第十四章
水月鏡花1
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小学一年生の時に、玩具屋で見かけたぬいぐるみが欲しくて、それを自分で創った。確かそれが、初めて能力を使った時のことだ。
あまり家にいない両親は仕事がない時にいつも構ってくれて、買い物に行ったら好きなものをなんでも買ってくれた。けれど沢山ねだるのは良くないと思っていたため、可愛い兎のぬいぐるみをねだることが出来なかった。だから、帰宅したあたしは自分の部屋に行って、買えなかったそれを思い出しながら、自分の手の平をぼんやりと眺める。今ここにあればいいのに、テレビで見たマジックみたいに出せれば良いのに。そんなことを考えてじっとしていると、いつの間にか手にはそのぬいぐるみがあった。
凄く驚いたものの、驚愕よりも嬉しさが勝っていたあたしは、すぐさま廊下へ飛び出す。ちょうど廊下を掃除していた家政婦に、ぬいぐるみを見せびらかせた。
「ねぇ! あたし、マジックが出来るようになったの! ほら見て、これ! すごいでしょ!」
そんな風にはしゃぐあたしに向けられたのは、当然苦笑だった。凄いですね、と褒められたが、その目があたしを信じていないことはすぐに分かる。だからその家政婦の前で、もう一度能力を使ってしまった。見てて、と言って、同じぬいぐるみを想像して創造した。
家政婦の目が面白いくらい見開かれて、信じてもらえたのだと確信し、あたしは笑みを深める。他のものも出せるかと問われたから、試しに家政婦が持っている箒を創造してみた。彼女が驚く反応が嬉しくて、両親にも見せに行こうとしたが、気付けばあたしは家政婦に手を引かれていた。付いてきてくれますかと言われ、断る理由もなかったため、大人しく付いて行ってしまったのだ。
家の外に出るつもりなのか、彼女があたしを引っ張って行ったのは玄関の方だった。しかし家を出る前に、あたしと彼女は母に引き止められた。勝手にあたしを外へ連れ出そうとしている家政婦に、母が静かに怒り出す。
それから起きた出来事は、今でも鮮明に思い出せる。
家政婦がエプロンから取り出した鋏を母に突き刺した。何度も刺される母を目の前にして、あたしは恐怖で固まっていた。幾度となく上がる悲鳴に、耳を塞ぎたい気分だった。戦慄で硬直した全身は全く動かず、声を失い、逃げることも助けることもしないで立ち竦む。
母の悲鳴を聞いて駆けつけた父が、母の姿に動揺する。父が家政婦を止めようとしたけれど、必死になっていた家政婦は止まらない。父も、彼女の手で血だらけにされた。
両親共に動かなくなってようやく、家政婦は鋏を仕舞った。血に塗れた手で強引にあたしを引っ張り、そのまま外へ出る。怖くて抵抗すら出来ないまま、彼女の車に乗せられた。
そこからのことは、あまり覚えていない。思い出せるのは、見知らぬ家の中で警察に保護され、祖父母に引き取られたあたりからだ。
既に祖父母の家にいた兄に抱きしめられ、大声を上げて泣いた。守れなくてごめん、そうやって何度も謝る彼に、あたしも同じようにごめんなさいと叫び続けた。
あたしが家政婦に攫われた日、兄は修学旅行に行っていた。帰宅してあの惨状を目の当たりにし、近所の人に助けを求めたらしい。両親が血塗れで、妹がいない。その言葉で、近所の人はすぐに警察へ電話をしてくれたのだと聞いた。
兄が無事だったことにほっとしたけれど、両親にもう会えないのだと思うと涙が溢れる。毎晩、赤ん坊のように泣き喚いた。そのたび祖父母に「五月蝿い」と何度も叩かれた。
叩かれるのが怖くて泣かなくなったが、その時既に、あたしが一言喋るだけでも叩かれるようになっていた。
それに気付いた兄がいつもあたしを庇って、代わりに叩かれる。殴られる兄を怯えて見ていると、両親が殺された時のことを思い出して叫びたくなるから、あたしは痛みに耐える兄から目を背け続けた。それなのに兄は、どれほど体に傷を作っても、あたしに笑いかけて、あたしの頭をいつも撫でてくれた。
「蘇芳、俺、頑張るから。もう少し我慢して。大丈夫、俺が守るから」
あたしを全く恨んでいない笑顔が愛おしくて、あたしの自己嫌悪を激しくさせる。だけどあたしに出来ることは、兄をほっとさせるために笑うことだけだった。
しかし祖父母の暴力はエスカレートする。引き取られてから二年経っても、状況は酷い方向へ変わるばかり。始めは手で叩かれているだけだったのに、いつからか兄は、杖や椅子で殴られるようになっていた。怖くて堪らなかった。そのうち、兄も両親のように死んでしまうのではないかと思って、全身が震えた。
その時からだ、あたしが自殺願望を抱いたのは。あたしが死ねば、全て解決すると信じて疑わなかった。あたしがいたから両親が死んだ。あたしが両親を殺したから祖父母が暴力を振るってくる。あたしを庇うから兄が暴力を振るわれる。あたしさえいなければ、あたしが消えてしまえば、きっと兄が傷付くことはなくなる。
なのに死のうとしても、臆病な心があたしの手を止める。自分で死ぬことが、出来なかった。
死ねないのなら、せめて誰もいない世界に行きたかった。
そうして出来たのが、偽物の世界だ。しかし、たった数時間しかその世界にいられなくて、自分が無意味なことをしたと呆れた。それでも毎晩その世界を造り続けたのは、逃げたいという卑怯な気持ちからだった。
兄の悲鳴を聞きたくなかったし、祖父母の怒鳴り声も聞きたくなかった。あたしが造った静かな逃げ場に、一人で逃げた。誰もいない世界はとても心地が良かった。
それから少しして、偽物の友達を造った。普段は生き物なんて創り出せないけれど、偽物の世界にいる間は、本当の世界よりも創造出来るものが多いみたいだった。兄と似た顔立ちの彼を月白と名付けて会話をしていたが、虚しさを覚え、他の人を招くことにした。
同時に、この世界のルールと人兎を創造する。そして能力を持つ人間が七人ほどこちら側に来てくれることも想像した。
退屈で苦痛な日常に、楽しさを見出したかったから。死ぬ勇気のないあたしを、殺して欲しかったから。だけれど死ぬのも怖くて、自分から能力者の前に姿を現すことはしなかった。
六時から二十三時までは日常を過ごし、零時から六時までは静寂の中で、あたしを殺してくれる運命の人を待ち続けた。記憶を失うことを恐れた能力者がすぐにあたしを殺してくれると思っていた。この世界で命を落とした時に失う記憶が何の記憶なのか、説明した方が彼らの不安を煽れるかとも思ったが、それはしなかった。
失うのは『一番大切な人の記憶』『この世界の記憶』『楽しかった思い出』――その三つのうちどれか一つ。そのどれかを失いたいと思っている人もいるかもしれないと考えたら、教えない方が良いと思ったのだ。だから月白に説明させず、ただ殺される恐怖から逃れる為にあたしを殺しに来る能力者を待ち侘びた。
三年経っても、あたしはまだ生き続けていた。その頃兄の絵に魅せられ、偽物の世界の月を偽物の月にした。そして兄から月の兎の話を聞いて、兎を愛おしく思った。
元々あたしが『ウサギ』と名乗ったのは、兎が特別好きだったから、というわけではなかった。小学校の兎小屋の中で、鳴きもせず静かに衰弱して死んでいった兎達に、自分と兄を重ねていたからだ。純粋で残酷な子供に遊ばれて傷付いても、声を上げない姿が愚かで憐れだった。そんな姿に好意的なものは一切抱いていなかったと思う。無様でみっともないあたし。そうとしか見えていなかった。
兄が事故にあって眠り続けるようになったのは、彼が兎の話をしてくれた数日後のことだ。
あたしの味方がいなくなってしまった。本当の孤独に耐え切れず、死にたい思いが強くなって、いつも建物の上で高みの見物をしていたあたしは、ようやく下に降りた。
早く見つけてもらい、早く殺してもらおう。そう思っていた矢先に、影使いの能力者と出会う。彼はすぐにあたしを『ウサギ』と見抜いたのか、それとも無差別に能力者を殺そうとしていたのか、あたしに影の刃を放った。
やっと、死ねる。
嬉しいのに辛くて、泣き叫ぼうとしたあたしの前に、『彼』が飛び出した。あたしを庇う背中が兄と重なって、あたしを助けてくれる人がまだこの世にいるのかと嬉しくなって――彼に心を奪われた。
恋をしないわけがなかった。愛おしいと思えないはずがなかった。彼の傍に行きたい。彼にあたしを見てもらいたい。そんな思いが溢れ出す。
そうして伸ばした手の先で、彼は、美しい微笑を『彼女』に向けていた。敵わないと確信しても諦められないほどの恋心が、あたしの胸を穴だらけにし続けていた。
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