第三章
決して剥がれぬ微笑の仮面1
◇
自然と、目が覚めた。時間はちょうど零時。ということは、今私がいるのはあの世界だ。こちら側に来てしまうと眠っていても目覚めてしまうのだろうかと思ったが、きっとそういうわけではなく、不安や恐れのせいという可能性が高い。
眠り続けていたら知らない間に人兎に殺されてしまいそうで、安心して寝てなどいられない。
ベッドから体を起こすと、私は外に出ようとして自分の格好を見下ろした。パジャマ姿で出るわけにはいかないと思うも、そもそも制服から着替えずに眠ってしまっていたらしい。
眠る前のことを思い出せる限り思い出してみる。学校帰りに紫苑先輩と食事をして、買い物をして、嬉しいような幸せなような気分で帰宅し、夜ご飯も食べずにベッドへ飛び込んだのだった。
胸の内で、お母さんに謝罪をする。せっかく作ってもらった夕飯を二日連続で食べられなかった。昨日は轢かれそうになり、精神的にも疲れていたからしょうがない。だけれど今日は遊び疲れて寝てしまった。母に対して申し訳なさと残念な気分でいっぱいになる。
それよりも、だ。私はぶんぶんと頭を左右に振った。とりあえず、家の中から外へ出た方が良い。
昨日の夜は家の中にひきこもり、人兎と遭遇することはなかった。しかし、人兎は家の中まで入ってくるのだ。安心してはいけない。
もし人兎が目の前に現れた時、安全なのは家の中よりも外のような気がする。家だと逃げ場が限られてしまうからだ。それに外ならば、能力者に遭遇して助けてもらえるという可能性もある。
能力が未だに分からない私は、とりあえず逃げるスキルを鍛えておいた方がいいだろう。
分からない、と言ったが、心当たりが無いわけではない。一つだけ、あれが能力だったのだろうと思い当たることがある。
車に轢かれそうになった時のことだ。確実に轢かれると思ったけれど、私は助かった。あれが奇跡でもなんでもなく、能力によるものだとしたら合点がいく。しかし何度試しても、能力は使えなかった。
自室を出て薄暗い階段を下りながら、何故使えないのだろう、と眉を寄せる。
朝学校に向かう時、家を出て「学校へワープ!」と心で叫んでみたが意味は無く。帰宅時に電車を下りた後「家へ!」と心で唱えてみるもやはり無意味で。
心で、ではなく本当に声に出さなければいけないのかとも思ったが、車に轢かれそうになった時は声を発していない。
いったい何がいけなかったのか分からず、やはりあの時のことはただの奇跡だったのではと思い直してしまいそうだ。
家の外に出て、私の視線は左右を何度か往復する。今立っている位置から左側に向かうと駅のある方向だ。右側の道は最近では使っていない。昔は小学校へ行くために通ったことを思い出す。
どちらに進もうか悩んでいると、唐突に響いた発砲音と重い落下音が私の肩を震わせた。まるでお化け屋敷の中にいる気分で、音がした右方をゆっくりと確認する。
人兎が、倒れていた。額から血を流して。
「――っ!」
悲鳴を上げかけて堪える。息をじっと殺して、人兎の傍に立った人の姿をじいっと見つめた。
逃げるか、建物の陰に隠れるか。私は後者を選び、忍び足で家の方へ行こうとして――。
「きゃあ!」
二発目の発砲音に耳を押さえて悲鳴を上げてしまった。確実に気付かれた。いや、恐らくもともと気付かれており、動くなという合図として発砲されたのだ。
近付いてくる足音から逃げるにも判断が遅すぎて、私は怯えたままそちらを見つめることしか出来なかった。
人兎を殺したということは、能力者。能力者は、理由も無く人を襲うなんてしないはずだ。必死にそう思い込んで、落ち着こうとする。
「お前……」
「えっ?」
街灯に照らされたのは、見覚えのある人だった。
金色に近い茶髪。それと似た色をしたカーディガンに、制服だと思われるネクタイ、ズボン。
人兎を撃ち殺した事実を鑑みれば、あの拳銃がモデルガンでないことは確かだ。鋭い目つきと手に握られている本物の銃に、私は肝を冷やされていた。
「あなたは……」
見上げる姿に既視感を覚えて記憶を遡っていたら、この青年と、駅でぶつかった人物が重なる。彼だ。
あの時も怖いと思ったが、彼は優しい人だった。警戒心を解こうとして、小さく深呼吸をした。
彼は、地面に向けていた拳銃を私へ向けた。解くことが出来なかった警戒心が更に溢れ出て、私の体を固まらせる。
「お前、高校生だよな?」
声が上手く出ず、頷きを返すことしか出来ない。黒い銃口から銃弾が放たれれば、私はあの人兎のようになってしまうのだ。
唾を飲み込んでも、一緒に恐怖を飲み込めることはなかった。
「お前が『ウサギ』か?」
そんなことを聞かれるなんて思っていなかったから、私は言葉を忘れたように何も言えなくなる。彼の目にこの反応がどう映ってしまったのか、考えれば考えるほど不安になっていく。
もし、図星だから黙ったのだと思われてしまっていたなら。彼は躊躇い無く、問答無用で引き金を引くだろう。
私は震える唇の隙間から、やっとのことで声を出した。
「わ、たし……自分の能力すら、分からない、です」
「はぁ?」
何言ってんだこいつ。面倒くさそうな彼の目が、そんな風に私を見ていた。それでも、その目に臆して黙り込むわけにはいかない。
「き、昨日ここに来た、ばかりで……いきなり、能力がどうとか『ウサギ』がどうとか言われて。一日経っても、自分の能力なんて分からなくて、どうしたらいいか……」
「おいおい、嘘を吐くならもっとまともな嘘を吐けよ」
「嘘なんかじゃないです!」
どう言えば信じてもらえるか、上手い言葉を見つけようとしたけれど、混乱しながら頭の引き出しを漁っても何も見つからない。そもそも、どうして能力者同士で争わなければならないのかよく分からなかった。
ふと月白さんの言葉を思い出す。人兎を倒すか逃げていればいい、と思っていたけれど、この世界から出ることを望む人は『ウサギ』という能力者を探しているのだった。
だからきっとこの人も、『ウサギ』を殺そうとして――。
「っ、私、本当に『ウサギ』じゃないです! 信じて下さい! お願い、殺さないで下さい!」
ようやくその考えに至った時、駄目だ、と叫びたくなった。嫌だ、死ねない。忘れたくないものがあるから、この世界で死ぬわけにはいかない。
私は道路に膝を突いて、彼に土下座をした。こんなことで信じてもらえるとは思えない。それでも、私は彼の優しさを信じたかった。
駅で少し関わっただけだが、彼は、優しい人だと思った。優しい人であってほしい、という願望かもしれない。
少し、しんとなる。ようやく聞こえたのは、呻り声に似た気だるげな嘆声だった。
「本っ当になにも知らねえんだな」
「ほ、本当です!」
「とりあえず殺さないでおいてやるよ。けどまあ、付いてこい」
ほっと落ち着く間すら与えられず、私は腕をぐいと引かれた。無理やり立たせられると、私は彼に、どこに向かうのかすら告げられないまま引っ張られる。
目的地を聞くべきか、聞かないべきか。悩んだ末に、余計な発言は慎むことにした。彼の気分を害して殺されてしまったらと思うと、迂闊に声を出すことすら出来ない。
「――俺は、この世界を出たくて『ウサギ』を探してんだ。『ウサギ』じゃねえって確証のある奴を協力者にしてたりもする。これからそいつとお前を会わせるつもりだ。多分殺されねえと思うから安心しろ」
「は、はあ……」
◇
連れて行かれたのは、三日市にある中学校の体育館だった。
体育館の中心にパイプ椅子が置かれていて、そこに一人の少女が座っている。ステージの上の方――満月を模した校章が付けられている幕の辺りを眺めていた彼女は、私達の足音を聞いて顔を振り向かせた。
「おそ――……ちょっと、
かいざき。多分、この男の人の名前なのだろう。自己紹介をするのを忘れていた。互いに無言のまま今に至る。
高い位置で二つに結った髪を揺らして、少女はパイプ椅子から立ち上がった。視線で甲斐崎さんに説明を促している。
「こいつ、最近ここに招かれたばっかみたいだ。能力すら知らねえって言うから、協力者にするつもりで連れて来た」
「ふうん……それ、信用出来るわけ?」
疑いの色を宿した瞳が私を映す。彼女の身長は私より低いし、中学生だろうに、冷たい目つきは私を容易く怯えさせた。
きっと、彼女の能力で殺されるかもしれないと恐れているせいだ。でなければ、睨まれているわけでもないのにここまで怖がるなんておかしい。
「ちゃんと心の声も聞いた上での判断だ。こいつは『ウサギ』じゃねえ」
「えっと、かい、ざきさん? は、心の声が読めるのですか?」
私の問いかけに甲斐崎さんは「あ」の形に口を開けてしばし固まった。そんな彼を煽るように少女がくすくす笑う。
「えっ、なにあんた、既に名前忘れられてんの?」
「ちっげえよ名乗り忘れてたんだよ! あー……俺は甲斐崎
そう言われてもいきなり下の名前で呼び捨てだなんて難易度が高すぎる。私は彼の言葉に従うべきかどうか悩んで、首を横に振った。
「いえ。甲斐崎さん、多分年上でしょうから。甲斐崎さんと呼ばせていただきます」
敬意を込めて言ったつもりだったのだが、気に食わなかったのか、甲斐崎さんは面白くなさそうに口元を歪めていた。少女は彼の背後に近寄ってニヤニヤしている。
「朽葉でいいっつってんだろ……」
「ふられてやんのー。だっさ! 甲斐崎だっさ!」
「
「やれるもんならやってみてくださーい。あんたじゃあたしに勝てないわよ」
握った手を震わせている甲斐崎さんから、ステップを踏むように可憐な動作で離れていく。そうして少女は、くるくると回りながら私の目の前で止まった。
「甲斐崎のこと、信じてあげるわ。あたしは
「あっ、申し遅れました。宮下浅葱、高校一年です。えっと、よろしくね。蘇芳ちゃん」
「ふうん。まあ制服からして高校生だと思ったけど、なんか天然バカっぽそうだから敬語じゃなくていいわよね」
流石に年下に天然バカなどと言われては顔が引き攣る。それでも私は堪えてにこっと笑った。甲斐崎さんだって蘇芳ちゃんに敬語を使われていないし、彼女は誰に対してもこうなのだろう。なら仕方がない。
「中学生だからって馬鹿にしないでよね。あたしはあんたよりもそこのバカ斐崎よりも能力が強いんだから」
「は、はぁ」
そもそも私は自分の能力が分からない。というよりも、使えない。ここまで言われると、早く能力を使えるようになってこの子を見返してやりたい気分になってくる。
蘇芳ちゃんは平らな胸を得意げに張ってみせた。
「あたしのはね、そこの馬鹿みたいに心の声が聞こえるとか戦闘に全く向いてない雑魚能力とは違うのよ」
「お前な、馬鹿にすんのもほどほどにしろよ。この能力、きっと頭良い奴が使えば強ぇんだよ」
「あんたが馬鹿なので雑魚能力でーす。まあそんなくっそどうでもいいことはおいといてー、あたしの能力はなんと! この髪の毛を自由自在に伸ばしたり動かしたり出来るのよ!」
漫画だったなら、バーン! という文字が書かれそうなくらいの勢いで蘇芳ちゃんは言い切った。どのくらいすごいものなのかいまいち分からないが、私は小さく拍手をする。
私が拍手を終えても胸を張ったままの姿勢で停止している蘇芳ちゃんをなんとなく見続けていると、ぽんと肩を叩かれた。甲斐崎さんだ。
彼は携帯電話を手にしていた。
「せっかく協力者になったんだ。連絡先くらい交換しておこうぜ」
「あっ、そうですよねっ!」
甲斐崎さんの言う通りだ。せっかく仲間になったのだから連絡を取れるようにしておいた方が良い。
ポケットから携帯電話を取り出して開いた直後、耳元で蘇芳ちゃんが大声を上げた。私はびっくり箱を開けた時のように大きく肩を震わせた。手から携帯電話が滑り落ちる。
蘇芳ちゃんが私の携帯電話をすかさず拾い、私のために取ってくれたのかと思いきやそれを持って歩き出した。
私と甲斐崎さんから少し離れて、再び元の場所へ戻ってくる。蘇芳ちゃんは、見ろと言うように携帯電話を私に突きつけた。
「ねえ、あんたさ」
「は、はい」
「これ彼氏?」
「は、はい」
何を言っているのだろう彼女は。紫苑先輩が私の彼氏なはずがない。
……あ、れ?
いや、待った。私は今どう答えた? 思い出してみよう。『は、はい』?
「へえー」
「まっ、待って蘇芳ちゃん! ちがっ、今のはつい!」
「ふうーん、彼氏なんだーへぇー。甲斐崎ー、宮下センパイ彼氏いるんだって」
「なんで俺に言うんだよ?」
違うと言っているのに聞いてくれない。こういうタイプの女子は正直苦手だった。いじめっ子気質というか、なんというか。とにかくあまり関わりたくない。
どうしたらいいのか分からなくて困っていると、蘇芳ちゃんが再び私の鼻先に携帯を近付けた。相変わらず、見せられるのは待ち受け画像の紫苑先輩だ。
「宮下センパイ」
じっとこちらを窺う顔は、なぜか真剣だった。方今、悪戯っ子みたいな顔をしていたのに、問いかけてくる語調さえも真剣そのもの。
「この人、名前は?」
「え……呉羽、紫苑先輩」
「そう。――あたし、あんたに会ってようやくこの世界にいる八人全員を知れた。『ウサギ』が高校生だっていう情報もある人からもらってる。あたしの記憶が正しければ、この世界で高校生は甲斐崎とあんたと、この人。呉羽紫苑」
甲斐崎さんがごくりと唾を呑んだような気がした。蘇芳ちゃんは瞳の奥を光らせて私をじっと見つめている。逃がさないと言わんばかりに、視線は私を捉え続ける。
話がなにもかも急すぎる。つまりどういうことだろう。落ち着かせて欲しい。
「宮下センパイ、あんたさ。『ウサギ』の彼女ってことは、『ウサギ』の協りょ――」
「ちょっと待って!」
自分で叫んでおいて、その声の甲高さと大きさに驚いた。自分はこんな声を出せたのか、と驚愕する。叫んだ側にもかかわらず、叱られた時のように心臓が激しく動いていた。
蘇芳ちゃんは、ただ静かに私を見ていた。甲斐崎さんは今どんな顔をしているのだろう。そちらに顔を向けるのが怖い。
まず一つ確実なのは、私が敵かもしれないと思われていることだ。
「少し、整理させて」
そして、紫苑先輩がこちら側にいる人で、『ウサギ』だと思われていること。
「……蘇芳ちゃんの、見間違いってことはない? 本当に、紫苑先輩がここに?」
「あんな美人がいたらあたしじゃなくても見間違えないと思うんだけど?」
その通りだ。確かに、この世界には紫苑先輩がいるのかもしれない。でもだからといって、紫苑先輩が『ウサギ』だなんて思えないし思いたくなかった。
紫苑先輩が『ウサギ』だったなら、甲斐崎さんや他の能力者達は彼を殺そうとする、ということになる。
「――で、宮下。お前本当に『ウサギ』の味方じゃねえんだな?」
甲斐崎さんの声は思ったよりも柔らかくて優しいものだった。
今、私は『ウサギ』の仲間であることを否定すべきなのだろう。けれど上手く言葉を紡げないのは、『ウサギ』が紫苑先輩かもしれないから。
『ウサギ』なんて知らない。しかし紫苑先輩は、私の友達であり大切な先輩だ。
「はい。味方じゃありません。紫苑先輩が『ウサギ』かどうかも、私は知りません」
ですが、私は紫苑先輩の味方です――その言葉はぐっと堪えた。言うべきではないと判断したためだ。
「んじゃ、宮下。お前その椅子に座って俺らに捕まって眠ってる感じになってくれ」
「はい?」
んじゃ、って。いったいどこからどう話が繋がってそういうことになるのか。ぽかんとしていると、私は蘇芳ちゃんにぐいと押されてパイプ椅子に座らせられる。
その傍にあった鞄から彼女が取り出したのはロープだ。
「え、ちょっ、蘇芳ちゃん?」
「まあつまり甲斐崎は、あんたを使って呉羽紫苑を脅そうって言ってんの」
何の説明もなしにそこまで理解出来るのは、蘇芳ちゃんと甲斐崎さんがもともと協力者だからだろうか。相棒のようで素敵だ。
――なんて思っている場合ではない。私は自分に巻かれ始めたロープを掴んで抵抗する。
「待って下さい! 私で紫苑先輩を脅してどうするって言うんですか!?」
「だーかーらぁ。宮下センパイの命が惜しかったらこうしろーって呉羽紫苑に言って、呉羽紫苑があんたを見捨てることを選んだらあんたを信じてやるって話」
「なに、それ……! 紫苑先輩はきっと素直じゃないだけで優しい人だから、協力者じゃなくても私を助けようとするに決まってるじゃないですか!」
「すごい自信ね、あんた」
私はつい蘇芳ちゃんから目を逸らした。確かに、自信過剰かもしれない。紫苑先輩が私を助けるかどうかなんて分からないけど、助けてくれる確率が高い自信はある。
だって先輩は、私を死なせたくないと思っているはずだから。――これを口に出せば自意識過剰と言われてしまいそうだ。
蘇芳ちゃんが椅子と私にロープをぐるぐる巻いていく。私はもう抵抗しなかった。したところで恐らく意味は無い。
それから私が黙り込んでいると、蘇芳ちゃんがようやくロープを巻き終えたようだった。
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