屋梁落月3

「――紫苑くん」


 呼ばれて、彼に顔を向ける。子供を咎める時の大人みたいな表情から無理やり苦笑いを作った彼は、ふっと吐息を落とした。


「もう少し、自分のことも大切にしてくださいね」

「大丈夫だよ。僕が傷付くと泣く人がいるみたいだからね。もう、あんな風に誰かを傷付けるような真似はしない」

「ならいいのですが……。学校か家まで送りますよ。どっちがいいですか?」

「家かな」


 間髪入れず発した答えに、東雲が呆れたのはその顔を見るだけで分かる。それでも「分かりました」と言ってくれてほっとした。礼を言おうとした僕の声を遮って、不満げな声が東雲の背後で上がる。


「うわー、そうやって普通に少年を帰そうとするんだね、私が連れて来たのに」

「そりゃ帰しますよ。紫苑くんはこちらで保護する必要がないですから」

「そーですかぁー。――あ、いいかい少年? 次能力で人を傷付けたら数ヶ月ここで過ごしてもらうからね?」


 空の言葉を最後まで聞かずに先に東雲が出て行った。その後を追おうとした僕の前に、彼女がステップを踏むような足取りで立つ。

 僕の顔をじっと窺う彼女へ、薄く笑った。


「使わないよう善処するよ」

「善処って……まぁいいけど。あ、廊下にさ、絵が飾られてたでしょ? あれ、東雲が描いたものだから、見て酷評してやってよ」

「え。あれ、東雲が描いたんだ? へえ……」


 手を振る空に軽く頭を下げてから、僕は部屋を出る。待っていたらしい東雲が僕を一瞥して歩き出す。廊下の壁に飾られている絵を見ながら、彼の後ろを歩いて行った。珍しく黙っている東雲の背中に、声を投げかけてみた。


「東雲ってさ、絵、上手いんだね」

「そうでもないですよ。ただの模写ですし」

「模写なのは見れば分かるけど、ただの、ではないよね。アレンジされてて、それが良い味を出しているから上手いと思うよ」


 思ったことを言葉に出してみせると、東雲はどうやら笑ったようだ。肩が小さく震えながら持ち上げられた。けれど声を漏らさず笑っているのか、耳を澄ませても笑声は拾えない。

 無言のまま歩いて数秒、ようやく東雲が苦笑交じりの声を放ってくる。


「紫苑くんに褒められると自信が付きますね。君、滅多に人を褒めないでしょう?」

「そんなことないけど」

「おや、それは意外です」

「意外か……?」


 首を傾げながら、東雲の背より先へ目をやって、エレベーターを探す。さほど長くない廊下のため、それは既に目の前にあった。下矢印が書かれているボタンを押した東雲が、いつも通りの胡散臭い微笑を振り向かせた。


「さ、乗ってください。とりあえず待宵駅まで行きますよ。駅の駐車場に車があるので、そこからは車で送ります」


     ▲


「宮下! 悪い、遅くなった」


 電話で泣いていた宮下を放っておけず、俺は繊市の、駅から少し離れた所にある公園に駆けつけた。ベンチに座っている彼女は笑って俺を迎えたが、その目が赤いのを見たら笑い返せなかった。

 隣に腰を下ろして、駅の自動販売機で買ってきていた缶の紅茶を宮下に差し出す。


「これ、やるよ」

「ありがとうございます。……甲斐崎さん、本当に大丈夫ですか? 学校、行った方がいいんじゃ……」

「いいんだよ」


 俺は、好きな女が泣いているのを無視して学校に行けるような無情な人間ではない。こんな時だからこそ傍にいたいと思ってしまうのは、誰のためなのだろう。考えてみると自分の汚い部分が浮き上がってきて、項垂れた。


〈私……誰に対しても迷惑かけてばかり〉


 そんな声に、顔を即座に持ち上げる。宮下の方に向いてみたら、心を読まれたことに気付いたのか、彼女の眉が申し訳なさそうに下がった。


「お前さ」


 傷付ける為に来たわけでも、そんな顔をさせるために来たわけでもない。だから俺は、優しい息をふわりと風に乗せる。


「もっと、自分に優しくしろよ。今辛いのは、お前だろ。辛い時くらい迷惑かけたっていいじゃねぇか」

「で、でも」

「いいんだよ。宮下にかけられる迷惑なんて、迷惑じゃねぇし」


 むしろ迷惑をかけてくれたほうが嬉しい。好きな奴にかけられる迷惑なら、愛を向けてもらえているみたいに感じる。遠慮せず、その重荷を俺に分けて欲しい。俺が、その気分を軽くしてやりたい。

 俺の言葉をどう受け取ったのか、宮下はただ黙ったまま顔を綻ばせた。風に運ばれた彼女の香りが鼻腔をくすぐるこの距離で、そんな顔をされて心臓が大きく跳ねた。ぱっちりとした瞳、長い睫、形の良い眉に桜色の唇。小さな顔にバランス良く配置されたそれらは、精巧に造られた人形を思わせる。

 俺が宮下を初めて見た時に抱いた感想が『可愛い』だった。控えめに咲く、小ぶりで可憐な花。目立たないけれど、目に付いてしまえば忘れられなくなる可愛らしさ。そう例えても何か物足りないくらい可愛い彼女の、その綺麗な頬に触れたくなった。

 俺はそんな願望に忠実に動いていた。気付けば、すべすべとした柔らかな頬に、指の背を押し付けている。しまった、と思ったが不思議と焦りも後悔も湧いてこない。動揺で揺れた彼女の瞳に、思いを抑えられなくなる。


「宮下」

「えっ、な、なん、でしょうか……」


 頬に触れ続ける俺の手を払おうと、彼女の手が持ち上げられる。俺は空いている方の手でその手首を掴んだ。優しくしたつもりだ。けれど出来た自信はない。今しかないという思いのせいで、僅かに余裕を失くしていた。


「俺じゃ、駄目なのか?」


 真っ直ぐ、宮下の潤んだ瞳を射抜いた。


「だ、駄目って、なにがですか?」

「言わなきゃ分かんねぇのかよ。まだ、分かってねぇのかよ。俺は、お前が好きなんだ。なぁ宮下、お前が好きだった呉羽はもういない。あいつとの思い出なんて夢だったんだって思って、忘れて、新しい恋を始める気はねぇのか? お前が悲しまなくて済むように、俺が、お前を愛してやるから。頼む……返事は、今、聞かせてくれ」


 どうして、だろう。

 返事を聞きたいのに、耳を塞ぎたかった。愛おしい彼女の唇から漏れる声を、今だけ聞きたくない。急かしたというのに、沈黙が永遠に続けばいいと願ってしまう。このまま、時間が止まり続けてくれればいい。

 俺が何も言わず、彼女も何も言わないまま、どれくらいの時が経ったのだろう。震えた息を零したのは、俺の方だ。

 心の声が聞こえたからではない。ただ、己の醜さに、吐き気がした。

 呉羽は、良い奴だ。素直じゃないだけで、優しくて、宮下を大切に思っていた。あいつに負けたくない気持ちも、宮下と付き合いたい気持ちもあったが、あいつと宮下が笑う未来を何度も想像したことがある。俺を友人という立場に置いてくれた初めての優しい友達と、一目惚れした心優しい彼女。この二人が互いに抱いていた気持ちを、きっと本人達より俺の方が分かっていたし、だからこそ、こいつらの幸せを願った。なのに諦めきれない自分もいて、何度も嫌になった。

 そんな、汚い方の俺が好きな人の前でみっともなく顔を出しており、今になって走り去りたくなる。だというのに、汚れた奇跡を期待し、足はちっとも動かない。そんな奇跡が起きたとして、俺は本当に喜べるのだろうか。元はといえば俺のせいで呉羽が記憶を失ったのに、俺は今欲しいものに夢中になって罪悪感なんて忘れてしまっていた。そんな自分が、嫌で嫌でたまらない。


「ごめんなさい」


 俺の大好きな声は、優しく耳を撫でた。けれど言葉は胸を刺す。心から謝っているような彼女の目から、顔を背けたかった。なのに俺の視線は彼女を貫いたままで引き抜けなかった。

 宮下が、泣き出しそうな顔をしている。そんな顔をさせているのが自分なのだと思えば思うほど、息が苦しくなってくる。やはり汚い心は人を傷付けるだけなのだ。どうして人間は、汚い部分を持って生きているのだろう。


「甲斐崎さんは、優しいですね」

「は……?」


 馬鹿みたいな乾いた声が、半開きの口から飛び出した。俺の手が力を無くしたみたいに宮下から離れていく。優しいなんて、子供でも分かるだろう形容詞の意味が、分からなかった。汚れた心で彼女に悲しげな顔をさせてしまったのに、何故そんな俺が、優しいなんて言われているのだろうか。

 情けなくも嗚咽を漏らしそうで声が発せない俺に、彼女がにこりと笑顔を咲かせた。


「私は、悲しくてもいいです。恋って、優しくて暖かいものだけれど、痛くて辛くて悲しいものでもあると思うんです。だって誰かの心を独り占めしたいって感情だから、好きな人のどんな性格もどんな感情も受け止めたいって思うものだから、傷付くなんて、仕方のないことなんです」

「……なんだよ、それ」

「恋、ですよ。どんなに傷付けられたとしてもそれでも傍にいたくて、百回拒絶されたなら何百回でも手を伸ばしたくて、強さも弱さも全部抱きとめたくて、その傷を私も負いたいって思う……私、この感情がなんなのか、自分なりに答えを出せたんです。これが、私の思う『恋』で、一生失うことの出来ない『愛』なんだと思います」


 恋の定義も、愛の定義も人によって違う。けれど宮下の語る愛も恋も、確かにそれ以外の感情ではないのだ。否定出来ないくらいにそれは恋で、愛だ。敵わないと確信した。だがこれは、あまりにも、悲しい。

 宮下は手放せないくらいに膨れ上がった恋心のやり場を、どうしてこうまでして変えないのだろう。彼女が恋心を渡すつもりだった相手は、彼女のことすら覚えていなくて、それを受け取ってくれないはずだ。その思いを俺に渡してくれれば、その重みを一緒に背負ってやれるのに、頑なに手放そうとしない。それが彼女の答えだと分かっていても、足掻きたくなる。


「甲斐崎さん、私は、紫苑先輩が誰よりも好きです。だから、ごめんなさい」

「っでも呉羽は!」

「紫苑先輩は――」


 つい上げてしまった叫びに、宮下の落ち着いた声が重なる。すぐにでも散ってしまいそうな微笑に、俺は何も言えなくなった。


「また、私を好きになってくれると信じています。恋愛感情の好きじゃなくても構いません。友達としての好きでいいんです。以前と同じくらいの好きって気持ちを、紫苑先輩はきっと抱いてくれます。だって記憶を失っても、紫苑先輩は紫苑先輩ですから」


 綺麗な笑顔は、強がっているのだとすぐに分かった。こんな能力がなければ気付けなかった。その心の声は悲痛に震えながら謝罪を繰り返していた。そんなに、謝らないで欲しい。俺は宮下を苦しめたくないだけだから、罪悪感なんて抱かないで欲しい。


「紫苑先輩が何度私を忘れても、私は何度でも『初めまして』から始めます。何度でもやり直します。私が紫苑先輩を好きな気持ちは変わらない。紫苑先輩が紫苑先輩であることも変わらない。だから、何度でもやり直せるって、信じたいんです。思い出してくれなくたっていい。失くした記憶よりも素敵な思い出を新しく作っていけばいいんです」


 無理に、笑うなよ。辛いくせに、悲しいくせに、本当は忘れて欲しくないくせに、強がるなよ。お前が呉羽のことをどれくらい好きなのか、もう、分かったから。

 だから、もう、泣き止んでくれ。


「ごめんなさい、甲斐崎さん。私、自分で思っていた以上に、紫苑先輩が好――」


 だんだんと震えていく声を聞いていられなかった。これ以上は口にさせたくなかった。全部、痛いほど聞こえているから、わざわざ口にして欲しくなかった。

 許してくれと思ったのは、宮下に対してか、それとも呉羽に対してだろうか。

 か細い体を抱きしめた俺は、もうその体を離したくなかったし、無理やり奪った唇を解放したくなかった。

 ――ごめんな、宮下。


「好きだった」


 そっと唇を離して、僅かに開いたままになっている彼女の口腔へ、息を吹き込むように呟いた。怯えるみたく身震いしている彼女から離れると、視界に映ったその顔は真っ赤だった。羞恥と怒りと動揺を混ぜ合わせたみたいな顔色だ。そんな表情を見て可愛いと思ってしまうあたり、俺はおかしいのだろう。声を失っている彼女に、くすりと笑ってみせた。


「過去形だ。もう、そういう意味の好きって気持ちはないぜ。けど、友人としては好きだ。これから先も、好きでいる」


 紡いだのは、嘘だ。まだ恋愛感情は消えてくれない。恋とか愛とか、そういったものを簡単に捨てられるように人は出来ていないのだと思う。

 けれど、せめて友人として傍にいられるように、嘘が必要だった。


「……っ、ごめん、なさい」


 その謝罪は、一体何に対するものだったのだろうか。訳を問いかける時間すら与えてくれず、彼女は駆けていってしまった。追いかける気分にはなれずに、俺はその遠ざかる背中をただ眺めて、堪えきれなくなった嗚咽を漏らす。


「呉羽……ごめん」


 俺は正直でも真っ直ぐでも優しくもなく、誰かのために必死になれる人間でもなかった。俺はただ、自分のために必死になっていた。それで好きな人が傷付くと感付いていてもなお、踏み止まれなかった。


「俺、最低だな」


 変わりたい、と、初めて思ったのはいつのことだったろう。

 心の声が常に聞こえてきて、後ろ向きに生きるようになった時だっただろうか。それとも、他人の優しさを全部嘘だとみなして、最初から全ての声に耳を塞ぐようになった時だったろうか。友達と言っている相手を心では貶している人間を見て、人であることをやめたいと思った時だったろうか。今となっては、何がいつの出来事なのかすら曖昧だ。

 嫌な記憶ばかり思い起こして、俺は考えるのをやめた。それでも、変わりたいという思いは変わらない。

 臆病なくせに狡くて、なによりも自分が大事で、他人のこえが聞こえるくせにそれを無視して自分の気持ちを優先させる。こんな自分から、変わりたかった。

 自分の幸せよりも今は、好きな人と大切な人の幸せを祈りたい。ふられたことで何かが吹っ切れたのか、俺はもう、呉羽に嫌われてもいいから、宮下に軽蔑されてもいいから、あの二人の間の切れてしまった糸を繋ぎ直したいと思った。

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