四
バスに乗り、それから二両編成の色褪せた電車に乗り、さらに郊外の駅で乗り換えて、一時間ほどで目的の駅に着いた。宿を出た頃にはまだ高かった陽も落ちかけて、雑居ビルの上にかかる空は仄かに赤く染まっている。
いくらか華やかな郊外、といった街並みの、そう広くない道に、人が溢れている。僕は紗代ちゃんの手を取った。
「離しちゃ駄目だよ、迷子になるからね」
彼女は、しかし返事もしないで、ネオンが輝きはじめた街に目をいっぱいに開いていた。
もう一度言おうとして、止めた。新鮮な感動を乱すのも無粋だ。それに、金魚のようにあざやかな赤のこの浴衣姿なら、ちょっと目を離してもすぐに見つけられそうだ。
人波に流されて進むと、屋台の並んでいるところに出てきた。街のなかのだだっ広い公園だった。警官の通行人を誘導する声と、屋台から飛び交う張り上げて割れた声とが、重なり合って暮れなずむ街に鳴り響いている。混雑する車道でクラクションがけたましい音を上げる。
「なんやの、ここ……」
紗代ちゃんが、活気に満ちた街並みを目の前に、感嘆の息をもらした。
満面に瞬く間に笑顔が爆発する。
「ばんざーい!」
彼女は叫んで両手を上げた。
周りを歩いて行く人たちが、驚いて振り返り、温かく微笑む。
紗代ちゃんは僕の手を握りぶんぶん振って、
「お店まみれ! 兄ちゃん、お店まみれやんか!」
「まみれってなんだよ」
僕は笑いながら、
「そっか。祭り、初めてなんだっけ」
紗代ちゃんが勢いよく頷く。煌々たる明かりを放つ屋台が、公園の遊歩道に夥しく並んでいるのに目を爛々とさせて、
「どうしよ、どれ食べよ、こんなん決められへんやん!」
と、喜ばしそうに頭を抱えながら小さく跳ねてはしゃぎまわる。
「はあああ、目ぐるぐるする、頭どうにかなりそう」
「危ないな、帰るかい?」
僕が冗談めかして言うと、彼女は狂ったように笑って、
「なに言うてんや、なに言うてんや、こいつめ」
と僕の腹を何度も叩いた。
とりあえず遊歩道を人の流れに乗りながら進んでいると、紗代ちゃんは屋台の看板を指して逐一、
「からあげ、わたあめ、りんごあめ」
などと弾んだ声で読み上げながら、不意に、あっと声をあげた。
「由梨花にお土産も買って帰ったろ!」
それを聞いて僕は、家で浴衣に着替えた紗代ちゃんを見て目を潤ませながら優子さんに行きたいとせがんでいた由梨花ちゃんの、あわれな姿を思い出した。
このところ体調が良かった反動か、あるいはそれにあまえて遊んで過ごした代償か、彼女はせがむ声にもどことなく力がなかった。それで優子さんは安静にするように言ったが、意固地になって懇願した。ますます身体が傷むような切実さだった。優子さんも、今回はさすがに受け入れなかった。
そんな由梨花ちゃんに紗代ちゃんは、純粋な残酷さで、浴衣を華麗にはためかして見せたのだった。由梨花ちゃんは、遂に涙をこぼして、部屋へと走り去っていった。
ああいう仕打ちをしておきながら、土産を買って帰ろうとなんの気なく思いつく紗代ちゃんの気まぐれに、爽快な美しさを感じた。恥じらいなく晴天の下に裸体をさらすような無邪気さだ。
紗代ちゃんが、ある屋台の前で、ぴたりと足を止めた。
「兄ちゃん、あれ、なんて読むん?」
彼女が指す方を見る。
「ああ、あれは、しゃてきって読むんだ」
「しゃてき……くだもの?」
「いや違う。食べ物じゃない。ゲームだよ。鉄砲でね、並んだおもちゃを狙うんだ。見事撃ち落としたら、それが貰えるんだよ。やってみる?」
「やるやる! やりたい!」
紗代ちゃんは言い終わるが早いか、繋いだ手を離して屋台のもとへ駆けて行った。きっと、あの夢中の様子だと、由梨花ちゃんへの土産のことなど頭にないのだろうと僕は彼女をいじらしく思いながら、後を追いかけた。
屋台の若い男に、紗代ちゃんは優子さんに貰ったお小遣いから料金を払った。
周りの客のやり方を真似て、銃を構える。
「どれ狙ってるの?」
僕が話しかけても、紗代ちゃんは黙ったまま、並ぶ景品をじっと見つめている。
一発目が放たれた。
弾は、怪獣のフィギュアの頭上を、通り過ぎていった。
惜しい、と声をかけようとすると、紗代ちゃんは構えを崩しきゃっきゃとはしゃいだ。
「ほんまの銃みたい! パーンって!」
ひとしきり笑ってから、紗代ちゃんは再び銃を構えた。二発目は、同じ標的の傍を掠めて過ぎて行った。
三発目、四発目、そして最後の五発目と、彼女は乱射魔のような昂ぶった笑顔で、怪獣を狙い続けた。最後は綺麗に当たったが、倒れなかった。紗代ちゃんは、外した時と同じような高揚だった。景品を取るとか、標的に命中させることではなく、射的銃を撃つというのが面白くて仕方なかったのだろう。
それからも、彼女は花の蜜を求めて舞う蜂のように、忙しなく屋台を飛び回った。からあげ、たこせんべえ、チョコバナナ、かき氷……。
この華奢な身体によくもこれだけ入るものだと驚きを覚えるほど、彼女はありとあらゆるものを食して、そのたびに歓喜の声をあげた。あまり必死に食べるので、口の周りが絶えず汚れていて拭ってあげねばならなかった。ハンカチがなく、とはいえ浴衣を汚させるのは嫌で、僕のワイシャツの袖で拭いた。
金魚すくいやスーパーボールすくいなどの遊戯にも、彼女は目をきらめかせて熱中した。落ち着きがないからどれも下手であったが、それでも、鋭い歯を剥き出しにして破顔し跳び跳ねた。恥じらいなく奔走するうちに、何度も浴衣がはだけて桃色の下着がのぞくので、僕はなんとか彼女をじっとさせ、しゃがみ込んで丁寧に整えてやらないといけなかった。
彼女の汗でびっしょりの顔を、口を拭ったのとは反対の袖で拭いてやりもした。拭われてからも、また好奇心のそそる屋台を見つけて駆けていく紗代ちゃんの後を追う。そうしながら僕は、不意に手首に冷たさを感じた。紗代ちゃんの汗である。
僕はなんの気なしに、そっと嗅いでみた。独特の鼻を刺す香りがした。あまったるいのに柑橘のような涼しいところもあり、それでいて動物じみた濃さだ。
僕は彼女とともに歩きながら、気がつけば秘かに袖に鼻を寄せていた。なにか、惹きつけて止まぬ異様な香りだった。太陽の匂いに似ていた。
考えなしに歩いてきた僕たちは、露店の立ち並ぶ辺りを抜けて、広大な芝生に出てきた。そこかしこにレジャーシートを敷いて腰を下ろしている人たちがいるのを見ると、どうやらこの辺りが花火を観覧するに良いのだろう。
芝生にはもう僕たちが座る余裕はなかったが、少し外れた場所に、ベンチが空いていた。僕たちはそこに座り、花火があがるのを待つことにした。
時が経つにつれて人がどんどん密集してきて、三十分もしないうちに前後左右が人だかりになった。おそらくもうすぐ花火があがる時間なのだろう。僕はベンチから立ち、紗代ちゃんを肩車した。おーおー、と彼女の感動する声が頭上に聞こえる。
「兄ちゃん、うち、このなかで一番のっぽやわ」
「これなら楽に花火も見えるだろ」
「ええこと考えるなあ、この頭は」
紗代ちゃんはそう言って僕の脳天をぺしぺし叩く。
「なんだ、この、落ちたいのか」
と、僕が頭をぶんぶん揺らすと、紗代ちゃんは足をばたばたさせながら活気ある喧噪のなかでひときわ響く笑い声をあげた。
そうやって遊んでいると、突然。
ヒュルル、と、か細い高音が、空から流れてきた。
はっとして見上げる、と同時に、とてつもない轟音。夜空に黄金色の華が破裂する。肌が鈍く痺れるほどの衝撃。目に眩い閃光が響き渡る。
果ての見えない巨大な群衆から、どよめきの声が地響きのようにうねる。
僕はすぐ、頭をよじり、紗代ちゃんを仰ぎ見た。
褐色の肌が、驚喜でぴんと開かれた眼が、恍惚にぼんやりとゆるむ唇が、凄絶な光明に華々しく照らし出される。彼女をきらめきが彩る。土の付いた新鮮な檸檬の瑞々しさだ。
花火が次々とあがっては散ってゆく。紗代ちゃんの幼気な眼差しが、赤に、紫に、緑に染まる。
紗代ちゃんは、僕の顔を見下ろして、天に鳴る轟音に負けじと、叫んだ。
「魔法みたいや、夜やのに、まぶしい」
彼女はまた顔を上げて、声を張り上げた。
「もっと、お日さんみたいにまで咲け!」
それはまるで、天に叫ぶかのようであった。
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