五
帰りの電車のなかで、操り糸の切れた人形のようにふっと眠りに落ちた紗代ちゃんを、僕はおぶって宿に帰った。
「ほんまにありがとうなあ、あんさん。連れてってくれて、おぶってまでしてくれて」
優子さんが、僕から紗代ちゃんを引き受けて部屋へ寝かせてきてから、改めて礼を言った。
「いえいえ、僕も楽しかったですから」
「ご飯は食べたん? お腹空いてんねやったら、なんか出そうか?」
「いや、たらふく食べましたから、大丈夫です」
「そっか。ほんなら風呂にする? 沸かしてるよ」
「じゃあ、いただきます」
僕は風呂からあがると、優子さんにおやすみなさいと伝えて、瓶ビール片手に部屋に上がった。いつものように日本酒を飲むには、少し疲れすぎていた。軽くビールを飲んでから、淡い酔いで眠りたかった。また、それができそうなほど、身体が芯から疲弊しているのを感じた。
果たして僕はビールを飲み終えるや否や眠りについた。
しかし、全身に、息のつまるような重みを感じて、眠りが破れた。
薄ら目を開ける。
部屋は暗闇である。
まだ夜のなかにある。
「ああ、やっと起きた」
僕の身体に覆いかぶさるものから、あまえるような昏い声がした。
由梨花ちゃんであった。僕の上に、腹這いになっていた。
「なんだ、来てたの」
僕は何気なく呟いてから、彼女の行いを自分が驚かないことに、むしろいくらか驚いた。眠りが浅いうちに破れて、思考が無抵抗になっているのだろうか。あるいは、恋い慕われるうちに、こちらにも愛が芽生えたか。
しかし、やはり僕は、未だ空虚である。その空白に彼女の美しさがあざやかだ。こうして身体に乗られると、いくら軽くても生々しい感触がする。
由梨花ちゃんは、身体を滑らせて、僕の隣に寝転んだ。身体を横にしてこちらを向くので、僕も寝返りを打って彼女に向かい合った。
「なあなあ、見て、これ」
彼女は、自分の身体を見下ろした。
浴衣に身を包んでいるのであった。
暗がりのなかで、青と白の混じり合った生地が、仄かに浮かんでくる。
「お母さんにな、浴衣だけでも、着せてもろてん」
そう言って、由梨花ちゃんは、僕の目の奥をのぞきこむように見た。あまい慰めを待っているのだと分かった。
「似合ってるね。もしかすると、今までで、一番美しく見えるかもしれない」
真実、彼女は美しかった。
襟からすうっと煙のようにのびている首に、憂いが匂っている。暗いなかでひときわ深い黒の睫毛は、艶やかに濡れている。僕が紗代ちゃんと宿を出てから今まで、何度も涙が零れたのだろう。死が滲むほどの肌の純白のせいか、あるいは、その肌と溶け合うと憂鬱な浴衣の色あいのせいか、どこか亡霊のようである。しかしぱっちり開かれた眼は、積雪に耐え忍ぶ梢のように、かなしみに洗われて清らかだ。冷たい生命力である。
由梨花ちゃんは、僕の慰めを、無感動に聞いた。
そして、僕に身体を寄せてきた。躊躇いがちに、僕の胸に掌を添わせた。意を決するように、目を伏せてから、再び上げる。微かに浴衣がはだけていて、こころもちのぞいた首から肩への曲線が、ゆるやかだった。浴衣の青と調和してさみしげだった。
「なあ、兄ちゃん。……うちのこと」
彼女はそれだけ言って、固く目を瞑って、唇を突き出した。肌がみるみるうちに燃え上がり、清澄な水面に映る炎のようだった。
僕は、さすがに痺れるように驚いて、
「なに言いだすんだ」
と口ごもった。
由梨花ちゃんの目が開いた。
杯に注がれた水のように、涙が今にも落ちそうに震えていた。冴え冴えとした眼差しが、陰翳のなかに閃いて、まっすぐこちらに注がれていた。怒りにすら見えるほど、恋の色が激しかった。
「おねがい、せめて、これぐらい……」
雪の降る音のような、静かな声だった。
僕は、物音の少なくなった家のなかで、慰めに浴衣を着てみて、ひとりかなしみに沈む由梨花ちゃんの姿を想像した。果てしないさみしさに打たれた。
由梨花ちゃんが、再び目を閉じた。
彼女の小さな頭を、僕は抱き寄せた。豊麗な黒髪は、触れたことのないような、澄み通った冷たさだった。
由梨花ちゃんがぐったりと眠りにおちてから、僕は布団から出て、窓を開けた。
僕の鼻には馴染んで分からないが、血と女の匂いがするはずだった。優子さんが起きてくるまでに、朝の空気で洗い流さなければいけなかった。
空はぼんやり白みはじめていた。青は、吐息のように仄かだった。
かなしい色のなかに、有明の月が霞んでいた。
三日月だった。
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