Ⅷ 君の感情の話

 ──ぴたりと足が止まった。


 放課後、静まり返った校舎。私以外の生徒はとうに下校したと思われる、最終下校時刻間際のこの時間帯。空気が冷たく澄んでいるせいか、足音ひとつすら嫌に響いて耳に残る。


 そこに、明らかに教員のものではない人影が──しかも文芸部部室前に──ひとつ。


 その人影──小脇に文庫本を抱え、どこか気怠そうに歩くその姿には、あまりにも見覚えがあった。


「…………後輩くん?」


 人影の肩が、びくりと震える。


 私も彼も、立ち止まったまま──微動だにしない。


 通りの喧騒だけが遠く聞こえる中──顔も合わせぬ私たちの間には、あの狭い部室でのものとは全く違った、居心地の悪い緊張感に包まれた沈黙が流れていた。


 ──声を掛けたはいいものの、続く言葉が見当たらない──。


「…………誤解しないでください」


 ──先に口を開いたのは、後輩だった。


「校閲用に貸していただいてた赤鉛筆を、返しに来ただけですから」


 何の感情も読み取れない声。


 いや、それだけならいつも通りだ。そうではなく、何か内に秘める感情はありつつも、それを気取られないよう──否。



 それを覗かれることを拒絶しているかのような、硬くて無機質な声色だった。



「……前々から退部しようとは思ってたんですよ。だって、どうせここに来たって本読んでるだけですし。それなら家に帰って空調の効いた部屋で読書した方がよっぽどいいじゃないですか」


 聞かれてもいないことをひとり喋り出す後輩。人気のない廊下に響く声は、依然として無機質で、しかし、自分で築いた壁は今にも決壊しそうで──。


「ここの部室ときたら扇風機のひとつも置いてないし、先輩が五月蝿いせいでちっとも読書に集中出来ないですし。しかも長年掃除してないせいで少し埃っぽいですし」


 厭に──厭に、饒舌な彼だった。


 内に隠した何かを吐き出すように、こちらも向かぬまま、見たこともない勢いでひたすらに一人で喋り続ける。肝心なものは何も吐き出さないままで、不安の内圧を下げようとするかのように。


「部誌の上に積もった埃とか掃除した方がいいですよ。埃吸ってると喘息になるっていうじゃないですか。本で読んだだけなので本当か知りませんけど。あとネタ出ししてるときに独り言言うのもやめた方がいいですよ。一人の部屋でぶつぶつ言って学校の七不思議のひとつに祀り上げられても知りませんからね。まぁ全部俺には関係ないことですが──」


「──後輩くん」


 いたたまれなくて、私は彼の言葉を遮った。


 聞いていられたものではなかった。彼の心の内圧が、私の方にも流れ込んで来るようで。


 そして、その原因を作ったのが私であることが──より一層私の胸に、乱雑に掴まれたような痛みを与えた。


 余程この場で回れ右をして帰ってしまいたかった。何なら後輩と共に私も退部届を出して、この胸の痛みから逃れてしまいたかった。


 ──けれど、それを一番許せないのもまた、私だった。


「後輩くん」


「…………なんですか」


 憮然とした様子の彼の返事。一応会話が成立したことに、少し安堵する。


 私は部室の扉を指さし、言った。


「少し、中に入って話そう」





「……相っ変わらず狭い部屋ですね、本当」


 うんざりしたように呟く後輩。

 向かいに座った私の方を頑なに見ようとせず、部誌の上に積もった埃を眺めている。


「そりゃあ、あれから空間が歪んだりとかしてないからねぇ」


 いつものように軽口を叩いてみるが、返事はない。




 ──昨日も一昨日も一昨昨日も、ずっとこちらから後輩を探しに行きはしたのだ。この間ひとりの部室で決めた覚悟を抱いて、毎日逃げ帰りたくなるのを堪えながら。


 だが、会うことは叶わなかった。


 そもそも教室の距離的に、ホームルームが終わればすぐに帰ってしまう後輩に会うなど無理があることだったのだ。

 ──後輩の方から、こちらに会おうとしない限りは。


 それがこうして今、最終下校時刻間際──ここに彼がいる。


 その行動の意味は……酷い先輩に文句のひとつでも言いに来たのか、それとも──。


「…………会いに来て、くれたんだよね。目的は分からないけど私は嬉しいよ」


「おめでたい人ですね。こんな最終下校時刻間際だっていうのに。先輩が帰った時間を狙って来たとは思わないんですか?」


「思わないよ」


 後輩の真意が分からない以上、私だってこんなふうに知ったようなことを言ってみせるのは怖いけれど。


 ──覚悟なら、とっくの昔に決めてあった。


「だって、その赤鉛筆、私のじゃないもの」


「それは…………」


 気まずそうに押し黙る後輩。


 続く言葉が見つからず、また厭な沈黙が流れる。


「…………俺の勘違いでした。帰ります」


「待って」


 ガタッ、とパイプ椅子を乱雑に引く後輩を慌てて手で制す。ただ、後輩とて本気で帰る気はなかったらしく、手で制しただけで座り直してくれた。


 やはりここに来た目的は、私に会うことだったらしい──虚勢で無理やり信じた憶測が確信に変わり、少し安堵する。



「…………ごめんね」


「何がですか」


「全部」


 出し抜けだった気もするが、気付けば私は謝罪を口にしていた。

 それ以外に言葉が見つからなかった。何か他の気の利いた方法で後輩の真意を探ったり心の内を覗いたりできるほど、私は器用ではなかった。


「後輩くんの内面に、土足で踏み入ろうとしたこととか。無神経なお節介とか。とか」


 ──君に恋愛感情を抱いたこと、とか。


 とは、言えなかった。


 この期に及んで。


 あの物語が後輩の目に触れた時点でそんな望みなど捨てるべきだと分かっているのに。何より、この感情が原因で、きっと彼を傷つけたのに。


 ──それなのに、この期に及んで私は保身に走ったのだ。



「…………ごめん。帰るね」


 その事実が、自分でたまらなく厭になった。


 淡い感情を抱く少女としてはもちろん、先輩としてさえ、ここにいてはいけないと思った。元より冷えていた筈の椅子と長机が急に冷たく感じられて、手先からじわじわと染み渡る。真冬の空気が、私の罪の輪郭をはっきり浮かび上がらせる気がした。


 やはり、私などが先輩面をして彼に向き合おうなど──到底、無理な相談だったのだ。


 そう思い、パイプ椅子を引く──。


「待ってください」

 

 後輩に、手で制される。


「謝らないでください。今更そんなこと言われても反応に困るので」


「……ごめん」


 ひとまず私は座り直し、また謝罪を口にした。……そうだ。今の私にはまだ、自分勝手な自責の念に浸る権利すらない。




 冬の空に立ち込める暗雲のように重苦しい沈黙が、終始この狭い部室を覆っていた。私も彼も本音を言わず──或いは言えず──相手の胸の内を、垣間見ることすら叶わないまま。雲を掴むような探りと拒絶の応酬で、後輩は謝罪と償いの権利すら与えてくれないように思えた。それどころか、触れることすら拒まれるようで──まるで、茨の中にでも閉じこもっているようだ。


「もう一度言いますが、誤解しないでください。俺は先輩と雑談をしに来たわけでも、まして退部届を取り下げに来たわけでも、ありませんから」


 繰り返される拒絶の宣告。

 それは、私のみならぬ、不特定多数──否。


 自分を取り巻く、ありとあらゆるものに対する拒絶だった。




 ──だが、自分で高く築いた壁の向こうで必死に叫んでいるそれは──今にも決壊し、溢れ出しそうなそれは──何だ?




「ねぇ、後輩くん」


 依然として手探りながら、私は改めて後輩に呼びかけた。


「──怒ってるの?」


 率直な疑問──であると同時に、そういうことではないのが分かった上での、駆け引きだった。


 駆け引きだなんて慣れないことをして上手くいくのかは分からない。だが、後輩の、その内面にあるものが見えないことには、向き合うことも出来ない──そう思った。


「怒っ……てません」


 依然として硬い声音のまま──しかし初めて声に動揺を滲ませ、答える後輩。


 関わるもの全てを拒む後輩の、心の深く奥底の叫びが、より一層強く聞こえた気がした。


「嘘。怒ってるでしょう」


 ──今度こそ、後輩の内面に触れられるだろうか?


「怒ってません」


「怒ってるよ」


「怒ってませんってば」


「──じゃあ、なんで?」


 なんで? ……なんで、か。

 それが分かれば苦労しないだろう。お互いに。


「しつこいですよ」


 またあの硬い声音に戻る。


 伸ばしかけた手を──音を立てて、振り払われたような感覚だった。


 繰り返される拒絶と、こんなふうに手を振り払わせているのもまた私だという事実に、何度でも胸を抉られ──たまらず、俯いて拳を握りしめる。


 ……仕方ない。そう簡単にいかないのは分かっていた。この部室から出て行かず、会話に応じてくれているのだからまだ心が折れるには早い。何か別の方法を────



「────…………わかりません」



 ──ともすれば静まり返ったこの部室でさえ聞き逃してしまいそうな、酷く小さな声だった。


 先程までの硬い声音とは対照的な──聞いたこともないくらいに弱々しく、触れれば壊れてしまいそうな脆さが剥き出しの──そんな、声。


 ──私は思わず顔を上げる。


「……後輩、くん」


「…………」


 後輩は何も言わない。


 だが、その沈黙は──先程までの、全てがすれ違って噛み合わないような、気まずい沈黙ではなかった。



 あれは、彼なりの救難信号と取っていいのだろうか。高く築いた壁の向こうから漏れ出した、紛れもない本音──或いは、当人すら気付かない、それ以上の何か。



 私を頼ってくれた訳ではないだろう。感情をこんな乱雑な形で自覚させられて戸惑って、挙句伸ばされた手も取れない程に高く高く壁を築いて、閉じこもろうとして。


 そんな原因を作った張本人に、頼ろうなどと思うものか。


 だが彼には、きっと他にいないのだ。こんなふうに、面と向かってちゃんと話が出来る人が。他に、頼ることが出来る人が。


 消去法で──私しか、いなかったのだ。


 それでもいいと思った。充分だ。消去法だろうが何だろうが、私はこうしてここに来てくれた、その事実だけ見ていればいい。そして、消去法で頼ってもらったからには──やれることは全てやろう。

 罪滅ぼしの意味も込めて。


「後輩くん」


 私は徐ろにパイプ椅子から立ち上がると──あれから触れていなかった、退部届をつまみ上げた。


「これ、捨ててもいい?」


 後輩が、ゆっくりと視線を上げてこちらを見る。


 ──その視線にもはや棘はなかった。拒み続けること、感情の波に揺さぶられること──それらへの疲弊が、はっきりと見て取れた。


「……ご自由にどうぞ」


「ありがとう。じゃあ捨てておくね」


 厳密に言えば、退部届を捨てたからといって退部が取り消しになるわけではない。

 だが、後輩はまたこの部室に来てくれるだろうという、そんな奇妙な確信があった。



 正直なところ、後輩がこの部室に帰ってきてくれたところで、明確に何かしてやれる自信などなかった。ただ、人より少し感受性が豊かな私だから、たかが感情如きの話と一笑に付さずにいてやれるだけ──当人の中でそれがどんなに大きな問題で、どんなに心を乱されるものなのか、それを分かってやれるだけ。せいぜいそれくらいだ。


 また失敗するかもしれない。傷つけるかもしれない。何が正解かも分からない。そもそも正解なんてない。


 それでも後輩は、消去法で私のところに──この部室に、帰ってきた。


 だから、それに報いる為に。

 そして、あの夏の目標──「後輩のことをよく知る」というそれを──達成する為に。


 こんなにも胸を突くこの感情が未だ私の胸を占拠する以上、きっと、また傷つけるけれど。


「──ごめんね。ありがとう」


 もう一度、君に迷惑をかけるかもしれなくて。

 もう一度、君の隣で君の感情のことを考える権利をくれて。



 ──そう、小さく呟いた。

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