第16話 「マルティン・ベック」シリーズ全10巻

 最終巻をランダムに開いてみる。

「ただし、ストックホルムの麻薬市場とまるっきり無縁ではないらしく、三人の売人を訪ねて控え目な買い物をしたことがあるという。ブツは時価で買い、その後だいぶたってから、また同じ売人たちを訪れた。麻薬患者に特有の、切羽つまったような様子はうかがえなかったらしい」


 今から半世紀よりももっと前に、このスウェーデンの警察小説シリーズの第1巻が世に出た。「マルティン・ベック シリーズ」は、この分野の金字塔とも言うべき名作である。主人マルティンは、名探偵のような華々しい登場ではなく、冴えない中年男として現れる。ふたりの子どもがいて、妻との関係は冷えている。妙にリアルだ。中間管理職といった立場であり、かつベテラン刑事だ。警察は組織なので、実にたくさんの登場人物が出てくる。10巻を読み通せば、優れた群像劇としての深い味わいを得られる。

 

 ここで、作者に目を向けよう。マイ・シューヴァルとペール・ヴァールーの夫婦合作なのである。一冊を三十章として構成し、一章ずつ順番に書いたと聞いた時には驚いた。よく話し合って共通のイメージをしっかり持って書いていることがうかがえる。このようにユニークなやり方で書かれる作品は滅多にないだろう。夫婦としても素晴らしいではないか。

 

 10巻完結は、最初からの計画だった。それは、1965年から10年に渡るスウェーデン社会を描き出そう、という壮大なものだった。つまり、推理小説のなかの警察小説であり、社会派小説の側面も大きいのである。冒頭に挙げた麻薬だけでなく、売春や猟奇的殺人、テロといった事件の謎を追ううちに、私はストックホルムの路地裏に迷い込んだ気持ちになったものだ。社会の発展に取り残される人たちの存在に気がつかされ、その苦境に考えさせられた。

 

 近年、新訳として出版されたのを機に、再び本を手に取った。まえの重訳の訳文とたがわず、読みやすかった。また、ほどよく中味を忘れいたので、一度目と同様にハラハラドキドキしながら読むことができたのは、幸いだった。


 中年男マルティンは、最初と最後ではずいぶん印象が変わる。最後のほうは、硬派好みの読者は眉をひそめざるを得なかった、それもそのはず、ストーリーに甘みが加わったから。素晴らしいのは、恋愛要素が加わっても推理小説として調和がとれているところだ。

 さらに、クラシック好きの私に嬉しいことがあった。ストーリーの余白に、マルティンと彼の娘が音楽を聴く場面がちょっと出てくる。ベートーヴェンなど直球ど真ん中のクラシックであることに最近読んで気が付き、さらにこの作品への思い入れが強くなった。


 最後に、読む順番について強調しておきたい。このシリーズで一番有名なのは第四作「笑う警官」だが、ぜひ、第一巻「ロゼアンナ」から順番に読んでほしい。十年の間に魅力を加えていく登場人物たちの軌跡を、余すことなく味わえるはずだ。




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通っている文章教室で、評論の課題のために書きました。

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