月光2

     ▼


 三日市のとある所にあるアパートに、私は仕事として訪れていた。その二〇三号室の呼び鈴を躊躇なく鳴らす。

 蘇芳さんのことも気にかけていたため、なかなか菖蒲くんの方に手を回せなかった。偽物の世界がなくなって一週間が経ち、ようやく安心して動き始められる。

 ここに住んでいる女性のことは調査済みだ。神屋敷愛莉あいり。三日駅前のスーパーで週五日、朝七時から夜十九時頃まで働いている。休みは月曜日と火曜日。土曜日と日曜日に休まない理由は、子供と顔を合わせる時間を減らしたいからだろう。

 今は月曜日の朝十時だ。早過ぎれば学校へ行く支度をしている菖蒲くんと会うことになってしまうだろうし、遅すぎれば彼が帰宅してしまう。早めに訪問し、早めに話を終わらせるつもりだった。


「はい」


 気怠げな声と共に扉を開けてくれたのは、綺麗な女性だった。さらさらの髪と大きめの瞳をした彼女が童顔気味なせいもあって、菖蒲くんの顔立ちとよく似ていた。私が誰なのか問いかけようとしていた彼女に、名刺を差し出す。


「初めまして。『能力者保護協会』の東雲と申します。菖蒲くんについて、貴女とお話したいと思いましてね。長くなるかもしれませんし、他の方には聞かれたくないでしょうから、中でお話を伺っても構いませんか?」


 怪訝そうに、形の良い眉が寄せられた。その顔色を目にして、追い返されることを覚悟したが、彼女は「どうぞ」と扉を開けたまま中に入ってしまう。

 私は静かに扉を閉めてから、彼女を追いかけてリビングに足を踏み入れる。座るよう促された椅子に腰掛けると、彼女は私の向かい側に座って、凛とした顔を顰めた。


「菖蒲を、連れて行くつもりですか」

「貴女との話し合い次第です。もし彼を連れて行くと私が言った場合、貴女はどうなさいます?」

「……どう、するんでしょうね」


 疲れたような顔をして、彼女はテーブルの上に置いた両手を見つめていた。悩んでいる様子に、ほっとしている自分がいる。一縷の希望を見付けた気分だった。予想していたよりも、酷くはない。

 私は聞きやすいゆっくりとした声で、混乱させないよう優しい声色で、話し始める。


「菖蒲くんが能力者だということは、貴女も理解していますね? それに対して、貴女がどう思っているのかお聞かせ願えませんか?」


 彼女は「能力者」と小さく呟いてから、目を細める。開いた口は、しかし声を発しない。様々な感情に喉を覆われているみたいだった。彼女が話を切り出してくれたのは、それから数十秒後のことになる。


「……ずっと、呪われているんだと、思っていました。私が産んだあの子は呪われてて、人なのに人じゃなくて……。あの子を見るたび夫のことを思い出して、あの子さえいなければ私はあの人と愛し合えたままでいられたのにって、八つ当たりじみたことをしてきました。あの子が、気味が悪くて、怖くて」

「貴女も、傷付いてきたのですね」


 その傷を包み込むように、柔らかく。優しさ以外の感情を忘れたように、優しく、言葉を向ける。

 だがそれだけでは同情を示しているだけで、まるで彼女がしてきたことを正しいと言ってやっているような、必要の無い優しさだ。私は僅かな鋭さを持って、これまでよりも低い声を落とした。


「私は、貴女と菖蒲くんの間にどういったことがあったか、詳細は知りませんし、尋ねません。ですがハッキリとしていることは、貴女だけでなく菖蒲くんも、その身と心に傷を負っているということです。それは、分かりますね?」

「そうですね……私は、あの子に暴力を振るってきましたから。でもきっと、あの子の心は傷付いてなんかいませんよ。いつでも笑っているんだもの」

「かけがえのない親である貴女にそんなことをされて、本当に傷付かないと思っているのですか?」


 指を絡められた彼女の両手が、僅かな力を込められ、微かに震えた。険しさを増していく顔は、決して苛立ちを表しているわけでは無い。彼女はまるで自分を鎮めるように、或いは咎めるように、唇を噛み締めていた。

 私は、彼女が能力者に抱いている嫌悪感に似た思いを、少しでも変えられるよう説明を始める。


「能力というのは呪いの類ではありませんし、能力者は人ならざる者でもありません。れっきとした人なんですよ。菖蒲くんにだって心がある。貴女は貴女の都合で産んだ子供を、簡単に捨てられるのですか? 彼は物じゃない。貴女が貴女の勝手で彼に与えた命も、覚えさせた心も、玩具のように壊せるのですか?」

「それは……」

「もしそのような心無いことが出来る人がいるのであれば、いつも明るく笑っている菖蒲くんのような能力者よりも、その人間の方がよっぽど人じゃない」


 言ってしまってから、失言をしたことに気が付く。感情的になりすぎてしまった。彼女はただ俯いたまま顔を顰めていくばかりで、けれど私の失言に気を悪くしてはいなかった。しかし私情を持ち込んだことを詫びる。


「すみません、言い過ぎました」

「……いえ」

「……能力というのは、治療法のない、原因不明の病気のようなものです。貴女がもし菖蒲くんを医者に診せに行っていたなら、その医者にこう説明されたかもしれません」

「どういうことですか……?」

「能力者の子供を持つ多くの人は、頼る場所に病院を選びます。大きな病院にある脳外科または精神科を頼る人が多いようでしてね、それゆえ、保護協会の者がその市の一番大きな病院に一人か二人いるようになっています。そして私が今口にした説明をし、場合によっては能力者をその場で引き取ります」


 驚いたように目が見張られる。私をようやく見てくれた彼女に、小さく笑いかけた。彼女は私を見たまま、ゆっくりと息を吐き出す。


「ということは……能力者って、沢山いるんですか?」

「どうでしょうね。少なくとも、貴女が思っているよりは多いでしょう。しかしその存在は公にはされない。それが何故か分かりますね?」

「……私のように、人として扱えなくて、恐れたりする人がいるから……混乱するから、でしょうか」

「他にもいくつかありますが……そう言った理由により、能力者であることを隠して、けれどその能力のことでやはり悩み、苦しんでいる人がこの世には大勢います。それはやはり、彼らが『周りとは違う』ことに、彼ら自身が悩まされているからです。そんな中で居場所まで無くなってしまったら、家族にまで拒絶されたら。自分で付けた傷が、治せなくなるくらい深く抉られるのですよ」


 ここまで言って、彼女の気が何も変わっていないなら。彼女が何も感じていないなら。彼女と菖蒲くんの意思に関係なく、菖蒲くんを引き取るつもりだった。我々が大事にするのは能力者の心。だがそれ以上に私が大事にしたいのは、その命だ。

 菖蒲くんが心から母親といることを望んでいたとしても、母親といることでいつか彼自身が壊れてしまう可能性がある。

 私はただ、恐れていた。知り合って、助けようとした能力者を、死なせてしまうことを。

 黙り込んだままの彼女に向けていた笑みを、取り去った。


「もう一度問いましょう。私が菖蒲くんを連れて行くと言った場合、貴女は、どうします?」

「……」


 初めに同じ問いをした時よりも、沈黙は長い。彼女は葛藤しているようだった。それを見て取ると、私は自然と言葉を続けていた。


「私は貴女に、お子さんと、お子さんのご病気と向き合い、支え合っていく覚悟があるのかと聞いているんです」


 優しく、けれども強い語調で投げかける。悩むように視線を彷徨わせていた彼女は、淡い決意を揺らがせている眼で私を真っ直ぐに映し、開口する。


「……少しだけ、頑張ってみても、良いでしょうか」


 そう言葉にしてもやはり不安は拭えないのだろう。堅い表情で私を正視する彼女に、私は笑顔で頷いてみせた。


「もちろんですよ。では、これから定期的にお話を伺いに来ます。構いませんか?」

「はい。お願いします。……あの!」

「……なんでしょう?」


 突然上げられた大きな声にも動揺したが、それよりも、彼女が席を立って頭を下げたことの方に吃驚する。今目の前にテーブルがなかったら、膝を突いて土下座をしていたのではと思うくらい、深い礼だった。


「もし、私があの子を殺そうとしてしまったら、私がどう言っても、あの子を保護してやって下さい。今はあの子が前にいないから落ち着いていられるのですが……あの子を前にしても、私はこうやっていられるのか、不安ですから。お願いします。あの子を、守ってあげて下さい」

「……かしこまりました」


 私は「頭を上げてください」と微笑み、ようやく顔を持ち上げてくれた彼女に、次に来る日を知らせてから、その家を出た。

 能力者の子供を持つ親の約半数は、その子供を見捨てる。特に、我々が赴き『能力者保護協会』という名を口に出せば、まるで好機と思ったかのように子供を差し出してくる者ばかり見てきた。

 神屋敷愛莉という女性が、見捨てない側寄りの考えを持っていたことに胸を撫で下ろす。

 だからと言って、現段階で安心しきってはいけない。子供とも能力とも向き合うという判断をした親が、子供の前で常に良い親で在ろうとし、押し殺した葛藤や苦悩などから生じてしまったストレス故に精神を病んでしまったり、自ら命を絶ってしまう場合も何度か見てきた。親が精神的苦痛を堪えていると勘付いた子供の方が自殺をする場合も、何度か見てきた。

 そう、何度か、だ。一度ではない。もうこんな悲劇は起こさないと決意をしても、関わった全ての人を気にかけることは当然出来ず、目の届く範囲にいない者を救うことも勿論出来ない。いつだって脳裏を過るのは、そんな救えなかった人達の顔だ。

 数ヶ月前にも、舞島桜という少女が車の前に飛び出して自ら命を絶った。意を決して咲き誇ろうとした彼女は、桜色よりも赤い花弁を幾枚舞わせたのだろう。

 最後に会った時、彼女が私に見せた顔は、確かに笑顔だった。母親と向き合って頑張っていきたい、そう笑っていた彼女が自殺をするなんて、思っていなかった。今まで相談を受けた能力者の中で誰よりも明るかった少女だ。相談をしてくれる時でさえ、暗い空気を一秒も落とさないほど、彼女は笑顔を絶やさなかった。それでも、追い詰められていた心情を少しでも垣間見せてくれていたなら救えたかもしれないのに――という思いが湧き出して、自身を罰するように唇を噛み締める。彼女は一切悪くない。彼女なら大丈夫だと決め付け、心の深い所に踏み入ろうとしなかった私がいけなかったのだ。

 僅かに伏せた瞼の裏に、彼女の姿が薄らと浮かぶ。

 私があの夜紫苑くんに目を付けて声をかけたのは、桜さんと同じ制服を着ていたからだった。制服姿の紫苑くんと浅葱さんは、今でも鮮明に思い出せる彼女の姿とどうしても重なってしまう。

 足元に向けていた視線を上げて、アパートの傍に停めていた車に乗り込む。上着のポケットから取り出した煙草を口に咥えて火を点け、心を落ち着かせた。

『能力者保護協会』で働き始めて、七年になる。その月日の中で救えなかった人達のことは、記憶から消えてくれない。いつまでも引き摺り、きっと墓場まで持って行く。

 だがそれで良い。過去があるからこそ頭を悩ませ、現時点での最良を尽くせる。その最良が救えない最良であったなら、更に上の最良を探す。

 そうして、何人の命を救い、何人の心を助けられたなら、私は自分の非力さを許すことが出来るのだろうか。


     ▼


「お、東雲お疲れ〜」


『能力者保護協会』待宵支部の一階にある事務室。そこに足を踏み入れると、椅子に座って夕食を食べている空さんに労いの言葉をかけられた。彼女の正面にある椅子に腰掛け、煙草を吸おうとした私に、すっと何かが差し出される。

 空さんが食べていたコンビニ弁当だ。残っているのは焼肉、ハンバーグ、ウインナーのみ。主菜に当たりそうな物だけを残すというのもおかしなものだが、いつも通りのことなので、彼女が使っていた割り箸を受け取ってそれを食べ始める。


「……これ、焼肉弁当ですか?」

「そうそう、よく分かったね」

「ご飯が入るのであろう部分に焼肉が何枚も敷き詰められていたら流石に気付きますよ……なんで君は肉を食べられないくせに焼肉弁当を買ったんですか」

「その焼肉のタレが付いたご飯が美味しいからだよ」


 なら白米と焼肉のタレだけ買えば良いのに、とも思うが、彼女なりの私への気遣いだと思っておくことにした。

 立ち上がった空さんは白衣を揺らしながらコーヒーを淹れに行く。

 彼女が白衣を着ている理由を問いかけたことが一度だけある。その時は、つい癖で、と返され、元々理系教科の教師でもしていたのだろうかと思っていた。そんな彼女が医者だったことを知ったのは一年前だ。肉を食べることだけでなく切ることも出来ない彼女に、何故なのかと聞いてしまった。今でも、あの自虐的な笑みは鮮明に想起出来る。


「――キミさぁ、話聞いてる?」


 眼前にスプーンが突き付けられ、息を飲んだ。空さんはいつの間にかコーヒーを淹れ終え、私の前に座り直していた。スプーンからコーヒーの雫が零れ落ちる。


「……空さん、ハンバーグがコーヒー味になったらどうしてくれるんです?」

「どうもしないよ。で? 菖蒲君の母親はどうだったんだい? まぁその様子だと、上手く説得できたって感じかな?」

「ええ。今の所は、大丈夫そうですよ。勿論、安心は出来ませんがね」


 短い報告を終えると、ふーんとだけ返された。興味が無い訳では無いのだろうが、彼女の返答の仕方はいつも興味を感じさせない。

 ハンバーグを食べ終えてから、「君はどうだったんです?」と話を変えてみる。

居待いまち市の事件の調査に行ってきたんだけど、案の定能力者だった。けど、あれは私じゃ無理だ」

「私でも無理ですかね? どういった能力なんです?」

「重力操作、って言えば良いのかな。対象の上空の空気重くして押し潰して殺してる、みたいな。ただ潰すまで結構時間がかかるみたいでね、横から対象を突き飛ばして助けられる時間はあった。あ、もちろん助けた人の記憶は消しといたよ。その能力者には逃げられたから救われたし」

「なるほど、私でもなんとか出来るでしょうが……適任がいますよ。彼の能力は、その能力を強くしたような感じでしょうし」


 言ってしまってから、何故こんなことを言ったのだろう、と嘆声を漏らす。彼には日常を楽しんで生きて行って欲しいと思っているのに、能力者であることを忘れさせたくないような、能力者としての彼の成長も見てみたいような、不思議な感覚に動かされる。

 彼は能力に溺れる危うさを持ち合わせていない。だからこそ、こちら側に引き込んでも日常と両立出来るように思える。

 戦うことが必要になった時、安心して背中を預け合える味方が欲しいなんて、私らしくもないことを考えてしまった。思わず苦笑すると、ようやく空さんが「あぁ!」と納得したような声を上げた。


「少年か! 良いね。でも今回の件は東雲に任せるよ、少年に任せるにしては唐突すぎる。けど、保護協会に少年勧誘しようよ。強い能力者味方に欲しい」

「……私も十分強いと思いません?」

「イマイチ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る