夏空と君と私と、感情の話。
木染維月
Ⅰ 文を書かない文芸部員
探しものは、ここにあるのに――。
◆
狭い部室の小さな窓から見える四角い青空は、今日も馬鹿みたいに青かった。一点の曇りもない、どこまでも透明な、夏色の空。立ち上る入道雲だけが白く光っている。
そんな、いかにもな夏の一日――我が文芸部室が蒸し風呂状態となるのは、どうやら不可避で。
六畳にも満たない部室に、たった一つ置かれた長机。そこに、私はペンを持ったまま、後輩は読んでいた文庫本を持ったまま、互い違いに向き合って突っ伏す――私たちはこの暑さに、完全に活動する気力を奪われていた。
「暑いねぇ……いやほんと暑い。どうにかならないのね、この暑さは……こうも暑いと、いかに文芸部員とて文章書く気になんかならないわけだよ。ねぇ後輩くん?」
「暑い暑いって、そんなに連呼したらそりゃ暑くもなりますよ。いいから執筆して下さい。そろそろこの本読み終わるんで、暇になっちゃうじゃないですか」
「なんで当然のように自分で書く選択肢を除外してるのよ……あー、暑い」
「俺は校閲担当なのでいいんです」
「ふーん……」
それにしても暑い。長机一脚置くのがやっとの部室に空調設備など土台無理なのは承知だが、それにしたって扇風機のひとつくらい設置してくれてもいいとは思わないのだろうか。……きっと学校側は、こんな廃部寸前の過疎部なんてどうでもいいのだろう。
夏は暑い。当たり前だ。だから、あまり好きではない。――抜けるような青空とか、やたら立体的な入道雲とか、五月蝿く鳴る蝉の声とか、暮れの凪とか、夏が訪れると襲われる謎の郷愁とか――描写しやすいことこの上ない季節では、あるのだが。
この暑さだってそうだ。この部室の状況を「むせ返るような夏の匂いが、狭い部室に立ち込めている」なんて表現すればそれっぽいが、実際はただの蒸し風呂状態でしかない。とんだ描写詐欺である。
閑話休題。
ところで、我が部に於ける、私以外の唯一の部員――後輩は、何故か全く執筆というものをしない。あまりに堂々とているので何となく放置しているが、よく考えたらその理由をちゃんと訊ねたことはない。どうせこのまま暑い暑いと連呼していても書く気など起きないのだし、ならば、と、活動にならないついでに、私は後輩にその訳を問うことにした。
「――ねぇ、後輩くん」
「何ですか。……アイスなら買ってきませんよ」
「頼んでないよ。……そうじゃなくてね、君に折り入って聞きたいことがあるんだ」
すると後輩は、読んでいる本から顔を上げ、怪訝そうな顔でこちらを見た。
「……何すか、改まって」
そんな顔をされると、こちらとしても少々訊ねづらい。ずっと触れずにきたことでもあるし。何なら、とてつもなく大きな地雷を踏み抜こうとしている気さえした――が、部長が部員に活動しない理由を訊ねるのは当然の権利だ、と思い直す。
そして、なるべく何でもないふうを装って、後輩に問うた。
「なんで君は、文章を書かないの?」
言ってしまってから、しまった、と思う。ただでさえ触れてはいけなさそうな話題だったのに、責めているかのような言葉遣いになってしまった。今更かもしれないが、慌てて付け加える。
「いやあのね、別に責めてるとかじゃないんだ。ただ、その、何、一応文芸部だし? もちろん廃部寸前だから部員は居てくれるだけでありがたいんだけど、その――」
「まだ何も言ってないじゃないですか」
聞かれてもいない言い訳の言葉を並べ立てて慌てる私に、後輩は苦笑する。
「まあ、いつか訊かれるだろうとは思ってましたし。一応部員なんで、何も書かないってのは流石にまずいのも、分かってましたしね。ちゃんと答えますよ」
そう言って後輩は、読んでいた文庫本をぱたりと閉じた。
蝉の声がやたら五月蝿く鳴り響く。
私は、既に、それを訊ねたことを後悔し始めていた――。
「……とは言っても、別にそんな大した理由でもないですけどね。聞いてくれますか?」
「…………、うん」
「ありがとうございます」
後輩は短く礼を言う。
そして、訥々と語り始めた。
「……俺、文章を書くこと自体は苦手じゃないんです。見ての通り、読書は好きですし。これだけ読んでて書けない筈はないんですよ。でも、」
ここで後輩は一度、言葉を切る。
そして、夏空の澄んだ蒼さから逃げるように、目を伏せて――言った。
「――俺には、人の感情ってものが、あんまりよく分からないんです」
――蝉の声が、遠ざかる。
「あ、誤解しないでください。別に、全くの無感情ってわけじゃないんです。人として最低限の喜怒哀楽とか恐怖とか、そういうのはあると思ってます。人の感情を汲み取るのも、人並み以下ではありますが、ある程度までは出来ますし。──ただ、ある種の強い感情とでも言いましょうか――何ですかね、例えば激しい憎悪とか嫉妬とか、或いは溢れて止まない恋愛感情とか、あとは、それこそ先輩の文章によく出てくる、夏が近づくとやって来る郷愁とか――そういうのが、俺には全く分からない。だから、俺には小説は書けないと思ってます。それだけです」
「…………」
返す言葉が見つからず、私は黙りこくる。
迷子の蝉が一匹窓ガラスに衝突し、そして落ちていった。
「十数年間生きてきて、俺は人を好きになったことがありません。だからその辺りに付随する感情も分からない。思春期男子としては若干特殊ですよね。もちろん強い感情はそれ以外にもたくさんあると思います。けど、直近で一番見つけやすいのはそれかな、と。まあ、ただの具体例ですが」
「――だから、感情を言語化する、この文芸部に――入りました」
――蝉の声が、再び五月蝿く鳴り出す。
「そっ……か」
空は抜けるように青く、雲は眩しいくらいに白い。蝉の声が煩いのに、部室は妙に静かだ。
感情を知りたいというそれがまさしく感情そのものだと、後輩はまだ知らない。そんな実態のないものは生きているうち、書いていくうちに勝手に見つかるものだと、後輩はまだ知らない。
そして、後輩の知りたいその感情は、この狭い部室に在ることを――後輩は、まだ知らない。
夏空は透明だ。校庭の桜は緑深く、この階まで顔を出す一輪の朝顔は凛として空を見る。
咽せ返るような夏の香と、積み上げた部誌の、古紙の香り。
――夏の匂いがしている。
「探しものは――ここに、あるのに」
「……どうかしました?」
「ううん。別に」
「そうですか」
こんなに傍に強い感情が在りながら、分かれないなどと宣う、後輩の感情探しに付き合ってやる気など毛頭なかった。無表情な奴だとは思うが、そんな感情たちをずっと識れない程の無感情ではないのを、私は識っている。要は若いのだ。若造が生き急いでいるだけなのだ。私も含めて、そうなのだ。
だから今、この感情が、夏の香に溶けようとも――。
「ほ、本当にどうしたんです? 俺、そんなまずいこと言いましたか?」
「いいや? 全然。……事情は、分かった。実質幽霊部員状態を、部長として黙認します。これで……いい?」
強すぎる感情が夏に溶け出しては止まない私を、後輩は気まずそうに見ていた。
そして、感情が全て溶けきってしまうまで――後輩は、ただ黙って傍に座っていた。
「……大丈夫、ですか?」
「ばか。……アイス買ってきて」
「嫌です。……なんか、その……変な話して、すみませんでした」
――そこじゃない。そこじゃないんだよ。
そんな私の声が、後輩に分かる筈もなく。
――ただ的外れに私を気遣う後輩の、その声が、ひどく優しく響いていた――。
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