水月鏡花2

     ◆


 聳え立つ塔を見上げながら、僕は携帯電話を耳に当てていた。予想はしていたが、やはり相手は出てくれない。仕方がないため、機械音の後に一言だけ伝言を残した。


「蘇芳、今から行くよ」


 携帯電話を仕舞って、塔の入り口に一歩近付く。扉をじっと見つめながら、一分が経過するのを待った。僕からの伝言を彼女が聞いてから入りたかったのだ。

 あの伝言を聞けば、蘇芳はきっと何かしらの動きを見せる。その動きが僕の推測通りなら、それを待った方が良い。後で彼女を説得する際に、彼に邪魔をされたくはない。


「止まりなさい」


 塔の上の方から降り立った月白を見て、僅かに慄く。十階建ての建物より高いと思われる高さから降りたにもかかわらず、彼は表情を一切歪ませていなかった。それどころか、足を負傷してさえいないように見える。化け物じみた身体能力に、嫌な汗が流れる。

 しかし彼の背に生えていた羽を見てほっとした。大きな音を立てることなくそこに立てたのは、その翼のおかげだろう。それなら痛みを感じていなくとも納得がいく。彼の羽が、景色に溶けて消えて行った。その代わりのように、長い刀が握られる。


「『ウサギ』のもとへは行かせません」

「待っていたよ。僕は君を倒して先に行く」


 月白が鞘から刀身を覗かせた直後、長い刃は僕の頭上に振り翳されていた。素早い動きに息を呑みながらも、振り下ろされるそれをバタフライナイフで受け止める。あまりの重さに手が悲鳴を上げ始めた。この刃を長い間押し留めてはいられない。

 冷静に、彼の右腕に視線を移した。退く様子を見せない彼の力を緩めるには、腕そのものを壊してしまえばいい。僕は命令を吐き出す。


「〈折れろ〉」


 右手だけが刀から離れ、折れ曲がって行く。今刀を握っているのは左手だけだというのに、それでもその力に圧倒される。小さく「〈歪め〉」と呟き、その刃に働く重力を操作する。月白の力に逆らって微かに上方へ向かい始めた刃を、ナイフで払いのけた。

 甲高い金属音が耳を刺した刹那、隙を捉えさせる間を与えず踏み込んだ。余計な感情は風に攫わせ、心臓を貫くことだけを考える。勢い良く胸にナイフを突き刺した。すぐさま引き抜いた刃は鮮血を散らせた。自分が血で塗れることなんてこの状況で気にしていられない。

 不自然な風の音で危機を察知し、月白を視界に捉えたまま後退する。

 月白は夥しい量の血液でスーツを塗らしてもなお無表情のまま、先ほどと変わらぬ速さの一閃で空気を引き裂いていた。

 人兎や月白には、痛覚というものが存在しないのかもしれない。そもそも月白には心臓があるのか不明だ。人兎の場合、胸を深く刺せば死んだように倒れて動かなくなっていた。しかし目の前で刃を煌かせる彼は、負傷前と変わらぬ佇まいで刀を構え直していた。

 右腰に左手首を乗せるような形で構えられている切っ先は、僕の首に向けられている。突きの構えをしたまま微動だにしない彼から、一歩だけ離れようとして、しかしその場で足に力を込めた。逃げるように後退すれば、その間に彼は構えを変えて斬りかかってくるかもしれない。無駄な動きは出来る限り控えたい。

 彼が刀を構えている右側へ、地を蹴って駆けた。あの体勢のままでは、構え直さなければ右側に刃を振るうことは出来ない。彼が俊敏であることに注意を払い、長い刃の動きを視界の端で捉えながら、ナイフで彼を切れる距離まで詰め寄った。彼は左側に引いた刀の向きを返す。そうして迎え撃つ準備が整った刃で薙ぎ払われる前に、ナイフで銀の弧を描いた。

 震えを誤魔化すくらい強くナイフを握り締め、首の皮を引き裂く。骨と刃が擦れた感覚に顔を顰める。けれど力を緩めることなく、その勢いのまま宙を切り払った。

 月白から距離を取りながらナイフを軽く握り直す。刀が眼前に突き出され、はっと息を呑みながら体を傾ける。右頬の皮膚が引っ張られて痛みが走った。

 風で揺れた髪が触れるほどの距離で、ぴたりと固まっている刃。それをナイフで押そうとする。だがそれよりも早く、刀は器用にナイフだけを攫い飛ばした。痺れて咄嗟に動かせなくなった右手を庇うように下げて、左半身を一歩前に出し、再び突きを繰り出してきた刀を左手で握り締めた。

 手の平にじわりとした痛みが広がっていく。けれどその痛みに顔を顰めている時間さえ無駄に思え、即座に声を上げた。


「〈曲がれ〉」


 月白が刀を引こうとする。僕はそれを許さないと言わんばかりに引き止めた。強く掴めば掴むほど刀は食い込み、皮下組織にまで潜り込む。溢れ出す血液が白銀の刃を染めて行く。滴る血が刀身から零れ落ちた。それを合図にしたように、刀は切っ先から砕け散っていく。散らばる破片はダイヤモンドダストの如く煌めいて霧消した。手の平からも銀色の欠片が舞い落ちていくが、痛みも傷も消えはしない。武器を壊したからといって安心することは出来なかった。あの刀はそもそも彼が魔法のように取り出したのだ。また取り出すことが出来るのかもしれない。

 視線を上げ、彼の出方を窺いながらもナイフを探した。左方に見つけたそれの位置をしかと記憶し、彼だけに意識を集中させる。

 刀身の無くなった柄を投げ捨てた彼が、片足を後ろに下げる。それが逃げ腰を表しているわけではないことくらい分かる。助走を付けるようにして下げた足を、彼は即座に前へ踏み出していた。

 僕は左手で月白の拳を受け流して躱し、瞳に映ったバタフライナイフに呼びかける。


「〈来い〉」


 追撃しようとしていた月白は、その声を耳にしてすぐ僕から距離を取った。こちらへ向かって飛んできたナイフの柄を右手で掴み、逆手に持って月白の方へ駆け出す。

 馳せるスピードと手に込めた力に任せて、ナイフを前へ突き出す。月白が僕へ拳を向けたのはそれとほぼ同時だった。ナイフを構える腕の位置を僅かに下げれば、月白の拳はその腕の上方を掠めていく。すれ違う拳と刃。僕は勢いを衰えさせず突き進み、ブレーキをかけるように音を立てて地面を踏みしめると、止まりきれなかった速度を全て腕に乗せてナイフを振るった。

 皮膚を裂いた、という感覚ではない。肉を削いだと表した方が相応しく思える感触が、ナイフを伝って手の平を震わせていた。

 自身の乱れた呼吸音が五月蝿いくらい耳の奥で反響する。月白から離れて、ナイフを順手に持ち変えた。

 切られても悲鳴一つ上げず、能面のような顔をした月白を見ていると、道路に飛び散っている血液は全部自分のものなのではないかと錯覚しそうになる。

 どれほど出血させても、彼を追い込むことは出来なさそうだった。どうすれば彼を倒せるのか、案出した答えは一つ。

 その答え通りに動く為には、甘さも恐れも全て取り去らなければならない。月白みたいに、ただ殺すことだけを考えて刃と力を駆使し、蹂躙しなければならない。嫐る必要はない。首を刎ねるか、原型を留めないほど潰すか、そのどちらかですぐに片を付ければ良いだけだ。

 月白は、人ではない。だから殺しても問題は無い。必死にそう言い聞かせなければ、戦慄が走り全身が竦みそうだった。

 自分が今一番すべきことは何か、それをよく考える。自分が何をするためにここに立ち、何故彼と対峙しているのか、再確認する。今は、殺すという行為への畏怖と向き合っている場合ではない。


「……殺すわけじゃない、か」


 ふと、そんな考えに至った。思わず声に出していたが、口から漏れた呟きはすぐさま掠れた呻き声に変わる。

 逡巡しているうちに月白が僕の横を通り過ぎていた。その際、音も立てずに僕の左上腕部を斬ったようだ。傷は深くなく、しかし浅くもない。痛みに焼かれた左腕は熱を持つ。傷口を押さえようとしたが、結局目をやっただけで触れはせず、月白の方へ振り返った。

 彼の指先――その爪は、今までと違って刃物じみた鋭さを帯びている。恐らくそれで僕を斬ったのだろう。血塗れの左手を軽くはためかせて、彼は抑揚のない声を響かせる。


「殺さなければ、貴方が死にますよ」

「死なないさ。殺される前に、壊すから」


 小さく吐き出した息は、冷たい夜風に溶けていった。躊躇いも恐れも全て捨てたつもりだ。迷う必要なんてない。今から僕がするべきことは、初めから存在しないものを壊して本来あるべき姿に戻すだけで、彼女を追い詰めるだけの逃げ場を壊す、第一段階でしかない。


「月白」


 これがきっと、彼にその名を聞かせる最後の瞬間だ。彼に心なんてものはないのだろうが、その存在に大きな意義もなかったのだろうが、名を呼ばずにはいられなかった。

 造られた存在だったとしても、彼が確かに存在しているという事実を、声にして落とす。そしてその事実は、これから歪曲しなければならない。

 月白が僅かに腰を落とした。それは一秒にも満たない間のことで、次の瞬間には既に、彼の指先が眼前に在った――はずだ。その前に、彼は地面に叩きつけられていた。


「〈歪め〉」


 片膝を突いて立ち上がろうとする月白へ、更に重力をかける。尚も立とうとする彼の方に手を伸ばす。小さく息を吸って、集中するように自然の音へ耳を傾けた。

 ゆっくりと指先を丸め、伸ばした手の直線上にいる彼を、冷静な瞳で捉える。


「偽物の友達なんて、彼女にはもう必要ないんだ」


 月白に小さく笑いかけながら、拳を固めた。最期の最後まで彼の表情は崩れなかった。僕が微笑した意味など彼は考えすらしなかっただろう。

 赤黒い血溜りから目を逸らし、塔を見上げる。革靴の音を響かせながら近付いて、そっと鉄扉を開けた。軋むような音は、彼女の心の悲鳴みたいだった。

 バタフライナイフを仕舞い、階段を駆け上っていく。

 どこまでも続いて行きそうな長い階段をひたすら踏み越えた。息切れがひどい。けれども立ち止まるという選択肢が頭に浮かばないくらい、進むことしか考えられなかった。

 そうして辿り着いた、月光が差し込む一室。そこへ踏み入ろうとしたが、部屋の入り口に柵が形成されていた。足を止めて柵の奥へ目をやると、蘇芳が立っているのが見える。逃げたい、という思いが伝わってくるほど、彼女は柵から――僕のいる位置から、離れられるだけ離れていた。

 小さな声を落として、柵を歪めて砕く。びくりと肩を震わせた彼女をじっと見つめながら、部屋の中へ入って行った。だが必要以上に近付きはしない。

 窓を背にしたまま動かない蘇芳の前で、バタフライナイフを足元に投げ捨てる。それでも強張った表情で僕を正視する彼女に、僕は敵意のない透明な眼を真っ向からぶつけた。


「蘇芳。そろそろ、終わりにしよう」

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