二
あまい匂いが濃かった。
由梨花ちゃんの布団にも、部屋の空気にも、彼女が染みついていた。
僕の匂いがついてしまわないか、それが優子さんに嗅ぎ取られないか、心配だった。
それでも、三夜に一度は僕が彼女の部屋を訪ねるのは、彼女がせがむからだった。自分が行くばかりは嫌なのだと、彼女は言った。
窓に、重い灰色の空があった。
夜が明け始めているのは分かるが、朝の感じも希薄で、夜とも朝ともつかぬ曖昧さが漂っている。
雨が静かに降っている。星が落ちるような清らかな音が、開け放った窓から、部屋の薄い暗がりに溶けこんでくる。
僕は布団に座り、由梨花ちゃんのしなやかな指をなんのきなしに揉んで、そのやわらかさを弄んでいた。彼女はされるがままで、ぐったりしながら、僕の指と自分の指の絡み合うのを、とろりとした眼で眺めている。
彼女の指は、なんとも言えぬ、やさしい心地である。それでいて、ひんやりしている。
彼女の身体のようだ。そう思った途端、全身に彼女が蘇ってきそうだった。しかし、雨の空で分かりにくいが、おそらくもう優子さんが起きて来る時間だろう。
「もう戻るよ」
自分のなかにこみ上げてくるのを誤魔化すように、僕は呟いた。
由梨花ちゃんの手が、僕の手を強く包んだ。
「いやや。まだバイバイせえへんの」
「そんなこと言っても、ここに並んで寝てるわけにはいかないだろ。由梨花ちゃんが僕の部屋で寝てるのとは、まるで印象が違う」
なだめるようにそう言っても、由梨花ちゃんは縋りつくような眼で、僕を見上げた。
「いや、いや」
幼子のように、あまえた言葉を繰り返して、かぶりを振る。
僕は、胸の底からやわらぐのを感じて、
「じゃあ、優子さんが来たら、どうしようか」
と、意地の悪い言葉を投げかけながら、彼女の隣に身を寄せて横になった。
由梨花ちゃんは、答えようもなく、こちらを見つめたままじっと黙り込む。僕の手を握る力が強くなる。
「そうしたら、もう二度と、こんなことできない」
そう言って僕は、追い打ちをかけるように、繋いだ手を彼女の目の前に突き出した。
僕と彼女の顔が接吻しそうな近さで、その間に手が入ると、彼女の手の甲に僕の唇が、僕の手の甲に彼女の唇がそっと触れた。
由梨花ちゃんが唇を離さずに言った。
「ほんなら、チュウして。寝るまでずっと、よしよししてて」
僕は言われるがままにした。
しかし、かえって胸苦しくなってくるのか、眠ろうと瞑った瞼に、あわれな震えがあった。接吻で薄ら濡れている下唇を、粒のような歯で噛んでいる。ままならない心に振り回されているのが、羽ばたき方を知らないで飛び跳ねる小鳥のように、清純ないじらしさだった。
彼女は耐えかねるように、乱れた身ぶりで寝返りをうち、僕に背を向けた。
「もういいから。どっか行って」
儚い声が、雨のさらさらと降る音に霞んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます