第143話 佐竹義重・蘆名義広対幕府軍

1586年7月14日


織田軍南蛮型鉄甲船が小田原城艦砲射撃と言う今までの戦国時代の戦いかたを一新する新たな戦いかたの幕開けをしていた頃、奥州では奥州史史上最大級の戦いが行われていた。


幕府軍

奥州探題・伊達政宗、約25000

羽州探題・最上義光、約19000

相馬小高城城主・相馬義胤、約9000

津軽三戸城城主・南部 信直、約9000

幕府方、およそ計62000の兵が集結。


反幕府軍

蘆名・佐竹連合軍、約48000、

下野の宇都宮国綱、約3000、

那須資晴、約2500

壬生義雄、約2000

反幕府軍およそ計55500の兵が集結。


平成で言う福島県猪苗代、磐梯山の裾野の摺上原で大決戦となり雌雄を決する。


意外にも当初は午前から始まった大決戦に風が味方して蘆名・佐竹の連合軍が優勢であったが、午後に入ると風向きが変わり、数で勝る幕府方が圧勝、蘆名の養子になっていた佐竹義重の次男、蘆名義広は常陸に逃亡した。


幕府方はそのまま進軍、会津黒川城に入場をすると、3日ほど休んで軍を立て直したのちに、奥州探題・伊達政宗・約24000・相馬小高城城主・相馬義胤・約8000が常陸との国境になる磐城(福島県いわき市)の勿来に進軍を開始した。


津軽三戸城城主・南部信直・約8000は黒川城守備役として残り、羽州探題・最上義光・約18000は山側を下野(栃木県)に進み那珂川に沿って常陸に攻め込もうとしていた。


あっけなく下野、常陸も陥落しようかと思われたが、そこに織田に屈するのをよしとしない土浦城の小田氏治・約2000、下総の千葉直重・約3000、さらに北条と里見家の残党が合流、さらに各地に散らばっていた一向宗門徒が浄土真宗の縁深き地、牛久に集結、さらにが続き、一旗揚げようとする浪人衆が集結合流した。


下野およそ30000

常陸およそ100000


と、大軍勢となり要所要所に砦を作り、守りを固め徹底抗戦の姿勢を示していた。


伊達、相馬、最上は進軍を止めるしかなく、膠着状態になろうとしていた。


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