ちになれた。
思いはどうどう巡りする。
不安の中の幸せ。幸せゆえの不安。
あふれてくるこの気持ちは何なのか。
愛し合って、激しく抱き合って、満ちたりて眠る。
身体の傷が治るまで、商売を休んで3日間だけ一緒にいた。
砂糖菓子のように甘く切ない3日間。
蜜月は唐突に終わりを告げる。
部屋の扉がノックされ、男が現れる。子分を二人従えて。
黒人でガタイのいい、この辺をしきっているギャングの右腕といわれる男。
「何の用? ショバ代ならきちんと払ってるけど?」
「今日はいい話と悪い話をもってきた。どっちから聞きたい?」
「どっちも聞きたくないっていったら?」
「じゃあ、いい話からはじめようか。お前を痛い目に合わせたあの男な。死んだぜ」
「え! ……あんたらが始末したの?」
そうか、あいつは死んだのか。俺のほかにも男娼をいたぶって、恨みを買ったのか。
「まさか。俺らを何だと思ってるんだ? しがない女衒だぜ。自分で自分のこめかみをパンだ」
人差し指をピストルの形にしてこめかみにあててみせる。
「金持ちの考えてることはわからねえなあ? 案外、お前に振られて悲観したんじゃないか? お前のことを探してたらしいから。こっちに相談してくれたら簀巻きにしてお届けしたのに」
「笑えない冗談はやめてくれ」
「じゃあ、次は悪い話の方だ。あんたの可愛い子ちゃんをこっちへ渡してくれ。コールボーイクラブのコマが足りなくなってね。ここを思い出したのさ」
「エンジェルを?」
「エンジェルっていうのか? いい名前じゃないか。ムーシュもいい名前だが」
男がエンジェルの方を見る。
エンジェルがびくっと身をすくませる。
「いやだっていったら?」
「お前は言わない。言ってもどうしようもないってわかってるからな」
そうだ。多分そうなると思っていた。
最初から売り払うつもりで拾ってきたのだから。
「もちろんただとはいわない。手数料として2万ドルだ。いい小遣い稼ぎになったな」
2万ドル? 大金だ。エンジェルにはその何十倍の値がつくと踏んでるのか。肌は白くて、翡翠のような緑色の目と、プラチナブロンドのふわふわした髪。上玉だ。最初ににらんだとうり。
「……わかった。つれてけよ」
「ムーシュ!」
エンジェルが信じられないという顔をする。
「最初からそのつもりだったさ。怪我してたから面倒みただけ。ついでにあっちの方も仕込んどいてやったぜ」
「さすがだぜ」
男がエンジェルの腕をつかむ。エンジェルがもがく。
「ムーシュ! 助けて!」
言葉が胸に刺さる。すがるような視線を受け止められない。
「いい子にしてないと、お前の代わりにこいつがヤキをいれられるぜ」とささやく。
こいつはくわせ者だ。エンジェルがムーシュを慕っていることまで察しをつけている。
そういわれるとエンジェルはもう抵抗することもできない。
「あそこは定年が早くてね。せいぜい14才までだ。ムーシュもそこにいた。売れっ子だったよ。お前も2~3年がまんすればここに帰ってこれる。こいつは待っててくれるさ。なあ、ムーシュ?」
彼はうつむいたままで答えた。
「ああ。……どうせいき場はない」
エンジェルはつれていかれながら、
「ムーシュ、あの時拾ってくれてありがとね。一緒にいられてうれしかったよ」といった。
自分に何ができたろう?
連中に逆らって、エンジェルを連れて逃げればよかったのか?
うまいこと逃げられたとしても、どこへ行っても同じことだ。
そう自分に言い訳する。
けれど……
エンジェルがいない。
その毒はじわじわと効いてくる。
商売を終えて部屋に帰ってくる。消し忘れたテレビがまだついている。
エンジェルが部屋で待っている間、退屈だろうと買ってやった中古のテレビ。
あいつは俺が帰ってくるまで、一人でテレビを見てたっけ。遅くなっても寝ないで待ってた。
「くそっ!」
テレビを蹴り飛ばす。ごろごろと転がって、ショートする。
昔はひとりだったし、ずっとひとりで生きてきた。
あれはただ傷ついた動物がもっと傷ついた子供をつれてきて、いっときあたためあったに過ぎない。
結局、人はひとりで生きていかなくてはならないのだから。
それでもどんどん苦しくなる。
何で行かせてしまったのか。
後悔で胸が張り裂けそうになる。
ぼうっとしていたので、近づいてきた車が離れていった。
くそっ、また客を逃がした。
「ずいぶん塩たれてるな。いつもの生意気ぶりはどうした?」
「あんたか。ショバ代は払ってるだろ?」
「足りないね。もうけの10%、この前の2万ドルの分をもらってない」
「あれは別だろ?」
「別じゃないさ」
「……ここには持ってきてない」
「じゃあ、部屋にいこうぜ。差し入れも持ってきてやったぜ」
ドーナツ屋のロゴが入った紙袋を掲げて見せる。
俺とやりたいのか?
こいつと寝ても金にはならない。でも気に入られれば、何かと便利かもしれない。
「あんたの情人はナイトだろ? 俺あいつに恨まれてるんだ。あいつの客を取ったって。あんたまで取っちまったら、殺されちまうよ」
「あいつはおしとやかだから、つまみ食いしたってやかないさ」
「よくいうよ」
ナイトは20才で黒。精悍な身体つきで、いずれはギャングの下っ端に格上げされると見なされている。殺しをやったこともあるってウワサだ。
「お前の部屋に行こうぜ」と肩を抱かれる。
「わかった」
連れだって歩くと、ムーシュも背が高い方だが、それより頭半分背が高い。ガタイは一回りも大きい。
ドーナツ好きとはな。人はみかけによらないもんだ。
いつもより念入りにサービスしてやった。
上に乗って、よがって見せた。
男は満足したようで、「よかったぜ」といった。
マーシュは引き出しから金を出し、数えて渡す。
「これでいいのか?」
「ああ」
男はおもむろにドーナツの袋をあけて中身を取り出す。
でてきたのはドーナツではなくて、
「ピストル?」
「実はエンジェルがやばいことになってる」
「え?」
「あいつは、けな気だったよ。あの顔と身体で仕込みもよかったしな。すぐに稼ぎ頭になったよ。でもちょっとやりすぎた。たちの悪い客に気に入られて、今は薬づけにされて奴のおもちゃになってる。もう少し利口に立ち回るように教えとくべきだったな」
薬づけ? そいつはやばい。ムーシュは薬にだけは手を出さないことにしている。それで廃人になった連中を何人も見てきたから。薬はいっときは苦痛を忘れさせてくれる。この暗くて絶望的な世界から逃げ出させてくれる。でもしょせんまやかし。中毒になったら終わりだ。
はらわたが煮えくり返る。
「そういう客から商品を守るのがあんたらの仕事だろ!」
「そいつは大金持ちで、払いもいいし、俺たちにも顔がきく。ま、そういうこった」
「……それで、俺に何をさせたいんだ?」
「助けにいってやれよ……銃を撃ったことは?」
「ない」
「そいつはオートマチックで狙いをつけて引き金を引くだけでいい。7連発でカートリッジの取り替え方はこうだ」
やってみせる。
ムーシュにもやらせる。
「手が震えて暴発させるなよ。引き金に指を入れたまま持つんじゃない。引き金に指を入れるのは撃つ時だけにしろ。サイレンサーつきだから威力が弱い。確実に殺す気なら近くから頭を狙って撃て」
「何でそんなに親切なんだ? 何か裏があるのか?」
「いいや。ただお前とエンジェルの純愛がどこにいくか、見守りたいだけさ」
「はっ!」
純愛だって? もう笑うしかない。
「むしゃくしゃしてたんだ。あんたを一番に撃ち殺してやろうか?」
「お前は賢いから、得にならないことはしないだろう?」
「……エンジェルはどこにいるんだ?」
男は超一流ホテルの名前をあげて、
「そこの最上階、ペントハウスに泊まってる。そいつは奇妙なことにそのドーナツが大好物なんだ。うまい物をたらふく食ってるくせに。注文されたんで届けに来ましたっていえば、フロントはあやしまない。他の武器は置いていけ。入り口に金属探知機とX線検査機があって警備員がいる」
「ピストルはどうすんだよ?」
「落とすといけないからって、警備員に持ってもらえばいい」
「そううまくいくかな?」
「うまくいかなかったら捕まって終わりだ」
「捕まったら、あんたの名前を出すかもしれないぜ?」
「お前は賢いから、得にならないことはしないだろう?」
こいつは本当に食えない奴だ。
「サイレンサー付きの銃と替えのカートリッジ3個、しめて2000ドルだ。悪くない取引だったな」
「わかった。あんたに乗ってやる」
銃を右手に持って左手で支える。テーブルの上のコップを狙って引き金をひく。
バシュッと軽い音がする。反動も思ったより少ない。
3発撃って全部はずれた。
男がヒューと口笛を吹く。
「ヒットマンは無理だな」といって笑った。
光り輝く大都会の真ん中に、その有名ホテルはそびえたっていた。
明かりがこうこうと灯り、威容を見せつけている。
少し離れた場所でタクシーを下り、徒歩でホテルへむかう。
教えられたとおりにして、入り口を通り、フロントを抜ける。
最上階へ向かうエレベーターに乗る。
ざるだな。こんなんで超一流ホテルといえるのか?
エレベーターを下りるといきなりボディガードにでくわした。
ドーナツの袋に手を入れて銃を取り出し、撃つ。
そいつはどうっと後へ倒れた。
替えのカートリッジを取り出してポケットへねじこみ、袋は捨てる。
ドアの前にいたボディガードがふたり立ち上がって銃をかまえる。
弾丸が髪をかすめる。
駆け寄って、ふたりとも撃つ。ふたりは倒れてうめき声をあげる。
ドアノブめがけて引き金を引く。弾切れになってカートリッジを交換する。
最後はドアを蹴り開けて、中へ入る。
凶暴な怒りにかられ、恐怖は感じない。
どいつもこいつもぶっ殺してやる!
すでに非常警報が鳴り響いている。
それが怒りにますます拍車をかける。
中に入ったとたん襲い掛かられた。そいつを撃ち、床を転がって、ほかにふたりいたボディガードも撃つ。
的が大きいから当てやすい。
いったい何人いやがるんだ?
奥の部屋を目指す。
ドアノブを撃って、ドアを蹴り開ける。
弾が切れて、またカートリッジを交換する。
エンジェルはどこだ?
部屋の中は豪華な調度品でしつらえられ、天井には光り輝くシャンデリア。
ベッドに横たわるエンジェルの姿を見て、怒りは頂点に達する。
当たりを見回して、テーブルの下に震えて隠れている男を見つける。
「た、助けてくれ……金ならいくらでも出す……」
いいながら後ろ手に隠していた銃をこちらに向ける。
ムーシュが撃つほうが速かった。
男は悲鳴を上げて、銃を取り落とし、なおも哀願する。
「い、生命だけは助けてくれ……」
近づいて、頭を撃ち抜く。
血と脳漿を撒き散らして、そいつは死んだ。
死んだ男の顔に見覚えがある。
組織のボスだ。一度だけ遠くから見かけたことがある。
なるほど、そういうわけか。
エンジェルの身体を見下ろす。
後ろ手に縛られて、両足は広げたまま固定され、肛門に挿入されたバイブがうごめいている。
吐き気がする。
バイブを引き抜いて捨てる。赤黒い血がどろっとあふれ出す。
人が大勢駆け寄ってくる気配がする。
時間がない。
手かせと足かせをはずしてやり、マウスボールと目隠しもはずしてやる。
可哀相に。ひどいまねをする。
少年の身体を抱きしめて、そっと名前を呼ぶ。
「……エンジェル……」
少年のうつろな瞳は何も見ていない。呼吸は浅く、心臓の音は弱々しい。
オーバードーズ。薬物の過剰摂取による危険な状態。
仲間が死ぬのを何人も見てきた。もう助かりそうにない。
ムーシュの脳裏には、かっての少年の生き生きとした愛くるしい表情がよみがえる。
「エンジェル、目をさませよ。助けに来てやったぞ。邪魔する奴はみんな殺してやった……目をさませよ……」
少年は答えない。呼吸はますます浅くなり、心臓の音はますます弱くなる。
ムーシュの目から涙がこぼれ落ちる。
誰がお前を殺す?
薬か?
あの男か?
それとも俺か?
「うおおおおおおお!!」
獣のようなおたけびが喉からほとばしる。
大勢の足音はすでに部屋に入り、撃たれた男たちを見て、警戒する声をかわしている。
ムーシュはエンジェルの身体を抱いて、ベランダへ出る。
屋上庭園をぬけて、端までたどりつく。
ペントハウスからの眺めは絶景で、街中に宝石をちりばめたよう。
「きれいだな、エンジェル」
手すりを乗り越えて、エンジェルを抱いたまま、地上の星に向かってダイブする。
落ちていく。どこまでも。奈落の底まで……
END
オーバードーズ ジャスミン・K @wvrdg299
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