黒い紳士

(とあるサイトに即興小説という取り組みがあり、三十分の制限で、黒い紳士というお題に沿って書いたものになります。ちょっとだけ誤字を直してあげることにしました。匿名で参加したものの、なんかもったいなくて。)



 深い霧の立ち込める中、ほんの十メートル先の景色も見えない。突然唐突に視界に現れる自転車に驚かされ、足元を滑らせそうになる。霧、というのは正確には違うようだ。このあたりに商業施設が現れてから、ずっとこうなのだ。以前は普通の町だった。巨大なイオンモールが撤退した後、名前も知らないような企業が買い取った跡地に、スーパーが入った。そこから街の様子がおかしくなり始めた。



 とにかく視界が悪い。すれ違う人の顔にもどこか精気がなく、亡霊のようだった。不意に目の前に黒い人影が現れ、俺は身構える。真っ黒な人影だった。年の頃も、性別も分からない。いくら近づいても、相手は真っ黒のままだった。


 すれ違いざま、不意に手首を掴まれる。

「早くここから逃げろ」

 男の声だった。妙齢の、紳士。彼は相変わらず真っ黒で、表情を伺うことすらできない。

「逃げろって言っても、一体どこへ?」

「ついてきたまえ」

 と紳士は言った。



 黒い紳士は、着ているものはもちろん、顔立ちまで真っ黒だった。俺は不気味さを感じつつも、なぜかそこまで悪い印象は抱いていない。言われるままに彼の後をついて歩いた。道行く人たちが亡霊のように立ちふさがる。黒い紳士は、もっていたステッキを一閃ささえる。無数の亡霊たちが、一斉に斃れた。


「おい、なにやってるんだ」

 俺は紳士に食って掛かる。

「彼らはもう、君の知っている人間ではない」

 もとはあのスーパーで働いていた人や、その家族、友人たちだったのだがね、と紳士が言う間にも、俺たちは無数の亡霊たちに取り囲まれている。青白い顔の、人間たち。

「この霧はあのスーパーから出てきている。私はそれを止めに行く。君は安全なところに早く逃げろ」

 紳士は取り囲む亡霊たちを次々に撃ち伏せていく。

「逃げろって言っても、だからどこに!」

 俺は苛立ちながら叫んだ。

「どこでもいい、この霧の届かないところだ」

 そんなわけにはいかなかった。俺の知っている限り、このあたりはすでにあの霧に覆われている。町が、いや、市全体が囲まれているのだ。今では霧はもっと広がり、県全体を覆っているかもしれない。それに、あとからあとから湧いてくる亡霊たちのせいで、紳士の側を離れることができない。


「霧を止めるって、一体どうするんだ」

「あてはある。しかし危険だ。君を巻き込むわけにはいかない」

「とっくに巻き込まれてんだよ!」

 俺は襲い掛かってくる青白い顔の、金髪のにいちゃんを蹴り飛ばした。

 紳士はうなずく。俺たちはスーパーの敷地に走った。



 だだっ広い駐車場に、車はほとんど見られなかった。

 食料を求めて、多くの人が集まっていて、辺りを埋め尽くしている。襲い掛かる人々を交わしながら、紳士は搬入口の方へ走った。俺も続く。霧の中では不思議と体が重かった。運動など学生の頃のサークル活動以来だが、どうしてか、よく動く。疲れるどころか、かえって心地よいくらいだ。攻撃をいくらか喰らったが、ほとんど痛みもなかった。この霧の中にいるせいだろうか。




 紳士は従業員の制止を振り切って、バックヤードを走り抜ける。調理場に着いた瞬間、あまりの悪臭に花がもげそうになり、俺は思わず鼻を覆った。顔面をふさぐマスクが欲しい。ヘドロと硫黄と腐った死体が混ざり合ったようなにおいがする。


 どろり、と何かが足元を流れてきた。ヘドロ色の粘性の高い液体。

「やっとみつけたぞ、私の本体を返してもらおう」

 黒い紳士はヘドロに飛び掛かった。びや、とヘドロが飛び散る。中からぎょろりとした巨大な目玉が覗いた。きもちわりぃ、俺は吐き気を催す。



 ヘドロが食物に触れた瞬間、食物は一瞬で気化して白い霧になった。俺たちが吸い込んできたのはこの気体だったのか。ヘドロの素に、従業員が次々と食材を運び込んでくる、かつて調理場だったそこは、もう面影をとどめていなかった。腐った川底の様相を呈している。新鮮な食物も、そこに運び込まれた瞬間、見る間に腐っていく。従業員は全く気にする様子を見せず、ヘドロの付着した調理器具で、腐った食材を加工していく。やきそば、から揚げ、ホットドッグ。それらはそのまま陳列されていくのだ。俺たちはもしかして、ここ数か月、気づかずにあれを口にしていたのか?

「ご明察だ」

 紳士は言った。

「私は影。自分の本体を奪った怪物を探して旅をしている。けれども今度のけもののも、私を奪ったばけものとはまた別物のようだ」

 柔らかな溜息をついた紳士は、言葉とは裏腹に、高く空に飛びあがり、強烈な一撃を化け物にくらわした。目玉を突き刺された化け物は、苦しそうな断末魔を上げて、煙を上げながら溶けていく。


 気がつくと、化け物の体は辺りにはなく、大きな目玉がずぶずぶと溶けているのが見えるばかりだった。




 外に出ると、霧ははっきり晴れて、辺りを心地よい日差しが包んでいる。紳士は「それでは私はこれにて」と口にすると、真っ暗の目鼻のまま、街中へ消えていった。



 気がつくとスーパーは撤退していて、あとにはまっさらな土地が残されただけだった。俺はときどきあの黒い紳士のことを思い出して懐かしんだが、いつしか思い出すことすらしなくなり、自然とそのことは忘れてしまった。ただときどき、ゾンビ映画を見ているときに、無性に寒気がして見ていられなくなってしまう。それから、スーパーの総菜を買わなくなった。いくら半額のシールを貼られても。

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