ニO彡ハ

@mmznhmn

積乱雲は突然に

注: 本文中における地点位置の表記方法はISO 6709を、日付と時刻の表記に関してはISO 8601に準拠する。また半角スペースの挿入は、あくまで視認性の向上のために用いている点をご留意頂きたい。


Takadanobaba city +35.713+139.706

2038-01-10 T 03:21:11 +09:00

2038-01-10 T 03:21:12 +09:00

2038-01-10 T 03:21:13 +09:00

……


今宵高田馬場に降り注いだ雨水は、翌朝神田川の濁流を形作るのだろう。

アスファルトで舗装された川沿いの歩道も、今は神田川へ流水を流し込むための受け皿としての機能しか果たせていない。

私は淡々と、一歩一歩、街灯のぼんやりとした光だけを頼りに、足首まで冷水が染み渡らないよう、できるだけ浅い場所を選んでゆっくりと踏みしめる。

この時期にこれだけの大雨はどうも珍しいな――という私の 呟きひとりごとも、豪雨によって速やかに掻き消された。


装着式携帯電話端末スマートグラスの右端をトントンと2回叩き、音声アシスタントを起動する。

《お呼びでしょうか?》

この大雨による故障の発生を少し危惧していたが、どうやら余計な心配だったようだ。

「目的地まであと何分?」

《残り3分です》

「オーケー、ありがとう」

この足場の悪さからもう5, 6分は見ておいた方が懸命だろう。


しばらく歩いていると、突然ハイビームの眩しさに目がくらんだ。

向こうから迫りくる一台の自動車はエンジン音が皆無の上、運転席には誰も座っていない。

「ちとまずいか……」

あれは最近富裕高齢者層の間で人気急上昇中の、燃料電池式完全自動運転車H I G H E N D - P R I U Sだ。だとすれば、全身を漆黒のレインコートで覆われた私が、自動運転AIの認識対象から漏れる可能性は十分高い。

道幅は車がかろうじて一台通れるほどしか用意されておらず、左手にはブロック塀が延々と続き、右手の手すりを超えた先では神田川がうねり狂っている。


さて、どうしたものか。

私はできるだけ道路の左側に寄り、傘をそっと閉じて、ブロック塀に背中から張り付くことで車をやり過ごそうとした。

まるで家守ヤモリだな……などと思考を巡らせていた刹那、自動運転車は徐行することもなく私の眼前を通過し、水たまりの汚水が跳ねてレインコートに容赦なく叩きつけていった。


ああっ、くそったれ。

これだから完全自動で安心安全、などという甘言には信頼がおけないのだ。


―――


住所はここで間違いない。築30年を経過した学生向けの単身アパートだ。

警察は一通りの捜査を終えたようで、昨日まで周囲を賑やかせていたパトカーやその類は既に撤収していた。

錆びついた階段からはギッギッという音が漏れ出し、換気扇はどの部屋も黒カビがべっとりとこびり付いたままだ。

だがどれほど年季が染み込んだ格安アパートだろうと、東京の一等地に軒並みを連ねる高級マンション同様、各部屋戸口の右側には日本が誇る最強のセキュリティ認証装置が堂々と鎮座している。


静脈認証装置Vein Authentication Device、通称VAD。


静脈――それは毛細血管から心臓へと上る血流の経路を指す。

偽造が困難であり、例え双子であろうと個人識別が容易であり、成長期さえ過ぎればほぼ変化しなくなる。まさに人体が生体認証のために備え付けられたと言っても過言ではない、生命に割り当てられた究極の個人識別特徴IDだ。


静脈は指紋・虹彩・顔認証などといった他の生体認証方式と、長いこと競り合いを続けてきた。

しかし2020年代初期には非接触・高速認証・偽造困難性を売りにしたVADが登場。

政府事業におけるVADの採択が拍車をかけると、ビジネス、コンシューマーの両分野で一気に圧倒的なシェアを誇ることとなる。

そしてこのご時世、現代人はVADへの登録がなければコンビニで買い物もできず、ATMからお金を下ろすことも、自宅に入ることすらもままならない。

生活を楽にする手段の1つに過ぎなかった静脈認証は十数年という時間をかけ、もはや無ければ生活していくのが困難となる立ち位置まで、我々の生き方へと深く深く根付いていったのである。


私は201号室の扉の前に立った。

耳にタコができるほど聞き馴染みのある、VADの音声ガイダンスが語り始める。

《これより認証Authenticationを開始します。誓いOathを》


Oathオース――それは嘘偽りがないという道徳的・宗教的な意味を超越し、自身の手のひら静脈で認証機器に対して検証する行為自体を指すようになった。

右手の平を広げ、指先をピンと先まで伸ばし、青色に点滅する読み取り装置の前へと差し出す一連の構え。それは認証機器の前で嘘偽りなく、自身が自身であることを証明する正当な手段。

昨今の小学生が入学してからまず最初に覚える事柄は、漢字でも数字でもなく、校門を通過するために必要なOathの手順だそうだ。まだカードキーやクレジットカードを利用していた祖父母の世代にとっては想像もできないであろう全国総認証時代がやってきたのである。


試しに私は、一度手の平をかざしてみることにした。

直ちに読み取り装置が赤色に点滅した。

認証拒否Authentication Reject。照合するデータが見つかりません。もう一度お願いします》

当然ながら認証は通らない。

これで侵入できるようならばセキュリティいらず、私の商売もあがったりだろう。


「さて……」

私は一息つき、スマートグラスの右端を2度叩いた。

《お呼びでしょうか?》

静脈偽装Vein Spoofing

スマートグラスは高感度マイクで私の小声を聞き取り、耳元のツルから骨伝導で返答する。

《対象は?》

私は対象クライアントの名前を短く呟いた。

《準備完了です。》

「実行」

《警告。このアプリケーションの実行時に、使用者は激痛を伴うことがあります》

「了承」

《警告。このアプリケーションの実行は、東京都内で適用される偽証関連迷惑防止条例に抵触する可能性があります》

「了承……」

いつもながら煩わしい警告アナウンス、最悪のUXUser eXperienceは仕事前のやる気を一気に削ぐ。

今度デイヴに頼んで、この確認フェーズをスキップしてもらうように聞いてみるか。


生体情報Meta data呼び出しCalling完了、これより書き込みWritingを実行します》

「ぐっ……!」

途端、右の二の腕上に、青々しい静脈がくっきりと浮かび上がる。

右の手のひら上で、鈍い激痛がじんわりと走り始める。

思わず左手で右肘の関節を抑えるが、既に苦痛の電気信号は脊髄を経由し前頭葉へと伝達されていた。

私はこの痛みを、やかんの蒸気でやけどした瞬間と、それを保冷剤で冷やした瞬間が、同時に押し寄せるようなイメージと表現している。

何度か試してはいるので徐々に慣れつつはあるものの、痛みという感覚が鈍ることは決してない。


うずく……っ!」

書き込みWritingが終了しました。認証は10秒以内に実行してください。10, 9, ...》

《もう一度認証Authenticationを開始します。誓いOathを》


私は額の脂汗を右手の甲で拭い、恍惚の表情を浮かべる。

今日もこの仕事をしていて、最も心の躍る瞬間がやってきた。


欺瞞に満ちた精神で、高らかにそっと誓いOathを立てる。

認証受入Authentication Accept……解錠Unlockします》

読み取り装置が緑色に点滅し、スライド式の扉が横に動いた。


こうして静脈認証絶対偽造不可能な最強の認証方式の安全性を破壊するところから、私の仕事は始まる。

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