四
紗代ちゃんに早く起こされることにも慣れ、酒を飲めば夜が明けぬうちに眠れることも増えた。
しかし、眠りについてすぐ、顔のすぐ傍になにかの気配がして目が覚めた。
薄ら開かれた朧げな視界。顔の傍にあったなにかがさっと遠のく。ふと目についた窓の外は、まだ青い。
僕は目をこすりながら、辺りを見回す。
すると、僕の傍らに、由梨花ちゃんが座っていた。
「うおっ、びっくりした」
僕は咄嗟に驚きの声をもらし、戸惑いながら尋ねる。
「なにしてるの、こんなところで……」
「別に、どうしたってことも、ないんやけど……」
由梨花ちゃんは言いにくそうに、
「トイレ行こ思って、兄ちゃんの部屋の前通って、なんの気なしに、寝顔のぞいてみたなっただけやねんけどな……」
消え入るような声でそう呟く由梨花ちゃんの顔は、薄暗がりのなかで、薄らと桜のように色づいている。便所は、僕の部屋のある二階だけでなく、由梨花ちゃんの部屋のある一階にも、きちんとある。
僕は、彼女の恥じらいが滲むようで、
「そ、そっか。僕の寝顔なんて見ても、つまらないのに」
とだけたどたどしく言ったきり、黙り込んでしまった。なにを言うべきか分からなかった。
気まずい沈黙を紛らわせるように、由梨花ちゃんが口を開いた。
「兄ちゃんの部屋だけ、この家のどこにもない匂いするなあ」
「そう? どこにもない匂い?」
「うん。今まで嗅いだことないような」
「お酒かな。毎日飲んでるから」
「ちゃうちゃう」
由梨花ちゃんは首を横に振って、
「お酒はお母さんも飲むもん」
「そっか。まあ、なにはともあれ、ごめんね。家を汚しちゃうみたいだな」
僕が言うと、由梨花ちゃんはまた首を横に振った。
その動きの美しさが目についた。動きのすべてがさりげない、軽やかで淡い否定である。脆く折れてしまいそうなほっそりした首に、揺れる長い髪の影がやわらかく揺らめく。
「ううん、汚してへんよ。嫌な匂いちゃうもん」
由梨花ちゃんはそう言ってから、きょとんとして、
「なんやろ。男の人の匂いなんかな」
「ああ、かもしれないね。それなら由梨花ちゃんの知らない匂いだ」
由梨花ちゃんは、目を瞑って、空気を鼻から吸った。その小さな鼻の、夜空の星を磨いて作ったような清らかな白さに、視線が誘われた。
由梨花ちゃんが、ぼうっと夢見るような曖昧な声音で呟いた。
「ふうん。男の人って、こんな匂いすんのかあ」
この部屋に彼女が入ってきて、僕の顔をのぞいていたのは、男という見慣れぬものへの初々しい興味だったのだろうか。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます