先生と私
渚乃雫
先生と私(森山先生と莉夏の話)
「先生が好きです」
テスト用紙の片隅に書いた私の何度目かの告白の返事は
大きな赤いペンで書かれた三角の印と、
「先生以外と青春しなさい」
いつもの綺麗な先生の字で、
そう綴られていた。
「先生が良いんですけど」
「先生じゃダメなんですけどね」
誰も居なくなった夕方の職員室で、今日の小テストの採点をしながら、私の言葉に先生は慣れた様子で呟く。
「昔はお兄ちゃんって言われて喜んでたくせに」
私の呟いた言葉に、私が小さな頃から後を追いかけている先生の手が、ピタリと止まる。
「先生。もしくは森山先生。いや、その前に、別に俺、喜んで無いから」
「お兄ちゃんはお兄ちゃんじゃない」
あからさまに不貞腐れた声を出しながら訂正をしてきた頭上の声に反論をすれば、大きめなため息が先生の口から漏れる。
「それはあくまでもプライベートのことだろう?少なくとも俺は今、教師で、
先生の机の引き出しに寄りかかって膝を抱える私の頭を、ほんの少しだけ乱暴な手はグリグリとかきまわしていく。
なんだか、
「頭だけじゃなくて心までグシャグシャなんですけど」
追いかけ続けた背中が
やっと見えてきたと思ったのに。
いつの間にか超えられなくなった壁
そんなもの直ぐに乗り越えられるものだと
こんなもの私たちには関係の無いものだと
そう思っていたのに。
教壇に立つ後ろ姿も
皆に先生と呼ばれる姿も
他の先生達と並んでいるところも
女の先生に話しかけられてるところも
職員室で真剣に考え込んでいる横顔も
他の子へ優しく接している姿も
他の子に囲まれている姿も
私が知っている
私の知ってるお兄ちゃんじゃ、無い。
それは全部、全部
「森山、先生」
「どうした白石」
グシャグシャにされた頭は、いつの間にか、丁寧に撫でられていて。
ざわつく心が、どちらに転んだらいいのか、決めかねている。
だから、
「そんなことしないで」
抱えた膝におでこをつけて、
小さく座り込んだ。
「莉夏?」
ーー そんな風に、呼ばないで
「巧海兄は、森山先生、なのに」
「おい、莉夏」
「分からないよ、巧海兄」
俯いた私の頬に、冷たい滴が、伝って落ちた。
「………危険を侵してまで、攫ってくほどの根性は無いのかねぇ」
そうポツリと呟いた同僚の頭に、「ゴンッ」と俺の拳が落ちる音が響く。
「お前ね、俺は、一時の感情で、アイツの未来の可能性まるごとを潰すわけにはいかないの。それくらい、分かってるだろう」
ー本当は分かっている
ーこんな事を言えば言うほど、
自分で自分を縛り付けているだけだってことも
ーだけど
「オレはただ単に莉夏ちゃんを攫いたいほどに好きだって思ってないのかな、って思っただけじゃんよ」
ぶぅ、と俺の殴ったところを撫でながら、目の前の同僚は口を尖らせながら、言葉を続ける。
ー俺ではなくて、彼女の、失うものが何も無いのなら、攫ってしまうのかも、知れないけれど
「自分への感情で、あんな風に泣いてくれる子が居るなんて、羨ましい限りだけどねぇ、オレは」
「……………俺は、莉夏には将来の選択肢は、広く持っていてもらいたいんだよ」
「ふぅん?」
自身の机に向き直った俺の背に刺さるのは、同僚のまだ何か言いた気な視線の数々。
「何だよ」
「いや、別に?」
振り返ることなく問いかけた俺に、ケロッとした声を返してくるものの、背中への視線は変わらない。
「だから、お前さ、何か言いたいことあるんだったら」
「巧海さ、教授から声かかってんだろ?」
くるりと振り向いた俺に放たれたその情報は、まだこの学校では誰も知らなかったはず。
「お前、何でそれ知ってッ」
「いやいや、同級生でしょうよ、ボク達」
「いや、それだけで知ってるわけないだろ」
グン、と同僚のネクタイを軽く掴みながら詰め寄れば「ちょっ?!目が怖い!目が!」と同僚は焦った表情を浮かべる。
「何処で聞いたかさっさと吐けよ」
「えー、知りたい〜?」
コテン、と首を傾げながら可愛い子ぶる同僚に軽く殺意が湧き上がる。
そんな俺の様子に気がついた同僚は困ったように小さく笑う。
「センセーがな、お前の様子を教えろ、って連絡してきたんだよ。ついこの間な」
「……………あのオヤジ…ッよりにもよって何でお前に……」
「ま、それほどにセンセーもお前に戻ってきて欲しいんじゃねぇの?」
「……………」
俺に掴まれたネクタイを緩めながら笑う同僚に返す言葉が見つからずに押し黙ればコイツはさらに静かに口もとを緩める。
「ま、オレはどっちであったとしても、応援するけどね。莉夏ちゃんを」
「俺じゃねぇのかよ!」
「はぁ?!当たり前だろ!あんなに可愛い子を応援せずに何で野郎のお前なんかを応援せにゃならんのだ!」
「莉夏を変な目で見てんじゃねぇ!」
ブンッと思わずネクタイを掴んでいた手を勢いよく引き寄せれば「おわっ?!」と焦った声が室内に響く。
「危ないなぁ、もー。あのねぇ、巧海さん?そんだけ必死になれるんだろう?莉夏ちゃんのことでさ。オレからしてみたらね、お互いに、そんなに大事なんだったら別にどんな環境になったって平気なんじゃねぇの?って思うけどね」
落ちかけた椅子に座り直しながら、呆れたように笑う同期の表情は、何やら腹が立つほどに穏やかな顔をしている。
「………何か、お前に言われると腹立つ」
ゴンッ、と腹いせにもう一度、同僚の頭に拳を落とせば「痛ぇっ!」と小さな悲鳴があがった。
「……まだ帰って無かったのか」
「………森山、先生」
薄暗くなっていた教室に居た人影は、俺が書いた掲示物の前に立ったまま、声をかけた俺に振り向く。
その生徒は、遠くからでも見間違うことの無いたった一人の生徒で、その生徒の表情は、薄暗い教室の中で見ても、直ぐに判るくらいに沈んだ表情をしている。
その表情を見て、自分の中で生まれる感情は、たった1つだけ。
ーーそんだけ必死になれるんだろう?莉夏ちゃんのことでさ。
「莉夏」
コツ、と歩く度に足音が教室に響く。
小さな頃から知っている彼女の名を呼べば、彼女の瞳がほんの少し揺らぐ。
「少し、寄り道に付き合ってくれないか?」
そう言って、車のキーを見せれば、彼女は返事の代わりに俺の方へゆっくりと歩きだした
「タバコ、吸ってもいいか?」
「止めたんじゃ無かったの?」
「時々な。無性に吸いたくなるんだよ」
「…………そう……」
巧海兄の、微かに甘い香りのタバコの煙が、狭い車内に少しだけ漂う。
このタバコの煙は、昔から変わらない、
私よりも大きくて長い指先に挟まれるタバコにすら、何処となく妬いている自分に気づいて小さく息をはく。
「悪い、煙かったか」
「あ、違うの、だい、じょうぶ………」
ふぅ、と慌ててタバコの火を消し、車の外へと煙を吐き出した巧海兄の姿に、小さく首を振って答えるも、落ち込む気持ちが現れるように、自然と語尾が小さくなっていく。
大事な言葉がため息に溶けても
言いたい言葉を飲み込んでしまっても
「治らないよな、莉夏のその癖」
港が一望できるこの場所は、巧海兄が初めてドライブに連れてきてくれた場所。
その時と同じ。
車から出ることなく、
「何か言いたかったんじゃないのか?」
そう言って
それでも、きっと、巧海兄は
「莉夏が言えるまで、待つよ」
「幸い、此処にいるのは、ご近所のお兄さんだけだしな」
そう言ってまた、昼間と同じように、グシャリ、と私の頭を不器用な手が撫でた。
教師である前に小さい頃を知っている幼馴染みだし、
憧れの先生である前に、隣のお兄ちゃんだし。
それよりもなによりも
「巧海兄が、遠い」
「莉夏?」
巧海兄が、他の誰かを好きになるなんて、嫌。
不器用な手は、ずっと変わらないの。
優しい手が誰かのもとに行くなんて、嫌なの。
ーー そんなこと、言えるわけが、無いのに
俯いた膝から、顔をあげられない。
「莉夏」
この子が、静かに泣く癖は他の奴らは知っているのだろうか。
声を漏らさぬように、服を握りしめて泣く震える小さな手を、他の男に手渡す日が来るのだろうか。
ーー そんなことを、出来るわけが無い。
「莉夏、おいで」
そう言って、手を広げれば、
俯いたまま、ほんの少し迷う彼女が薄暗い闇の中に見える。
「おいで」
もう一度、そう声をかければ、
涙を流したままの彼女が、
腕の中へ飛び込んでくる。
「巧海兄が、良い。全部、全部」
泣いて震える声が、心の深く重い部分に突き刺さった。
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