クロス・オーメン

荻原功

第1話


 西暦2100年、世界はドローンに支配されていた。

 新しい時代に二つの国家、太平洋連邦とバルコ王国は地球を二分し、ようやく漕ぎ着けた平和を謳歌していた。しかし無敵を誇っていたドローンに「天敵」が現れたことで、世界は再び動乱へと転げ落ちていく。

 もしテロリストが、敵国があれを利用したら? 恐怖に駆られた太平洋連邦とバルコ王国は、今度こそ世界を統一すべく決戦戦争へと突き進む。

 そんな中、ドローンの「天敵」を産み出した一人の科学者は、世界中から追われる身となっていく。

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 西暦2100年七月十日、午後四時。東シナ海某所。


 海が燃えている。

 無数に立ち上る黒煙、根本には沈みゆく軍艦。その数も膨大なため水平線までが火の海である。飛び交う無人航空機の轟音もまばらになり、海戦は痛み分けで終わろうとしてた。

 誰も望んでいなかった休戦の終わり。しかし両軍に憂いている暇はなかった。

 突如。雲まで届く光の球体が出現し、数秒後には微弱な放射光を残して掻き消えた。目に見える破壊はないが、巻き込まれた無人艦からの応答がない。人の忠実な下僕であり、戦いの主力でもある《ドローン》たちを、いとも簡単に沈黙させてしまう巨大な球体。

 連邦軍の兵士が言う。バルコの新兵器です。

 バルコ軍の兵士が言う。連邦の新兵器です。

 しかし事実はどちらでもない。


「はぁ、はぁ、はぁ……」


 沈黙した無人艦に乗り上げた男――吉井雄一郎がフルフェイスメットのベゼルを開け、新鮮な空気をむさぼった。背負っていた空の酸素ボンベを投げ捨てながら、休まず甲板を駆ける。超人的な疾走で背後の風は渦き、人工筋肉や繊維装甲に貼りついた水滴を置き去りにする。しかしパワードスーツのエネルギーも残り少なく、彼は追い込まれていた。


 光の球体を出現させたのは彼である。今日で三十歳となったが、好き好んでこのような誕生日にしたわけではない。もし両軍がこの兵器を撃ち合えば、ドローンに依存する現代文明は存続の危機を迎えだろう。

 それを防ぐため、今は誰の支配下にも入るわけにはいかない。


「ちっ」


 船底から金属をえぐるような音が聞こえたので、雄一郎は舌打ちしながら左肩の留め金を外す。すると背中の装甲に埋まっていた脇差が鞘ごとずり下がり、右わき腹から柄が覗いた。まもなくパワードスーツ姿の男女が甲板に手をかけ、乗り上げてくる。

 追跡速度を重視したのだろう、武装は刃渡り五十センチほどのショックブレードだけだった。ついさっきまで同僚だったが、今や敵同士だ。雄一郎は脇差を抜き、近くにいる大柄な男めがけて突進した。

 ともに刃物を構えたまま体当たりの応酬、衝撃音が甲板を震わせる。鍔迫り合いや足払いなど格闘の駆け引きをしながら、雄一郎は回り込んでくる女の気配を感じていた。


 雄一郎は片手を柄から離して男の首にかける。すると相手はこちらの刃物を叩き落とそうと動く、その瞬間を狙い首相撲をかけて前に転ばせた。今まさに刃物を振り上げていた女の足下に、男は手をついた。同時に雄一郎は飛んだ。

 斬撃の歩調を乱された女のメットをつかみ、揺する。彼女は糸の切れた人形のように脱力した。さらに頭を引っ張って強引に着地を早め、立ち上がろうとしていた男の膝を斬り割った。転倒した男のショックブレードが、甲板をバターのように削り取る。

 雄一郎は振り返らずに走り出し、そのまま海へと飛び込んだ。


「……」


 後ろを伺うと、薄暗い海中に更なる追手の姿があり、見る間に距離が縮まっていく。そこでメットに何かが巻きつくのを感じ、どうやら逃げ切ったようだと思った。ベゼルを開くと海水に顔を叩かれるが、目を閉じてはいけない。メットにしがみ付いているイカのような姿をしたマシンが、雄一郎の網膜をスキャンしている最中だ。それを邪魔すれば展開したブイ付きの網に巻かれることになる。背後の追手たちのように。


「……」


 雄一郎を「持ち主」と判断したマシンは足を雄一郎に巻き付け、母艦である潜水艦へ運ぶ。運ばれながら、もっと空気を吸っておくべきだった、と雄一郎は思った。



 潜水艦の内部に入って空気を満喫するのもそこそこに、雄一郎は設備を使って音響波を拾った。光球の起点でもある彼の通信装備は壊れている。メットから何も聞こえない時間が長過ぎた。こちらから伝える事はないが、祖国である連邦側には何か伝えたい事があるかもしれない。


『吉井』


 案の定、直属の上司から通信が入った。公安の現場でともに死線を潜った長岡燿子である。パワードスーツのまま逃げ出した際、連邦の無人艦に撃たれた時は死ぬかと思ったが、それを制したであろう彼女には感謝したい。

 公安職員としての雄一郎を育てたのは長岡だ。雄一郎が何の意味もなく無茶をしないことを知っている。殺してしまってはその意味を知ることができない。先ほどの追手は勿論、彼女の差し金だろう。


『その船は誰が用意した?』

「……」

『さっきの球体は誰が出現させている? 効果は……電子機器の破壊か?』


 雄一郎が答えない事を知っているのだろう、質問の間隔は狭かった。


『いま戻れば終身刑ですむぞ。仮釈放はないだろうが、衣食住満ち足りた規則正しい生活だ。必要なら本くらいは差し入れてやる。どうだ、夢のようだろう?』


 脅しではなく、誘惑だった。雄一郎にはそれが解る。法と秩序の及ばない世界を見てきたからだ。他ならぬ彼女の下で。


『私欲のために国を捨てるんじゃないだろう。お前は飢えと戦争のない世界がほしいんだ。その兵器も、そのためにお前が作った』

「……」

『だがな。使い道はお前が決めるんじゃない。新しい技術の使い道は、みんなで決めるんだ。生ける人々すべて、で……お前がそれをどれだけ賢く使おうが、この原則に背いた時点で人を不幸にする』


 それでも。法と秩序の及ばない世界で、たった一人の判断が必要な時もある。それも長岡から学んだことだった。


『聞こえてるんだろ? 吉井――』


 雄一郎は通信を切った。

 準備は出来ている。しかし一方で、どうか来ないでくれと祈り続けた今日でもある。さぞ暗い船出になるだろうと思っていたが、予想に反して心は凪だった。崩壊し始めた世界を立て直すため、すべてを懸けて練った計画。それを握りしめているからだ。

 時が来たのに、出来ることが何もない。そういう時に人は絶望する。百億の同志が居ようが、たった一人であろうが関係ない。

 これまでの全てはこの日のためにあった。雄一郎は、そう思うことが出来ている。



 七月三日。雄一郎が連邦を出奔する一週間前。


 一枚の戦争画がある。

 骨と皮にまで痩せた女児がひび割れたアスファルトに倒れており、一見すると餓死のようでもある。しかし彼女は食べかけのネズミに指を突き立て、白いTシャツを夥しい吐血で汚している。死に顔は乱れた栗毛が隠しているものの、血が乾くころには暴かれているだろう。筋張った手の甲に乗り、悠然とネズミをついばむカラスがそれを暗示している。

 女児の死因は《DD(Demon's Dirt)》と呼ばれる毒だと、現代に生きる人なら読み取れる。人だけに毒性を発揮するDDは、他の生物すべてが生産者となりうるため、彼らを食料としてきた人類は深刻な食糧不足に陥っている。原因は生物兵器商人エドガー・ベイルが生み出したウイルスアビエクトウイルスである。

 これは生物に感染すると既存の栄養素を借りて増殖するが、代わりにDDを生産し、宿主に新しい栄養素として採用させることで共存に成功。根絶しようとする人間を尻目に僅か数年で地球を覆い尽くした。それ以来DDに適応できない人類は、地球の食物連鎖から追放されたままだ。

 人にとって無害な食料のためにはアビエクトウイルスから生物を隔離し、そこで養殖を行わなければならないが、敵は水や空気を介して浸透してくるため隔離には無菌状態に近い完璧さが求められる。これには人よりも清潔なドローンが使われる。しかし絵の中に居るドローンは昆虫のような六本足のフォルムに砲台を乗せ、崩れかけたビルをよじ登っている。食糧生産ではなく、戦争の真っ最中だ。


 砲撃にさらされた街、戦うドローンたち、戦火と飢えの中で死んでいく人々。それが《ドローンウォーズ》の真実だった。火種は食料の奪い合いだが、それ以前から燻っていた対立が戦火を煽り、また新しい対立を生み続けて七十年。いまや世界に存在する国は二つきりである。

 互いに世界の半分を支配する二大勢力の代表会談。大さなティーテーブルを見下ろすこの小さな絵は、席に着く二人にとって共通の戒めなのである。


「私はサッカーが好きでね。子供の頃はサッカー選手になりたいと思っていたよ。欧州デビューが難しければ南米でもアジアでも、どこへでも行く……それが叶う時代だったのさ、将来に疑問など持たなかった。ドローンが戦争を始めるまで、私は親の稼業さえ知らなかったよ。もちろん、表向きが服屋というのは知っていたがね」


 語っているのは今年百歳になるマイケル・カンビアンカである。歳相応にしわがれた、それでもよく通るバリトンはペースもゆっくりで、五十歳の聞き手――ランス・ガードナーを苦しめずに済んでいる。


「なるほど。こっちにも貴方を題材にした映画はあるが、そんな描写は無かったね」

「うん、のっけからマフィアの息子として描かれている……あれを見たかね?」

「正直、良作とは言い難い」

「は、は、は」


 マイケルは笑った。車椅子の手すりをペチペチと叩きながら、愉快そうに。


「映画通の君に言われては、降参するほかないな」

「映画としては駄作でも、訓話としては上出来さ。核や毒を使わずにドローンウォーズを勝ち抜いた事実は、いっそ過剰なくらい賞賛されるべきだ。まぐれだとしても、ね」

「おいおい、少し言いすぎってもんじゃあないかね?」


 言葉では非難しつつも、マイケルの垂れ下がった眉の向こうには楽しげな青い瞳があった。ランスは顔全体を波立たせていかつい笑みを返す。軍人時代を通して変わらない坊主頭のために、頭皮のシワまでよく見える。


 二大勢力と言っても両者の力量差はかなり大きい。マイケルの築き上げた《バルコ王国》はユーラシア大陸からアフリカ大陸すべてを支配しているのに対し、ランスの《太平洋連邦》は南北アメリカ大陸と太平洋に面する島々とが手を結んでいる。資源の総量では大差ないものの、抱えている人口がバルコ十億に対し連邦は三十億にのぼり、DD対策のコストにも三倍の開きがある。五年前に休戦へこぎつけた両者だが、そうしなければ滅んでいたのは連邦のほうだったし、今もその力関係は変わっていない。

 一方のバルコは短い歴史を華々しい戦歴で飾っている。欧州の平定に三十年かかったもののそれ以降は連戦連勝で、中年以下の国民は破竹の勢いで版図を広げる祖国しか見たことがない。しかもバルコに滅ぼされた勢力は核兵器、生物・化学兵器などの大量破壊兵器を遠慮なく用いてきた。そうしない勢力から潰れていったからである。

 こうした事態に不満を持っていたマイケルは、確かに毒や核を使わなかった。代わりにドローンの性能や、前線で戦った兵士たちの錬度が高いおかげで勝てた、というのも事実だと思っている。しかしそれ以上に重要だったのは、運だった。勝ち抜いたのはほとんど偶然だと今でも思う。大量破壊兵器への憎しみだとか、それに伴う団結などはあったにしても、あの時代の支配者はあくまで圧倒的な混乱だった。

 国が次々と割れ、新しい勢力が興り、そして別の勢力に飲み込まれていった時代。人の行いはあの忌々しい生物兵器どもとなんら変わりなかった、とマイケルは思う。ひたすら分布し、ひたすら奪う……地球の人口を半分にしたその行いに“罪すら見えない”ほど、かの映画が讃える人間的な理念は無力に見えた。


「もし休戦が終わり、我々が再び戦うことになったらどうする? 今度は君の政権主導で、独裁者を叩く映画でも作るかね? ん?」

「必要ならそうするさ。貴方が子供の頃ってのは、いい時代だったそうじゃあないか。戦う術どころか意思さえ持たない能無しどもが、世の支配者を気取っていたんだろ? 私はね、マイケル。そんな時代がまた来ればいいと思ってるよ。心の底から」


 言葉を返そうとしたマイケルを、ティーテーブルに上がった書類が制す。

 マイケルは少し鼻白んだが、書類の脇にある置き時計は午後七時を指していた。席についてから十五分、つい無駄話が弾んでしまったらしい。年寄りの悪い癖だとマイケルは反省した。そして辛抱強く付き合ってくれたランスに感謝した。


「ぜひともすべて受け入れてほしいね」

「良い提案ならそうするさ……要点を読み上げてくれんか?」

「いいとも。まず《ライブアース計画》を連邦全土で開始する」

「ほう!」


 マイケルは歓声を上げた。

 ライブアース計画が描くのは監視社会である。しかし監視の対象は人ではなく「工業」であり、マイケルが軍縮を受け入れる前提条件となっている。人の行き来や通信記録などの個人情報ではなく、兵器の材料となりうる資源の使い道を徹底的に追跡できるよう、地球全域に監視インフラを張り巡らせて透明化し、一定のレベルを超えた工業力の振る舞いをリアルタイムで衆目に晒すのだ。

 工場で造られた物がどこで「何をしている」のか? 監視の担い手、かつ監視対象として念頭に置かれているのは、人の従僕として社会を支えているドローンたちである。


 命令に忠実なドローンは、悪意も忠実に運ぶ。当初それは空から投げ込まれていたが、人工筋肉の進化が彼らを地上に降ろし、より丁寧で多様な仕事をさせるようになった。安全地帯から人を殺せる兵器にはテロリストだけでなく、国家も誘惑された。その動きがドローンの技術を高め、配備数を増やし、さらに武力行使への心理的抵抗も弱めていった。

 一方AIで動くドローンは人間と違い、ハッキングが可能という難点も抱えていた。テロリストの手に落ちたドローンによる無差別攻撃が、開戦やクーデターの切っ掛けとなって国家を転覆させたケースもある。そこにアビエクトウイルスが登場したため、マイケルが回顧する圧倒的な混乱は、収束への道筋さえ見えない状態だった。これを打開したのが量子暗号通信を利用した《Dネット(ドローンズネットワーク)》である。


 Dネットに参加するための《量子キー》は観測すると壊れてしまうため、物理的に偽造が不可能だ。これを割符として利用すれば、決められた量子キーを持つAIだけに参加権があるシステムを構築できる。このように外部からの侵入をブロックする以外にも、AIの持っている量子キーには序列がついており、《管理者(AIに命令を下す人間のこと)》はより上位の管理者による命令を解除・拒否できない。《メタルフラッグ》と呼ばれる最上位のAIからトップダウン式の確固たる命令体系を目指したのがDネットであり、誕生以降システム由来の事故を一度も起こしたことがない。


 Dネットが誕生したことで、ドローンは決して使命に背かない「完璧な軍隊」と化した。そして人類はそれまで躊躇していたドローンの全力運用をはじめた。地球をドローンで埋め尽くし、それらを一つの旗にまとめることが新しい治安維持の基幹になると考え、Dネットの統一こそがドローンウォーズの終結と考えた。

 しかしバルコがすべてのドローンを一本の旗で従えているのに対し、連邦は南米、北米、極東、オセアニアに一本ずつと建前上はメタルフラッグ四本だが、領土の三割を強い自治権を持つ自治政府が治めており、そこには旗の管理を受けない《はぐれドローン》が居るとされてきた。自治領内の工場もどんな物を作っているか解らず、これでは監視社会の実現どころではない。


 民主主義を掲げる連邦としては、独裁者であるマイケルを統一されたDネットの管理者として認めるわけにはいかない。対するマイケルも勝ち取った玉座を譲る理由はない。なので休戦後はライブアース計画が目指す監視社会こそが、Dネット統一の代案と見なされてきた。これを連邦全土で開始する決断は、条約で保障したはずの自治区を解体する決断でもある。


「重い決断をしたな、ランス。君自身はもちろん、あの無責任な碩学どもを納得させるのは骨だったろう」

「喜ぶのはまだ早い。当然だがこちらからも条件がある」

「何かな? たいていのことは受け入れようじゃないか。極東の系争地が欲しいなら、あらかた差し上げてもいいだろう」

「宇宙開発を再開したい。もちろん、貴方と共同で、だ」


 にこやかだったマイケルの表情が徐々に曇り、ついには太いため息をついてしまった。ランスは小さなはめ込み窓から月を見上げた。ちょうど満月なので、月面が上下に分かれているのがよく見える。中央にある黒い帯はソーラーパネルだ。

 宇宙開発は地上の食糧問題を解決するはずだったがマイケルはこれを許さず、自ら禁忌と定めたはずの軍事衛星まで用いて連邦を脅迫した。月からドローンを引き上げなければ、宇宙からレールガンを掃射してお前の国を浄土に変えてやるぞ……連邦はそれに屈したが、交渉に費やした半年ほどの間に最低限の地ならしは済ませてしまったのだ。

 その成果が、まるで海苔を巻かれたような体たらくの月である。


「地球で人間が取っ組み合っている間にもドローンは増え続け、月をあんな姿にしてしまう。おぞましい事だと思わんか」


 ランスは月を見上げたまま聞いている。

 水も空気もなく、放射線などの有害物質も飛び交う宇宙空間は人間にとって過酷だが、ドローンにとっても同じとは限らない。むしろ大気や重力のないことが兵器の運用に利する場合もある。例えばドローンたちは小惑星に取り付き、その軌道を変えて地球にぶつけることも出来る。また大量の鏡を用意して、地球の気温を上げてやることもできる。宇宙と地球に別れて戦争をすれば、宇宙側が断然有利。ドローンが進化するごとにこの説が力を増し、いまでは月面基地を築いた勢力が、そのまま地球を支配するという見方が大勢を占めている。


「宇宙の力が恋しいかね、ランス」

「当然だ。私は食べ物を奪い合え、なんて人に言いたくない。かといって豊かさのために子を産むなとも言いたくない。開拓と獲得は生命の性なんだよ、マイケル。それに背く理屈は全部嘘だし、口にする奴は全員、詐欺師だ」


 そしてマイケルを睨めつけながらこう言った。


「何度でも貴方に言わねばならない。我々には宇宙の資源が必要で、得るためには貴国の協力が必要だ」

「ならん」


 ゆっくりと押しつぶすようにマイケルは言った。


「はっきり言っておこう、ランス。人間が宇宙に出ることは絶対にならん。これはその疑い、可能性までを含めてだ……ああ、今の言葉には失望したよ。私が領土の一部を譲り、君たちと休戦するに至ったのは、君たちが月のドローンを引き揚げたからだぞ? まさか忘れてはいまいな」

「……なぜそこまで拘る。ライブアース計画を受け入れると言ってるんだぞ? 自家用車の部品の行方まで監視されるんだ、リアルタイムで。戦争なんざ起こす前に準備の全てが露見して、逆にこっちがひねりつぶされる。他ならぬ我が国民にな……逆にどうすりゃあんたにキツい一発をお見舞いできるんだ? ご教授願いたいくらいだね」

「軍人の都合なんぞどうでもよろしい。これは地球が資源の限られた、同じ軌道を廻るしかない哀れな船という話なのだ。この宇宙で唯一、生命の出ずる尊い船だ。なのに宇宙の無情さときたらどうだ? あんなにも広く、あんなにも資源にあふれているのに……あんなにも、我々に厳しい」


 マイケルが車椅子から立ち上がった。痩せ衰えた体はタキシードに着られているといった有様だが、それでも百九十センチメートルを超える長身を波立たせ、薄い胸板からは考えられないような声量で部屋を震わせる。


「たとえ私の手で運用するとしても! ならん! 貴様も人間の業は知っていよう……

ドローンが宇宙に出ようものなら、宇宙の遠大さと資源が! そのまま地球の……生命の敵となるは必定なのだ! 貴様らの愚劣な選択に比べれば、歴史上のありとあらゆる愚行でさえ“取り返しのつく”過ちにすぎん! 絶対にならんぞ、ランス・ガードナー! 貴様を阻むためなら……私は何十億人と殺してみせる!」


 言い終わるとマイケルは倒れるように座り込み、ゼェゼェと喘ぎはじめた。ランスは退室してマイケルの執事を呼んだ。合間に水を飲みながら、たっぷり二分は息を荒げていたマイケルは、やっとの思いでこう言った。


「人は……地球で暮らすしか、ないのだよ。ランス」

「……」

「いつの日か、生命が宇宙へと漕ぎ出す日は来るかもしれん。それ自体は喜ばしいことだし、ひょっとしたら生命にとっても、それは結実の日かもしれん。だが漕ぎ出すべきは我々人じゃあ、ない」

「……」

「宇宙へ漕ぎ出すのは、聖者でなければならん。この星の摂理を克服し、すべてを慈しむことが出来る、聖者が居なければ……まだ花すら咲いていない、ということだよ」


 マイケルが合図をすると、執事が車椅子を引いた。振り返りざまにマイケルはこう告げた。


「休戦五周年、おめでとう、ランス……末永く平和が続くことを、祈る」 


 会談は終わりだった。ランスは役立たずとなった書類を廃棄用のケースに入れた。スイッチを押すと、書類は炭化して真っ黒に変わっていく。

 どこまで本気なんだ? 既に去った会談相手に対し、ランスは心の中で問いかけた。絶対にならぬ、何十億人と殺す……そうした宣言に嘘はないとも思えるが、彼の余命は幾許もない。加えて彼の王権を引き継ぐ王族たちは、彼ほど宇宙進出を忌避していない。連邦に対し穏健な人々が力を持てば、人道的配慮から食糧支援を受ける見通しもついている。旧インド領沖の軌道エレベーターは健在である。バルコの軍事衛星を軌道上に運んだものだが、それを使えば食糧生産に不可欠な水を大量に宇宙へ運ぶことができる。マイケルが死ねば、その恩恵に預かれる日も近いだろう。


「……」


 それではいけない。ランスは一人掛けのソファに深く腰掛け、目頭を揉みながら思い直した。マイケル・カンビアンカという男はカリスマなのだ。無法に手を染めた支配者たちに対抗しながら一代で地球の半分を平定し、多くの人々を飢えと戦火から救った男。空前絶後の成功者だとランスは思う。彼の言葉は今後永らく、人類の教訓として語り継がれるだろう。その実績の全てが「まぐれ」だとしても。

 だからこそ、宇宙進出の同意を彼から直接取り付けたい。彼が死ぬ前に……お望みなら聖者だろうが何だろうが探してやろうとランスは思った。なに、騙せれば偽者だってかまいやしない。歴史を切り開くのは生きている人間なのだから、古いカリスマの呪縛など邪魔なだけだ。

 ことは急を要する。独裁の賞味期限は、すぐそこに迫っているのだから。



 七月十日。午前十一時。雄一郎が連邦から出奔する五時間前。

 新東京大学・敷地内某所東京VR内。


「お味はどうかな?」


 ティーカップがコースターに戻るのを待ってから、白衣姿の雄一郎はそう尋ねた。研究職時代に住んだ安アパートの一室を、畳の上に正座するプラチナブロンドが別世界に変えている。彼女の名前はアレクシス・カンビアンカ、十四歳。バルコ王マイケルの末娘である。


「先生、あなた、紅茶を飲んだことは?」

「僕はないね」

「そう……さすがに名高い東京VRだ」


 《VR(仮想現実)》が見せる夢の中とは思えない味だ、とアレクシスは思った。本来の肉体は専用カプセルの中で眠りについているのだが、カップを持つ指も、大好きなアップルティーも、現実で楽しむティータイムと区別がつかない。

 しかもこの世界を創った吉井雄一郎は平凡な連邦人の家庭に育ち、レーションと浄水以外の食べ物は祝いの席で口にする程度だという。一流の研究者は食事の喜びさえ数字の羅列にしてしまうのか……バルコにもVRはあるが、この畳に積もった埃さえ再現するのは難しい。


「……」


 アレクシスが畳を指でこする。雄一郎は開き直って笑いながら聞いた。


「こんな汚い部屋に、どうして来たがるんだい」

「聖地巡礼みたいなものだよ」

「ほう、聖地?」

「パパにあこがれた人が、パパゆかりの地を巡るのと同じ」

「……なかなか可愛いこと言うじゃないか」

「この東京VRがバルコにも来るんだね。本当に待ちかねたよ」

「喜んでもらえて嬉しいよ。製作者の一人として」

「でも私には、これよりも欲しいものがある……覚悟は決まった?」

「またその話か」


 雄一郎が表情を曇らせる。


「いつか、きっちり戦争が終わったら、君と一緒に研究するよ。約束する」

「パパとガードナーの話し合いは、不調に終わったらしいよ」

「……」

「まぁ、いい。あなたの困り顔が見たいわけじゃないから」


 以前の短期留学にしろ、今回の東京VR買付交渉にしろ、メインとされた目的のほうが“ついで”だった。どんな手を使っても、吉井雄一郎を学問の世界に連れ戻す。そのために東京を訪れているのだ。彼の論文を読み漁っていた頃から、揺るぎない確信がアレクシスにはある。吉井雄一郎が学問を捨ててから今に至るまで、世界は計り知れない損失を被り続けている。可及的速やかに是正しなければならない。

 アレクシスが立ち上がった。肩甲骨まで伸びた豊かな髪は、翻るとき分厚いカーテンのように振舞った。それを無造作につかみ、紺のロングスカートのポケットから取り出したオレンジ色の髪紐で後頭部の高さに纏め上げる。

 愛らしいうなじと形のいい後頭部に、雄一郎は改めて美を慈しむ視線を送った。視線を感じながらもアレクシスは恥じることなく、さらにスカートのウエストをずり上げ、脹脛の半ばまで裾を上げてのける。


「さ、次は遊園地に飛ぼう」

「仰せのままに」

「それとも、まだ先生ゆかりの地が残っているかな? たとえば恋人の部屋とか――」

「ありません」



 貸し切り状態のVRを予定時間ギリギリまで楽しんだあと、しぶしぶ現実に戻ったアレクシスは植物園へと雄一郎を誘った。保安上の理由から大学を出てはいけないと決まっているので、大学に併設された屋内型の植物園である。学生や客が居ない代わりにSPの影が見える。

 展示品の中にはDDを溜め込まない植物開発の記録もあり、失敗したそれらの話題に花が咲いた。アレクシスは生物の研究者である。


「先生、あれを見てごらん」

「? どこだい」


 アクリル窓の向こうに展示された植物たちへ目を移す。はじめ何を見ればいいのか解らなかったが、展示物を記したプレートを見て納得した。併せて虫を展示するスペースもあるのだ。落ち葉の中で、落ち葉に擬態した虫が僅かに動いた。


「擬態だね」

「そうだね。敵にも我があることを思っての行為だ」

「その表現、先生らしくない」

「どうして?」

「先生はどうも、哲学者っぽくはないから」


 我思う、故に我あり。


「どういう意味かなあ」

「あれはどう?」


 珍しいものではあるが、生き方そのものに変哲はない植物だ。甘い実をつけ、タネを鳥に運んでもらうような。


「どこまでが固体の意図で、どこからが生命の意図なんだろうね」

「うん。私もそこが気になる。でも……“我”を持つもの同士、人と生命は今より濃密な交易ができるはず。遺伝子操作のような一方的なやり方でなく、より深く意図を伝え合う……たとえば私たちの会話ような。そういう方法を探したい。貴方がそれを助けてくれると期待しているよ」

「そうだな、僕も生命の強かさは買ってる。生きるために必要なことを、凄まじい執念でこなしてくるからね。必要ならVRの中でも進化するさ」

「……」

「どうかした?」

「やっぱり変だ」

「何が?」

「あなたはすごくイキイキと語るんだね。進化について」

「……」

「テロに逢ったくらいで、あなたが研究室から遠ざかるなんて。信じられない、というのが今の印象だよ」


 雄一郎は親指に顎を乗せて考え込んた。考えながら、アレクシスの目力が凄いなと思った。金色の長い睫に縁取られたスカイブルーの三白眼が瞬くたび、視線の先をノックされているようだ。


 VRについては官民問わず開発チームが乱立していたが、最も優れていたのはこの東京大学を拠点とした民間チーム《ノア》だった。ノアは連邦政府が立ち上げた有人宇宙飛行計画ラストフロンティア計画に参加していた。

 まずノアはSFでお馴染みの“水槽に浮かんだ脳の夢”を実現しようと考えた。人体全部ではなく脳髄だけを積めば宇宙船の抱えるリスクやコストも下がるし、離れた宇宙船同士で地続きのVRに暮らせれば、誰も人間社会から隔絶されずに済む。VRの開発コンセプトとは、宇宙に人間社会を輸出することだった。こうした展望は人工冬眠を利用した星間飛行に取って代わり、宇宙開発目標のスタンダードになりつつあった。


 十一年前、十九歳で大学院を卒業した雄一郎は、生物の知覚と物理法則の関係について研究したデータが注目され、その年にノアへ招かれた。そしてVRの物理現象を監修しているうち、すぐ開発そのものを取り仕切るようになった。才能を認められてのことだ。

 二十二歳の誕生日、彼は自分の誕生日ケーキを買いに走らされていた。もちろん自分のだけではなく、同僚や所長への手土産も、である。人数分買うと雄一郎の月給など軽く吹き飛んでしまうので、所長が上手く経費をやりくりしてくれた。

 要するに皆が皆、美味しいものを食べる口実が欲しかったのだ。そして最年少の雄一郎はリーダーというより、態のいい使い走りだった。


 バルコとの戦争が長く膠着する間、雄一郎は大多数の人々と同じように押し黙っていた。研究は世界を良くするため。そこに偽りはないが、志と呼ぶには後ろ向きな沈黙だったかもしれない。戦災死が病死を追い抜くほどに乱れた世でも、人権や平和といった標語はパワーゲームの道具に過ぎず、掲げてもなぜか社会を分断するだけ。そんな錆びた諦めが彼を沈黙させていたに過ぎない。

 だからケーキを買い、安物の軽自動車で帰り道をゆく途中、研究所が爆弾テロにあったとニュースが報じても、ああそうかと思っただけだ。自分たちの番が回ってきたか、と。


 直後に出た犯行声明ではVRの開発が批判されていた。人間を脳髄だけにして管理するやり方は、規模が大きくなるほどに単体コストが低下する。そして一定のラインを超えると、食料プラントで人を養うより効率が良くなってしまう。これが貧しい連邦の権力者を誘惑すると疑われた。国民の飢えがメリットに転じるという誘惑。

 今は休戦で国内が安定したこともあって、VR永住の希望者は一定ラインを超えずにいる。しかし戦争が再開すれば、政府は国民を飢えさせてでも戦いに集中するかもしれなかった。世論はテロリストを攻撃したが、同時にノアと連邦政府をも攻撃した。生き残った吉井雄一郎とその功績も、今は忘れられつつある。


「あなたにとって、VR創りは寄り道に過ぎなかったはず。あなたが望んだのはアビエクトウイルスの駆除だね?」

「……うん、そうだ」

「なら、私のところに逃げてくればいい」

「それはまだ早いよ、アレクシー。戦争がきっちり終わってからだ。科学者の行き来には両国とも神経質になってる。無理押しすれば君の立場を悪くするよ」

「いいんだ」


 薄紅色の唇が割り開かれる。


「星を導くのが私たちの役目。そしてあなたも星の一部だ。必ず連れていくよ。あなたが在るべき場所に……あなたが思うより早く、ね」


 独裁というシステムはこういう時に厄介だ、と雄一郎は思った。アレクシスはまだ十四歳だが、マイケルの寵愛ぶりは彼の晩節を汚す程だ。幼いアレクシスの我儘が世界にどれほどの影響を与えるか、連邦との力量差が大きいだけに上限が読めない有様だ。

 雄一郎は頭を掻きながら、アレクシスに並ぶため駆けた。



「ねぇ燿子ちゃん」

『なんですか?』

「吉井のこと売っちゃう? なんか高値で売れそうじゃね?」

『はやく警備部に連絡してください、長官。そのために呼んだんですよ』

「タイミングは俺に任せろい。何せ“誰が犯人か解らない”んだからな。SP共も疑わにゃ」

『まだテロと決まったわけじゃない』

「ふん」


 長官と呼ばれた男――稲田一穂は灰色の中折れ帽を外してポールハンガーに投げつけた。歩きながら革靴を脱ぎ、足の指を使って器用に靴下を脱ぎ、ソファにどっかりと座ってテーブルへ足を乗せる。富裕層向けのバーは開店前だがここは稲田の隠れ家でもあり、彼の許可なく入室するものは居ない。背広の内ポケットからジッポーライターを取り出して葉巻に火をつける。六十歳の持ち主よりずっと年上のアンティークである。


『……』


 葉巻を味わいながら、稲田は右目のコンタクトレンズ型端末に映る長岡の仏頂面を眺めていた。若い頃の彼女なら軽蔑も露わに「飢えた市民への冒涜」などとバーを腐したが、そんな小言が煩いよりも今の長岡が好ましかった。四十半ばとは思えない若さを保った美貌が、年を取るごとに表情を乏しくするさまが奥ゆかしい。


「吉井は動いてるか?」

『はい。さりげなくエレベーターの方へ誘導しています』


 長岡は建築業に偽装したトレーラーで、雄一郎たちが居る新東京大学の傍に待機している。荷台には小型ミサイルを積んだ対テロ用の六足型ドローンや、パワードスーツのケースが鎮座している。どれも市街地へ持ち込むには特別な許可が要るものばかりだ。


 二人の所属する《連邦公安庁》は、連邦全土の特殊犯罪を取り締まる組織である。太平洋連邦という国は、ドローンウォーズにより失地を経験した国々が、北米大陸を中心に寄り集まった共同体だ。それは一つの国というよりも、北米に強く統制された軍事同盟と表現するほうが実態に近い。加盟地域から資源を巻き上げはするが、内政にはあまり干渉しないのだ。

 このため連邦政府としての機能は簡素だが、領土奪還のために組織した《連邦軍》と、国内外のテロ対策や監視を行う連邦公安庁は非常に強い力と権限を持っており、長官である稲田の上にはランス・ガードナー大統領しか居ない。稲田がトップとなってからはさらに専横が強まり、犯罪対策の全てが彼の意向に沿って行われている。

 それでも大陸系の難民を受け入れた東京は、元難民たちの意向で事あるごとに地域の独立性を強調してきた。今回も公安の申し出を断り、アレクシスを東京の警察に警備させている。その様を見て稲田は「こんな都市とっとと解体して、連邦政府に組み込んじまえ」と発言し、本当に東京出身なのかと長岡に思わせた。


「輸送ルートのクリアリングは済んだか?」

『あと二分弱です』

「じゃあ耀子ちゃん、先に屋上へいっとけ。遺体の検疫が済んだらしい」


 今から約十分前の午後一時ちょうど、アレクシスが居る大学の近くで若い女性が突然倒れ、搬送先の病院で死亡した。全身から血液を噴出する凄惨な死に様だった。遺体は公安によってすぐ検疫され、病理はウイルスに由来するとたったいま判明した。

 遺伝子の特徴から、史上最大の生物兵器商人であるエドガー・ベイル作の可能性が高いことも。


「バイオテロで確定だ。お姫様を《ブルークラウン》までお連れしろ」


 既に長岡は肩まで伸びた髪を纏め、専用のインナー姿になり、壁に立て掛けられたパワードスーツのケースへ背中からもたれこんでいた。首の多目的ジャックに起動プラグを差し込むとすぐ、引き締まった彼女の手足を、腹筋の浮いた胴を、形のいい頭部を人工筋肉と繊維装甲が覆う。

 さらに彼女は灰色の外套を纏った。するとその姿は映像迷彩によって周囲の風景に溶け込み、見えにくくなる。気密室を抜け、コンタクトレンズ型端末に外の様子を映して人気のないことを確かめ、予め目を付けておいた日陰を飛び移り大学へ向かっていく。

 すべての動作がほぼ無音のまま、しかも迅速に行われた。


「ヘリを屋上に回せ。警備部長に連絡しろ。それと……吉井、お姫様をエスコートしな」



「先生?」


 並んで歩いていた雄一郎が足を止めた。アレクシスが振り返ると雄一郎はすでに肉薄していて、彼女の視界を埋めてしまう。雄一郎はゆっくりと屈み、視線をアレクシスの高さに合わせた。


「危険が迫っている」

「うん? なんだって?」

「僕についてきて。一生のお願いだから。いいかい?」


 この上なく柔らかい笑みを向けられつつ、有無を言わさない力で手を取られ、アレクシスはびっくりして思わず頷いた。


「わっ」


 次の瞬間、アレクシスは抱え上げられていた。SPの怒号が鋭く響く。


「レディをゆっくりと降ろせ」

「緊急です」


 包囲を狭める動きが水際立っている。聞いていたよりも錬度が高い、話がこじれると面倒になるな、と雄一郎は思った。

 雄一郎の首の多目的ジャックには肌色のプラグが挿し込まれているが、シャツの襟をめくっても見た目では解らない。プラグから長岡や稲田の会話を聞いていた雄一郎は、さりげなくアレクシスを誘導していた。この植物園には屋上への直通エレベーターがある。


「連邦公安庁です。長官への直通回線を送ります」

『必要ねェ。話は通ったからさっさと屋上まで来い』


 稲田の声が雄一郎に届いた。SPたちにもそれぞれ上司からの言葉が届いているのか、包囲を狭める動きが止まっている。


「失礼します。行くよ、アレクシー」


 黙ったまま、むすっとした顔で首にしがみついてくる。物分りがよくて助かると雄一郎は思った。



「バイオハザードだ。いや、ほぼ確実にテロ。いまのところ犠牲者は一人、大学付近で倒れたらしい。感染経路は不明、そして空気感染する。つまり僕と君にも感染の疑いあり」

「……」

「怖いかい?」

「……検体を《ブルークラウン》まで運びたいんだろう? どこかで通信させてくれれば、準備をするよう伝えておく」

「感謝するよ」


 東シナ海にはバルコ海軍が展開しており、アレクシスが所有する大型ドローン「ブルークラウン」とそれに連なるドローンたちが中軸を担っている。かつてマイケルは人を標的とする“普通の”生物兵器から家族たちを守るため、この艦隊に住まわせたことがある。そうした経緯から特にワクチン作りの設備は世界一で、移動時間を足しても東シナ海のブルークラウンまで出向くほうが早く作れる、と公安は判断した。


 Dネットの命令体系はツリー型で、階位が上のドローンほど多数のドローンを指揮できる高性能AIを備え、その管理者も強い権限を持つ。

 またAIの大型化につれてドローンも大型化する。ブルークラウンは全長三百三十メートル余りの工作艦であり、階位はバルコのメタルフラッグ《トローノ》直属となる二位、序列は三位である。搭載されている対空散弾レールガンやレーザー、ミサイル、魚雷などはすべて防衛用だ。この艦が戦うのはまさに必死のときであり、ほぼ想定されていない。

 核融合炉を積んでいる上、巨大なAIと工廠が船体のほとんどを占めるため、収容人数は五十人程度に過ぎない。しかし資源さえあればたいていの物を造れるだけの工業力を備えており、これ一隻からでも人類はやり直せる、という触れ込みに適っている。

 配下のドローンは戦闘専門が約二千四百隻に対し、工作艦が約千五百隻随伴しており、艦内を無菌状態にできる艦は常に二割越えをキープしている。ブルークラウン艦隊は軍艦の群れというより一つの工業国であり、あらゆる滅びに抗う人類最後の砦と考えられている。


 エレベーターで二人きりになると、アレクシスの不機嫌に拍車が掛かった。彼女のメンタルが二人の生死を分けることもあるので、雄一郎は彼女の好きな(と、雄一郎が考えている)テノールで優しく語り掛けるが、効果は薄い。


「そういえば、ノアの集合写真のときより、ずいぶんマッチョになったね。007。こういう事をするためだ」

「脅かす気はなかったんだけどね」

「動機は復讐?」

「違う」

「じゃあ何のために?」

「……」

「あなたが、まさか戦士だなんて……先生」

「なんだい?」

「これだけは覚えておいて。私は絶対、あなたに戦士を続けさせない。今後岐路に立つ度に、私のことを思い出して」

「わかったよ。ありがとう、アレクシー」


 エレベーターが最上階に着くと、踊り場でパワードスーツ姿の女性に迎えられた。屋上への扉は開いていて、ヘリのプロペラ音と風が屋内にまで入ってくる。


『歩きながら話そう』

「横田に戦闘機は着きましたか?」

『急行している……はじめまして、アレクシス様。連邦公安庁の長岡耀子です』


 フルフェイスメットで拡声された挨拶に対し、アレクシスは大声で返す。


「横田で乗り換えるんですね?」

『そうです』

「なら、パイロットは吉井さんにしてください」

『……』

「彼をブルークラウンにつれていき、感染していれば治療する。私と同時に。問題ありますか?」

『いえ、そのように手配します』

「うん」


 言い終えると、アレクシスは雄一郎の首から腕をはずし、胸に頭を預けた。



「パワードスーツを着たことはありますか」

「……あります」

「結構です。ではこちらへどうぞ。防音ですから音も聞こえません」

「用意がいいですね。ヘリの中だというのに」

「はい」


 「更衣室」の戸が閉められた。パワードスーツを着ることになってからアレクシスはずっと渋い顔だったので、長岡はこう呟いた。


「……スカートよりだいぶマシだと思うけど」

「着心地の問題じゃないんでしょう。ま、着ないで済むならそれが良いのは確かです」

「そうだな」


 雄一郎は着ているものを脱ぎ、専用インナーを着てからパワードスーツのケースを開け、背中から中へともたれ込む。


「どんな気分だ?」

「え?」

「体の中に生物兵器がいるかもしれない」

「別になんとも。こうしてブルークラウン行きの便に乗れてます。東京に残ってる人たちに比べれば、俺はだいぶ運がいい」

「そうかい」


 操縦席で腕組みしている長岡は背中のアタッチメントケースに防毒フィルターを積んでいる。生物兵器対策だ。

 雄一郎のほうは小型の酸素ボンベを選択した。東シナ海で泳ぐことも想定しているのだ。それを見た長岡はこう言った。


「そいつを使うハメになったら、いよいよ戦争だな」

「ありえますよ。本当なら、アサルトフレームを持って行きたいくらいです。海中戦仕様で」


 パワードスーツが着る兵器だとすれば、アサルトフレームは乗り込む兵器だ。大型兵器を扱うために外骨格を追加したパワードスーツと言えるが、火力を欲張らず努めて小型軽量にするのがセオリーで、高さは小さいものなら二メートルに収まり、五メートルを超える機体はほとんど無い。

 そして東シナ海近辺ではいまバルコ軍と連邦軍がにらみ合っている。テロの一報を受けたバルコ軍は、アレクシスを迎えるため連邦領海間近まで迫っており、不手際を演じた連邦側としても応じて展開するしかない。この緊張地帯を重武装で横切るのはもちろん問題だが、何よりアサルトフレームを積める輸送機は戦闘機に比べ足が遅い。到着まで一時間の遅れが出る計算だ。

 要人が生物兵器に感染しているかもしれないのに、その遅れはありえない。とはいえ選択の余地が全くないことに雄一郎は警戒心を募らせていた。激流の中を成す術もなく流されていくような感覚。敵の手のひらで踊らされているような感覚。


「テロはまだ終わってないと?」

「ええ。今回の敵について、部長はどう思います?」

「生物兵器は大戦中に造られて、今まで隠されていたと考えるのが普通だ。ここ二十年の間に造られたものじゃない。ライブアース計画なんざ無くとも、兵器製造の監視はできるからな」


 小さいカプセルに何十年も保存しておけるほど現代の生物兵器は進んでいるが、新規製造を防げれば残弾は限られる。犠牲の数も天井知らずとはならない。


「しかし監視が行き届いているのは地表だけだ。海の中は浅瀬を浚ったきりでしょう?」


 工場を置ける水深限界には諸説あるが、地上よりもずっと監視が難しい傾向にある。このため休戦協定には海中工場の禁止だけでなく、違法な資材備蓄などが無いか領海の深度二百メートル地点まで調査する、と記されている。地上で敗北した勢力がひそかに海中へ潜ったという情報や、ライブアース計画の行き届いていない自治区内にも海中を開拓している人が居るかもしれない、という懸念があったからだ。

 しかし人口の多い連邦は食料プラントを大量に維持しなければならない。海中捜査に割くドローンが居ないため、バルコには嘘の調査結果を報告して休戦に漕ぎ着けており、しかも先方は薄々それを悟っている、というのが公安の認識だった。


「太平洋ですら、深度五メートルまでしか調べてない海域がいくつもある」

「吉井」


 操縦席の長岡が、ベンチの雄一郎を振り返る。そして非公開通信でこう言った。


『動揺しているのか?』

『いいえ』


 実際、動揺しているつもりなど雄一郎にはまったく無かった。真っ直ぐ見返しながら、やはり非公開通信でそう宣言する。

 

『アレクシスは私が送ろう』

『聞こえましたよね?』

『深海に工場があったらなんだ? 大戦の混乱はまだそこら中に残っているねぇ、確かに。いい機会だから、社会問題についてじっくり語り合おうか。今から』

『しつこいですよ。俺は最初から任務に専念してます』


 長岡とは長い付き合いだが、雄一郎との関係が良好だったとは言えない。アレクシスとの会話を聞いていた彼女の苛立ちもわかっている。進化についてイキイキと語る、なんて言われる必要があるのか? やりとりの意図を説明して、私を納得させろ。そんな声が聞こえるような気がした。仕事のやり方でぶつかるたび、同じような説教を何度も聞かされているせいだ。

 実際、雄一郎は欺くことが嫌いだ。それを避けて回りくどい事もするくらいだから、長岡の怒りは正当である。眉間にしわの寄った彼女に「どうして公安に来た?」と何度聞かれたか解らない。稲田に重用されていなければ、とっくに首を切られていただろう。


 更衣室のドアが開き、アレクシスが姿を現した。市民用のパワードスーツは人工筋肉の量を抑える代わりに装甲が厚めで、万一の際は水に浮くこともできる。

 雄一郎はにこやかに笑いながら、会話の非公開機能を解いてこう言った。


「着心地はどうだい、アレクシー」

「そっちを向いて」

「え? うん」


 言われるままに横向きに座ると、背中側のすぐそばにアレクシスが座った。薄手の宇宙服のような姿を見られたくないらしい。

 長岡は前を見たまま何も言わない。先ほどの、お前はまだ躾の途中だ、と言わんばかりの態度が気に入らない。しかし確かに、今は任務のことだけを考えるべきだった。



 横田で複座の高速戦闘機に乗り換え、雄一郎たちはブルークラウンへと急いでいた。


「ヘリの中で、長岡と何を話していたの?」

「いや、別に何も」

「嘘だ。先生はこのまま、何事もなくブルークラウンに着けると思う?」


 テロリストの目的は、両国の決定的な決裂。アレクシスもそう考えているらしかった。このままでは彼女の帰国が早まるだけで、政治的な意味の薄いテロになる。


「先生……もし生きてブルークラウンに着けたら、やはりそのままバルコに来て。戦争になればあなた達は負ける。私はそんな理由であなたを失いたくない」

「約束するよ。いつか必ず、君といっしょに研究をする。だがその前に……やらなきゃいけない仕事があってね」

「危ない仕事?」

「そんなことはないさ」

「でも内容は言えない。いや、何を言おうと信用には値しないな……ねぇ、007」

「……」

「あなたは連邦に帰れない。怪我もさせたくないから、無駄な抵抗はしないで」


 雄一郎は会話を切り上げた。アレクシスを送り届けた後、どうやって逃げるかまで考える必要がある。

 操縦席からは海を埋め尽くす艦隊が見える。前線にあるのは戦端が開けばすぐ壊れる前提の無人艦ばかりだ。潜水艦のようなフォルムにランチャーを積んだだけのシンプルなものが多く、ロケットやミサイルを一気に撃ちつくしたあとは海中に没して機雷になるか、運よく壊れなければ数百キロ離れた自陣まで引き返すことになる。

 船体は脆弱だが土から作れるため安価。命なきドローンたちはそうして数を増やす傾向にある。


『姫様? エミリーです。聞こえますか?』

「うん、聞こえる。心配をかけた」

『だから申し上げたのです。行くべきでないと』


 やや老いた女性の叱責する声。アレクシスが聞き流す構えなので、雄一郎はコールサインの後にこう言った。


「海中の様子をお聞かせ願いたい」

『そこは、貴国の、管理する海ではなくて?』

「……」

『我々の知る限り、貴官の通り道に艦影はありません。何事も無いことを祈りますよ、貴国のためにも』

「ありがとうございます」


 ちょうど、布陣する両軍の境目に差し掛かるころの会話である。全く同時刻に、雄一郎たちから南に五十キロメートルの地点で、大きなクジラが海面に顔を出した。

 それは完全にクジラと言える外観だったが、実際は兵器であり、しかもそれらは群れを成していた。ガスの噴射音と共に背中の肉がはじけとび、ミサイルの弾頭が現れる。小ぶりの、しかし航空機を撃墜するには十分な威力のそれが、クジラたちの十倍もの群れを成して飛来してくる。

 ミサイルアラートで状況を知った雄一郎は、オープンチャンネルでこう言った。


「北側はどうか?」


 南側と同様、艦影なしとの報告が両軍から入る。着弾まで九秒。


『迎撃ミサイル到達まで、さん、にぃ――』


 すでに両軍のドローンから噴火のような勢いで迎撃ミサイルが射出されている。カウントダウンが終わると同時に雄一郎は高度を上げ、回避運動に入った。急激な上昇のために視界が暗くなる。下ではミサイル同士の潰し合いが始まっているはずだが、音は聞こえない。ただ、鳴り止まないアラートだけが聞こえている。

 始めて聞こえた爆発音と共に、機体が大きく揺れた。炸裂弾に翼が大きく割られている。


「アレクシー、落ち着いて聞いてくれ」


 呼んでも応答はない。彼女に答える余裕は無かった。代わりに両軍から、要約すればこのような報告が矢継ぎ早に入る。

 北側からミサイルが飛んでくるぞ。


「きゃああ――」


 全部聞き取る前に雄一郎は左へ急旋回した。アレクシスのか細い悲鳴が聞こえる。水平線から顔を出したブルークラウンが、散弾レールガンとレーザーで敵ミサイルを迎撃していくが、まだ距離が遠いため思うように行かない。

 雄一郎は南へ大きく逃げることはなかった。ミサイルを見てからベイルアウトしても間に合う距離を保った。全速力でブルークラウンを目指し、その庇護下に少しでも近づこうと考えていた。


「いいかい、アレクシー。僕らはたぶん撃墜される」


 意識があるのかも解らなかったが、とにかく呼びかける。


「でも心配するな、海の中でも打つ手はある」


 先程のミサイルにしても、射出点が近すぎる。両軍の目を晦ますほどの偽装技術か、あるいはどちらかに裏切りがあったのかは解らないが、敵はこちらの弱点を見事に突いている。もちろん入念な準備と計画があったのだろう、簡単に逃げ切れるとは思えなかった。


「僕にしがみついて離れるな。良いというまで、絶対にだ。わか――」


 ミサイルアラートの間隔が狭まった。雄一郎は即座にベイルアウトのレバーを引く。座席ごと宙に浮いたところを、下から爆風に煽られる。脱出は間一髪のタイミングになった。

 浮いていても的になるだけなので、雄一郎は座席に備え付けられたパラシュートの操作レバーを閉傘降下に合わせた。落下する座席につかまりながらシートベルトをむしるようにして外し、後席のアレクシスを同じように取り外してから、頃合を見てパラシュートを全開にした。座席に押し付けられるような衝撃のあと、轟く風切音が弱まっていく。


「先生……!」


 アレクシスは言いつけ通り、腕を襷にかけてしっかりとしがみついてきた。彼女と自分の胴を救命用ロープで結びつけ、雄一郎は足元に横たえていた水中銃を手に取った。派手な波しぶきを立てながら、二人は海に突入した。

 


 アレクシスは雄一郎の動きを妨げないよう、なるべく背中に密着して縮こまった。最期になるかもしれないのに、彼の顔さえ見えないその体勢が不満だった。せめて一言でも話したいと思ったが、なにやらバルコの通信士と矢継ぎ早にやり取りをしているので、邪魔をするわけにもいかない。

 海面すれすれを緩やかに浮き沈みしながら西へ向かっているのが解る。しばらくすると縦横の揺れが激しくなり、アレクシスは眉根を寄せた。

 深海に気をつけろ、と通信士が言っている。そういえば先程から、やけに近くでこもった爆発音がしていた。背後をちらと見ると、バラバラになった魚の死骸らしきものが遠ざかっていく。雄一郎は殺到してくる魚から逃れつつ、水中銃の一発で数匹の魚を打ち抜き、それらが腹に抱えている爆弾を爆発させていた。しかし大群からは逃げ切れず徐々に囲まれていく。

 雄一郎が弾の切れた水中銃を捨てた。代わりにアレクシスの腰から拳銃を抜く。いかにも頼りない小さな銃と、海の底から急浮上してくる魚の群れ。アレクシスはいよいよかと思い、きつく目を瞑った。

 心の中で雄一郎に、守れなかったことを侘びながら。



 極東からの急報に叩き起こされたマイケルは、すぐに重臣たちとオンラインで会議を始めた。同じローマに住む孫のチャンドラと息子のヴィクトルは宮殿まで駆けつけている。大きな円卓に着いているのは彼らを含めた三人だけだが、五十近い親族の家長たちはすでに全員そろっていた。

 実際はそこに居なくとも、椅子に座る重臣たちの姿が三人には見えるし、咳払いの音さえしっかりと聞こえる。椅子にホログラフが投射されているからだ。


「チャンドラ……傍に来てくれんか」

「はい、お爺様」


 チャンドラは静かに席を立ち、ゆっくりとマイケルの傍まで歩いた。体のラインが出ないゆったりとした上下に頭巾、長手袋という服装は少女の頃から変わらず、百七十センチメートル後半まで背が伸びた今に至るまで、離宮の女性以外に肌を見られたことはない。彼女らによれば、光によって色彩を変える淡褐色の瞳と、蜂蜜を塗したような琥珀色の肌は、世界に二つとないほど美しいという。

 会議室には重い空気が横たわっていた。東シナ海のバルコ海軍によると、アレクシスを運んでいた戦闘機がたったいま撃墜された。他にも所属不明の敵が深海から襲ってきたとか、連邦軍との戦端も開いてしまったなど、マイケルにとっては頭を抱えたくなる報せばかりだ。

 国王として重視すべきは連邦の海域で、それも海中から攻撃されたことである。常にDネットへ接続しようとするドローンにとって、電波の通りにくい海中は動きを阻害されるだけでなく、メタルフラッグの監視から外れやすい環境だ。裏を返せば隠密行動がしやすい環境でもあるため、海中でのドローン運用は条約で厳しく制限されている。

 ただアレクシスたちを襲ったマシンに通信装備はなく、予め決められた反応をするだけの自律機械であるため航続距離も長くはない。広くとも二百キロメートル圏内に出撃拠点があるはず、とバルコ軍は結論付けた。しかし緊急の調査ではそれらしい影は見えない。

 もしこのまま見つからなければ、その出撃拠点は「移動している」ことになる。しかもクジラ型は約二百機、魚類に至っては数えきれないほど確認された。つまり規模の不明な「深海工場」がどこかにあり、それ自体が移動している可能性もある。初めて明らかになったこの事実は重かった。平和のために連邦と交わした約束が霞むほどに。


『お父様』

「!」


 円卓の中央にアレクシスのホログラフが立ち上がる。彼女は生きていた。

 張り詰めていた空気が少しだけ緩む。マイケルも王族たちと同じように喜んでいたが、それを露にしてはいけない。連邦の人心を掌握するため、敵地に赴いている王族はアレクシスだけではない。この会議室にも何人か居る。

 彼らの前で、だらしなく頬を緩めるわけにはいかなかった。


『ひとまずマシンの襲撃は終わったようです。連邦との戦いも収まりつつあります』

「そのまま帰って来れそうか」

『はい』


 生物兵器は潜伏期間のない劇症型だったので、未だに症状のないアレクシスは感染していないと解っている。ワクチンは連邦へ送ることになったが、結局数十人に膨れ上がった感染者はみな死亡するものと思われた。


「一つ気になる報告があったな。連邦の新兵器についてだ。間近で見たそうだが」

『はい。私を護衛した公安職員が使いました。開発したのも彼です』

「どのような兵器だ?」


 アレクシスは胸の高鳴りを抑えながら、先程見た光景を反芻した。

 殺到してくるマシンの群れが突然狂ったようにのた打ち回り、海面へと浮かんでいく。そのあと雄一郎が乗り上げたバルコの無人艦も、傷一つない外観のまま機能を停止していた。


『パワードスーツ程度の装備で、周囲の電子回路を破壊するもの、と思われます。一番の特徴は遮断できないこと……海水や電磁シールドを貫通し、私のドローンにも被害を与えました。効果範囲は、少なく見積もって半径十キロ』

「十キロ?」

『ブルークラウンがその瞬間を撮っています。映像をご覧ください』


 夕暮れの東シナ海にほんの数秒、粗い磨りガラスめいた半球が雲より高く浮かび、放射光を残して掻き消えた。


「これに巻き込まれたドローンは、すべて?」

『はい、ほぼ全て』


 似たような被害をもたらすのは電磁パルス攻撃だが、電磁シールドを常備しているドローンたちには効果が薄い。効果範囲も海中では十メートルもない。さらに続くアレクシスの証言によれば、磨りガラスめいた球体は海の中でも衰えなかったという。

 ゆっくりと会議室がざわめき始めた。もし事実なら世界を支配し、人々の暮らしを支え続けているドローンに天敵が現れたことになる。時代の激変を予感させる静かな破壊。もしテロリストの手に渡れば、人の命を繋いでいる食料プラントにも大きな被害が出ると思われた。


『被害状況から、影響そのものは非常に微弱と考えます。単純な電子回路ならすぐ壊れたりしないでしょう。ですが緻密な、AIが使うような回路であれば、即座に、です』

「ふむ」

『お父様……彼はこれを使ってやるべき事が出来た、と言っていました。自分からの連絡を待て、とも。彼を捕まえるため、貴方の従者たちをお貸しください』

「逃がしたのだな?」

『はい、追っ手は出ていますが』


 そこまで話したところで、赤毛の男――ヴィクトル・カンビアンカが立ち上がった。この四十半ばの十男こそが王位継承最有力候補であり、実質的にもバルコのナンバーツーである。彼はアレクシスを見もせずにこう言った。


「推測の話はもういい」


 さらにマイケルを見据えながら続ける。


「父上……やはり休戦をすべきでなかった。我々が手を緩めたせいで、ついに海の中からもマシンが出てきた。加えて得体の知れない新兵器まである」

「……で、今も戦いに活路を見出しているのか、ヴィクトルよ」

「無論です。連邦は我々の信に背き、時間ばかり浪費してきたようだ。やはり旧い国々に志を見出すことは不可能です」

「待ってくれ、ヴィクトル」


 老いた王族が割り込んできた。年の離れたマイケルの弟である。


「その新兵器とやら、いかにも不気味だ。戦うのは調べてからでも遅くない……アレクシー?」

『はい、叔父様』

「その男は仕事が出来たといったのだな。どのような仕事だ?」

『申し訳ありません、別れ際にほんの少し話しただけなのです。私はそのまま亡命するよう促したのですが』

「ふん、連邦公安庁か。いずれにせよ極東での研究開発など、稲田の目を盗んで出来るものではない。ランスは勿論だが、彼奴とも話をせねばな」

「叔父上」


 ヴィクトルが割り込み返す。


「話は戦いながらでも出来ます。むしろ稲田の腹芸に付き合うより、新兵器があるなら追い詰めて戦場に引き出してやればいい。それを鹵獲すれば、我々も対等以上の立場を保てる」

「いたずらに兵器を使わせて、それが弾みでテロリストの手に渡ったらどうする。稲田は決して愚かな男ではない、話せば解るはずだ……それに敵の思惑を知らねば、戦っても落とし所が見えんぞ?」

「事ここに及んで、落とし所などありません。世界の平和について、誰かが確固たる責任を持つべき時がきたのです。我々はライブアース計画を実現させ、地球のすべてを統率せねばなりません……アビエクトウイルスや今回の新兵器のようなものが、もしこれ以上出てしまえば、今度こそ人類は滅ぶ……そうですね、父上?」


 長い間、マイケルは黙っていた。それは周囲にものを言わせない沈黙だった。悪魔の手を借りることなく、世界の半分を破滅から救った絶対的なカリスマが、何か大きな決断をするときはいつもこうだった。重臣たちはそれを固唾を飲んで見守っている。


「ヴィクトルよ」

「なんでしょう、父上」

「今日をもって、私は政の一線から退く。今後はお前が、家長会議を取り仕切れ」

「お爺様……」


 チャンドラが声を震わせた。頭巾の中で血相を変えていることが容易にわかる声色。彼女を含め、思い直すよう声を掛ける者も居たが、バルコではマイケルの引退に向け、ヴィクトルへの権力移譲が進んでいた。来るべきときが来たかと、頷く者もいる。


「許してくれ、チャンドラ。私はもう百歳になった。いつ何があるか解らん年だ。大きく舵を取らねばならんこの局面で……老いた私が王では心もとない」

「……ついに決断されたか、父上」


 チャンドラとは対照的に、ヴィクトルの声は自信に満ちている。


「お任せください。バルコは私が守って見せます」

「まだ話は終わってないぞ、ヴィクトル」

「何なりと申しつけ下さい」

「これからはお前のすることに口出しせん。存分に力を振るえばいい。ただし」

「ただし?」

「ブルークラウンと《クマリ》は、お前の管轄からはずす」

「……父上」


 ヴィクトルは目つきを挑むように鋭くした。それを軽く受け流しながら、相変わらず芝居がかった振る舞いの男だ、とマイケルは思った。

 クマリはチャンドラが管理する大型ドローンで、Dネット内の序列は二位である。帯同するドローンと連携し、巨大な移動都市として機能するのはブルークラウンと同じだが、一番重要な役割はここローマに鎮座するメタルフラッグ《トローノ》の声を運ぶことだ。

 ドローンはDネットから分断された場合、直前までに下された命令をこなしたあと、ネットワークに復帰できるまで決められた帰還ルートを移動する。復帰するまでは自身の管理者にさえ限定的にしか従わない。意図しない働きや、下位の管理者の裏切りを防ぐためである。

 だが破滅的な状況に陥ったとき、トローノを中心としたネットワークが分断されてしまうかも知れない。そこで移動する通信中継基地としても機能するのがクマリである。クマリは一つあたりドラム缶大のAIをドーム球場一杯分持っており、一部を航空機で戦地まで運んで、管理者を失い孤立した大型ドローンへ命令を下した例もある。

 ドローンたちは管理者の序列を区別して従うので、こうした分裂・拡散機能はなるべく高位のドローンに持たせたい。しかし処理速度をある程度犠牲にする機能のため、最も強い力を持つべきメタルフラッグにつけるのは非効率だ。なのでナンバーツーのクマリが担った役目は理に適っている。

 万一トローノが破壊された場合も、首都機能を引き継ぐ大型ドローンたちは管理者――チャンドラやアレクシスなどに強い権限を認めるため、その場合もクマリの役割は大きい。しかしトローノの命令に背くことまでは、これまでどんな場合も認めていなかった。しかしヴィクトルに対し、チャンドラとアレクシスは拒否権を持つことになった。


 これでは飛車角落ちで、バルコの実権を握ったとは言えない。ヴィクトルにとっては国内にメタルフラッグが三本あるような状況だ。


「連邦の轍を踏むおつもりか? ドローンたちは一本の旗によって、確固たる統制を受けねばならないはず。旗を乱立させることは、体制を乱立させることに繋がる」

「ヴィクトルよ、私はドローンを管理するためにバルコを興したのではない。大袈裟な話をすれば、そう、明日突然にすべてのドローンが動かなくなったとしても、決して壊れない人の絆を結ぼうとしているのだ。戦いなどはそれを守る手段に過ぎん」

「……」

「お前の言う通り、連邦を殲滅していれば、こういう事態にならなかったかもしれん。しかし一方で、追い込まれた人間の“破れかぶれ”が星を滅ぼしかねんのは、核の時代から変わっていない。解るな?」

「はい」

「チャンドラと、彼女を支える人々を納得させなさい。お前こそが王であると。私の目指した確固たる主従の愛、その理想を引き継ぐ者だと……それが出来たなら、バルコの全てをお前に譲ろう」


 ヴィクトルとチャンドラは視線を交わした。久しぶりに長い時間そうした。二人の目線はほぼ同じ高さだが、ヴィクトルのほうは見下ろすようにチャンドラを見ていた。

 融和か殲滅か。休戦中は王族たちの意見も割れていたが、今は彼らの表情を見ているだけで、ヴィクトルは背に追い風を感じることが出来る。


「……連邦への通牒は、私の演説で行います。準備がありますので、これで失礼」


 そう言って退出するヴィクトルを、チャンドラは礼で送った。


「聞いての通りだ。皆ヴィクトルを支えてやってほしい……連邦に出向いている者については……帰国の判断をそれぞれに任せる」


 重臣たちのホログラフが一瞬にして消える。残ったチャンドラに、マイケルはこう囁きかけた。

 

「チャンドラ、ヴィクトルを助けてやってくれ」

「……はい」

「国を率いるのはヴィクトルに任せたい。しかし私はね、チャンドラ。国の中心にはお前が居て欲しいと思っている。意味がわかるかい?」

「私に……不和をなだめる役割をお望みですか?」

「そうとも! さすが、いつでも自分の役割を心得ているな、お前は」

「微力を尽くします」


 子供の頃から注目を集めやすい娘だった、とマイケルは懐古した。どれだけ聡明であっても、女は周囲の気分しだいで上下する投機的価値しか持たないが、そのことを正しく理解した振る舞いにこそチャンドラの非凡さが見出せる。

 俗物的な野心を持つヴィクトルは連邦との完全決着を望んでいる。そうした人格はある種のファンタジックな期待を集めず、翻って周囲の失望を抑えるため王に向く。そして美しく聖母のような人格を持つ女に、綺麗事だけでは御し切れない王権は不釣合いだ。ただでさえ愛や嫉妬を煽りやすいのだから、事あるごとに敵と味方をくっきり分けてしまうだろう。

 チャンドラがまだ少女のころに肌を隠させ、周囲の反対を押し切ってクマリを与えたのも、今日という日が見えていたからだ。クマリはトローノに次ぐ実力を持つが、惑星全てを管理できるトローノとの間にはかなり開きがある。まったくもって適切な采配だとマイケルは自賛した。俗なヴィクトルに劣るという点がチャンドラへの嫉妬をなだめ、強権への有力な対抗馬であることが、彼女への愛をさらに深めるだろう。


「アレクシーが戻ったら、ヴィクトルも連れて私の部屋にきなさい。話しておくべきことがある」

「あれの増産をなさるのですか?」

「深海の勢力に対抗するためだ、致し方ない。だが……できればその前に話してみたいものだ。その、吉井雄一郎とかいう男と」



 八年前、西暦2092年。


 東京、チーム・ノアの研究所。真冬の帰り支度を済ませた後、もうちょっとだけ、のつもりで研究データの分析を始めた雄一郎は、そのまま日付を跨いでいた。殆どの職員はすでに帰宅、節電のために消灯された施設で、震えながら古い石油ストーブにへばり付き、バッテリーの切れかけたヘッドマウントディスプレイに見入っている。

 食料や資源が少なくとも、エネルギーは豊富なのが現代。それは核融合炉の恩恵だったが、テロで炉が潰れてしまっては仕方ない。極東では一番安全な都市である東京でも、武装勢力による散発的なテロはあった。彼らさえ殲滅できていないのにバルコとの戦争も続いている。先々のことを思って憂鬱になり、思わずため息をついたその時。


「……うらめしやー」


 後ろから女性の声が聞こえたので、画面を額のほうに持ち上げて振り向いた。


「やぁ、君もまだ居たの」

「少しは怖がってよ」

「声がもう可愛いしさ。ホラー映画でも見て勉強したら?」

「苦手だもん」

「……」

「生首が浮かんでるみたいだったよ。画面からもれた光が、常夜灯の光に似てるから……」

「仕返ししようとして、失敗したわけだ」

「おのれー」


 キャスター付の椅子に乗り、デスクに突っ込んでくる恋人を雄一郎は優しく迎え入れた。名前はブリジット。二歳年上の生物学者である。


「なにしてたの?」

「はい、これ」


 ヘッドマウントディスプレイをブリジットの目に掛けてやる。


「なにこの、英……数字と幾何学模様の羅列は」

「世代を経るごとに、生物がどう変わっていったかを観察したデータだよ。遺伝情報から見える生存戦略とか……彼らがこの世界をどう知覚しているかを探りたくて。それが解れば、彼らをVRに招けるかもしれないから」

「はあ、なるほど。で、それとこのヘンテコ映像に何の関係が?」

「余りに膨大な情報だから、必要なことを抽出するソフトを作ったんだ」

「これ、他に読める人いるの?」

「いや、僕が作った言語だから……」

「名付けて?」

「……えーと」

「ほら」

「ネーミングセンスないんだよね、僕」

「うひひ」


 ディスプレイが雄一郎の額に戻ってくる。

 VRに生物を招く、という方針は研究所全体で共有している。所長たちはイルカやサルの脳を招こうとする一方、VRのルールを自然の摂理から遠ざけ、命の奪い合いがない世界を作ろうとしていた。これまでの進化を全否定する設定なので、世代を重ねるごとに退化していく生物も居るだろうが、中には人間の作ってきた競技や遊戯、創作、学問などを通して知的活動を進化させていく生物がいるかもしれない。

 同じ地球の生物同士で奪い合わず、宇宙へと広がっていく。それを本能に刻んだ生物であれば、マイケルの望む聖者と言えるのではないか。所長たちのそういう理想に反対するわけではないが、雄一郎は受身のまま進化や政治の回答を待っているのが嫌だった。

 VR作りで研究者としての実績は残すことができた。ラストフロンティア計画に貢献し、所長からの恩に報いることも出来た。あとは「これ」だ。このプログラムを通して、どうしても確かめてみたいことがある。自分で研究室を立ち上げて、今度はそれを研究してみたい。


「ねえ、もう帰ろう?」

「えーと、もうちょっと……」

「私の部屋に」

「喜んで」

「……このスケベ」



「また所長に怒られたでしょ?」

「ああ、参ったよ……あの人話が長いから」


 ベッドの上で亜麻色の髪の中に囁き返すと、やさしいバニラの香りがした。夜明け前の淡い陽光の中に、ブリジットの美しい裸体が浮かび上がっている。


「サイボーグ技術の研究成果なんて、どうして掘り起こしたの?」

「別に、少し興味があっただけさ。それに知ろうと思えば、あんなの誰でも……」


 サイボーグ技術は資源の浪費や、安全保障の問題で研究が凍結されている。とくに肉体の着脱ができる全身サイボーグ計画は本人確認を難しくするリスクがあり、バルコや連邦の民間からも強い非難を受けた。実際に脳と体でDNA型が違う……つまり別人の体を「着ていた」犯罪者の例もあり、関連する技術にも強い規制が敷かれている。

 休戦を模索する連邦にとって、マイケルの提唱するライブアース計画に配慮すべきなのは当然で、研究者の振る舞いに注目が集まるのも無理はない。


「うん、私も見るだけならいいと思う。でもね、みんな貴方が怖いのよ。解るでしょう?」

「さぁね」


 幼い頃の雄一郎にあったのは不思議への憧れだけで、科学はそれに迫る手段に過ぎなかった。しかし大人になるにつれアビエクトウイルスを駆除し、再び大地に種を蒔けるようにしたい、という具体的な目標が生まれた。物理に続いて、生物学を学ぶようになったのはそのためだ。

 しかし科学とは特定の人物に与えられる神通力ではなく、あくまで世の不思議を解き明かす行為である。新しい技術は誰にでも扱えるし、人によって様々な使い道も生まれる。たとえばアビエクトウイルスだけを駆除できるなら、ちょっとした応用で、人間だけを駆除することもできるのではないか。使い道を決めるのは、使う人間なのだ。

 所長は言った。お前に責任が取れるのか、と。

 ここでアビエクトウイルスを凌駕する圧倒的な新発見をするのではなく、仮に悪用されても人が滅ばなくて済むような発明を積み重ねて問題を解決するべきだ。科学の発展しすぎた現代において、研究者の理性を示すにはそれしかない。


「ねぇ、私たち結婚しましょ?」

「え」

「あはは、もしかして嫌?」

「そんな訳ないよ! 結婚しよう。ああ、もちろん嬉しいって!」

「本当? それなら今までみたいに、研究漬けの生活なんてやだよ」

「……」

「誤解しないでね。私は所長とは違う。貴方の道を正すなんて言わないわ。私は貴方が欲しいだけ」

「ああ……約束するよ。愛してる」

「うん。私も愛してる……あン、もう。すぐ出かける時間になっちゃうよ」

「まだ一時間あるさ。なんなら遅刻したっていい」

「何よ、急に不真面目になっちゃって」

「君のせいだよ」


 このとき雄一郎は、九年後に東シナ海で使うことになる新兵器の基礎を発見していた。独立しようと考えたのは、その研究をするためだった。悪用されたくないならむしろ率先して手に入れ、良いことに使えばいいのではないか? 少なくともドローンたちの戦争はこれで止めることが出来そうな気がする。それにこうして手を拱いている間に、エドガー・ベイルのような人間がこれを見つけないとも限らない。

 だが研究者に過ぎない雄一郎は、具体的にどうすれば悪用されずに済むのか解らない。だからこそ彼は悩んでいたが、もういいと思った。所長の言うことも解るし、彼のいうとおりにしようと。

 生命の声を聞くあのプログラムも、消してしまおう。そしてブリジットと共に生きればいい。そう思った。



 しかしそれから間もなく、ノアの研究所はテロを受ける。

 ノアはVR研究の成果をライセンス化し、連邦政府と専従契約を結んで巨額の利益を得ていた。利益の半分は新しい研究開発に、半分は戦災復興や貧困者支援に寄付されていたが、それでも抗議は来た。要求はライセンス料の全額寄付と、研究の停止である。

 彼らの主張から雄一郎が感じたのは、VRへの不信というよりも人間への不信だった。科学の進歩と、それを扱う人への不信感。実際に最も優秀な研究者集団とされていたノアへの嫌がらせは執拗を極めていたし、応援や励ましのお便りが盾になることはなかった。


 テロを経て一人生き残った雄一郎は大学側からノアの再建を依頼されたが、受ければ死が待っていると感じた。ノアの遺産分配を考えた時、雄一郎の存在は邪魔なだけである。彼は研究所の閉鎖を決めたが、そのまま引退するつもりは無かった。病院の霊安室でブリジットの焼け焦げた遺体を見下ろしていると、湧き上がる気持ちが恐怖を塗りつぶしていった。

 今度こそ科学者としての責務を全うしてやろうと思った。


「僕はもう行かなきゃ……さようなら、ブリジット」


 ブリジットの額をやさしく撫でた後、雄一郎はきびすを返し、霊安室を出て行った。

 まず必要なのは、自分たちを襲った暴力について知ることだ。



 西暦2095年にバルコとの休戦が成立すると、公安はこの期を逃さず連邦軍と連携し、武装勢力に占領された九州や東南アジア、オセアニアに攻勢をかけた。

 現場のトップチームに昇格していた雄一郎も休みなく働いた。パワードスーツやアサルトフレーム、ドローンを潤沢にそろえた武装勢力との戦いから、敵地の奥に隠れ住む管理者の暗殺まで。あらゆる手を尽くして街を奪還したら、逮捕した武装勢力を尋問し、荒れ果てた街に申し訳ばかりのライフラインを通し、痩せ細った人々をVRに誘う日々。皆様お誘いあわせの上、肉体を捨ててVRにいらっしゃいませんか。行ったら二度と帰れない楽園世界、あと何人集まれば実現可能です。最悪のクソ仕事だと雄一郎は思った。

 寝る間もない日々にあってもブリジットを思い出さない夜は無かったが、自分でも不思議なほど復讐という動機は働かなかった。雄一郎が公安に来た動機は、科学の発展が世界を滅ぼすかどうかを知るためだ。そしてそのジャッジを人任せにしないためである。


 西暦2096年、雄一郎二十六歳の年。


「よォ、ご活躍だそうじゃねえか」

「おかげさまで」


 郊外にある貸倉庫で、執拗なほど眩しい照明を浴びながら、はじめて稲田一穂に会った。話の内容を伏せたまま密会してくれるよう頼みはしたが、まさか一度で実現するとは思っていなかったので、雄一郎は少し拍子抜けした。


「重要な用件だっつうから、こんなカビくせえとこまで来たんだぜ。こいつは気にしなくていい、何でも話しな」


 稲田は大きな六足型ドローンを背後に従えている。対する雄一郎は当然ながら丸腰だ。促されるまま、彼は新兵器について語った。


「……ということになります。ラボを用意していただけませんか。機密保持のため、使うのは私だけです。今の体制でこんなものが広まれば、人類は滅ぶ」

「仮に、その兵器が……実現するとしてだ」


 稲田はタブレットケースで手のひらを叩き、出てきた錠剤をボリボリと噛み砕きながら言った。


「お前の仕事は設計図を俺に渡すこと。そこまでだ。それで機密は保持される」

「工廠付きの原子力潜水艦をください。この兵器の使い方は私が決めます。だから独自に作戦を立てる実行力がほしい」

「……耳聞こえてんだよな?」

「はい」

「ふーん。じゃあ今からお前を、脳髄だけにしてVRに監禁するぜ」


 冷たい沈黙が横たわる。


「っつったらどうすんの、お前」

「設計図がバルコに流れますよ」


 こうして稲田に会う前からその準備をしていた、という意味である。

 バルコも連邦内にアンテナを向けているので、新兵器の設計図を流すことは難しくない。あとは「雄一郎が生きて帰らなければ流出する」ようにスイッチ的な条件付けをすれば、稲田と駆け引きをする材料となる。


「それで俺が“皮むき”を思いとどまるってか。脅せば言いなりになると思ったわけか?」

「貴方は私を自由に泳がせながらも、不都合が無いように事を運べるはずだ。少なくとも、まずまずの方向に……貴方をそういう存在だと皆が信じ、畏れている。私も同じです」

「言ってくれるね」


 稲田一穂は失敗をしない。長い経歴の中で彼はそうした信用を勝ち取り、彼の張った網は世界中を覆っていると「信じられて」いる。

 もちろん全能ではないから部下を死なせもするし、明日バルコを倒すこともできない。しかしどんな回り道をしても必ず、彼が見ている方向に物事は収束する。知るべきことをすべて知る、インテリジェンスのキング・オブ・キングス。それを見込んだ人々が彼に助力を求め、その見返りに情報提供を受けることで彼は躍進してきた。

 だからこそ、ここで設計図をバルコに流すようなことがあれば、連邦で培った信用を一気に失いますね? 雄一郎はそう言っていた。


「いずれにせよ、俺の許しがなきゃお前は潜水艦に乗れないし、新兵器とやらも使えない。それは理解してるんだろうな」

「ええ。使われずに済むならそれが一番いい。新兵器は貴方と私だけの秘密であり続け、そのまま戦争が終わり、平和と豊饒が戻ってくるなら、それがいい」

「……解った」

「返答は?」

「現物を見てからだ。ラボは手配する。完成までどれくらいだ?」

「半年ほど」

「なげぇなぁ。それで、なんて名前だ?」

「名前ですか?」

「その新兵器だよ。無いと不便だろ?」

「では便宜的に。クロスオーメンと」



 半年後。

 分厚い装甲で覆われた巨大な箱が雄一郎の前に置いてある。中は水槽になっていて中性子さえ貫通できない。なので雄一郎からは見えないが、先日見かけた稲田のドローンが中で待機しているという。


「やってみな」

「では」


 金網の向こう側から稲田が声をかけてくる。雄一郎はかつてアイスホッケーの試合が行われていた金網に監禁された状態で、出口の鍵は稲田が持っている。彼がその気になれば、死ぬまで雄一郎をここに置くことができる。

 首の多目的ジャックにパワードスーツのエネルギーパックを繋ぎ、雄一郎は増設した自分の神経を通じてそれを起動させた。

 静かに照明が点滅した。さらに稲田の胸元からバチッという微かな音がした。背広の胸ポケットから携帯端末を取り出した彼は、それが壊れていることを確かめると、口をへの字に曲げて片眉を上げてみせる。


「……。もういいと思います」

「フタをあけろ」


 雄一郎は箱に登って蓋のロックをはずし、天井の重機にチェーンがしっかりとつながっていることを確かめ、床に降りて壁際の起動レバーを下げた。古臭い重機が重そうな音を立てて、箱の蓋を持ち上げていく。

 いくら待っても、ドローンが出てくることはなかった。稲田は中身を確かめもせずにこう言った。


「仕様書を読んだよ」

「ご質問は?」

「お前が持ってるエネルギーパックから、お前の心臓の、すぐそばに埋め込んだアレ……クロスオーメンにエネルギーが流れ込んで」


 雄一郎を指さしながら稲田はゆったりと語る。さらに指折り数えてクロスオーメンの特性を挙げていく。


「そこからどうやっても防げない電磁波攻撃みたいなもんが撒き散らされる。射程は最大で半径二十キロメートル。しかし生物に害はない。そして……あの兵器自体が新種の生物?」

「発生も生命維持も、自力では出来ませんが」

「パーツを供給するための生き物だってのか? あり得るのかよ、自生自活が原則だろ生命ってのは。お前自身、どういう仕組みか解ってんのか?」

「子供の作り方は解ってますが、人間の作り方は解りません。知っているのは生命です」

「……」

「例えば彼らの目的が繁殖だとします。チタン製の爪や牙、カーボン製の皮膚を搭載した方が生存競争に有利かもしれませんが、繁殖に有利とは限りません。だから彼らの都合で搭載が見送られた機能がありうる、技術的には可能でも。それを彼らに思い出してもらいました」

「あとは然るべきタイミングに、必要な物と環境を与えてやれば……その兵器が出来る?」

「ええ、生命が勝手にラボを使えるようにしてやればいい。子宮を使うように」

「今後についてお前の予測を聞かせろ。どんな兵器が生まれ得る?」

「……予想になりますが」

「お前にしかできない事だ。言え」

「では二つの視点から。まず不思議にも限度はあります。生命が、この世界のルールを捻じ曲げる兆候はありません。クロスオーメンもルールに沿って作られています。遮断できず、生物を攻撃対象から外す、という意図は量子の世界でしか達成できません。物質があらゆる場所に存在する可能性があり、観測者の有無によってその振る舞いを変える世界でしか。我々の直観とはかけ離れた現象ですが、与える影響自体は非常に微弱です」

「もう一つは?」

「ドローンのようなマシンに生存の機会を奪われたくない。だからクロスオーメンを創って“介入”してきた。つまり今のところ、生命が「作りたい」と思うものしか生み出せない」

「……」

「これまで生物は環境に適応し、長官の言うように自力で生きることを旨としていました。しかし人間は道具を使い、環境そのものを変えるようになった。生命は、人間が道具を安定供給すると見込んで、道具との融合に舵を切ったのではないかと。というよりは、初めからそうする予定だった」

「予定?」

「生命はただ、これを産み出す環境を待っていた。人間から提供されるのを……そこが問題です。先日申し上げた通り、設計図さえ手に入れば、誰でもこれを使える」

「なるほど」


 稲田は中折れ棒を外し、頭を掻いた。考えをまとめているようだ。


「確かに、こんなもんが広まったら人類存続の危機だ。存在そのものを徹底的に秘匿、ってぇ路線に依存はねえよ。だがお前自身、俺以外の誰かに見せる考えは無かったのか? たとえばランスあたりに見せて、ライブアース計画を実行させるとか」

「もしこれを戦争に利用すれば、バルコは再び軍事衛星を利用する」

「お前に言われるまでもねェ」


 インド洋沖の起動エレベータの先端には、巨大なレールガンを備えた軍事衛星が連なっている。かつて連邦を月の開発から撤退させたものだ。バルコが危機に瀕したとき世界の空を覆い、着弾点につくるクレーターは月からでもハッキリと見える程だ。


「それでも大統領は、これを戦争に利用する。武力を一元化し、所有者を市民とすることが彼の悲願だからです」

「何がいけない。お前は独裁者が好みか?」

「まさか。犠牲になりたくないだけです。グレートリセットの」


 稲田はひび割れた階段に腰かけたまま、何も言わない。


「人間は試験管から生まれて、その気になれば再び地を満たすのに百年かからない、とても強靭な種になった」

「そうだなァ」

「戦争の結果、一度人が滅んでも、またやり直せる」

「恐ろしいこと考えるねェ」

「しかし、貴方や大統領は、それを恐れない」

「……」

「決戦戦争を避け、バルコとの共存を模索してください。救いようのない戦争なら、私が失敗した後でも出来る」

「お前さぁ」

「……何でしょうか」

「正直なところ、俺に頼るのも嫌だったんじゃねえか? 誰にも明かさずその兵器を造りたかったが、どうしても俺の監視だけは躱せない。だから抱き込もうとしたな?」

「はい」

「なるほどな。お前って、要は……」

「……」

「だーれも信じてねェンだなぁ」


 稲田は目を見開きながら笑った。歪んだ三日月の端が下瞼を押し上げる。


「じゃなきゃ何もかも秘密にして、全部一人でやろうなんて思わないよな。不信のバックボーンを教えてくれよ。やっぱり、あのテロかい?」


 稲田は無言で圧したが、雄一郎はそれ以上口を開かなかった。

 そんなことはない、人の善性を信じている。などと言えば「皮をむいて」VRに放り込むつもりで居た。嘘だからだ。信じているならまず人に託すべきだし、一人で抱え込もうとしないはずだ。

 しかし不信を一言でも語ったら、やはり皮をむくつもりだった。人間については褒め言葉を聞く方が難しい。いつの時代も批判の方が真に迫っている。大衆は豚だとか、権力者は屑だとか、この兵器は聖人を悪魔に変えうる、とか述べることで、言葉に真実味を持たせることも出来たはずだ。まさしくそれが真実だからだ。しかし彼に必要なのはそんな言葉ではない。

 人の真実に動じないことだ。そして動じないなら少なくとも、いま殺す必要はないと思った。そんなことをしなくとも事は上手く運べる。それが稲田一穂である。


「AI付の潜水艦は用意してやる。ただし、工廠は無しだ」


 雄一郎は微笑んだ。貴方が持たずして、他の誰が工業力を隠し持つと言うのか。持っていて当然だと思った。


「他の設備は?」

「こいつに下見の手筈が書いてある。あるもので納得しろ」

「解りました」

「後で行動計画を提出しろ。動くとしたらどんな時か、その後の展望もな」


 フェンスの網目からメモで包んだ鍵束を差し込み、稲田は踵を返した。そのまま闇の中へ消えていった。



 七月十日。午前三時。

 太平洋連邦・大統領公邸


 執務室への入室を許可された稲田一穂は、主の許しも得ないまま一人掛けのソファに座った。射殺さんばかりに彼を凝視しながら、ランスは開口一番にこう言った。


「あの兵器を持っているな」

「クロスオーメンっていうらしいぜ」

「どこにあるのか言え」


 稲田はゆったりと両手を使い、四角を宙に描いてこう言った。


「こういう箱の中に入ってるよ」

「……どこにある!?」

「落ち着けよ。大事な前置きがある」

「さっさと言え」

「まず、俺が本当に自由かどうか、チェックするシステムがある」


 もちろん詳細は伝えない。


「異常が検知されたら、俺でもクロスオーメンを取り出せない。すべておじゃんだ……俺も、死んだ後のことまでは知らねえよ」

「お前の目的はなんだ」

「市民の君臨」


 ランスは深くため息をついて、デスクを立つ。稲田が座るソファの対面へ静かに腰を下ろし、間にあるテーブルへと灰皿を置く。二人は同時に葉巻を吹かした。


「要するに、我々の違いは……手段の違い、ロードマップの違いってことだな」

「もちろんゴールは共有してるつもりだよ。しかし過程の違い、ってのが吉井は気に食わないらしくてな。お前、今すぐにでもあれを使いたいだろ?」

「……ああ、悪いか?」

「悪かないさ。だが軍事衛星だけじゃなく、もしバルコ側も似たようなのを隠し持ってたら?」

「お前が言うと冗談に聞こえんな。吉井が連中に流したのか?」

「いいや、まだだ。ていうかそういうことが聞きたいんじゃねえ。お前、カタストロフィを起こす覚悟はあるか?」

「ある。最後の一人になっても、そこから地球連邦を興してやるさ」

「吉井にはない。奴はバルコのハト派を囲って、ひとまず講和にもっていくつもりだ」

「バカな」


 武力の一元化をこれ以上先延ばしにすれば、それこそカタストロフィが待っていると解らんのか。あれだけの知恵と勇気を持っているのに……吐き捨てるランスの心情を、稲田は微笑みながら見た。


「お前も、吉井の考えに乗るつもりか」

「ひとまずな」

「具体的にどうするつもりだ」

「期間限定の新勢力が立ち上がって欲しいと思ってる。国の間に立って講和に一役買うような」

「トップは誰だ」

「金を出せるのはバルコだ。ならバルコの誰かだろ。俺はチャンドラが良いと思ってるよ。ヴィクトルへの拒否権を持ったようだし? 奴より話が通じそうだから。あの子の権力を控えめにすれば、連邦の自治区も参加したがるかな。中には旗持ちも居たりしてなあ」


 連邦政府はかつて敵対した勢力に自治区を認め、資源の上納を受ける代わりに内政干渉を控えてきた。すべてはドローンウォーズによる混乱を素早く抜け出す為だが、力による支配を達成できたバルコと比べ、領土への影響力は限られている。

 とくに南米、極東、オセアニアそれぞれで旗手を務める人物は、今日にでも連邦を離反できるし、それは連邦領土が欠けることを意味する。旗手の権力は、チャンドラやアレクシスが得た仮初の拒否権とは根本的に違うのだ。


「ま要するに、連邦領の割譲だからな、一時的とはいえ。おたくの立場じゃ、絶対に容認できない戦略だよな。だから俺がやるよ」

「連邦軍を甘く見るなよ、稲田。お前がここへクロスオーメンを持ってこないなら、吉井から奪うだけだ。連邦政府としては奴の暗躍も、お前による国土の分断も許さない。バルコとの戦争も、深海勢力の件も、解決を主導するのはあくまで……我々、連邦軍だ」

「そのつもりで居てもらって、構わねぇよ。しかし吉井をとっちめた後の扱いには、せいぜい注意するこった。エドガーに協力したい奴はそこらじゅうに居る。奴にクロスオーメンが渡ったらそれこそ――」

「……エドガーだと?」

「あら、ご存知ない?」

「ふざけろ……お前、奴の居場所を知ってるのか?」

「連絡は取り合ってるよ。奴が深海の主だ」


 葉巻を吹かすのも忘れ、ソファにもたれ掛ったまま目を閉じているランスに向けて、稲田は朗らかに語る。


「奴は海の中に、自動化された工場と輸送路を築いた。長い時間をかけて……協力したのはドローンウォーズ中に姿を消した、または連邦と妥協した武装勢力たち。いや正確には協力っつうより、深海の覇権争いに敗れてエドガーに屈服した、と言うのが実情さ。バルコ史上最悪の失政を挙げるとしたら、ドローンウォーズの真っ最中に深海の利用を禁止するなんていう条約に調印し、それから何十年もの間バカ正直に守り続けてきたことだ。おかげで深海開発は違法となり、国家や武装勢力との間でも情報のやり取りが出来なくなり、疑心暗鬼を生んで各々を秘密裏の開発に走らせ……よりにもよって、成果をエドガーに掠め取られた」

「……」

「俺やお前の前任者も、奴に協力してたぜ。自治区の中には現在進行形で協力してる奴もいる。何に釣られたと思う?」

「……永遠の命か」


 エドガーベイルは生物兵器商人である以前に、生物学者である。永遠の命を求め、脳の耐用年数を伸ばそうと研究を重ねていたが、人口爆発と資源不足が続いた二十一世紀初頭、自らの研究が将来的に批判されることも解っていた。

 だからアビエクトウイルスを作った、とも言われている。


「今の時点で、脳の耐用年数がおよそ百五十年だそうだ。エドガーの老衰には、期待しねぇほうがいいな?」

「エドガーが牛耳っている海中のネットワークは、あのクロスオーメンで薙ぎ払えるはずだな」

「出来たらどんなにいいかと思うがよ。まずは対話だぜ、戦争屋。奴がどれくらい核を持ってるか、予測できるよな?」

「……そこまで言うなら、奴の目的も知っているはずだな」

「もちろん。社会復帰と、自由な研究だ。だから奴……いや戦争犯罪人の連中はマイケルとライブアース計画が大嫌いだ。特にドローンウォーズ黎明期から生きてるメンツはもう高齢で、エドガーの研究成果を首をながーくして待ってる。みな連邦の自治区に持ってる隠れ家と、はぐれドローンが生命線だが、ライブアース計画はそれを暴くだろう。そうなれば連中に居場所はない……死に物狂いで計画を阻止するだろうなぁ、これからも」


 これからも。つまり必要に応じて今回のようなテロを起こすということだ。バルコと連邦が争い、世界が荒廃するほど彼らには都合がいい。しかしエドガーの要求はさらに一段上だった。


「で、エドガー曰く、存続していいのは無実の自分を受け入れる社会、だそうだ」

「無実? 何の話だ」

「アビエクトウイルスを発明した「名誉」は譲らないが、あれは脅されて開発したそうだ。自然界に流したのも別人。解るか?」

「……つまり、奴の要求は身代わり。自分の代わりに灰を被る人間か」

「そういうことだ。裁判で無実を勝ち取り、社会の人々に同情して貰えるなら、この社会が存続してもいい。ダメなら自分を受け入れない社会なんて消えてなくなればいいし、延命の研究を許さない奴なんて死ねばいい。なんなら地球ごと牧場に変えて、自分がそこに君臨する。それがエドガーのご意向さ」


 ランスは立ち上がり、窓際まで歩いた。日の出は分厚い曇に覆われ、藍色に沈む芝を小雨が叩いている。太平洋連邦の旗へ寄り添うように立つ彼の背中に、稲田はこう告げた。


「エドガーを無罪にする準備は、整ってるぜ」

「……奴をコントロールするつもりか?」

「奴の敵はマイケルだからな。講和するにしろ、全面戦争にしろ、いずれバルコにぶつけてやればいい。用済みになったら始末する」

「出来るのか?」

「出来るとも」

「吉井はどうだ。コントロールできるか?」

「ああ、もちろん。出来ないように見えるか?」

「そうか。どういう形でもいい、奴が死んだらクロスオーメンを渡せ。さもなければお前を殺す」

「なんで」

「連邦軍は奴からクロスオーメンを得ようとする。それに失敗するのは奴が死んだ時、そうなれば次はお前だ。お前を後回しにするのは強い影響力に敬意を払ってのことだ」

「そもそも殺せるかな?」

「試さないほうがいい」


 ランスの葉巻が炯々と燃えた。吐き出された煙は稲田の足下にまで至る。稲田は微笑みながら微動だにしない。ランスは稲田の胸の内を知らないが、稲田はランスの言葉が脅しでないことを知っていた。

 最後に恃むのは、武力の利。そんな男だから大統領になるのを邪魔しなかった。


「連邦には時間がない。既に戦争は始まり、劣勢が予想される。連邦に仕える者は例外なくベストを尽くすだろう。そうだな?」

「ああ、そうだとも」


 稲田は外套を抱え、中折れ帽を被った。それ以上は何も言わず、執務室を出ていった。

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