三
道路に面した用水路は、底の見えない深い緑である。澱んだ水面に、陽の光がちらちらと白くきらめいている。
用水路の傍にしゃがみこむ。
道路から水面への斜面に草が生い茂り、むっとするような夏草の匂いと湿気が、顔をねっとり撫でる。息をするのも鬱陶しいような暑さだ。思わず顔を背けると、道路のアスファルトには陽炎が揺らめいている。
隣にしゃがむ紗代ちゃんは、ここに来る途中に拾った木の枝に、家から持って来た糸を結び付けている。
「言われるがままに付いてきたけどさ」
僕は言った。
「なにするの?」
紗代ちゃんは真剣な面持ちで、小さな指で糸を弄りながら、
「なにって、見たらわかるやんか。ザリガニ釣り」
「ザリガニ?」
僕は虚を突かれて上ずった声で、
「釣れるの? そんなの」
紗代ちゃんは、汗に薄ら濡れた黒髪が頬に張りついているのをあどけない手つきで耳にかけながら、
「アホほど釣れるよ。特にこの辺は入れ食いやで」
「へえ。こんなに汚いのに」
僕が用水路を覗き込んで言うと、紗代ちゃんは小さく笑って、
「汚いからやんか」
「ああ、そんなもんなんだ」
「うん。汚い方が、食べるもんあるんちゃう?」
紗代ちゃんはそう言って、糸を結んだ枝を一つ、僕に手渡した。
「はい、これ釣り竿」
「釣り竿って……」
僕は垂れ下がる糸の先を見た。
「なにも餌がないじゃん」
「大丈夫。アホのザリガニは、それで釣れんねん」
「ふうん」
田舎の子どもは、色々と知っているものだ。
感心していると、紗代ちゃんは用水路に向かって竿を構えて、
「ほんなら兄ちゃん。競争な、どっちが釣れるか」
「競争? 僕、こんなの初めてなんだけど」
「え、初めて?」
紗代ちゃんは目をむいて、
「その歳で……そんな人おるんや」
「いくらでもいるでしょ」
「都会の人は、なにしてるんか、よう分からんなあ」
「住んでる場所は関係ないよ。この辺は誰でもザリガニ釣りしてるの?」
僕が笑いながら聞くと、紗代ちゃんは大まじめな表情で頷いた。
僕はますます可笑しくなって、
「まさか。由梨花ちゃんだって、したことないでしょ」
「なに言うてんの、いっぱいあるよ」
「あれ? そうなの? 意外だな」
「由梨花めっちゃうまいよ。まあ、うちほどやないけどな」
「ふふ、ほんとかよ」
「ほんまやよ」
僕の揶揄うような口ぶりに、紗代ちゃんはむっとして、
「くっそお。由梨花が元気やったら、うちらの競争、見せつけたんのに」
と、悔しそうに唇を噛んだ。
僕は、『由梨花が元気やったら』という言葉に一瞬、憐れみのようなものが胸に湧いたが、紗代ちゃんが悲しんでいる風ではないので、合わせるように軽く笑った。
「まあ言うてもしゃあないし、今日はとりあえず兄ちゃんをこてんぱんにして、うちの強さ見せたるわ」
「あのね、初心者だって言ったけど、さすがにそれでも負けはしないよ」
僕は焚きつけるように、
「大人と子どもじゃ、ここが違う」
と自分の頭を指した。
紗代ちゃんは目を爛々とさせて笑い、
「ようし、ほんなら、うちの掛け声でスタートな」
「うん、いいよ」
僕は竿を構えた。
「よーい……スタート!」
紗代ちゃんの声を合図に、僕は水中へ糸を垂らした。
息をつめてじっと動きを殺す。
すると、わずか三十秒も経たぬくらいで、紗代ちゃんの歓喜の声。
「よっしゃ、よっしゃ、一匹目!」
糸を勢いよく上げると、確かに、真っ赤なザリガニがぶら下がっている。
「はや!」
僕は驚いて、一応自分の糸も上げてみたが、やはりなにもついていない。
「ほら見てみいな。これが実力の差やね」
紗代ちゃんは、得意げにふふんと鼻を鳴らす。
「くっそお、小童め」
僕は悔しさに膝を叩いて、すぐにまた糸を水中に垂らして、神経を集中させる。
しかし、隣からぱきぱきと奇異な音がして、すぐに振り向いた。
紗代ちゃんが、今釣ったザリガニを、二つに引きちぎっていた。
陽光の燦然たるアスファルトには引き裂かれたザリガニの身体が微弱に蠢き、紗代ちゃんの小麦色の可憐な指が、ザリガニの濁った体液に濡れてぬらぬら輝いている。
僕はつかの間の絶句の後にようやく口を開いた。
「な、なにしてんの」
「なにって、餌やんか」
「え、餌?」
「うん。ザリガニの中身を餌にしたらな、いっぱい食いついてくんねん」
紗代ちゃんはザリガニの殻のなかから白い身をほじり出して糸の先端に結び、呆然と見つめる僕の顔を覗き込んできて、悪戯っぽく八重歯をのぞかせた。
「これ、ズルちゃうで。釣ったやつ、つこてるだけやもん」
紗代ちゃんの目に、純潔の輝きが一閃した。
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