あの月にウサギはいない2
親友、という単語とその意味を咀嚼するように、胸中で繰り返してみる。大切な存在の喪失というのは、心に深い傷を付けるものだ。思わず眉を顰めてしまったことにはっとして、そっと表情を落とす。
信号が赤だったので足を止めると、続きを視線で促すまでもなく浅葱は口を開いた。けれども話すことに躊躇いがあるのか、それとも話すことで思い出す何かから目を逸らしたいのか、彼女の物言いは覚束ない。
「私、引っ込み思案で……。でも、親友がいたおかげでみんなとも仲良く出来たし、友達も多い方だと思ってたんです。けれど、親友がいなくなってから……誰とも、話せなくなってしまって」
「……そっか」
「彼女がいないと私は一人ぼっちで。孤独に押し潰されてしまうくらいなら、死んで彼女の所に行った方が楽なんじゃないか、って。でも死ぬのも怖くて、やめるかどうか悩んで、やめようとして……改札を抜けて学校に向かおうとしました。でも、出来なかったんです。孤独が、怖くて」
孤独だというだけで死を選ぶなんて、おかしなことだ。死んでしまったら、それこそ孤独だ。誰だって逃げ場を作ることがあるけれど、その中で死を逃げ場に選ぶ人が多いという現実は、目を逸らしたくなるほどに認めがたい。
話はそれだけなのか、彼女は黙り込んでしまう。俯いているせいで信号が青に変わったことにも気付いていないらしく、歩き出さない。
そんな彼女の袖を引いて信号を渡った。
「よく分からないけどさ、そんなに一人ぼっちが嫌なら、僕が友達になってあげようか?」
友達なんてもう何年もいないからどういうものなのか忘れてしまったが、とりあえず彼女を孤独から救い出せば解決する話のように思えた。
生きていたいと思わせればいい。友達になることなんてお安い御用だ。友達――つまり話し相手になればいいのだろう。
「紫苑先輩が……とも、だち……?」
「嫌かな?」
微笑んで浅葱を見つめたら、彼女は勢い良く頭を左右に振り出す。
それはよかった、と呟き、横断歩道を渡った先の自動販売機で冷たい飲み物を買う。熱を帯びた手の平がひんやりと冷やされた。
何か独り言を言いながら僕を待ってくれている浅葱の頬に、飲み物を押し当ててみた。
「ひゃっ!?」
「あげるよ。顔、赤いから。熱中症で倒れられても僕が困る」
九月と言ってもまだ暑い。彼女の顔が赤いのも仕方が無いことだ。
僕はあまり顔が赤くならないし汗もかかないから、暑いと思っていても他人に気付かれない。正直、ブレザーを脱いで長袖を捲りたいくらい暑かった。
「っ紫苑先輩」
「何?」
買ったのはスポーツドリンクだが、彼女の好みではなかったらどうしよう。他のものを買い直そうかとも考えたが、適当に保冷剤として使ってくれればいいかと結論を出す。
「じゃ、じゃあ、休み時間とか、お昼とか、登下校とか……一緒にいてくれるんですか?」
まだ開けられていないペットボトルを、両手で握り締めながら尋ねてくる彼女。丸い双眸の奥で不安が揺蕩っていて、それを片笑みで吹き飛ばしてやりたくなった。
「別にいいよ。どうせ僕はいつでも一人だからさ。誰にも迷惑はかからない」
本当に、僕らしくない。
けど、助けてしまった事を間違いだとは思わない。これで良かった、そう思えていた。それに『零時までなら』僕は『ここ』にいられるから、友達になることに問題はない。
浅葱の方を見ると、少し嬉しそうに口元を綻ばせていた。
そんな彼女に言うべきかどうか悩む言葉を、僕は結局遠慮なく紡ぎ出す。
「……浅葱。人の死って言うのは、見つめて、乗り越えて、ずっと背負っていかなければならないものだと思うよ」
「どういうこと、ですか?」
「忘れてはいけない。その人が自分にとってどんな存在だったのか。大切な人だったとしても、引きずられて後を追ってはいけない。残された者は、その人の分も生きなければならない……らしいよ」
こんなことを、誰かに言われたことがある。記憶の片隅から言葉を引っ張り出しながら、僕は浅葱に語った。語りつつ、何かを思い出そうとしていた。
話し終えてから、この重い空気を取り去るべく微笑んでみせる。
「じゃあね浅葱。あ、ちなみに僕は二年四組だから、何かあったらおいで」
話をしている間に学校に着いていたため、自分のクラスを教えて浅葱から少し離れた。
当然学年ごとに、下駄箱の場所も教室のある階数も違う。それゆえ昇降口で別れなければならない。だから僕は、僕につられてか微笑を浮かべた浅葱から目を逸らし、自分の下駄箱の方へと向かい始めた。
不思議と頭にこびりついた、彼女の
おかしな気分だった。こういうものが、周りの人間にとっての普通の日常、なのだろうか。だとしたら、今までの僕の日常が何であったのか少し考えてみた。――形は違っても、それは僕にとって確かな日常だった。
まあ、日常の定義なんてどうでもいい。
朝も昼も、僕にとって休息の時。長すぎて退屈な休憩時間に、浅葱という暇潰し相手が出来た。だから少し――嬉しいのかもしれない。退屈が少し減るから、僕は嬉しいと思っている。
きっとそうだと胸中で決め付け、教室に足を踏み入れて、自分の席に着いた。相変わらずの喧騒から意識を逸らし、すぐさま机に顔を伏せて目を閉じる。
このまま寝てしまおう。授業なんて受けなくても問題はない。
意識は簡単に、夢の中へ落ちて行けた。
◆
「――れは、呉羽!」
中年男性の怒声が夢の中まで響いてきて、僕はゆっくりと目を開いた。昼休みまで寝るつもりだった僕の眠気は怒声程度では醒めない。下りてくる瞼をなんとか持ち上げたまま、欠伸の代わりに溜息を吐く。
面倒に思いつつも顔を上げると、男性教師と数人の生徒がこちらを見ていた。見られるのはあまり好きじゃないから、つい彼らを睨みたくなってくる。寝ていた僕が悪いため、勿論そんなことはしない。
とりあえず黒板を見て、今更ながらに机から教科書とノート、筆箱を取り出した。これで授業も進むだろう、と思ったが、教師の目が僕を捉えたまま、黒板にも教卓上の教科書にも向き直らない。
「……なにか」
「なにか、じゃない! 本当に寝てたんだな! 何も聞いてないんだな! 問六だよ!」
「……ああ、そういうことか」
僕みたいに授業態度が悪い生徒なんて、自分にしか迷惑をかけていないのだから放っておけば良いのに。それに数学なら、テストでそれなりの点数は取っている。数学なら。
黒板に書かれているページ数を見て教科書を開き、不満と眠気で細められた目を問六に向けた。式を見つめながら、脳内で数字を公式に当てはめ計算する。
「f(x)=8」
「……正解だ。よし、分からない奴のために解説するぞ」
ようやくチョークを手にして黒板に向く教師。もう一度寝ようかと思ったけれど、あと数分で授業が終わるみたいだから数分くらい真面目にやろうという気になった。
時計を見る限り今は四時間目のようだ。時間の進みが速く感じる。この授業で起こされなければ昼休みまで寝られたのに、と口元を歪めた。
「……」
真面目にやろうと思ったが、気が付けば机の中から引っ張り出した本を開いている。タイトルで惹かれて買ったミステリー小説だけれど、僕には合わなかった。面白くない。
しかし今他に暇を潰せるものがない為、とりあえず最後まで読むつもりでページをめくっていく。所謂叙述トリックが使われている部分はなかなか面白かった。しかしそれが事件とは無関係で、残念だ。
「呉羽く〜ん」
突然女子生徒に声をかけられ、顔を上げてから授業が終わっていることに気が付いた。仲の良い者同士で固まって、既に弁当を食べ始めている生徒もいる。
女子生徒は目の前まで来ると、僕の机に手を突いた。鼻腔をくすぐる香水の匂いが不愉快で、身を引くように背もたれに背を預ける。
「なんかー、一年生が呼んでるよ〜?」
元々こういう口調だったら申し訳ないのだが、語尾を伸ばして話されると喧嘩を売られている気分になる。教卓側の扉を窺ってみたら、教室内を控え目に覗き込んでいる浅葱の姿が認められた。
「呉羽くんって、部活とか委員会とかやってたっけ?」
「わざわざありがとう」
彼女がなにか聞いてきた気がするけど、礼だけ言って鞄を持ち、席を立つ。彼女の横を通り過ぎ、浅葱の傍まで早足で歩んだ。
「浅葱、気付かなくてごめん」
「いえ、優しい方が呼んでくれたので良かったです!」
「屋上行くよ」
浅葱の袖を軽く引っ張ってから、廊下を進んだ。背後で落ち着きの無い上履きの音が鳴らされた。置いていかれるとでも思ったのだろうか。
横に並んだ浅葱を視界の端に捉えて、歩く速度を落とした。頑張って歩いているような姿を見たら流石にこうする。むしろ初めから彼女に合わせるべきだった。
気が利かない自分に呆れていると、浅葱が僕の顔を覗き込んでくる。何かを聞こうとして、けど聞きにくいなぁ、みたいな、心情丸出しの口元に少しむかついた。聞きたいことがあるなら遠慮せず聞けばいいだろうに。
「……紫苑先輩って、モテますか?」
ようやく声を発した浅葱の言葉に、転びそうになった。そんな動揺は内心に留め、外には出さない。焦らしておいて聞きたいことはそんなことか、と嘆息してしまう。
「知らないよ。それは当人にする質問じゃないと思うんだけど」
「そうですよね、ははは……」
苦笑する浅葱に呆れていたが、階段を上りながら気付く。もしかして浅葱は沈黙に耐えられなかったのではないだろうか。それで何か話す話題を探していたとしたら。
もう少し話が広がるように言葉を返すべきだったと後悔して、友人関係の難しさに眉を寄せた。
以前の自分がどう友人関係を築いていたか思い出してみる。小学校低学年くらいまでは友人というものが多くいたはずだ。
そんなことを考えているうちに、屋上にはすぐに着いた。扉を開けて、誰もいない屋上へ足を踏み入れる。
屋上というと、昼食を食べる場として人気に思われるかもしれないが、実際はそうでもない。汚れることを嫌う人は来ないし、階段を上る手間もある。そもそも外で食べる人が多くない。それに、売店が一階にあり、中庭にテーブルや椅子が備え付けられているから、屋上よりもそちらの方が人気だ。
フェンスを背にして座り、僕は鞄から弁当箱と水筒を取り出した。弁当を食べようとして、座ってすらいない浅葱に目を向ける。何を考えているのか気になってしまうほど難しい顔で、自分の上履きを睨んでいた。
「いつまでぼうっとしてるの? 食べる時間なくなるよ?」
声をかけても聞こえないくらい何かに集中しているらしく、反応を示さない。そんな彼女の手にある鞄を引っ張ると、彼女は微動だにせず、鞄だけが僕の方へ落ちてきた。
昼休みは有限だ。時間の無駄を省いた方が彼女のためになるだろう。ということで鞄を開けさせてもらった。
すぐに見つけることが出来た弁当箱を引っ張り出して、勝手に開ける。手作りだろうか。人参が花形で入っていたり、ハート型のハンバーグが入っていたり、女子らしさが色々なところで表されている弁当だ。
浅葱の箸でその弁当箱内の卵焼きを挟んで立ち上がり、彼女の口元に押し当てた。
「――ひゃっ!?」
物音に驚いた猫のような反応を見る限り、何かに意識を引っ張られていたみたいだ。屋上に着いていることさえ気付いていなかったようで、ここはどこだと聞きたげな顔を左右に忙しなく動かしている。
「君がいつまでも阿呆面でぼけーっとしてると、昼休み終わるんだけど」
腰を下ろして、浅葱の弁当箱に卵焼きを戻し、箸も箸入れに戻してやる。陽の光が箸入れに反射して、僕は片目を眇めた。
「……紫苑先輩、勝手に私の鞄開けたんですか」
「なに? 見られて困るものでも――……いや、ごめん、悪かった」
よく考えれば、いや、よく考えずともプライバシーの侵害というやつだ。見られたくないものなんて人間だからいくらでもある。人によっては勉強用ノートすら見られたくないらしい。
自分の失態に頭を抱えていると、僕の横に座って弁当を食べ始めた浅葱が笑顔を咲かせた。
「あっ、おいしい」
「自画自賛?」
「違います! これは妹が作ってくれてるんです!」
「へえ、妹は毎朝君の弁当を作らされているのか。気の毒だ」
「そこは普通『優しい妹だね』とか言うところじゃないんですか!?」
僕は弟で、兄の弁当を作らされることもあるという立場だから、弁当を作ってくれる妹が優しいという発想が出来なかった。人によっては優しさから弁当を作るのか、と思いつつ弁当箱を開ける。
なら僕は優しさとは無縁の人間かもしれないなと考えていたら、浅葱が僕の弁当箱を覗き込んできた。
「わぁ……すっごいですね、紫苑先輩のお母さんが作っていたり?」
お母さん。
そのどこか懐かしい響きが耳を通り抜けた今、僕はどんな顔をしているだろう。
何故こんな、ただの単語一つで心が掻き乱される? 心臓を引きずり出されてそこにある欠落を見せ付けられるような、正確な名称の無い感覚。僕はわけも分からない痛みを、唇を噛んで紛らわせた。
「母親はいない」
母親のことはあまり思い出せない。どんな顔をしていたか。どんな声をしていたか。どんな目を、していたか。何一つ、僕の記憶にない。
ふと、僕と浅葱の間の空気が気まずいものになっていることに心付く。
「……だから、面倒だけど自分で作っているんだ」
明るい声で言ったつもりだ。言えていただろうか。この重く不愉快な空気を取り去れただろうか。
「自分で? 紫苑先輩、料理出来るんですか?」
丸い宝石みたいな浅葱の目を見て、僕のどこか必死だった思考が落ち着いていく。無意識のうちに、口元が綻んでいた。ふ、と零れた笑みが風に滲む。
「君にも作ってあげようか?」
「えっ……」
「冗談だよ面倒くさい」
期待したようで、冗談と聞いてすぐに彼女の眉が残念そうに下がる。明日本当に作ってきたらどんな顔をするのか、少しだけ興味が湧いた。だが当然作るつもりはない。
彼女には、ちゃんと弁当を作ってくれる優しい妹がいる。その座を奪う気はなかった。
レタスを箸で挟んで食べようとした時、ポケットの中で携帯電話が振動した。少し手を止めたがそのまま口に入れ、箸を置いて携帯電話を取り出す。兄からメールが来ていた。
「どうしたんですか……?」
聞いてくる浅葱の声が不安げだったから、不安にさせるような顔でもしてしまっていたのかもしれない。面倒だから後で内容を確認しようと思い、そのまま携帯電話を仕舞った。
「いや、なんでもない」
「そ、そうですか」
しん、となってしまうのはやはり僕のせいだろうか。こういう時の話題が見つからない。無言のまま、互いに弁当を食べる音だけ立てていた。
弁当箱が空になると、それを布で包んで鞄に入れる。浅葱の方はまだ半分も食べていない様子だ。
「……ところで、僕は食べ終わったから戻っていいかな?」
「ええっ!? 私を置いて行くんですか!?」
冗談で言ったつもりだったが、本気にした浅葱は悲しげな目で僕を見てから弁当を掻き込み始めた。そんな捨てられた猫みたいな顔をしなくても待つに決まっている。彼女の姿にくすりと笑って、フェンスに寄りかかった。
「待っててあげるから慌てて食べるのはやめた方がいいよ。ゆっくりどうぞ」
腕時計に目をやると、予鈴まであと一分といったところだった。本鈴までは六分も余裕がある。いや、これを余裕があると言って良いかどうかは彼女次第だ。
「ぁあああああ……すみません、私が阿呆面でぼけーっとしてるばっかりに!」
「仕方ないよ。阿呆面は生まれつきなんだろうから――……いや、忘れてくれ。なんでもない」
なぜ自虐に走ったのだろう、浅葱は。つい酷いことを言ってしまった。本当に、僕はこういう事を言う癖を直した方がいい。彼女が傷付いていたらどうする。
額を押さえて溜息を落とすと、無情にも予鈴が鳴った。
「ぁあああ! ごめんなさい紫苑先輩ー!!」
「いや別に僕は構わないけど」
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