四
突然、腹に衝撃を感じて眠りから覚めた。
唸りながら目を開くと、
「兄ちゃん、何時まで寝てんねんな」
「ああ、紗代ちゃんか……」
僕は、腹の上に跨ってる女の子を見る。白いタンクトップを纏った少年のような身体が、窓から鋭くさす陽の光で輝かしく、二日酔いの倦怠にまみれた僕の目を醒ますようだ。
鈍く痛む頭を掻きながら僕は、
「いま、何時?」
「もう十時やで」
「なんだ、まだそんな時間か」
「まだ、ちゃうよ。もう、十時やんか」
未だ幼い少女の時間の感覚だろうか。
そういえば、僕も小さかった頃は、毎朝七時には起きていたような気がする。
そんなことを思っていると、紗代ちゃんの小さな掌が僕の胸を軽く打つ。
「ほら、早よ起きいや。朝ごはんできてんねんで」
「あ、そういえば、紗代ちゃんが作ってくれたんだよね」
「え、なんで?」
「いや、なんでって……昨日の昼に言ってたじゃん。明日の朝飯はうちが作ってやるーって」
「あ」
紗代ちゃんが、思い出したように口を開ける。
僕はすかさず、
「なんだ、やっぱり紗代ちゃんには無理だったんだな、料理なんて」
「いや、違う!」
紗代ちゃんは慌てて反論をふっかけてくる。
「うちが作ったら、美味しすぎるから! 美味しすぎて、兄ちゃん、お腹破裂するまで食べてしまうから!」
「なんだそりゃ」
「ほんま! うちは兄ちゃんを殺したくない!」
「はいはい、分かったよ」
僕は笑いながらのそのそと身体を起こし、二階の客室から一階の食堂へおりた。
床の間の掛軸は昨日と変わっていない。
座って待っていると、紗代ちゃんが朝食を運んできた。
焼鮭と山菜のおひたしに、米と味噌汁、漬物と卵。
箸をつけると、あたかも田舎の民宿の朝食といった感じの、清らかな味で、酒の薄ら残る身体が洗われるようだ。
「あれ、そういえば」
僕は、ふと宿の静けさに気づいて、言った。
「優子さんと由梨花ちゃんは?」
宿のなかには人の気配がなく、外で激しく鳴っている蝉の叫びだけがぼんやりと聞こえる。
「母ちゃんは早うから街の方に買い物行って、由梨花は、さあ?」
紗代ちゃんは、廊下の方を遠くまで見透かすように見つめて、
「多分、寝てるんちゃうかな」
「ふうん。そっか」
そういえば昨日、昼食や夕食の折に見た由梨花ちゃんは、時々咳をしていた。そのたびに優子さんは、不安げな目をそっと由梨花ちゃんの方に向けていた。
ご飯を食べ終えると彼女がすぐに部屋へ戻ったのを、僕と話す時のたどたどしさから照れ屋なのだろうかと察して微笑ましかったが、しかし、この時間に紗代ちゃんとは違って部屋で臥しているのを思うと、体調が悪いのかもしれない。であれば、紗代ちゃんと瓜二つでありながらどことなく儚げであったのも頷ける。
「兄ちゃんって、高校生やんな?」
紗代ちゃんが唐突に口を開いた。
僕は、こちらをじいっと見つめる紗代ちゃんの眼差しを不思議に思いながら、
「うん、そうだよ」
「やんなあ、昨日言うてたもんなあ」
「それがどうかしたの」
僕が聞くと、紗代ちゃんはこちらを見つめたまま、
「高校生の男の人って、そんなに髭生えてるもんなん?」
「ああ、これ?」
自分の顎に手をやる。
微妙にのびた髭がちくちくと指に触れる。
「ううん、どうだろ。人によるけど。僕もそんなに濃い方じゃないと思うよ」
「ふうん、でも、学校の先生そんなにないけどなあ」
「それは剃ってるからじゃないの?」
僕が言うと、紗代ちゃんは虚を突かれたようにぽかんとして、
「え? 髭って剃るもんなん?」
「そりゃそうだよ。僕も長旅を続けてるからちょっとのびてるけど、普段は剃ってるよ」
「へええ、そうなんやあ」
紗代ちゃんは感心したように、まじまじと僕の顎の辺りを眺める。
髭を剃るなんてことは、誰に教えられるでもなく知っていそうなことだが、どうして紗代ちゃんはこれまでそれを知らないのだろう。父親の朝の姿を見ていれば、髭を剃っている様子はあるだろうに。
しかし、そういえば、昨日ここに来てから今まで三人以外の姿を見ていない。気配もなかった。
夏は閑散期でここしばらく客はないと、優子さんは言っていたが、紗代ちゃんと由梨花ちゃんの父親だって僕は見ていない。
この家には、父親がいないのだろうか。
ひとり考えを巡らせながら飯を食べていると、ふと、顎にやわらかい感触がした。
なにかと思うと、紗代ちゃんが僕の髭に触れていた。
小さな掌が顎を撫で、くすぐったいやわらかさと、はっとするような熱さ。
僕は思わずはにかみながら、
「なにしてるの」
と顔をよじる。紗代ちゃんはころころと笑い声をあげた。
「へんな感じやなあ。草むら触ってるみたいで気持ちええわあ」
「こんなもんが楽しいなら、しばらくは剃らないでおくよ」
胸に浮かんだ泡沫の照れくささが消え、僕は顔をもとに戻す。
紗代ちゃんは、丸い頬を綻ばせて、再び興味深そうな目のひらめきで、こちらへ手をのばした。
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