帰りの電車のなかで、操り糸の切れた人形のようにふっと眠りに落ちた紗代ちゃんを、僕はおぶって宿に帰った。

「ほんまにありがとうなあ、あんさん。連れてってくれて、おぶってまでしてくれて」

 優子さんが、僕から紗代ちゃんを引き受けて部屋へ寝かせてきてから、改めて礼を言った。

「いえいえ、僕も楽しかったですから」

「ご飯は食べたん? お腹空いてんねやったら、なんか出そうか?」

「いや、たらふく食べましたから、大丈夫です」

「そっか。ほんなら風呂にする? 沸かしてるよ」

「じゃあ、いただきます」

 僕は風呂からあがると、優子さんにおやすみなさいと伝えて、瓶ビール片手に部屋に上がった。いつものように日本酒を飲むには、少し疲れすぎていた。軽くビールを飲んでから、淡い酔いで眠りたかった。また、それができそうなほど、身体が芯から疲弊しているのを感じた。

 果たして僕はビールを飲み終えるや否や眠りについた。

 しかし、全身に、息のつまるような重みを感じて、眠りが破れた。

 薄ら目を開ける。

 部屋は暗闇である。

 まだ夜のなかにある。

「ああ、やっと起きた」

 僕の身体に覆いかぶさるものから、あまえるような昏い声がした。

 由梨花ちゃんであった。僕の上に、腹這いになっていた。

「なんだ、来てたの」

 僕は何気なく呟いてから、彼女の行いを自分が驚かないことに、むしろいくらか驚いた。眠りが浅いうちに破れて、思考が無抵抗になっているのだろうか。あるいは、恋い慕われるうちに、こちらにも愛が芽生えたか。

 しかし、やはり僕は、未だ空虚である。その空白に彼女の美しさがあざやかだ。こうして身体に乗られると、いくら軽くても生々しい感触がする。

 由梨花ちゃんは、身体を滑らせて、僕の隣に寝転んだ。身体を横にしてこちらを向くので、僕も寝返りを打って彼女に向かい合った。

「なあなあ、見て、これ」

 彼女は、自分の身体を見下ろした。

 浴衣に身を包んでいるのであった。

 暗がりのなかで、青と白の混じり合った生地が、仄かに浮かんでくる。

「お母さんにな、浴衣だけでも、着せてもろてん」

 そう言って、由梨花ちゃんは、僕の目の奥をのぞきこむように見た。あまい慰めを待っているのだと分かった。

「似合ってるね。もしかすると、今までで、一番美しく見えるかもしれない」

 真実、彼女は美しかった。

 襟からすうっと煙のようにのびている首に、憂いが匂っている。暗いなかでひときわ深い黒の睫毛は、艶やかに濡れている。僕が紗代ちゃんと宿を出てから今まで、何度も涙が零れたのだろう。死が滲むほどの肌の純白のせいか、あるいは、その肌と溶け合うと憂鬱な浴衣の色あいのせいか、どこか亡霊のようである。しかしぱっちり開かれた眼は、積雪に耐え忍ぶ梢のように、かなしみに洗われて清らかだ。冷たい生命力である。

 由梨花ちゃんは、僕の慰めを、無感動に聞いた。

 そして、僕に身体を寄せてきた。躊躇いがちに、僕の胸に掌を添わせた。意を決するように、目を伏せてから、再び上げる。微かに浴衣がはだけていて、こころもちのぞいた首から肩への曲線が、ゆるやかだった。浴衣の青と調和してさみしげだった。

「なあ、兄ちゃん。……うちのこと」

 彼女はそれだけ言って、固く目を瞑って、唇を突き出した。肌がみるみるうちに燃え上がり、清澄な水面に映る炎のようだった。

 僕は、さすがに痺れるように驚いて、

「なに言いだすんだ」

 と口ごもった。

 由梨花ちゃんの目が開いた。

 杯に注がれた水のように、涙が今にも落ちそうに震えていた。冴え冴えとした眼差しが、陰翳のなかに閃いて、まっすぐこちらに注がれていた。怒りにすら見えるほど、恋の色が激しかった。

「おねがい、せめて、これぐらい……」

 雪の降る音のような、静かな声だった。

 僕は、物音の少なくなった家のなかで、慰めに浴衣を着てみて、ひとりかなしみに沈む由梨花ちゃんの姿を想像した。果てしないさみしさに打たれた。

 由梨花ちゃんが、再び目を閉じた。

 彼女の小さな頭を、僕は抱き寄せた。豊麗な黒髪は、触れたことのないような、澄み通った冷たさだった。

 由梨花ちゃんがぐったりと眠りにおちてから、僕は布団から出て、窓を開けた。

 僕の鼻には馴染んで分からないが、血と女の匂いがするはずだった。優子さんが起きてくるまでに、朝の空気で洗い流さなければいけなかった。

 空はぼんやり白みはじめていた。青は、吐息のように仄かだった。

 かなしい色のなかに、有明の月が霞んでいた。

 三日月だった。


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