屋梁落月2

「しののめさんだー!」と嬉しそうに子供が言っているから、彼らに好かれているようだ。

 けれど彼らが東雲に寄り付く前に、東雲は僕の手首を引いて部屋を出た。廊下に出て、子供達がいた部屋の扉を閉めると、彼が不機嫌そうな声を絞り出す。


「君、何をしているんですか……」

「いや、それはこっちの台詞だよ。東雲、こんな所でなにしてるの?」


 問いかけてはみたものの、子供達の反応からして予想はついている。ようやく落ち着いたらしい東雲が僕に真剣な瞳を向けてきた。


「仕事ですよ。言うつもりはなかったのですがね……私、『能力者保護協会』の者です。ここにいるということは君、能力を使った所でも見られました?」


 はは、と乾いた笑声だけを返したが、それで充分伝わったらしく、長い息が吐かれた。絶対わざと、長く大きく吐いている。


「場所を変えましょう。君には聞きたいことがあるので」

「聞きたいこと?」

「ええ。付いて来てください。空さんもいますが……彼女は空気だと思って構いません」


     ◆


 案内された部屋の椅子に座り、足元に鞄を置くと、空が目の前のテーブルにコップを置いてくれた。礼を言って、コーヒーを一口流し込む。

 僕の正面には東雲が座っていた。空はというと、東雲の後方にあるソファに寝転んでいる。テーブル、椅子、ソファの他には棚くらいしか置かれていないが、台所があり、生活に困らなさそうな室内だなと見回していたら、東雲に咳払いを落とされた。


「それで、君……私のことを覚えているということは蘇芳さんのことも覚えています? ああいえ、質問が急でしたよね。君は昨日――」

「知っているよ。死んだんだよね。……誰かを庇って」


 彼女の名前を言おうと思ったのだが、忘れてしまったため誤魔化すように言ってから視線を前に向ける。東雲の顔を見てすぐに、僕はなにか間違ったことを言っただろうかと心配になった。やるせない顔をして僕を見る彼が、どれほどの衝撃を受けたのか、理由さえ察せられない僕では推し量れなかった。

 沈黙が重く感じる。掛け時計の秒針が音を立てる度、空気は重くなっているようだった。だんだんと俯いていく僕に、ようやく東雲の声がかかる。


「浅葱さんに、会ったんですか」


 感情を噛み潰しているような声だった。だというのに刃を象っており、叫びでも怒号でもないのに耳を劈かれ、脳髄が震える。頭の痛みに顔を顰めながら、唇の裏で「あさぎ」と呟いてみた。

 宮下、浅葱。確か、そんな名前だったはずだ。僕は軽く頷いた。


「そう、浅葱。会ったよ。どうやら僕は彼女のことを忘れたみたいでね、思い出そうとするたび頭が痛んで、思い出せなくてさ。その痛みに苛立って八つ当たりして……泣かせた」


 どうしてか声が震えていた。泣き出しそうにではない、哂笑しんしょうするように、だ。己を責めるみたいに嗤っていた。

 そんな僕はどう見えたのだろう。東雲は苦々しい顔をしたままそっと視線を外した。


「紫苑くん。本当に君、馬鹿ですよね」

「……そうだね、知ってる」

「浅葱さんは、君のことを大切に思っているのですよ」


 彼女が僕をどう思っているかなんて、東雲の口から聞かずとも、見ていれば分かる。友達に拒絶される気持ちがどんなものか、嫌というほど分かっている。僕は今更、何故彼女を泣かせ、突き放してしまったのかと後悔した。

 けれどこれで良かったとも思っているのは、彼女を傷付けたくないからではない。自分が傷付きたくないのだ。それに気付いてしまって、自己嫌悪に陥る。

 何が正しいのかなんて知らないし、恐らく正解はない。だが僕の判断は間違っていたのではないか、と思えば思うほど、自責の念は強くなる。

 東雲がこんな顔をするということは、僕が思っている以上に、僕に抱く彼女の思いは大きかったのだと思う。いや、それとも逆だろうか。僕にとって彼女の存在が大きかったという可能性もある。口を噤んだまま頭の中で下らない思考を広げていると「ところでさ」と話が変えられる。

 沈黙を攫ったのは空だった。


「東雲。蘇芳って子は確か、そうぞうの能力者……『ウサギ』だよね。その少年が記憶を失ったのってつまりキミの仕事が遅いからじゃない? いや、キミがその少年に『ウサギ』のことを任せたせい、かな?」


 東雲を詰った彼女の語調は、刺々しい。そんな彼女に東雲が放ったのもまた棘だった。


「空気になっていて下さいって言いましたよね? 後で指折りますよ?」

「はは。善処はする、って言ったよね。好きなだけ折りなよ、治すから別にいいし……ってかさぁキミさぁ、ここまできたら全部話したら? キミが前に言っていた、『ウサギ』のことを救ってくれるかもしれない能力者って少年のことだろう?」

「……君に言われなくても、紫苑くんがここに来た時点で話さなければならないと思っていましたよ。いいから君は黙っていてください」

「はーい黙りまーす」


 口にチャックをするように手を動かしてから、空は宣言通り黙り込む。数秒しんと静まり、彼女が喋り出す気配が全くなくなると、東雲はようやく開口した。


「私があの世界に招かれ、『ウサギ』の存在を知り、あの世界のルールを知り、当然放っておけるわけがなかったんですよ。……あー……いえ、まず私達の仕事のことから話した方がいいですよね」


 ポケットから取り出した名刺を僕に差し出しつつ、東雲が続ける。僕はそれを手に取って眺めたが、もちろん彼の声から意識を逸らしはしない。


「私達は基本的に、能力を日常的に使っている能力者を……言い方は悪いですが、捕らえています。能力を犯罪に使っている者はもちろん処罰し、そうでない人とは話し合う。能力のせいで日常が過ごしにくい、家にいたくない、学校に行きたくない、そういう不満を抱いている人達を保護して養うということもしています。もちろん彼らの望みを聞いてです。今まで通り過ごしたいという人達には、あまり能力を使わないようにと釘を刺してから帰らせていますよ」


 そこまで話すと、彼はコップを手に取り喉を潤そうとした。しかし中身がなかったのか口を付けずに戻して、ポケットから煙草を取り出す。彼の手元をぼうっと見ていたら、僕の視線をどう受け取ったのか、結局火を点けずにポケットへ戻してしまう。


「失礼。子供の前で吸うのは良くないですよね」

「別に僕は気にしないし、子供じゃないけど」

「空さーん、黙ったままコーヒー淹れてくれます?」


 東雲の背中に舌打ちが投げつけられるが、彼は気にせず「ああ、そういえば」とにこにこしながら言った。空がわざと音を立ててコップを置いても表情一つ変えない。彼女が淹れてきたのは水道水のようだった。

 そのコップに口付け、水を喉に流し込んでから彼は話を進める。


「君が菖蒲くんのことを相談してくれた後、私は彼と話しました」


 僕は僅かに目を瞠って東雲に続きを促す。彼の微笑は苦笑に変わったように見えた。


「彼は親の傍を離れたくないと言っていたので、話しただけで終わりましたが……近いうちに彼の母親と話をするつもりでいます」

「……そっか」


 菖蒲の意思が変わらない限り、彼とその母親を引き離すことなんて出来ないだろう。だから彼らの関係を変えるには話をしなければならない。僕のような子供ではまともな話を出来そうにないが、こういった職業に就いている大人の東雲なら、話をつけられるかもしれない。

 東雲が菖蒲の母と何を話すのかは分からないが、良い方向に事が運んでくれることを願う。


「――さて、話を戻しますよ。我々の話でしたよね。能力を使えないようにする、ということは出来ないので、基本的には保護し、悩みを聞き、支え、能力者が笑って日常を過ごせるようにするのが主な仕事です。だから私が初めて偽物の月の世界に招かれた時、実際に死ぬわけではないあの世界でまず『ウサギ』を殺して他の能力者を日常に戻してやらなければと思いました。巻き込まれた数人の能力者と巻き込んだ一人の能力者、どちらを先に助けるかは悩むまでもありませんでしたから」


 主な仕事、ということは、他にもなにかしているのだろうか。気にはなったものの、東雲が言わなかったことをわざわざ聞くのも良くないかと思い、黙ったまま話を聞く。


「ですが、もちろん私は何も聞かずに蘇芳さんを殺したわけではありません。説得を試みました。悩みがあるなら聞かせてくれとも言いましたが、彼女は何も話してくれず、最終的に私を殺そうとしてきたので、説得を諦めて殺しました。諦めたことを、今でも後悔しています」

「……蘇芳は、どんな言葉を求めているんだろうね」

「それは、分かりません。ですがきっと欲しいのは言葉じゃないんですよ。気持ち、だと思いますよ」


 気持ちなんて、目に見えない不確かなものだ。それでも、明確であって真実とは限らない『言葉』より、不確かだけれど確かな『気持ち』の方を人は欲しがる。

 となると僕が蘇芳を説得できなかったのは、僕の気持ちが伝わらなかったか、彼女の求めているものとは違ったのか、そのどちらかだろう。出来れば、前者であって欲しい。後者であった場合、僕は彼女を説得できない。

 あの時、自分が何を言葉に出来たか、何を彼女に語ったかは覚えていない。ただ、言葉に確かな気持ちを乗せたつもりでいた。視線に確かな思いを込めたつもりだった。それが彼女の心を揺らせなかったのなら、僕の中にある気持ちでは彼女の檻を壊せない。

 蘇芳は僕を刺して狼狽していた。僕は死ぬ前に伝えなければと必死だった。そのせいで伝わらなかったのだと思いたい。

 話すことはもうないのか、それとも僕が思案していたからか、東雲は黙っていた。室内に漂った沈黙に耐えかねたらしく、東雲の後方で空が勝手に彼の台詞を奪う。


「んで、東雲がその後その子のことを色々調べて、その子をどう救うか考えた結果がこれだよ。偽物の世界にいる能力者で彼女の心を支えてくれそうな人、彼女が心を開きそうな人を彼女に近付ける。東雲が目を付けたのが、誰とも協力者になってなくて、彼女の兄と近い年齢の少年、キミだったわけだ。どうやらキミは元々彼女に好意を抱かれていたみたいだしね」


 空の言葉を聞きながら、僕は東雲と初めて会った時のことを思い出す。つまりあの時既に目を付けられ、東雲が『ウサギ』ではない、と僕に確信させてから協力者になるつもりだった、ということだろうか。僕の信頼と協力を得たかったのなら、戦闘後に僕の指を折る必要はなかったと思う。

 僅かに細めた目で東雲を見ていると、彼は小さく笑いを漏らした。


「空さんの言った理由もありますが、正直なところ、制服が――ああ、いえ。これはどうでも良いことですね」

「は?」


 途中で話を中断されては気になってしまう。追求しようと思って研いだ視線で貫いてみても、彼は乾いた笑声を喉から搾り出しただけで、脱線した話をすぐに元のレールへ引き戻した。


「君が適任かどうか確かめるために色々癪に障るようなことを言ったと思いますけど、許してくださいね。漠然とですが、君なら彼女の心を開けるのではと思っていましたよ。初対面の時既に」

「初対面で何が分かったって言うのさ」

「能力、強さ、人柄、それが分かって十分でした。なにより、冷静すぎるところが好感を持てましたし」

「へぇ。……けど残念だったね。僕が期待外れの馬鹿で」

「ええ。なんだかんだ真っ直ぐで優しいので大丈夫だと思ったのですがね。私が思っていた以上に君は、君自身をなんとも思っていなかった」


 僕は、表情を固めた。こちらを射抜く鋭い目は、僕に僅かな恐れを抱かせる。凶器を突きつけられているような気分だ。彼の静かな憤りが、目に見えない刃を形成していた。


「君、元々死ぬ覚悟で臨んだのでしょう?」


 冷たい切っ先が、容赦なく僕を刺す。全てを見通した気になっている目に凍り付いて一瞬言葉を失ったが、僕は俯くように頷いた。


「……覚悟は、していた。けど、死ぬ気だったわけじゃない」

「本当ですか? 君、他人は殺せないのに自分は殺せるタイプの人間でしょう?」


 挑発と苛立ちを混ぜ合わせたような声が耳を突く。その言い方に顔を顰めて嘆声を吐いてやった。


「ああ、僕もそう思っていたよ。でも違った。一回死ぬくらい良い、少し記憶を失うくらい構わないと思っていた。なのにいざ死を目の前にしたらさ、死にたくないって、死ぬわけにはいかないって足掻こうとしたんだ」


 少し口を開いただけなのに、紡ぎ出すと止まらなかった。吐き出したいとでも思っていたのだろうか。僅かに震える唇は動くことをやめない。真剣に僕を正視する東雲から目を逸らせない。咎めるようだった瞳は今、全て吐いてしまえと訴えるように細められていた。

 これ以上は自分の中だけに留めて繕えばいい。そう思っても、喉からは震えて掠れた声がせり上がってくる。


「どうしてかは、思い出せないけどさ。情けないことに、怖いと思ったよ。なにか……手放したくないものがあったんだ。傷付けたくないものが。忘れたくないことが……確かに、あったんだ」

「……紫苑くん」

「けど気付いた時には何もない。悲しさも空虚感も何一つなかった。忘れるって、こういうことなんだね」


 情けなく歪みそうになる表情を、なんとか動かして笑みを形作った。僕が笑ってみせたら、東雲はどうしてか目を瞠った。驚くほど酷い顔をしているのかもしれないなと思い、上手く笑おうとして口の端を少し上げてみた。笑い方が、分からなかった。表情を作ることを諦めて、誤魔化すように明るい声を発する。


「失くしたのがどんな記憶なのか、どれくらい大切なものだったのかすら、分からない。それでも、大切な記憶だったと思うんだ。だってそういうことだよね? 僕が失うのを恐れて必死になった何かは、その失くした記憶なんだろう?」

「……恐らく、としか言えません。私は君が考えていることを全て見通せませんから。ただ、君が忘れた記憶が君にとって大切なものだったのは確かです」

「そっか」


 ふっと笑ってみると、ようやく落ち着くことが出来た。洪水みたいに溢れていた本音をようやく留められる。僕は出来る限り自然な微笑を浮かべて、淡々と続ける。


「まあ、忘れてしまったことにいつまでも頭を悩ませて時間を無駄にしている暇はないよね」


 僕のその言葉が気に食わなかったのか、東雲が舌打ちをしそうなくらい唇を曲げた。


「吐き出したと思ったらまた仮面を付けるんですか君は。私は君に蘇芳さんを救って欲しいと思ってはいますが、急いではいません。君の心の整理がつくまで、動けと言うつもりもない」

「心の整理なんて出来ているよ。考えれば考えるほどおかしくなりそうだから、これ以上は考えない。いつまでも感傷に浸っているなんて僕らしくもない。僕は僕が動きたい時に動く」


 ここまで言ってもまだ不満げな顔のまま、彼は水を飲む。テーブルに置かれたコップの音すらも、彼の思いを物語っていた。話を終わらせ空気を切り替えるよう、僕は立ち上がった。


「吐き出して少しすっきりしたから、礼を言っておくよ。ありがとう」

「君が勝手にべらべらと喋り出しただけですがね」

「吐かせるように誘導したよね?」

「なんのことやら」


 嘯いているのか、それとも本当に誘導したつもりはなかったのか、東雲は真顔のまま顔を傾けた。

 足元に置いていた鞄を手に取って、聞き忘れていたことがあったなと思い出す。


「そういえばさ、どうして東雲は、自分でもう一回説得してみようと思わなかったんだ?」

「蘇芳さんに言われてしまったからですよ、大人なんてどうせ優しい言葉をかけた後で裏切るんだ、と。だから私では駄目だと思ってしまいました」

「……そう」


 ポケットから携帯電話を取り出して時間を確認する。今から学校へ行っても午後の授業に出るだけだ。わざわざ遅刻してまで退屈な場所に足を踏み入れるなんてしたくないなと思ってから、学校のことを考えるのをやめる。

 偽物の月の世界のことが脳裏を掠め、作り笑いを取り去った。


「東雲。僕は、今日にでも蘇芳と話がしたい」

「……蘇芳さんの心の整理がつくまで、待った方が良いと思いますよ」

「悪い方向に整理される前に伝えないと、耳を塞がれるでしょ? ――ってもしかして、僕はもう向こうの世界に行けないのかな?」


 当然のように、自分は夜あの世界に行くのだと思っていたが、今更はっとする。あの世界で死ぬとあの世界から解放されるはずなのだ。けれどきっと、死ぬ死なないに関係なく、蘇芳の意思で追い出したり留めさせたり出来るのかもしれない。

 僕が悩んでいると、東雲も悩むように唸った。


「それは……どうでしょう。私の予想では、蘇芳さんは今回も君を解放していないと思いますよ。あの塔で、きっと君を待っています。彼女は、来るなと言うでしょうがね。本心は『来て』『助けて』だと思いますよ」

「知ってるよ」


 即答してみせたら、東雲がきょとんとしたように僕を見た。僕がおかしいことを言ったみたいな気分になって、苦笑してしまう。


「……だから、行くんだ。友達が助けてって叫んでいるから、僕は今すぐにでもそこへ行きたいんだよ」


 言いながら、頭の中にあったのはあの日の会話だ。蘇芳と待宵に行った、あの時の会話。思えば、あれは彼女のSOSだったのだ。それを分かった今でも、返すべきだった言葉の正答は見つけられない。救いを求める信号を受けた直後にどう返していれば彼女の救いになれたのか、それが分からないでいたけれど、きっと正しい答えなんてないのだろう。

 もし正答があったとしても、それになぞらえて言葉を並べたところで正答にならない。人の心に届くのは言葉ではなく思いだ。模範解答なんて探す必要がない。僕は僕の答えをぶつければいい。

 決意に拳を固めて、小さく息を吐き出すと、視界で東雲がすっと立つ。彼はテーブルに置かれたままになっていた名刺を手に取った。


「では今夜、三日駅で待ち合わせをしましょう」

「分かった」

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