月の絵2

     ◆


 浅葱と別れた後、教室に入ろうとした僕は瞳を細めた。

 扉の前で固まって立ち話をしている数人。すごく迷惑だということに気付かないのだろうか。僕の登校時間は早い方だけれど、こういった者との遭遇を回避するなら、もっと早く来なければならないようだ。

 僕の席は一番窓側、後ろから二番目の所にある。後ろから行った方が席は近いが、仕方ない。前から行くことにした。


「あっ、呉羽!」


 突然呼び止められて、僕は徐に振り返った。立ち話をしていた内の一人がおはようと言いながら僕に手を振ってくる。他二人は僕の様子をじっと観察していた。

 そういえば彼は昨日の昼休みも声をかけてきていた。二日連続で話しかけてきたとなると、何か用があるのは明らかだ。今日は昨日みたく立ち去らず、用件を口にされるまで待った。


「お前さ、文化祭どうしたい?」


 文化祭……もうそんな時期なのか。

 僕のクラスは確か喫茶店だった気がする。間違っているかもしれない。曖昧なのは、やる気がないから話し合いすらまともに聞いていないせいだ。

 どうしたい、と言われても僕の答えは一つだった。


「屋上でぼうっとしているつもりだけど」

「え、いや、働いてくれよ……」


 はは、と苦笑する彼は、かといって嫌な顔はしていない。彼の友人と思われる二人はあからさまに苛立っていた。それもそうだろう。非協力的で協調性のない人間は嫌われるものだ。

 繕うのが上手いとかそういうことではなく、僕に話しかけてきている彼は満面の笑みを浮かべた。多分、誰にでもこういう態度を取る人だと思われる。


「二時間立ってるだけでいいからさ! 楽しもうぜ文化祭!」

「ああ、そうだね」


 面倒くさい。というか文化祭まではまだ一ヶ月ほどあるというのに、なぜ既に楽しむ気満々なのだろう。楽しもうぜって言葉は前日くらいに言うべきなのではないだろうか。楽しむつもりなど一切ないが。

 適当に相槌を打って教室に入ろうとしたら、まだ話があるのか肩を掴まれた。自然な動作で、ついその手を振り払う。


「あっ、悪い!」


 払った僕が悪いだろうに、彼は本気で済まなそうに謝ってきた。目的を果たして行き場のなくなった手を、無言のまま身体の横に下ろすと、僕は彼の言葉の続きを待った。


「で、さ。女子の方の文化祭委員の飯田が、お前にメイド服着て欲しいって――」

「は?」


 何を言っているんだこいつ。いや、こいつじゃない。女子の方の文化祭委員の飯田とやら、何を言っているんだ。少し前の発言と合わせると、つまり僕にその屈辱的な格好で二時間立っていろという事になる。


「君が着てやれば?」

「いやぁ、俺じゃ背高くて似合わないだろ?」

「……もういいよね、じゃ」


 口元が引き攣り始めたあたりで、それを誤魔化すように彼へ背を向けた。今度こそ彼の声を全て遮断して教室に入っていく。

 確かに僕は背が低いかもしれない。いや、そうでもないと思う。百六十は超えている。大体身長がなんだというのだ。兄といい今の彼といい、身長を馬鹿にして何が楽しい。

 朝のホームルームが始まるまでまだ時間がある。僕は携帯電話を開いた。東雲からメールが来ていたから、それを開いて目を通す。

 何の用かと思ったが、そういえば僕が月のことを聞いたのだった。メールを見る限り、東雲も月だけが本物とかけ離れていることに気が付いていたみたいだった。

 気が付いていた、というだけでやはり『ウサギ』の意図は分かっていないらしい。

 もしかしたら、これについても蘇芳が知っているかもしれない。

 今彼女のことを思い出したおかげで、今日の十七時に三日市の図書館に行くということを浅葱に話し忘れていた。これを忘れずに後ほど伝えようと思う。

 それにしても、浅葱が心配だ。一睡も出来なかったのであろう眠そうな顔は、見た者が心配にならない方がおかしいくらいだった。

 あとで寝る時間を早くすることを勧めておこう。零時まで数時間睡眠をとれば少しはマシになるはずだ。

 ふと気付くと、僕は浅葱のことしか考えていない。話し相手すら元々いなかったから、話し相手が出来るとこうなってしまうものなのだろう。

 携帯を弄っていて電池が切れてしまったら困るから、電源を切った。前まで読んでいた小説はもう読み終えてしまったため、することがなくて窓の外をぼうっと眺める。所々色が変わり始めている木の葉が風で揺れていた。葉と空を眺めても面白味など欠片もない。

 なんて、退屈なんだ。

 日常が退屈なんて、ずっと前から知っている。孤独がつまらないことだなんて、とっくに分かっているはずなのに、今更退屈を覚えたような気になっているのは、おかしい。

 ――先輩って、教室に一人で、辛くありませんか?――


「辛くないに、決まってるだろ……」


 陽光が不愉快なほど眩しくて、僕は机に顔を伏せた。

 友達として浅葱と接することは、僕にとってそれほど楽しいことなのだろうか。そういうわけではないと否定したいのに、喪失感のようなものに襲われている僕にはそれが出来なかった。

 浅葱といると、かつての友達と過ごした日々を思い出す。その度に苦虫を噛み潰すような顔を浮かべそうになる。

 友達なんていらない。結局拒絶されるだけだ。そう思っていたから、浅葱との関係は彼女を死なせないための友達ごっこに近かった。

 彼女が能力者だと分かって、納得がいかない反面ほっとしたのも事実だ。同じ能力者なら――きっと拒絶されることはない。

 ――本当に?

 本当に、拒絶されないと言い切れるだろうか。

 彼女は僕の能力を見た時、言い逃れ出来ないくらいに怯えていた。そんな彼女が、人兎を笑いながら殺している僕の姿を見たなら。それでも彼女は僕から離れていかない、と自信を持って言うことは出来なかった。

 とはいえ、もし離れていったとしてもそれでも構わない。離れていきたければ、離れていけばいい。ともだち以外に生きていたい理由を彼女が作ったなら、僕はもういらない。

 初めからそうだったではないか。彼女が自殺願望を捨て、生きていたいと思えるようになればそれでいい、と。

 離れていったとしても、それを引き止める理由が僕にはない。

 僕は彼女と自分の身を守るために、化け物を狩り続けるだけだ。殺生から離れるために『ウサギ』を早く見つけ出して、殺す。

 それだけ。


     ◆


「先輩、いつも以上に疲れたような顔をしていますが大丈夫ですか?」

「あ、分かる? 面倒くさいのに捕まってさ」


 相変わらず屋上には僕達だけだ。僕は未だに昼食を食べている浅葱を横目で見てから、国語の教科書に目を落とした。

 読む小説が無かったから教科書に載っている小説を読んでいるだけであり、勉強をしているわけではない。


「面倒くさいの、ですか?」

「そう。ピアスは校則違反だから外せって言われた。断ったらぐちぐちぐちぐち。教師ってのも大変だね、こんな面倒な奴をいちいち相手にしなければならないなんて」

「自覚があるならすぐに謝って外せばよかったのでは?」

「嫌だよ面倒くさい」


 叱られることとピアスを外すことどちらが面倒かと問われれば、もちろん前者だろう。本音を言うと外したくないのだ。すごく、大切なものだったような気がするから。


「あ、そうだ。言い忘れていたんだけど、今日の十七時に三日市の図書館に来いって蘇芳に言われているんだ。場所分かる?」

「図書館ですか? はい、分かります。駅から十五分以上は歩きますけど」

「問題ないよ。案内してくれると助かる」

「もちろんです! 任せてください。ところで紫苑先輩、勉強って得意ですか?」


 唐突な問いかけに、僕は悩むことなく首を左右に振った。なぜ勉強の話が今出てくるのだろうかと思ったが、テストか何かがあるのかもしれない。


「残念ながら数学以外は赤点ギリギリだよ」

「意外です。どんな問題も簡単に解いてしまいそうなのに」

「君の中で僕はどんなイメージなの?」


 小さく笑ってから、僕は教科書のページをめくった。読書は好きだが、思ったよりも国語のテストは出来ない。現代文も古文も取れて六十点台だ。

 漢字や単語の意味などは全て埋められる。読解問題が意味不明だ。『この時のこの人物の心情を答えよ』なんて、捉え方は人それぞれだろう。作者の考えなんて知ったことか。僕がそう読み取ったのだから、僕の想像したその人物はその心情なんだ。


「――えっとですね、授業に全く集中してないんですけど、当てられたらすらっと答えを述べたり。リレーとかでバトンを受け取って何人も抜いていったり。あとはそうですね、音楽が得意で、料理や裁縫も出来てしまうような」

「え、なに。何の話?」

「へ? 紫苑先輩のイメージです」


 自分がした質問を忘れていたわけではない。ただここまで長々と語られるとは思っていなかったから、話が変わったのかと思ったのだ。

 それにしても、やはり彼女の中の僕は完璧超人に位置しているようだった。


「理想じゃなくて現実を見つめさせてあげるよ。授業中は集中してないどころか寝ている。当ててくるのは数学の教師くらいだからまあ当てられたら答えられる。……あとなんだっけ?」

「リレーで何人も抜いたり音楽得意だったり料理や裁縫も出来てしまうような、です」

「あー……そうだね、足は速いかもね。音楽は楽器の演奏が苦手、料理は出来る。裁縫は微妙かな」

「そうなんですか!?」


 裁縫が得意ではないと言ったにもかかわらず、目を輝かせているのが不思議だ。浅葱は、頬をつねってやりたくなるくらいへらへら笑う。


「私はですね、裁縫、得意なんですよ」

「へえ、それで?」

「そ、それで!? それで、えーと、寒くなったら! 先輩にマフラーをプレゼントしますね!」


 寒くなったら、というとあと一月くらいだろうか。いや、一月ではまだマフラーが必要ない程度かもしれない。

 涼しい、くらいの気候でマフラーをしていたら暑い。彼女からのプレゼントは早くて二ヵ月後になるだろう。


「紫苑先輩、誕生日っていつですか?」

「十月二十九」

「よかった……まだなんですね! 楽しみにしていてください、マフラー!」


 ……どうやら一ヶ月半ほどでマフラーをくれるみたいだ。けれど十月の後半はまだマフラーが必要になる気候ではない気がする。

 まあ、寒くなったら使わせてもらえばいいだけの話だ。


「ありがとう、楽しみにしておくよ」

「はい! さて、そろそろ教室に戻りましょう、先輩っ」


 もう少しここにいていいのではないか、そう思い携帯電話の時計に目をやると、既に昼休みが終わりそうな時間だった。

 僕の本を読む速度はこんなに遅かっただろうかと首を傾けたが、浅葱と話しているからそれほど読書に集中出来ていないだけと思われる。


「五六時間目はなんだったかな」

「私に聞かれても分かりませんよ? ちなみに私は家庭科です」

「その時期だとエプロン作りだったっけ」

「はいっ、楽しいですよ」


 少し意外だった。僕の中で彼女は、縫っている途中で自分の指を刺しているようなイメージがあった。思ったよりも器用みたいだ。

 胸ポケットから生徒手帳を取り出して、時間割が書かれているページを開く。古典と現代文という睡眠にうってつけな授業だった。


「そういえば、授業中に寝たりした?」

「え、しませんよそんなこと」


 少し前から思っていたが、浅葱は優等生タイプだ。授業なんて睡眠の為にあると思っている僕とは正反対なのだろう。

 しかし真面目すぎると疲れるものだ。睡眠時間が足りていないのだろうし、少しくらい真面目から離れたらいいのに。


「眠くないの?」

「眠いですけど……帰ったら夜ご飯までぐっすり寝ます。夜ご飯を食べたら十二時まで寝ます」

「太っても知らないよ」

「太、る……」


 浅葱は自分の腹を押さえて俯いた。というよりも、自分の体型を見つめ直しているようだ。


「あの、先輩。私太ってますか?」

「標準だと思うけど」

「本当ですか? 足とか太くないですか?」


 言われて、視線を下げ彼女の足を見る。女子と言うのは一体何のためにスカートの丈を短くしているのだろうか。校則では膝が隠れる程度と言われていたはずだが、浅葱もその他の女子も太ももが見えるほど短い。

 僕はそんなことよりも時間が気になり始め、時計を確認した。


「戻ろうか。……ああ、君は全く太ってないから気にしなくていいんじゃないかな。ただそのスカート、短すぎると思う」

「えっ!? 可愛いじゃないですか!」

「まあ、別に良いと思っているならそのままでいいんじゃない?」


 なるほど、女子は可愛いと思ってやっているのか。どうでもいいけど。

 屋上を出て、僕達は階段を下る。鞄の中を漁っている浅葱をちらと見てから、足元の段差をなんとなく眺めながら足を進める。


「危なっかしいよね、君」

「? 私ですか?」

「君以外に誰がいるの。電車で変な遊びをし出したり扉に顔面から突っ込むような君が、鞄の中だけを見ながら階段を下りていたら絶対落ちるだろうなって心配しているこっちの身にもなりなよ」

「ごめんなさ――……いやいや、先輩私のこと馬鹿にしてますよね?」

「馬鹿な奴に馬鹿にされるなんて可哀想だね君――」


 不覚だ。浅葱の足元ばかり気にしていてまさか僕が階段を踏み外すとは思っていなかった。

 手すりに掴まったまま固まっている僕に、浅葱が慌てて近寄ってきた。


「だ、大丈夫ですか紫苑先ぱ――」

「笑うな」

「笑ってないですよ!?」

「うるさいほっといて。いいから早く階段下りなよ」


 そもそも浅葱が危なっかしく鞄を見つめながら下りているのがいけないんだ。彼女がいなければ自分の足元から意識を逸らさずに済んだというのに。

 なんて、意味のない八つ当たりをしている自身に溜息が出る。己の不注意で他人を責めてどうする。

 後悔から段差を注視していたが、突然腕に飛びつかれ、僕はそちらに目を向けざるを得なかった。反射的に振り払おうとしたものの、どうにか堪える。


「こうして下りれば私のことを心配せずに済みますかね?」

「……あのさ、君スキンシップ激しいってよく言われない? くっつかれたりするの、あんまり好きじゃないんだけど」

「すっ、すみません……」


 時間がないことを思い出して、さっさと階段を下り始めた。浅葱は僕から既に手を離しており、僕だけが階段を下り終える。

 振り返ってみると、浅葱は先程僕がいた段で立ち止まったままだった。


「何してるの。君、優等生なんだろ? 早くしないと授業に遅れるよ」

「はい。あの、私、無自覚で……本当にすみませんでした」

「別に気にしなくていい。うざったくなったら振り払うから君はいつも通りでいい。振り払われてもいちいち傷付かないでくれればいいかな。いいから、早く行くよ」


 未だに僕は、無意識の内に彼女を傷付けている。人間なんて、無意識の内に傷付けられ傷付く生き物だ。仕方がない。

 仕方がない、と割り切れないのは、どうしてだろう。勝手に傷付いて勝手に泣けばいい。そう思えない。

 せめて、顔に出さず苦しんでくれればいいのに。どうして僕に疑問ばかり抱かせるんだ。

 どうして、彼女の反応一つで苛立ったりしなければならない。

 それからは何故か無言のまま、互いの教室へ向かうために別れた。

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