第十二章
屋梁落月1
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ベッドに腰掛けた俺は、痛みを感じるほど強く、己の手の平に爪を突き立てた。そんなことをしても冷静さは取り戻せなかった。大切なものは、失ってから気付くという。それを実感したし、宮下にとって呉羽がどれだけ大切な存在か、嫌というほど思い知らされた。自分では代わりになれないのだ、ということもだ。
数刻前のことは、俺の判断が遅れたせいなのだろうか。俺が、呉羽を死なせてしまったのだろうか。だとすれば宮下を泣かせたのは俺だ。どうしてこうなってしまった?
悔やんでも悩んでも時は戻らない。実際に流れていく時間は、時計のように針を動かすなんて出来やしない。
何度目になるのか、くそ、と情けなく吐いて、何故こうなったのか確認するように記憶を辿る。
「――僕は近いうちに『ウサギ』と話す。けどもし僕が『ウサギ』を説得出来なかったら、君に代わって欲しいんだ」
あの日、文化祭のあの時、呉羽はそう言った。
俺は既に蘇芳が『ウサギ』だと知っていたが、呉羽は『ウサギ』が蘇芳だと知らないはずだ。けれどほぼ確信しているのかもしれない。他の奴じゃなく俺を選んだのはきっと、そういうことだ。それでも俺は理由を求めた。
「なんで俺が」
「君に僕を刺してもらうつもりだから」
淡々と、ただ一言告げられた。呉羽がなぜそんなことを言い出したのか、すぐに想像がつく。神屋敷菖蒲が殺されたことへの、仕返しのつもりだろう。『ウサギ』の前で死にかけるのなら自分が適任だと信じて疑わないその瞳は、俺を怯ませる。
真っ直ぐな目を見ていられなくなって、俺はやり場に困った視線を空に投げた。
「説得って、何を言えばいいんだよ」
「台本が欲しい? 残念ながら、用意する気はないよ。考えられた言葉で人の心を動かせる自信があるのなら自分で考えてもいいと思うけど……必要ないでしょ」
くすり、と、呉羽が笑った気がした。つられて目を動かせば彼の微笑が視界に入る。宮下はこいつのこういう顔が好きなんだろうな、とどうでもいいことを考えていると、彼が微笑んだまま続けた。
「僕の予想が当たっていれば、君はずっと傍で『ウサギ』の
「それは……」
「君って馬鹿正直で真っ直ぐで優しくて、僕と違って人の為に必死になれるような人だと思っているからさ。君が思ってることをそのままぶつければ、それで充分だ。それで『ウサギ』が何も感じなかったら、説得なんて始めから無意味なんだって事が分かるだけ」
こいつは本当に、自分のことを分かっていないようなことばかり言う。人の為に必死になれない? 違うだろ。そう叫びたくなる。そんな奴が、わざわざ自分を傷付けてまで他人を説得なんてしようとするかよ。
俺が黙っている間にも、呉羽は喋り続けていた。饒舌なのは、作戦を練りに練ってきたからだろうか。
「あ、そうだ。刺すなら腹とか腕とか肩にして欲しい。流石に胸刺されたら死ぬと思うからさ」
そんな危ないことを俺に任せるな。そう思って断ろうと思った。けれど聞こえてきた心の声に、断る言葉が頭の中から掻き消される。
〈もし失敗したらどうする。もし枯葉が僕を刺せなかったら、もし本当に僕が命を落としたら、どうすればいい。僕が勝手に死んで、枯葉を苦しめてしまったらどうすればいい?〉
表情からは一切感じられない不安に塗れた声が、俺を動揺させた。俺が何も言わずに呉羽をじっと見ていると、不安は増していっているのか、彼の心が僅かに震えていた。
〈そもそも『ウサギ』が彼女じゃなかったらどうする……せめてもう少し情報を集めないと無駄な説得をすることになる。一先ず綾瀬早苗に吐かせればいい。もし予想が外れていたら考え直せばいい。その時はその時だ。今は、枯葉の協力を得られるかどうかが問題だ〉
微笑していた彼が、目を細める。鋭い瞳に息を呑んだ。その目は俺を見ているわけではなく、その鋭さは俺に向けられているわけでもない。視線の先は確かに俺を捉えているが、呉羽の意識は俺のことよりも自分の思考に向けられているようだった。
〈……大丈夫。楽観的に考えろ。きっと上手くいく。僕がそう信じないと、誰にも何も伝わらない〉
必死に冷静さを保とうとしているのが、伝わってくる。呉羽の性格を考えると、こんな心の声なんて聞かれたくなかったはずだ。けれど、弱々しく必死な声を聞いてしまったら、断れなくなった。
俺は勢いに任せて、首肯していた。
「仕方ねぇな」
顰められていた端正な顔が、ふっと緩む。ほっとしたのだろう。服装がメイド服なせいもあって女みたいだなと思ったが、絶対に口には出せない。確実に腕を折られると思う。表情から心を読まれないようになんとなく顔を逸らすと、「ありがとう」と柔らかい声が降ってくる。
「それと……君にこんなことを任せて、申し訳ないと思ってる。ごめん。『ウサギ』を説得するのに適任がいるなら、それは僕と君くらいだと思ったんだ」
「わざわざ謝るなよ。俺らは協力者で、友達なんだからよ」
震えそうになるのをなんとか堪え、俺も笑ってみせた。
本当は、呉羽が失敗に抱く恐れよりも、俺が失敗に抱く恐れの方が大きくて、足が竦みそうだった。それでも俺は、俺よりも年下のこいつが、自分を押し殺して俺を安心させようと笑うから、やり遂げなければならないと思っていた。
きっと、ただの対抗心だ。けれど臆病な俺を奮い立たせてくれるのなら、対抗心だろうがなんだろうが構わなかった。
それなのに、どこで間違えたのだろう。
呉羽を刺したのは俺じゃなく蘇芳だった。どうして、と問いかけたくなった。蘇芳が素直になれば、俺が出るまでもなく解決したはずなのに。蘇芳はずっと心で助けを求めていたのに、なぜそれを言葉にしなかった? どうして、死にたいなんて嘘で覆い隠し、刃を向けた?
それでも呉羽は、なんとか自分が死ぬ前に説得をしようと試みていた。ただ、刺された箇所が悪かったせいか伝えたいことを声に出来ていないようだった。
呉羽の
目の前で、人が死ぬ。それを確信してしまっていたから、臆病な俺は震えたまま何も出来なかった。なにもかも聞こえていたのに、俺はどちらの気持ちも分かっていたのに、何故何もしなかったのだ、と今更己を責め立てる。
「なにやってんだ、俺……」
自分が、ここまで臆病者だとは思わなかった。
俺と呉羽でやり遂げる。文化祭の日はそう思っていたのに、いざその時になってみると、全身が硬直した。俺はあいつにバタフライナイフを渡されていたけれど、それを振るう覚悟なんてなかったのだ。一人で隠れて、逃げて、呉羽に全部押し付けて――それであの世界が終わると信じた。全て、聞こえていたのに。呉羽と蘇芳に願うことしか、出来なかった。
俺が何もしなかったせいで起きてしまった悲劇は、取り返しがつかない。呉羽が何の記憶を失ったのか、俺はまだ知らない。
せめて、蘇芳と宮下のことは覚えていてくれと祈るばかりだ。
ふと、宮下のことが心配になった。彼女は今頃学校に向かっているところだろうか。声が聞きたくて、俺は彼女に電話をかけてみた。
◆
篠崎空と名乗った女性に連れられ、僕は待宵市に来ていた。今は手錠を嵌めていない。流石に手錠を嵌めたまま歩くのは嫌だったため、絶対に逃げないと念を押して外してもらったのだ。
待宵駅には、改札口が二つある。一つは僕らやこの駅の利用者が使っている、自動改札機が五台ある所。もう一つは『関係者以外使用禁止』と書かれた改札機が一つだけ設置されている所だ。その改札口の先には細長い通路があり、その更に先に下りエスカレーターがある。下りた先に何があるのか僕は知らなかったし、まさかこんな状況で知ることになるとは思いもしなかった。
空は先ほど僕に見せてくれた名刺を乗車カードのように使って、改札機を通り抜けた。それから僕の方を振り返り、その名刺をこちらに投げてくる。
「それ使って通って」
「通れるんだ?」
「通れるよ。乗車カードとは少し違うからね。カードキーみたいなもの、かな」
ふうん、と零しながら、改札機に近付く。タッチしてください、と表示されている所に名刺を軽く押し当てると、難なく通ることが出来た。
付いて来いと言う背中を追いかけてエスカレーターを下ったら、そこにあったのは地下通路だ。
「少し歩くよ。その間に、キミに一応確認していいかな?」
靴の音が大きく響く。それと同様に、彼女の声も反響していた。灯り以外何もない真っ直ぐな道を進みながら、短く返す。
「確認?」
「そう。えーっと、いつだったかな。まぁ日にちはいっか、忘れちゃったし。ガードレールを曲げたの、キミであってるよね? 可愛い女の子と一緒に歩いていた」
問われて頷こうとしたが、首を縦にも横にも振れなくなる。ガードレールを歪めた記憶は、ある。だが何故僕がそんなことをしたのか分からないし、僕はあの時誰とも一緒にいなかった。
彼女の指している人物が僕なのか僕でないのか分からず、苦笑する。
「多分、そうじゃないかな」
「うんうん、そうだよね。たまたまあの時見ててさ、能力者だって確信したから、キミが一人の時に接触しようと思ってたんだ」
「ってことは、後をつけていたのか」
「今日繊駅に来たらちょうどキミが一人で歩いているのを見つけてね。あ、私も結構性格悪いからさぁ、あの悪ガキ共をキミが痛めつけててスッキリしちゃった」
にこにこ笑う彼女が僕を止めなかったのはそういうことか、と溜息を吐く。もし僕が彼らを殺していたらどうしていたんだろうと思って、ふと疑問が湧いて出た。メトロノームみたいに一定間隔で響く彼女の靴音に、質問を織り交ぜる。
「空の能力ってさ、どこまで治せる?」
「おおっと? いきなり下の名前で呼び捨てだなんてなかなかやるねぇ少年。キミ、モテるだろう」
「文字数的に空の方が呼びやすいからだよ。そんなことはどうでもいいから質問に答えて欲しいんだけど」
彼女の能力は路地裏で見た光景から推測することしか出来ない。もし彼女が傷や病を治せるのなら、蘇芳の兄を治せるかもしれない。他人の記憶を操れるのなら、僕が忘れた記憶を引っ張り出せるかもしれない。そんな希望と期待はもちろん、ほんの少ししか抱かない。
数秒黙り込んでから、空は回答してくれた。
「私の力はね、正確に言うと治療するものじゃないんだよ。目を塞いだ相手の状態を一時間前に戻せるっていうだけ。いや、頑張って三時間くらい戻したこともあったかな」
「さっきの三人も時間を戻されたから手足が元通りになり、記憶を一時間分無くした、ってこと?」
「そ。ちなみに死者には使えないんだ、残念ながら。壊れた時計の針は流石に巻き戻せないからねぇ」
どこか不満げに吐き出す彼女へ「へぇ」とだけ返すと、今度は彼女が問いを投げてきた。
「キミ、日常は楽しいかい?」
「それなりに――」
咄嗟に飛び出した言葉は、僕を動揺させる。日常を楽しいと感じたことなどあったろうか。枯葉や蘇芳、東雲などといる時はそれなりに楽しいと思っていた、かもしれない。楽しかった出来事を思い出そうとしても、記憶の中は霧で覆われていて、ほとんど思い出せなかった。
「本当?」
そんな僕の様子はおかしかったのか、心配そうな目が僕を映す。沈黙を返しつつ、前を歩く彼女の影を追いかけた。
「無言は肯定として受け取っていいのかな」
「……勝手にしなよ」
「じゃあそうさせていただくね」
もう質問はないようで、それきり会話は途切れた。時折彼女の小さな鼻歌が聞こえてくるが、僕はそれを気にせず足を前に運んだ。
無言のまま地下通路を進んで、数十分は経った頃、エレベーターが正面に見えた。彼女はエレベーターに取り付けられている、カードを認証する機械みたいなものに名刺を押し当てる。すると扉が開き、乗るよう促された。僕が乗り込むとすぐに、三階のボタンが押されて扉が閉まった。
「私はちょっと色々持ってくるから、それまで逃げずに待っててくれるかな?」
「逃げないって何回も言ってるじゃないか」
「そうだけど、もしものことを考えて一応監視はつけるよ」
小さな揺れに僅かバランスを崩し、開いた扉を通り抜けた空を追う。リノリウムの廊下は病院を思わせるが、灰色の壁に綺麗な絵画がいくつか飾られていて、美術館のようにも見える。少し歩くと、ピアノの音色が聞こえてきた。拙いけれど明るい音楽は、自然と僕の頬を緩める。
笑いを声に出してはいないのに、空が足を止めて振り返った。彼女は得意げに胸を張ってみせた。
「可愛らしい音色だろう? キミには今からその部屋で待機してもらうからね」
「その部屋、って?」
細い人差し指が、廊下の先を指差す。今立っている場所から見て右手側にある部屋を彼女は示している。透明な扉を引いて室内に足を踏み入れた彼女が、僕の手を引っ張った。
「やあみんなー、元気ー?」
陽気に歌でも歌い出しそうな空に答えた声は、複数だ。小学生くらいの子供達が「元気ー!」とはしゃいでいた。
引っ張られるままに室内に入ってみれば、そこは小学校というよりも保育園。学ぶスペースよりも遊ぶスペースの方が広く設けられている。
彼らの目が僕に向く。見知らぬ人間が入ってきたのだから、彼らが興味深そうな目をしても仕方ないだろう。ピアノの音も止んでいることに気が付いて部屋の隅を見たら、演奏をしていたと思われる少女が今は真っ直ぐ僕を見ていた。
僕は目のやり場に困って空に視線を送った。説明を求める意も込めたのだが、それが伝わっているかは分からない。彼女は僕の方など見もせず、十数人の子供達だけを見ている。
「このお兄さんね、お客さんなんだ。けど私は取りに行かなきゃならないものがあって、少し彼から目を離さなければならない。だからさ、キミたち、私が戻ってくるまでお兄さんと遊んでて」
「えっ、ちょっ……遊ぶって」
「少年、今のキミに拒否権はありません。ってわけでよろしくー」
文句さえ聞き入れてもらえず、僕は一人残される。空のにやけ面がむかつくくらい瞼の裏に残って、舌を打とうとした。しかし口元を歪めただけに留まる。堪えたわけではなく、腕を引かれたおかげで苛立ちが全て動揺に変えられたのだ。
「ねえねえ、にーちゃん遊ぼー! トランプしようよ!」
「あのね、わたしたちね、今お裁縫してたの! いっしょにやろー!」
左右から同時に腕を引っ張られ、僕の顔は引き攣る。苦笑していると、僕の右腕を掴んでいる少年が、僕の左腕を引っ張っている少女に口を尖らせた。
「女子は引っ込んでろよ!」
「なんでよ! わたしが先に話しかけたのに!」
「おれのほうが先でしたー」
「先っていつ? 何時何分何秒? 地球が何回回った時?」
こういうことを言う子供が小学生の頃にいたなと思いつつ、呆れてしまう。こんなことで喧嘩をしなくても、と思うが、子供だから仕方がない。とりあえず、早く空が戻ってくることを祈る。
僕から離れて喧嘩を始めた二人を止めるかどうか悩んでいると、他の子供達が寄ってきた。
「おにいさんも、のうりょくしゃなの?」
「え、ああ、まあ」
「どんなの!? みたい!」
曖昧に返しただけなのに彼らは目を輝かせた。この場所が『能力者保護協会』だということは、彼らも能力者だろう。というのに相当能力に興味があるみたいだった。子供は好奇心旺盛だから様々な能力を知りたいのかもしれない。
今ここで能力を使っていいのかどうか悩んで、僕は床に落ちているぬいぐるみを見つめる。何かを壊したりしなければ使っても問題ないと判断し、溜息混じりに呟いた。
「じゃあ、少しだけ。……見てて」
すっと、ぬいぐるみの方に手を向けた。子供達の視線がそちらに向いたのを視界の端で確認してから、「〈飛べ〉」と小さく命令する。
ふわりと飛び上がったぬいぐるみを見た彼らから、歓声が上がった。しかしその直後に、大きな音を立てて扉が開かれ、僕を含めこの場の全員が肩を跳ねさせた。
空が戻ってきたのかと思ったが、振り返って目にした人物は彼女ではない。僕は目を白黒させながら、彼をまじまじと眺める。どうやら僕が人違いをしているわけではなさそうだ。
「東雲?」
走ってきたのか、彼は壁に手をついて呼吸を整えていた。
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