8-3

「オイッ! 起きろ!」


 ガバッ!


 ボクは突っ伏していた机から飛び起きて、教科書を手に持つ。


「はいっ! えーっと、答えは三分の二です」


 クスクスクス……


 教室のあちこちから、小さな笑い声が聞こえてくる。黒板には白いチョークで、大きく『自習』と書きなぐられている。ボクは何ごともなかったかのように、下を向いて静かに座った。

 火が出そうなくらい顔が熱い。ボクは顔をあげられないまま、目だけで辺りを見まわす。


 まるで見覚えのない教室の中。座っているクラスメイトも誰だかわからない。ボクよりもだいぶ小さい子だらけだ。どこかで見たことがあるような気もする。さらに不思議なことに、チラホラと大人もまじっている。

 あっ、あの人って、看護師の中条さんじゃない?


「授業中は寝ちゃダメだよ、お兄ちゃん」


 ボクは心臓が止まるほど驚いて、勢いよく振り返った。


「どうしたの? 目がこぼれ落ちちゃいそうだよ?」


 不思議そうに首をかしげる真弓。

 そうだ! ここは真弓の夢の中だ。そう考えると……

 あの子は前の学校の、真弓のクラスメイトだ。病院で見かけた子もいる。看護師の中条さんがいたのもうなずける。このクラスメイトたちみんな、真弓の顔見知りばかりなんだ。


「学校でもお兄ちゃんと一緒。嬉しいな」


 幸せそうに笑う真弓。ボクは真弓に背を向けて、机に両肘をついた。そして、組み合わせた手に額を押しつける。


「オイ……」


 違うんだ、真弓。これは、現実なんかじゃない。真弓の本当の幸せは夢の中にあるんじゃないんだ。

 ボクは唇をかみしめる。真弓の嬉しそうな鼻歌が、うしろから聞こえてくる。


「オイ……」


 悪夢に見えない悪夢。何をやっても起きなかった真弓。この悪夢は、ただのバグのせいだとは思えない。そんなのは、悪夢祓い若葉マークのボクにだってわかる。


「オイッ!」


 ウルサイな。誰だよ、さっきから。

 キョロキョロと、目だけをせわしなく動かす。みんな前を向いたまま。誰もボクを気に止める様子はない。


「ここだ、ここ!」


 机の下から声が……あっ!

 ボクはジーパンのポケットからスマホを取り出した。スマホの画面の中で、バク……じゃない、アルプが呆れたように肩をすくめる。


「夢の中で寝るわ、寝ぼけるわ、器用なヤツだな? さぁ、早く妹ちゃんを助けるぞ!」


 いや、どうやってさ? これだけ人をあおっておいて、そこから先は丸投げですか? コイツはトンデモナイ子ブタだな。


 ガラッ……


 教室に誰かが入ってくる。


「起立!」


 ガタガタ……


「礼!」


「着席!」


 ガタガタ……


 ああ……先生だったのか。チラッとしか見ていないけど、黒い服着ていたな。まぁ、そんなこと、今はどうでもいいけど。って言うか、この教室の中、真弓とボク以外はみんなバグだろ? 取りあえず、コイツらをどうにかして……


「どうする? マシンガンでも用意するか?」


 ポンッ!


 ボクの目の前に、机の幅よりも長い機関銃が現れる。ボクは慌てて指先を振って、それを消した。


「ヤメ、ヤメッ! いくら悪夢祓い協会に規制されないからって、物騒なヤツだな。子ブタのクセに。あんなの使って悪夢祓いしても、真弓の夢に別の悪夢が生まれるだけだろ? 本末転倒じゃないか」


 アルプはつまらなそうに口をとがらせて、足元をチッと蹴る。

 コイツ、本当は楽しんでいるだけじゃないか?


「取りあえず、何とかしてキーを見つけなきゃ。話はそれからでしょ? 例えば火災報知器を鳴らして、みんなが慌てている隙に……」

「おや、キーをお探しですか?」

「あ、うん…………えっ?」


 ふと顔をあげて、ボクは驚きのあまり、目を白黒させる。頭が状況を理解するまでに、ゆうに五秒はかかったと思う。


「スッ、スイマーズ!」


 黒いスリーピースのスーツと幅広のネクタイ。彫りの深い目にかけられた片眼鏡からさがる銀色のチェーンが小さく揺れる。キレイに整えられた髪と口ヒゲを指先で整えながら、ニィッと口の端をあげる。見ている分にはクールダンディなオジサン。その実態は、人の行動プログラムを滅茶苦茶に壊した上、永遠に夢の世界にしばりつける睡魔。


「お元気でしたか? 新人くん?」


 スイマーズは手を胸にそえて、深々とお辞儀をする。

 転がるように逃げ出し、尻もちをついてジリジリと後ずさりするボク。


「お兄ちゃん、何やってるの?」


 眉間にシワを寄せてボクを見る真弓は、スクッと席を立って、スイマーズに向かってペコッと頭をさげた。


「先生、お兄ちゃんは具合が悪いのかも。怒らないであげて?」


 スイマーズは糸のように目を細め、真弓の小さな頭を優しく何度も撫でた。


「大丈夫ですよ。お兄ちゃんは少し、ビックリしてしまっただけですから。真弓ちゃんはいい子ですねぇ」

「真弓から、離れろ!」


 真弓の頭に手を置いたままのスイマーズを、キツく睨みつける。

 深層ドリームに閉じこもって、人の行動プログラムを書き換えるスイマーズが、そもそも何で表層ドリームに? これは、ワナ?


「おやおや……穏やかではないですね。いきなりケンカ腰ですか? せっかく、可愛い妹さんの望む夢を演出してさしあげているのに」


 スイマーズの人を食ったような笑いが癇にさわる。


「何が目的だ?」


 真弓がスイマーズの目と鼻の先にいる以上、ボクから攻撃をしかけるワケにはいかない。本心を聞けるとは到底思えないけど、会話から糸口をつかんで、コイツを何とかする方法を見つけないと。


「目的? 善意ですよ、善意。グッドウィル。半分はね」


 真弓の頭から離した手を横に広げ、意外にもあけすけにものを言うスイマーズ。

 テレビのヒーロー番組に出てくる悪役とは、まるで切り返しが違う。前に顔を合わせた時もそうだけど、とても悪者には見えない。


「善意が聞いて呆れるって! プログラムを壊しているクセに。……あれ? 『壊している』って自分で言っていたよな? 合ってるじゃん。退夢師が夢の管理をしている……って、これも間違っていないし」


 ボクは腕を組んで大きく首を傾けた。吹き出すスイマーズ。


「プッ……フハハハハ! 面白い! 実にユニークですよ、新人くん。やはり君は、こちら側の方が向いている。どうでしょう? 手厚く歓迎しますよ? かく言う残り半分の目的は、ほかでもない君なのですから」

「ボクが……目的?」

「そうです。元気に学校へ通う大切な妹。この夢はアナタの望みでもあるのではないですか? ワタシからのささやかなプレゼントですよ」


 スイマーズは真弓の肩に手を置いて、柔らかな顔で笑った。

 行きたくても行けなかった学校で、楽しく授業を受け、先生に扮したスイマーズに頭を撫でられ、嬉しそうに目を細める真弓。そんな真弓の顔を見ていると、胸が締めつけられる。

 学校も遊ぶことも、病気のせいで我慢しなきゃいけなかった真弓。せめて、夢の中だけでも真弓が笑っていられるなら……イヤ、ダメだ、ダメだ!


「悩むのはいいことですよ。心の痛みだ。人間の特権だ。ほかの動物は迷うことくらいしかできません」


 コイツ、人の誘い方が上手い。フラッとそっち側に行ってしまいそうになる。

 別段、ウソはついていないし、そして何より、人の弱さを否定しない。

 タイマーズとスイマーズ、そのどっちにもそれぞれの持論があって、対立しているだけのような気がしてくる。


「そうですねぇ……ならば、こんな場所ならどうでしょう?」


 パチンッ!


 スイマーズは手を高々とあげて、大きく指を鳴らす。その瞬間、ボクの目に映る教室に、古い映像のようなノイズが走った。そして、次にボクの目に飛び込んできたのは、引っ越す前の家の近所にあった、小さな公園だった。


「お兄ちゃ~ん! こっちこっち~!」


 長いサラサラの髪を上下に揺らして、ボクを気にしつつ、滑り台へ走っていく。


「真弓! そんなに走ったら……」

「だ~いじょ~うぶ~!」


 キャッキャと笑い、滑り台の階段を駆けあがる真弓。頂上でピョンピョンと飛び跳ねて大きく手を振る。ボクはこんな真弓の姿を見たことがない。

 ごくたまに、立ち寄った公園のベンチに二人で座って、縦横無尽に走りまわる子供たちを、時間が経つのも忘れて眺めていた。

 真弓もいつかはこんなふうに元気になればと思っていたボクの隣で、真弓自身はいったいどんな気持ちでそれを見ていたんだろう?


「どうです、新人くん? ここには病気に苦しむ妹さんはいません。はたして、この夢は悪夢でしょうか? よく考えて答えを出すといい。そうそう、君がワタシと共にくるのであれば、これを差しあげますよ?」


 青いジャングルジムの上に立ち、ボクに見せびらかすように、キラリと光る何かを指先でつまむスイマーズ。


「あっ、キー!」


 それは、陽の光に映えるUSBメモリだった。

 ほしい。喉から手が出るほどほしい。

 けど、退夢師ではないボクが、USBメモリを手に入れたとしても、深層ドリームの扉はあけられない。あけてはいけないんだ。ボクがここにいること自体、すでに法度違反なのに、これ以上決まりを破るわけにはいかない。

 それなら、いったいどうやって真弓を助ければ……

 …………助ける?

 現実の世界は真弓に冷たい。夢の中での真弓は、こんなにも生き生きしているのに。

 真弓の本当の幸せはどっちの世界にあるんだろう?

 どうすれば、真弓を助けたことになるんだろう?


「チョロい! オマエのチョロさときたら、恥ずかしくて恥ずかしくて顔から屁が……じゃない、火が出るわ。今からオマエのことを『チョロ崎』と呼んでやる!」


 握りしめたままだったスマホから聞こえる、アルプのやかましい声。


「誰が『チョロ崎』だよ? 今いそがしいのに」

「気づけ! 気~づ~け~! まずは気づけ、このドアホウが! あんな、ナンチャッテ口先紳士の口車にのってどうする? 妹ちゃんが目を覚まさないのは誰のせいだ? ヤツは妹ちゃんを人質に、チョロ崎を仲間に引き入れようとしているだけだぞ?」


 はっ! 真弓の幸せそうな笑顔に気を取られていて、まったく気づかなかった。

 ボクって本当に『チョロ崎』だ。


「あの、いかにも胡散くさい顔を見ろ! ああいう顔のヤツは200%ウソつきだ。オイラ調べで」


 ボクは、ジャングルジムに立つスイマーズを見あげた。柔らかく微笑んでいるようなスイマーズのその顔も、言われてみれば人を見くだしているような、余裕たっぷりの顔に見える。


「お兄ちゃ~ん! 一緒に遊ぼうよ~!」


 サラサラの髪を前後に揺らしながら、勢いよくブランコをこぐ真弓。現実世界では走ることもままならない真弓の願いが、夢の世界でしかかなわないなんて皮肉でしかない。

 ボクは必死に笑顔を作って、真弓に大きく手を振った。


 きっとこの夢は、真弓の望んだ世界なんだろう。起きたくない気持ちもわかる。

 けど、この先に何がある? きっと、永遠にこのままだ。

 あっという間に、これ以上でも、これ以下でもない、ひどくつまらない世界に成りさがる。真弓にとって現実は辛いことだらけかもしれない。けど、絶対に変化はある。これ以上になるかもしれないし、これ以下になってしまうかもしれない。それでも、今までたくさんのことを我慢してきた真弓が、こんな最低な悪夢に負けるなんて思いたくない。

 プログラムだ。真弓のプログラムを何とかしないと。それにはまず、スイマーズの手にあるキーを奪わなくちゃ。


「オイラをスマホから出せ」

「は?」


 唐突だ。いきなりスマホから出せって言われも、いったいどうやればいいのさ?


「頭の固いヤツだな、チョロ崎は。初めての悪夢祓いで、退夢師に言われたことを思い出してみろ。どうやって戦えと言われたんだ?」


 初めての悪夢祓いって、あの巨大アリと戦った時のこと? 夢ヶ咲さんに言われたことって……『考えて戦いなさいっ!』だ。そうか、そういうことか。

 ボクは足元に向かって、小さく指を振るった。


 ポンッ!


 …………? あれ? 音が鳴ったのに、アルプが出てこない。ボクは慌ててスマホを見る。けど、スマホの中にもアルプはいなかった。


『大きい声出すなよ? キョロキョロするのもなしだ。オイラがキーを取ってきてやるから、チョロ崎はエセ紳士と話を合わせていろ』


 どこからともなく聞こえてくる、アルプの蚊の鳴くような声。ボクはアルプに言われた通り、首をピクリとも動かさないように、目だけで辺りを見まわした。


『ヤメろ! はた目から見たら、それがすでに挙動不審だ。帽子の力で姿を消しているから見えっこない』


 帽子って、あのミクロ帽子のこと? 言われなきゃわからないような、ちゃっちい帽子にそんな力があるなんて。


『オイラがスマホから抜けると、チョロ崎はロクにものを出せなくなるからな。オイラが戻るまで、戦いになるようなことは、絶対に避けろ』


 えっ? そうなの? それじゃぁ、試しにネコでも……

 エイッ! ポンッ!

 うわっ、本当だ。ネコを出したつもりなのに、招きネコが出た。


『ダー! ヤメロ! アホウなことをするな! 見ろ、ヤツの怪訝な顔を。……にしても、何で招きネコが? オイラなしで、そんなもの出せるわけが……ブツブツブツ……』


 何やら不満げなアルプの声が遠ざかっていく。

 よしっ! 真弓を救い出すぞ!

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